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日蓮大聖人・池田大作

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室蘭大勝利幹部会 学会員は栄光の広布の建設者

1991.8.21 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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1  難攻不落の信心の城を
 やっと室蘭に来れました!(拍手)。昭和三十八年(一九63年)十月九日の初訪問以来、じつに二十八年ぶり――。ふたたび、懐かしいこの地を訪れることができ、私は心からうれしい。(拍手)
 八年前も、室蘭を訪問する予定があったが、どうしても都合がつかず、お待ちくださった皆さまには、寂しい思いをさせてしまった。
 それで永らく、北海道といえば、あの時の室蘭の方々の悲しそうな顔が脳裏に浮かんで、夢でうなされるような思い。(爆笑)
 本当に、いつも申しわけなく思っていた。きょう、ようやく念願を果たすことができ、私の心も晴れました。本当にうれしい。(拍手)
 また、皆さまが青年の育成のために、一生懸命に造られた室蘭池田青年塾。ここにも先ほど訪れ、信心の真心に心打たれながら中を拝見した。
 どうか、思う存分に、また価値的に活用し、ここから偉大な人材が陸続と巣立っていただきたい。(拍手)
2  八年前(昭和五十八年八月二十日)、私は函館研修道場で一首の和歌を詠んだ。
  室蘭の
    友の労苦を
      偲びつつ
    いつか祝さむ
      世紀の儀式と
3  室蘭の皆さまは、本当によく戦ってくださった。頑張ってくださった。きょうは、この歌のとおりの、すばらしい大勝利の″世紀の儀式″となった。また先ほどは、上空に「虹」がかかったとうかがった。おめでとう!(拍手)
 「勝利」は楽しい。「勝利」は幸福である。「勝利」あってこそ、成仏があり、広宣流布がある。ゆえに仏法は断じて勝たねばならない。人生は断じて負けてはならない。全部、自分のためである。
 「勇気」をふるい、「知恵」を働かせ、堂々と偉大なる「正義」の凱歌を謳い上げていただきたい。(拍手)
 そして、ここ室蘭に、不敗の、また難攻不落の″信心の城″″創価の城″を築いていただきたい。(拍手)
4  あまり知られてはいないが、じつは、この地(室蘭・登別)には、すでに昭和十三年六月、初代会長牧口先生、第二代会長戸田先生が訪れているとされる。″三代城″の意義にふさわしく、北海道には歴代会長の足跡が深く広く刻まれている。
 室蘭もまことに縁深き土地なのである。牧口先生、戸田先生も、きょうの会合を心から祝福し、見守っておられると信ずる。(拍手)
 (牧口初代会長は昭和十三年六月、講演旅行のため来道。札幌、帯広、釧路など北海道各地を回っている。
 六月四日付の「釧路新聞」には、「牧口常三郎氏視察講演」の見出しで来道の予定を報道。その記事中、「元札幌師範学校教諭でその後東京市芝区白金小学校長として全国的に知られて居た牧口常三郎氏」として、「△六月八日午後九時七分札幌発△九日午前六時十四分帯広着〈中略〉……△十五日留萌△十六日定山渓△十七日登別第一滝本△十八日函館△十九日退道」と日程を掲載している。
 また六月九日付の「旭川新聞」にも、同様に初代会長の来道を報じ、その中に「△十八日室蘭」との予定が見える。このほか六月九日付の「北海タイムス」には「札幌師範学校出身で東京渋谷白金小学校長として創価教育法の提唱者を以つて知られる東都初等教育界の重鎮牧口常三郎氏は八日来札……」と顔写真入りで報じられている。
 これらの記事中には、戸田第二代会長の名前はないが、当時新聞に掲載された「空の来往」という札幌の飛行機搭乗者記録のうち、十九日の上り便の項目に「戸田城外〈東京〉」とあり、この時期、戸田第二代会長が来道していたことが明らかである。
 おそらく牧口初代会長とともに北海道各地を回られた後、単身、飛行機で帰京されたと推測される。
