Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所沢広布四十周年祝賀の埼玉県記念総会 民衆のための宗教革命こそ正道

1991.8.11 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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1  難即成仏、難即広布推進
 日曜日にもかかわらず、また当初、予定にはなかったにもかかわらず、仏道修行のために、本当によく集って来られた。私こそ感謝申し上げたい。(拍手)
 「広宣流布」は御本仏日蓮大聖人の大願であり、御遺命である。その根本の大事である「広宣流布」に堂々と進んでいるのが創価学会である。ゆえに学会の会合に出、学会活動に励む時、生命力が増し、福徳が増し、喜びがさわやかに広がっていく。永遠の「幸福」への偉大な推進力になっていく。(拍手)
 「広布」に進むゆえに「難」が起きる。その「難」を乗り越えるなかで「成仏」へと開ける。大聖人は「難即成仏」(取意。御書二三四ページ等)また「難即広布前進」の原理を繰り返し教えてくださっている。
 ゆえに、何が起ころうと、その時こそ、境涯を開く絶好のチャンスであると決めて戦う人は強い。大福運を開く人である。
 いわゆる「魔」は、思いもよらないかたちで現れるものである。広布を進めているかぎり、避けようがない。図太く(笑い)、覚悟するしかない。
 創価学会や、また私が難を受け、悪口され、皆さまがつらい思いをすることもあると思う。ご心配をかけるのは、もとより本意ではないが、これが大聖人の教えられた正道であり、皆さまがともに、分々に難を受けることで、一生成仏へと一緒に進んでいけるのである。御書に照らして、この道理を確信していただきたい。勇んで、私とともに、仏勅の栄光の道を進んでいただきたい。(拍手)
2  ところで、ここ所沢は、日本でいちばん最初に飛行場が誕生した「航空発祥の地」である。
 今から八十年前の明治四十四年(一九一一年)、春爛漫の四月五日――朝五時。日本初の飛行場である所沢飛行場での初飛行が行われた。そのおりの高度は十メートル、飛行距離は八百メートル。飛行時間は一分二十秒であった。さらにその四日後には、高度二百三十メートル、距離六十二キロ、飛行時間は五十三分を記録している。
 日本での飛行機の公開初飛行(前年の十二月十九日、東京代々木練兵場)の四カ月後であった。まさに航空界の草分けのなかの草分けである。
 また、大正時代には、この所沢に飛行学校が創設され、大きな歴史を刻んでいる。「所沢」の名は、私どもの世代にとって、勇壮な飛行機の姿を思い起こさせる、皆の憧れの地であった。(拍手)
 この所沢における「広布の飛翔」から四十星霜――。皆さまは、「鉄桶の団結」をもって、一切を勝ち越えてこられた。(拍手)
 その間、学会とともに生きぬいた人は、皆、幸福の大空へと飛翔された。想像もしなかったような、限りない境涯を広げられた。その胸中には無量の財宝が輝いている。また永遠に輝いていくであろう。(拍手)
 経文には「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」――過去の原因を知ろうと思えば、その現在の結果を見よ。未来の結果を知ろうと思えば、その現在の原因を見よ――とある。
 どうか、全埼玉の方々が、御本仏につつまれた学会員の大功徳を堂々と確信し、楽しき一生であっていただきたい。(拍手)
 大聖人、日興上人の師弟の御法戦は、「人間のため」「民衆のため」の偉大なる宗教革命であられた。それは、既成宗教の腐敗と堕落、傲慢と横暴に対する、徹底した闘争であられた。権威のため、私利私欲のためでは、断じてない。すべての民衆をどこまで幸せにできるか――この一点のために、あらゆる悪と戦われたのである。(拍手)
3  日興上人の悪侶への抗議と四十九院の法難
 文永五年(一二六八年)の八月、日興上人は一通の訴状を記される。それは「実相寺衆徒愁状」(実相寺大衆愁状)。富士の岩本実相寺の院主(住職)らの悪行を五十一カ条にわたって弾劾し、院主の交代を幕府に要求された文書である。
