Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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北海道夏季研修会 友よ来れ! 友よ続け!

1991.8.17 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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2  八月は、多くの日本人にとって「戦争」と「平和」を考える月になっているようだ。テレビなどでも、毎年、第二次大戦の特集などが続く。歴史の事実を収めた記録フィルムには関心も高いと聞く。
 善きにつけ悪しきにつけ、「事実」の重みは、だれ人も否定できない。どんなに口舌を弄して「事実」を打ち消そうとしても、そうした謀みは、時とともに、そのむなしさと醜さを明らかにしていくだけである。
 そして、私ども創価学会が「広宣流布」という大法戦に、七百年来、かつてない勝利の金字塔を打ち立て、正法流布の大河を世界に開き続けていることは、まぎれもない、厳然たる「事実」である(拍手)。
 この一点に、公正に、冷静に眼を開けば、それだけで、「正義」はあまりにも明らかであると私どもは思う。
 また心ある多くの人々は、そう鋭く本質を見抜いている。(拍手)
3  率先と勇猛のリーダーたれ
 さて、ロシアに近い北海道なので、日露戦争(一九〇四年〜五年)にちなんで話したい。
 この戦争を調停したのは、アメリカのセオドア・ルーズベルト(一八五八年〜一九一九年)第二十六代大統領である。翌年(一九〇六年)には、その功績によってノーベル平和賞を受賞している。
 ルーズベルトは、一八九八年、スペインとの紛争に参加した。彼は、指揮官として命をかけて戦った。つねに全軍の先頭に立ち、長い剣を振りながら、大声で「来れ! 来れ!」と叫んだ。
 それまでの将軍の号令は「進め! 進め!」であった。自分が後方にいて叫んでいた。
 戦いにおいては、まず「将」みずからが闘争の意志を鮮刹に示すことである。あいまいな、腹の決まらないリーダーのもとでは、あとに続く人々の士気が高まるはずがない。
 ルーズベルトの率先垂範に、兵士たちも奮い起たずにはおれなかった。指導者の凛とした″獅子吼″が、大勢の人々に勇気をもたらす。その模範であった。彼の軍は連戦連勝。彼は「来れ将軍」と呼ばれ、勇名をとどろかせたのである。
4  みずから先駆をきって進む――「率先垂範」こそ、広宣流布のリーダーの条件である。
 反対に、口ばかりで、ろくに行動もせず、いつも人を″動かそう″とする指導者では、人々は歓喜も出ないし、自信もつかない。ゆえに全体が敗北の方向に行ってしまう場合がある。
 ともあれ、リーダーの「人格」「信念」「行動」の差が、勝負を決するといってよい。
 かつて牧口先生は、「魔を呼び起こせ!」と叫ばれ、みずから果敢な折伏を重ねられた。権威にも負けず、権力にも屈しなかった。
 生涯、民衆の先頭に立って大法弘通を貫かれた牧口先生、戸田先生――。そのお心を継ぎ、私は弟子として一人、先頭に立って、「世界広宣流布」への渾身の戦いを貫いている。
 どうか皆さまも、広宣流布という″平和の戦い″にあって、「進め!」よりも「来れ!」という勇猛の指導者であっていただきたい。(拍手)
5  謗法を養う米は仏種を断つ
 日蓮大聖人は、「供養」について、次のように仰せである
 「同じ米穀なれども謗法ほうぼうの者をやしなうは仏種をつ命をついで弥弥いよいよ強盛の敵人となる
 ――同じ米であっても、謗法の者を養う米は、仏の種を断つ働きをする。(謗法の者の)命を継承させ、(彼らは)いよいよ法華経に対して強盛な敵となる――。
 「又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり、故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし
 ――また法華経の行者を養う米は慈悲のなかの大慈悲の米である。(法華経の行者が一切衆生を救うので、その結果)一切衆生を利益することになるからである。ゆえに、これを「(仏の徳のしみこんだ、白い)仏の骨が、変じて米になった」というのである――と。
 同じ真心の「米」でも、相手によって正反対の働きとなる。謗法に供養することは、仏の怨敵、正法の破壊者を強めることであり、「悪」である。この道理を教えられている。