 なお、「東京―札幌」間の民間飛行機の運航の始まりは前年の昭和十二年四月一日。六人乗れば満席という小さな飛行機で、札幌―青森―仙台―東京という航路を、片道五時間十分もかかったという。当時は飛行機の旅はたいへん珍しいことであった)
5  転倒の愚かさを仏典が描く
 さて、世の中には「まさか」と思うような、常識では考えられない話がある。冷静に「事実」を見つめれば、あまりにも理不尽で、道理に外れているのは明白なのに、いったん、狂った渦に巻き込まれてしまうと、何も見えなくなってしまう。
 仏典には、そうした人間の愚かさを、わかりやすく教えた物語がたくさんある。その一つに「職人とロバ」(「瓦師〈土器作りの職人〉を雇う喩」)の話がある。一見、笑い話のようであるが、深い意味がこめられている。
6  昔、あるバラモンの師が大宴会を計画した。それには瓦器(土器)を用いたいと、良い器をつくれる腕のいい職人を見つけてこいと、弟子に言いつけた。
 ――この「良い器」とは、正法の信者、「腕のいい職人」とは、正法の信者をたくさんつくれる菩薩、「大宴会」とは、豊かな山海の珍味(大福徳)が盛られた、たくさんの器(正法の信者)が、豪華に並んでいる様子、すなわち広宣流布の姿をたとえているとも受け止められる。仏道修行する人のことを「法器」といって器に譬える場合がある。
 さて、命じられて弟子は職人の家を訪ねた。ちょうど職人は、ロバの背に器を負わせ売りに行こうとしていた。ところがどうしたわけか、ロバは暴れて、荷を背中から落とし、一瞬にしてすべての器を壊してしまった。
 突然おかしくなって、破壊を始める――そうした悪い人間の姿が思い起こされる。
 職人は声を上げて泣き、嘆いた。「ああ、長い間、苦労に苦労を重ねてようやくつくりあげた器を、市で売ろうとしたのに、このばかなロバは全部、割ってしまった!」
 みずから土を選び、土を掘り、運ぶところから始めた労苦の結晶である。嘆くのは当然であろう。いわんや、一人の立派な「正法の信者」をつくるには、どれほどの苦労がいることか。大聖人は難事中の難事と仰せである。仏法にまったく関心すらもっていない人々の心を開き、信心を教え、発心させる――なまやさしいことであるはずがない。
 そのあとも、来る日も来る日も勤行を教え、指導と激励に通い、あらゆる面則を見、家族も及ばぬほどの祈りと心遣いで、忍耐強く育てていく。そうした、筆舌に尽くせぬ真心と労苦の中から、一人の「正法の信者」が、かろうじて生まれてくる。そのたいへんさは、実際に経験したものでなければ、絶対にわかるはずがない。(拍手)
 破壊は一瞬、建設は死闘である。職人は、ロバの愚かさを心の底から悲しんだ。
 ところが、この光景を見ていた弟子は喜んで、「このロバはすばらしい。売ってください」と言ったから、職人は大喜び。弟子はそのロバに乗って悠々と戻ってきた。
 職人が来るとばかり思っていたのに、ロバがやって来たので、師は驚いた。
 弟子は言った。「このロバは、職人よりはるかに勝っていますよ」。
 なぜかというと「職人は、器をつくるのに、ずいぶん苦労し、時間がかかりました。ところが、このロバときたら、それらを、いとも簡単に壊せるのです」。だから職人より力があるし、すばらしい――と。
 あまりにもばかげた話に、師は怒った。
 「お前は、なんという愚か者だ。たしかにこのロバは器を壊すことはできるだろう」。つまり、信用して背中に乗せたのに、信頼を裏切って、振り落とせばいいだけなのだから――と。
 信頼して預けたのに、その信頼をいいことに、その立場を利用して裏切り、破壊者に変わってしまう――こうした事例は、人間の社会にも、また仏法の世界にも多い。皆さまがよくご存じのとおりである。
 師は続けた。
 「しかし、よく聞け、百年たったって、ロバには、ただ一つの器さえつくれはしないのだぞ!」
 そのとおりである。たった一人でも、現実に、立派な正法の信者をつくる人こそが、偉いのである。一生涯、初心のままに、広宣流布を進める人が本当の地涌の菩薩なのである。
 立場ではない。形ではない。権威ではない。過去の功績でもない。