 当時、日興上人は二十三歳。青年であられた。日興上人の、燃えたぎるような正義の心でつづられた直筆の御草稿は、今も残っている。
 そこには、僧道を踏みはずし、人間道をはずした悪侶の姿が、一つ一つ克明に列挙されている。
 聖職者はあまりにも堕落しきっていた――令法久住や信徒のことなど、いささかも顧みず、ひたすら金儲けに走るあさましさ。たとえば、住民の大切な馬まで、かすめ取ったりした。また、みだらな宴会に遊び興じる見苦しさ。さらには寺に勤める人や少年に虐待の限りを尽くす残酷さ等々――日興上人は、悲憤をこめて書き留めておられる。悪侶の非道を容赦なく責められたのである。
 「悪侶を誡めずんばあに善事を成さんや」――悪侶を戒めなければ、どうして善事を成し遂げることができようか。できはしない――これが、大聖人の「立正安国論」に述べられた御精神であられる。(拍手)
4  とともに、日興上人の正義の御法戦が、つねに悪侶によって弾圧されてきたことも忘れてはならない。
 弘安元年(一二七八年)には、日興上人等四人が、弘法の拠点とされていた四十九院の寺内から追放されるという法難が起きている。いわゆる「四十九院の法難」である。
 本日は、くわしいことは略させていただくが、四十九院の悪侶たちは、日興上人らを「仏法を学し乍ら外道の教に同じ」――仏法を学びながら外道の教えに同じている――と訴えた。そして突然に、また一方的に追い出したのである。
 仏法者を迫害する″口実″として「外道」と決めつけるのは、いつの世も変わらない手口なのであろうか――。
 いやしくも同じ法華経を奉じ、本来なら、ともに他宗を破折していくべき人間たちから、日興上人は「外道」呼ばわりされ、辱められたのである。これに対し、日興上人らが即座に抗議書をしたため、真実の解明、正しき審判を主張されたことはいうまでもない。
 正法の道を阻む悪侶の本質は、日興上人の時代も同じであった。そして事実のうえから、不思議にも、日興上人の御精神、お振る舞いに、まっすぐに連なっているのが、私ども創価学会であると断言したい。(拍手)
 この学会の恐れなき前進、不屈の闘志を、日興上人も、どれほど御称讃くださっていることであろうか。(拍手)
5  この四十九院に関して、大聖人は、こう仰せである。
 「四十九院等の事、彼の別当等は無智の者たる間日蓮に向つて之を恐る小田一房等怨を為すかいよいよ彼等が邪法滅す可き先兆なり、根露るれば枝枯れ源竭れば流れ尽くと云う本文虚しからざるか
 ――四十九院等のことについては、その別当(一山の寺務を統轄する高僧)らは無知の者であるから、日蓮を恐れ、小田一房(四十九院の僧の一人と推定される)たちは怨をなす(迫害する)のであろうか。これはいよいよ彼らの邪法が滅びる先兆(きざし)である。「根があらわれると枝が枯れ、源がつきると流れが尽きる」と言われているが、そのとおりである――と。
 仏法について「無知」であり、偉大な、正義の大聖人を「恐れる」ゆえに、狂気の迫害を門下に加える悪侶たち。しかし、この迫害こそ、彼等が滅びる″きざし″であるとの仰せである。
 大いなる革命には、それだけ大きな反動がある。しかし、それは悪い旧勢力が滅びゆく兆候なのである。悪の″根″が露見してしまったら、もうそれ以上、栄えようがない。もはや滅亡の坂を転げ落ちていくしかない。本当にかわいそうなことであるが――。
 戸田先生は、大聖人の門下として、「真に民衆を救う宗教」を、また「真に大衆が幸福になる宗教」を、さらに「科学をリードして世界平和に貢献する宗教」を――と叫ばれた。
 どうか、この″偉大なる宗教革命の正道″を、堂々と胸を張って進んでいただきたい。(拍手)
6  広布を阻む天魔と戦った人に大功徳
 さて、大聖人は世界広布が伸展する時、必ず天魔が現れると教えられている。
 「此の経閻浮提えんぶだいに流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし
 ――(法華経には)この経が全世界に流布する時、天魔が人間の身に入りかわって、法華経を弘めさせまいとして、(法華経を)信ずる者をあるいはののしり、打ち、追放し、あるいは殺したりなどするであろう(と説かれている)――と。