 信心の「真心」は大切である。成仏には、その心が不可欠である。とともに、その「真心」を成仏のために生かすには、権威や権力に惑わされず、真実を見抜き、正邪を判別する「賢明さ」が絶対に必要である。そのことを私どものために教えてくださっていると拝される。
 御流罪の地・佐渡から鎌倉へ帰られる途中、越後(現在の新潟県)の地で、大聖人は一首の和歌を詠まれている。
 「おのづから・よこしまに・降雨はあらじ・風こそ夜の・まどをうつらめ」
 ――雨がおのずから横なぐりに降ることはない。風が吹くからこそ、雨は横なぐりに降って、夜の窓を打つのです――。
 現存する大聖人の御歌は、数多くはない。御書に残っているのは、この御歌を含めてニカ所、三首である。(もう二首は「妙心尼御前御返事」〈御書一四八二ページ〉に)
 この御歌の心は、さまざまに受け取れる。一説には、悪知恵に動かされる凡夫の哀れさを教えられたのではないかといわれている。
 すなわち、本来、まっすぐに進んでいくべき仏子が、「悪知識」「悪縁」の風によって、成仏の大地に達せず、窓を打つ夜の雨へと曲げられてしまう――と。あるいは、世間の人々が大聖人や門下を迫害する(窓を打つ)のも、悪僧の良観ら、人々をたぶらかす「悪知識」の風のせいである――と。いずれにせよ、「悪縁」に左右される怖さ、無残さを銘記したい。
 「悪縁」の風に紛動された人生は、「夜の雨」のように暗い。わびしい。風向きのままに、奴隷のごとく、翻弄され、陰湿な敗北の人生となる。反対に、悪知識と戦い、毅然として乗り越えた人生は明るい。強い。太陽のようにカラッとした、朗らかな勝利の人生を歩んでいける。(拍手)
6  「御本仏の未来記」証明の誇りを高く
 さらに御書をとおして申し上げたい。
 人間の不幸の原因はどこにあるのか。大聖人は、その根源は邪宗・邪義にあると叫ばれた。そして「一切衆生を救うのは、日蓮のみである」と宣言されて、大聖人こそ、末法の「法華経の行者」であると示された。
 それに対して、身の程を知らぬ「慢心」である、との批判が巻き起こった。大聖人を見くだしての、それこそ大慢の誹謗であった。
 大聖人のお言葉は、「慢」に一見、似ていたとしても、決して慢ではない。仏法の道理にのっとった真実であり、大確信であって、いわゆる「法華の慢」というべきものである。
 そこには、傲り高ぶって、人を見くだしたり、己を誇るといった、低次元の感情など、少しもない。正法を宣揚され、御自身の立場と使命を明確に示されたのみである。
 大聖人は、「顕仏未来記」において、経文に照らして、末法の法華経の行者は御自身以外にはないとされ、御自身が出現されなければ、仏語が虚妄になるところであった、と言いきられている。
 その大確信に対して、低劣な批判者たちは「大慢の法師」であると悪口した。
 こうした誹謗にも、大聖人は「我が言は大慢に似たれども仏記をたすけ如来の実語を顕さんが為なり」――私の言葉は、大慢に似ているように思えるかもしれないが、それは、仏の未来記を助け、如来の言葉が真実であることを顕すためである――と破折されている。
 たとえ慢心のように思われたとしても、仏語の真実を証明するためには、言うべきことは断じて語っておかねばならない――大聖人の御胸中には、余人のうかがい知れない、崇高な使命感が脈打っていたと拝される。
 さらに大聖人は、「汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にすあに大悪人に非ずや」――あなたは、(法華経の行者である)日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にする者である。それこそ、大悪人ではないか――と、鮮やかに切り返され、厳しく責められている。
 正法の正しき実践者を怨嫉して、「慢心」とか、「騎慢」などと誹謗し決めつけ、広宣流布を阻む者こそ、大悪人であるとの御指摘である。
7  今、私どもの立場でいえば、大聖人の仰せの通りに信行に励み、ここまで世界広布を推進してきた事実を、誇りをもって言いきることは、決して、いわゆる「慢」にはあたらないのである。
 「事実」はどこまでも「事実」である。現代において、創価学会の出現がなければ、大聖人の一閻浮提広宣流布の予言が虚妄になるところであったことは、だれ人も否定できない(拍手)。この、まぎれもない事実の姿を、否定し、誹謗する者こそ、御本仏の未来記を虚妄にする大悪人なのである。
 どうか皆さまは、この確信をいよいよ強くいだきながら、大聖人の正義、学会の正義を、語りぬいていただきたい。(拍手)