 焼き物職人が、焼き物をつくらなくなったら、もはや職人ではない。地涌の菩薩が広宣流布に励むことをやめたら、地涌の菩薩ではありえない。
 ともあれ、信心根本に、人間革命し、社会に貢献し、正法の力を実証しゆく信者を、一人また一人、粘り強くつくってきた。つくり続けている。それが皆さまである。わが創価学会である。御本仏の御照覧と諸仏の加護は、絶対であることを確信していただきたい。(拍手)
 「ロバには、百年かけても、ただ一つの器さえできない」――いわんや、「大宴会」など、できるはずがない、と。つまり、破壊者に「広宣流布」などできるはずはないのである。
7  これは「百喩経(百句譬喩経)」という経典が伝える話である。(大正四巻参昭)
 職人(建設者)よりも、ロバ(破壊者)を尊敬する――そんな、ばかな人間がいるはずがないと思われるかもしれない。しかし、こうした″譬え″を使って言われれば、その愚かさがわかるが、実際にも、このように頭が転倒している人はいる。それが人間の世界である。
 また将来、そのような″さかさまの世界″が出現する危険があるよ、気をつけなさいとの、戒めとも取れるかもしれない。本当に、仏典の知恵は深い。
 どうか、皆さまは、この「愚かな弟子」のような悩乱の人々を、明快に、強く破折しきっていっていただきたい。私どもの正義は、御書と仏典のうえから、さらに、事実と道理のうえから、世界の良識のうえから、あまりにも明々白々なのである。(拍手)
 (この「職人とロバ」の話は、ロバを「百年千年と供養を受けても、何一つ報いることなく、つねに損害を与え続ける背恩の悪侶」に譬え、器を「供養」に、職人を「供養する信者」に譬えているともいわれる。経文には、このことについて「千百年、人の供養を受くと雖も、すべて報償することなし。つねに損害をなす。終に、益をなさず。背恩の人、亦復是の如し」とある)
8  僣聖増上慢――真の実践者を憎み、迫害
 正法の信者の信心を破壊し、自分のほうに横取りしようとする者――そうした存在の特徴について、大聖人はこう仰せである。
 「人によしと思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらいいつわりたぼらかすべしと説き給へり
 ――(難を受けることなく)人に良いと思われ、(経文ではなく)人の心に従って貴しと思われている僧侶を、法華経の敵、世間の悪知識と思うべきである。この人は、猟師が目を細くして鹿をねらい、猫が爪を隠してネズミをねらうようにして、在家の男女の檀那に対してへつらい、いつわり、たばらかすであろうと、経文に説かれている――と。
 これは、三類の強敵のうち、主として、いちばんたちの悪い僣聖増上慢、すなわち聖僧のように見せかけて僣称する(実力や実態に過ぎた称号を勝手に名乗る)敵のことをさすと拝される。
 「へつらい」とは、悪の爪を隠して、うわべでは親切そうなふりをすること、「いつわり」とは、うそばかり吹き込むこと、また、だますこと、「たぼらかす(たぶらかす)」とは、うまいことを言ってたくみに人を惑わし、心をとりこにする手口といえよう。絶対に彼らにだまされてはならないと、大聖人が厳しく教えてくださっているのである。(拍手)
9  彼らは、どうして″泥棒猫″のようなまねをするのか。その一心理を、わかりやすくいうと、本物の法華経の実践者が出ると、皆、そちらのほうへ行ってしまうので、「くやしく」「ねたましく」思うからであると説かれている。
 それなら自分たちも一から弘教に励めばいいものを(爆笑)、その苦労もせず、ありとあらゆる策略を弄して、正法の信徒をだまし、自分たちの意のままになる存在にしようとする。これが古今の「悪僧」の醜い心理である。仏法の「慈悲」とは正反対の「魔の心」であろう。
 彼らは、正法の実践者が出て世間から尊敬されると、「我等が威徳をとろうべし」――われらの威徳が衰えてしまう――とあせる。すなわち、だれも尊敬してくれなくなってしまう、と危機感にあおられる。(これは、大聖人が蒙古の襲来を調伏したら「日本第一の僧」になるので、悪侶が讒言をして大聖人を亡き者にしようとした心理を述べられた御文)