 絢爛たる世界広布が開けようとする時代――その時に、天魔が身に入った人間が、正法を弘めさせまいとするとの仰せである。そして信ずる者をバカにし、いじめると。このように明言されている。
 また、日達上人は、「もし僧侶にして大多数の信徒に対して君臨しているというような、傲慢な考えを少しでも起したなら、それは天魔であります」(昭和四十年、「大日蓮」年頭の辞。『日達上人全集』)と、「天魔が出現する」との仰せの一側面を、具体的に示されている。
 先の御文に続いて、大聖人はこう述べられている。
 「其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし、我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う
 ――(釈尊は)その時、まず、先駆けをする者は、三世十方の諸仏を供養する功徳を得る。私(釈尊)もまた成仏の因となった歴劫修行の難行・苦行の功徳をすべて譲る、と説かれた――と。
 世界広布を阻もうとする天魔との戦い――それに先駆けする人の功徳は、計り知れないほど大きい。
 三世十方の仏を供養する功徳、釈尊のすべての修行の功徳を、そのままわが一身に得られるとの御文である。もちろん、別しては大聖人の御事であられる。
 仏法には″時″がある。″時″を違えぬことが成仏のカギである。
 御書に仰せのとおりの法華経の″敵″が現れた時、その時こそ最大の好機なのである。三世にわたる自身の幸、不幸の軌道を決定してしまう。
 退けば地獄、前へ前へと勇んで進めば、常楽の大境涯である。この一点を自覚すれば、今、何をすべきかは明白であると私どもは信ずる。(拍手)
7  また大聖人は、有徳王の例を挙げて、在家の行者の成仏の道を示されている。有徳王とは、正法を守るために「破戒の諸の悪比丘」と「戦闘」したという王である。
 「在家の諸人別の智行無しと雖も謗法の者を対治たいじする功徳に依つて生死を離る可きなり
 ――在家の人々は、特別の智慧や、特別の修行がなくとも、謗法の者と戦い倒す功徳によって、生死の苦しみを離れることができる――。
 この「謗法」とは、とくに「悪侶」をさすとされる。在家は、いかなる修行にもまして、「悪侶」を対治することで、成仏すべきであるとの依文である。
 また、「悪侶」の悪を破る勇猛なる信心、果敢なる実践――その功徳が、どれほど絶大であるか、どれほど強い、三世永遠の幸福境涯を開く原動力となるかを示された御文とも拝される。(拍手)
8  女性を大切に、人の感情を大切に
 次に、小さいことのようであるが、大切なことを語っておきたい。
 日蓮大聖人は、四条金吾に「女性を叱ってはならない」と仰せである。金吾は、どちらかといえば短気で怒りっぽかったとされる。そこで、こういう注意をされたのかもしれない。
 「女るひはいかなる失ありとも一向に御けうくん教訓までも・あるべからず、ましていさかうことなかれ、涅槃経に云く「罪極て重しと雖も女人に及ぼさず」等云云、文の心はいかなる失ありとも女のとがををこなはざれ、此れ賢人なり此れ仏弟子なりと申す文なり
 ――女性には、どのような失敗(罪)があったとしても、決して教訓などしてはならない。まして絶対に争ってはならない。涅槃経には「罪がきわめて重くとも女人は罰しない」(大正十二巻)等とある。この経文の心は「どんな失敗があっても、女性を責めてはならない。このことを守るのが賢人である。仏弟子である」ということである――。
 これは四条金吾が″敵″にねらわれていたころのお手紙であり、危険な状況のなか、″味方″をも敵にまわすことのないよう教えられたと拝される。決して女性を低く見られての御文ではない。
 また、こうした背景をふまえたうえで、一般論としても、重要な示唆を与えてくださっていると、私は思う。学会の、どの地域を見ても、男性のリーダーが女性を大切にしているところは、全体が仲良く団結し前進している。励ましがあり、人間的なうるおいがある。
 そもそも、現実の広布の戦いにおいて、何でもいちばん働いてくださっているのは、婦人部の皆さまである。叱るなんて、とんでもない(爆笑)。恐れを知らない人々である(爆笑)。
 ともあれ、婦人、女性を大切にできる組織、また家庭には″進歩″がある。″楽しさ″と″大らかさ″がある。″和合″がある。ゆえに″功徳″がわく。