 大聖人は敢然と「悪」と戦われた。真実の門下である私どもも勇んで戦わねばならない。臆病な沈黙は、それ自体、敗北である。広宣流布を破壊する大悪、極悪との戦いに勇んで立ち上がった人こそ、極善の大功徳の人生となる。(拍手)
8  ジヤンヌ・ダルクの「大確信」が一国を勝利に
 最後にヨーロッパの一人の乙女の話をしたい。十四、十五世紀――キリスト教華やかなりしころである。
 いわゆる外道の世界のことであるが、妙法を根底にする時、一切法は皆仏法であり、私どもにとっても歴史は珠玉の教訓の宝庫である。また大聖人も、御書に多くの外典(仏典以外の書)を引いておられる。
 「百年戦争」(一三三八年ごろ〜一四五三年)。イギリスとフランスの間に繰り広げられた長き戦いがあった。
 次元は異なるが、私どもの平和の戦い、広宣流布の戦は末法万年にわたる。悠々と、何ものも恐れず、小さなことに一喜一憂せずに、″図太く″(笑い)、″図々しく″(笑い)進むくらいであっていただきたい。
 さて、この戦争の末期、敗戦の色濃いフランスに、「救国の乙女」が現れた。有名なジャンヌ・ダルクである。彼女の行くところ、連戦連勝であった。
 もとはといえば、彼女は平凡な農民の娘である。大切なのは、社会的地位ではない。学歴でもない。人間として光っているかどうか。「力」を出せるかどうかである。
 その「力」の根源は、「自覚」である。わが使命を誇らかに確信しきることである。ひたむきに「使命」に生きる人は、大いなる「知恵」がわき、「勇気」がわき、「境涯」が開け、「前途」が開ける。仏法を根本にした使命感であれば、わきいずる「力」は無限である。
9  有名なオルレアン城の戦いでのこと。城は敵に完全に囲まれ、そこにジヤンヌ・ダルクが到着した。城主に、なぜ戦わないのかとつめよるジャンヌ。城主は「私より偉い人の命令なのです」と、責任逃れをした。女子部が、腰の重い壮年部を叱咤激励しているようなシーンである。(爆笑)
 乙女は言い放つ。「臆病者は、一万人の兵隊があっても、城から打って出ないでしょう!」――女性の純粋な魂の叫びは強い。
 乙女に臆病者と言われ、城主も腹を立てた。「それなら、あなたの軍で、この囲みを破れるのか。わずか千人足らずの兵隊で――」と言う。
 ジャンヌは答えた。
 「わずか千人足らずですって? あなたは、敵の強さばかり口にされる。たしかに、向こうは強い『力』をもっていましょう。私たちを脅かそうと武器をちらつかせてもいるでしょう。しかし、あなたは肝心なことを忘れておられる」
 「肝心のこと?」
 「そうです。私たちには、もう一人、絶大なる力をもって、つねに私たちに勝利をさずけてくださる味方がおられる。その尊き力を忘れてはいませんか!」
 乙女の声は凛として城内に響いた。
 「私たちは、自分たちだけで戦うのではありません。私たちは、神とともにあるのです。正義とともにあるのです。私の率いる軍隊は、神の軍勢であり、正義の使徒です。明日は、見事にイギリス軍を打ち破って、城を解放してみせましょう。神を信ずるということは、勝利を信ずるということです」
 外道ではあるが、彼女の、この「確信」が、城主を動かし、城兵を動かし、歴史を動かした。
 「一人」の力は偉大である。「一人立った」人の一念の力は、不可能をも可能にする。
 彼女の「確信」は、人々に伝染し、皆が、「われらには、絶大なる味方あり」「われらは正義とともにあり」と、勇気百倍した。勇気は伝染する。恐怖も伝染する。ゆえに「一人」が大事である。ゆえに「指導者」の勇気が勝利のカギとなる。
 そして、このオルレアン城の勝利を境に、フランスは大攻勢に転じ、ついに奪われた国土を回復した。ジャンヌ・グルクの勝利は、一人の女性の「確信」の一念が、いわば核爆発のように力を発揮した実例である。
10  私どもはつねに、「御本仏」とともにある。「三世十方の諸仏」とともにぁる。「諸天」とともにあり、絶対の「正義」とともにある。これ以上の絶大な味方はありえない(拍手)。この「大確信」が″勝利の歴史″の扉を必ずや開いていく。(拍手)
 ジャンヌの旗は「百合の旗」であった。また学会婦人部のシンボルは「白百合」である。
 最強の軍団・婦人部(爆笑)をはじめとして、私どもは、仏勅実現のための仏の軍勢である。「御本仏とともにある」仏の勝利軍である。
 この確信と誇りに立つ時、私どもの前には何の迷いもない。ためらいもない。落胆もない。ただ勇気、ただ喜び、ただ希望の人生である。目の前が青き大空のごとく開けてくる。その「一念の転換」の力を強く申し上げ、本日の研修としたい。
 (函館研修道場)

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