 聖職者であるのに、なぜそんな悪事をなすのか。それは、人々から「尊敬されたい」「仰がれたい」――これが彼らに共通の欲望である。だから、その″威徳″が失われそうになると、彼らはあせり、恐れ、猜疑心にかられ、道理では考えられない狂気のような行動に出るのだ、と。
 何のことはない、虚勢とは裏腹に、その心の奥は、ただ″おびえている″のである。
10  憎悪と恐怖に憑かれた悪人は、法華経の実践者に対して、どのように罵るか。
 「憎み嫉んで云く大愚癡の者・大邪見の者なり総て慈悲なき者・外道の法を説くなんど云わん
 ――憎み、嫉んで、こう言うであろう。「彼らはたいへんな愚痴の者で、大邪見の者(大謗法の者)である。総じて慈悲がない者たちで、外道の法を説いている」と――。
 如説修行(経文に説かれているとおりに修行する)の信仰者を「謗法」呼ばわりし、「外道の法」を説くと決めつける。これが僣聖増上慢であると、大聖人は仰せである。そうした悪僧の迫害があってこそ、真の法華経の実践者であると断言しておられる。悪侶の姿をした″広布の敵″が、必ず現れる、と。
 その時こそ、成仏への、絶好のチャンスなのである(拍手)。その時に、″難即安楽″と心を強く定め、勇んで戦った人は、三世にわたる福徳の大境涯を開くことができる。
 反対に、この好機に、正法破壊者の味方をするなど、「ロバを連れてきた男」以上に愚かである。大聖人の御遺命である「広宣流布」の破壊に手を貸せば、堕地獄が決まってしまう。
11  あの熱原の法難でも、悪僧たちが権力と結託して民衆を弾圧した。わき起こる民衆の喜びの歌声を、暴力と策謀によって抑えつけ、″民衆の仏法″の勃興を破壊しようとしたのである。
 先ほどの仏典の物語のごとく、「まさか」と思うような、まったく道理に合わないやり方である。ご存じのとおり、今回のばかげたソ連のクーデター(=八月十八日に起こった保守派によるクーデター。ゴルバチョフ大統領は軟禁されたが、クーデターは失敗した)も同じである。
 これについて「今回の宗門のやり方も、非常によく似ている」と、ある幹部が指摘し、嘆いていた(爆笑)。ともあれ、民衆の力を抑えきれるものは絶対にいないと断言しておきたい。(拍手)
 熱原での民衆弾圧をはじめ、仏法破壊の黒い動きの裏には、多くの場合、悪侶と権力者の″利害の一致″がある。
 また、もともと正法の側にありながら同志を裏切り、悪の側についた背信者の姿がちらつく。(この時も草創からの門下であり、重要な地位にいた三位房らが退転している。三位房は後に不慮の死をとげたとされている)
 これまで多くの人を指導してきた人間が、みずから寝返り、指導してきた人々を裏切る――いかなる理屈をつけようとも、それでは人間の道に反する。人道に反することは、即、仏法に反することである。また、何の世界であれ、そんなことが通用するわけがない。(拍手)
12  「大いなる幸い」開く「大いなる闘争」
 さて大聖人は、こうした弾圧の渦中にある人々に、こう仰せである。
 「各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり」――あなた方は、恐れてはならない。いよいよ強くなっていけば、必ず事の次第が明らかになると思われる――と。
 強気で、堂々とこちらから攻めていきなさい。そうしてこそ、確かな結果が表れるとのお心であると拝される。
 また別の機会には、難と戦う四条金吾に、こう述べられている。
 「小事こそ善よりは・をこて候へ、大事になりぬれば必ず大なる・さはぎが大なる幸となるなり
 ――小さいことは、よいことから始まる。しかし、大きいことは、必ず「大いなる騒ぎ」が「大いなる幸い」となるのである――と。
 小事とはちがって、とくに、正法の広宣流布という「大事」中の「大事」は、大いなる苦難こそが、大いなる幸いへと転じていく。大難があるたびに、より大きな発展がある。
 こうした大聖人の御聖訓どおりに、学会はこの六十年間、あらゆる大難をバネとして、未曾有の大発展を重ねてきた。室蘭も、また皆さまの人生も、そうであっていただきたい。