 世界の趨勢も、米ソの協調に象徴されるように、対話と協力の「ソフトの時代」に入っている。時流は大きく転換しているのである。
 すべてに模範、すべてに率先のこの埼玉から、とくに、男性の皆さんから(笑い)、「女性尊重宣言」をし、大いに波動を広げていってはいかがだろうか。(拍手)
9  人間の心は限りなくデリケートである。
 「諸法実相抄」の次の御文は、あまりにも有名である。
 「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり
 ――ほめられると、わが身が損なわれるのも顧みず、(また逆に)そしられるとわが身が破れることも知らずに振る舞うのは、凡夫の常である――と。
 人はほめてあげると、頑張ろうと思って動く。冷たくされ、また自分を認めてくれないと思うと、どうしても心が離れていくものだ。
 凡夫は、正邪・善悪よりも感情によって動く傾向がある。それが現実である。ほめられるから、大切にされるから、あっちに行こう。また、たとえ正しくとも、叱つてばかりだからいやだ――弱いといえば、まことに弱いが、これが人間の心である。
 その結果、わが身を損ね、わが身を破る結果にもなってしまう。その最大のものが「退転」である。いうまでもなく、仏法の「法」のうえには、絶対に妥協はない。また正義を貫くのに、遠慮があってもならない。
 そのうえで、こうした「人情の機微」を深く知っているか否か――それによって百八十度違う結果にもなっていく。仏法即社会であり、一切法は皆仏法と説かれる。広布のリーダーは、だれよりも人の心がわかる聡明な人であっていただきたい。(拍手)
10  信心の「高貴なる位」を確信
 妙法を胸にいだき、社会に弘めゆく人の位が、どれほど高貴なものか。御書には、さまざまな表現で、そのことが説かれている。
 たとえば、次のように仰せである。
 「法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ、三界の主たる大梵天王・釈提桓因しゃくだいかんいん・四大天王・転輪聖王乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり、何にいわんや日本国の大臣公卿・源平の侍・百姓等に勝れたる事申すに及ばず、女人ならば憍尸迦女きょうしかによ・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたり
 ――法華経(御本尊)を持つ人は、男であればどんな身分の低い人であっても、三界の主である大梵天王、釈提桓因(帝釈天)、四大天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)、転輪聖王、また中国・日本の国主等よりも勝れている。まして、日本国の大臣や貴族、源平の武士、さまざまな身分の人などより、勝れていることはいうまでもない。また女性であれば、憍尸迦女きょうしかにょ(帝釈天の夫人)、吉祥天女(多聞天の妃ともされ、美貌の福徳の女神)、中国の李夫人(絶世の美女とされる漢の武帝の寵妃)、楊貴妃(唐の玄宗皇帝の寵妃、当時随一の美人)などの無量無辺の一切の女性よりも勝っている――と。
 最高の御本尊を信受し、大聖人の仰せのままに、仏法を実践している私どもは、諸天や諸王等にも勝って、限りなく尊いとの御断言である。
 学会がどれほど尊貴か、学会員が、どれほど高貴か。皆で学会を大切に守らねばならない。学会員を大切に守りぬかねばならない。(拍手)
 もちろん社会的礼儀は礼儀として、心の奥には、深く、この「誇り」をもって生きぬいていただきたい。その大確信の一念が、現実に、だれ人にもバカにされることのない堂々たる自身をつくっていく。
 どうか皆さまは、偉大なる誇り、一局貴なる魂、堂々たる自負心(プライド)をもって、この人生を悠々と獅子のごとく、生きて生きぬいていただきたい。そして日本一、世界一の所沢と埼玉を築いていただきたい(拍手)。所沢万歳! 埼玉万歳!
 (所沢文化会館)

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