 御本仏の仰せは絶対である。大聖人の御聖訓を根本の基準としていくならば、私どもの前進がいかに正しいかは、あまりにも明らかである(拍手)。ゆえに何が起ころうとも、「大いなる闘争」が「大いなる幸福」となると確信し、勇んで未来へ、また未来へと大強信で進んでいただきたい。(拍手)
13  「学会の和合僧を破る罪は最も重い」
 日達上人は「五逆罪」の中の「破和合僧」の罪を繰り返し戒められ、次のように述べられている。
 「学会の会員として一同信心を励んでいく、これは和合僧団、その中に、あるいは、ある人がつまらないことによって反感をもつ、そして、その集団を悪くいう、悪口をいって駄目にする、破壊する、あるいは徒党を組んで悪事をする、これを破和合僧と申す。これは所謂、謀叛の罪、科である」(昭和四十年四月十八日、光明寺親教。『日達上人全集』)と。
 学会のような正法の和合僧を圧迫する破和合僧は、仏法に対する「謀叛の罪」であるとの意といえよう。
 続けて「破和合僧というのは、ただの集団ではないですよ。普通の政党とかという、例えば自民党なら、自民党の中で反逆を起したから、それは破和合僧だなんて、とんでもない間違いだ。和合僧というのは、どこまでも正法を信仰する団体、それを破す、これが一番悪いことなんですね。正法を信心することは皆一同に成仏する。それを妨害することですから、世間の罪よりも余程重いのである」(同前)と――。
 破和合僧は、世間の次元の争いや裏切りなどよりも、比較にならぬほど重大な罪となることを示されている。師の教えを守らない者は″師敵対″であり、正しき流れを破壊し、断絶させる極悪の存在となろう。
 そして「極悪」に対する「極善」の戦いに勝てば、正法を守る功徳によって、わが身、わが家に無量無辺の大福運が満ちみちていく。これが仏法の教えである。日蓮大聖人、日興上人のお心にかなった戦いである。(拍手)
14  高貴な「蘭室の友」の世界を守りぬけ
 「室蘭」――まことに詩情豊かな地名である。この名は「モルラン」(小さな坂)というアイヌ語に由来するともいわれる。先ほど通った、文化会館にいたる道もちょうど坂道で、室蘭の地にふさわしい法城であると実感した。
 最近では、この美しい名前そのままに、室蘭で、花の女王・蘭の栽培が盛んになっているとうかがった。私も、海外の友人を歓迎するさい、「高貴な人を迎える」との意味をこめて、蘭の花を飾ることが多い。
 「立正安国論」には「蘭室の友」とある。「蘭室」とは、香り高き蘭の花咲く室という意味である。その室にいれば、蘭の香りが体に染みてくるのと同じように、高貴な人とともにいると、いつのまにか、その人のもつ徳の感化を受けるということを譬えている。
 きょうも、この文化会館には多くの真心の蘭が、友を迎えている。本当にすがすがしい。皆さまは、高貴なる蘭の香りにつつまれた、高貴なる方々の集いである。その、うるわしく大切な世界を、″断じて汚されてなるものか″という一念のスクラムで、誇らかに、毅然と進んでいただきたい。(拍手)
 また、どうか、本国お会いできなかった同志の皆さまにも、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。(拍手)
 「鉄の団結」でいきましょう! 室蘭は、もともと「鉄の町」なのだから。(爆笑、拍手)
 そして「正法のために、いちばん苦労した人が、いちばん幸せになる」という証明を見事に果たしていただきたい。
 楽しく、痛快に、全国模範の戦いを繰り広げ、″ああ、なんと、あの人たちがうらやましいことか。本当に輝いている″と憧れられ、仰がれるような、絢爛たる繁栄の「室蘭城」を建設していただきたい。(拍手)
15  ″差別なく仏に″が仏法の目的
 さて、ここ室蘭圏、西室蘭圏の皆さまは、題目をあげにあげぬき、その渦の中で、きょうの晴れの集いを迎えられた。
 「新池御書」には、次のように仰せである。
 「此の経の信心と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ
 ――この経の信心というのは、少しも勝手な私見なく、経文のとおりに、人の言を用いず、法華経一部に背くことがなければ、仏に成るのである――。
 「仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり
 ――仏になるということは別のことではない。他の事にとらわれることなく南無妙法蓮華経と唱えていく時に、自然と三十二の相・八十の好ましい特徴という仏の姿が備わってくるのである。
 「我が如く等しくして異なること無からしめん」と説かれるように、釈尊のような仏に簡単になるのである――。
 「たとえば鳥の卵は始は水なり其の水の中より誰か・なすとも・なけれども觜よ目よと厳り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の卵にして・あさましき身なれども南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられ・まいらせて三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛生そろひて実相真如の虚空にかけるべし
 ――たとえば鳥の卵は、はじめは水である。その水の中から、だれがしたということもないけれども、くちばしや目など身をかざるものが出てきて、やがて大空に飛翔するようなものである。私たちも無明(自分の生命に対し無知であること、成仏の可能性に迷うこと)の卵で、浅ましい身であるけれども、南無妙法蓮華経の唱題の母に温められて、三十二相のくちばしが出てきて、八十種好のよろい毛が生えそろい、実相真如の大空に飛び立っていけるのである――。
 「如我等無異」(法華経方便品、開結一七六㌻)とは、″自分と同じように衆生を仏にしよう、成仏させよう″という、釈尊の誓願である。
 絶対最高の永遠の幸福境涯が「成仏」の境界である。そして万人を、平等に仏にすることが仏の目的なのである。衆生の幸せを願う仏にとって、だれが上、だれが下という差別は絶対にない。これが、仏法の根本の精神である。
 大聖人は「我等も無明の卵にして」と、御自身を含めた「我等」――「私たち」という表現を使われている。
 あえて衆生と同じ立場から述べられ、成仏の道を示そうとされた大聖人。そのお心を深く、真剣に拝しながら、大聖人のお心を踏みにじる、宗教の権威化、貴族化と戦い、打ち破っているのが、学会の「宗教革命」なのである。(拍手)
 また「法に依って人に依らざれ」(大般涅槃経、大正十二巻)が、仏法の精神である。どうか皆さまは、御書に基づかない、嫉妬ゆえの言動、また邪見の人々の言葉に、一切、惑わされることなく、妙法を唱えに唱えぬいていただきたい。
 そして「実相真如の虚空にかけるべし」と仰せのごとく、現実の生活と社会の中で、″絶対の幸福″を満喫しゆく、悠々たる人生を勝ち取っていただきたい。(拍手)
16  悠々たる世界一の幸福の長者に
 ところで、室蘭には、明治初期に北海道開拓の大きな出発点となった、有名な「測量山」がある。
 この山の別名は「鳳栖山ほうせいざん」――鳥の王であるおおとりの住む山である。まさに、この室蘭が、人生の
 「王者」、福徳の「王者」の住むべき所であり、皆さまのすばらしき使命の舞台であることを表しているように思えてならない。(拍手)
 また、室蘭のロマンあふれる「地球岬」も有名である。人口は少ないけれども、心のスケールは大きいとほめていた人がいた。(拍手)
 「南無妙法蓮華経の唱への母」に温められ、幸福への翼を広げた皆さまである。「われらには、壮大な″地球平和″へ飛翔しゆく使命がある」「わが室蘭にこそ、″世界広布新時代″を開く精神の原点がある」と確信していただきたい。(拍手)
 そこで提案であるが、「世界一の室蘭」への希望と誓いをこめ、良き場所を選んで、記念の植樹を行ってはいかがであろうか。(拍手)
 「悠々たる世界一の人生の勝者に。世界一の幸福の長者に」――これが、私の切なる願いである。
 二十八年ぶりに、最大の真心で迎えてくださった皆さまに、ふたたび心からの感謝を申し上げ、お礼のスピーチとさせていただく。本当にありがとう! いついつまでも、お元気で!
 (室蘭文化会館)

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