Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

霧ケ峰・第三回研修会 希望! 汝の力は偉大なり

1991.7.27 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

前後
1  われらは御書を基準に、明確に判断
 歩むべき「正しき道」を知っている人は幸福である。道に迷い、道を見失った人生は闇である。ジャングルをさまようように、苦悩の足取りとなろう。きょうもまた、多くの人々のため、後世のために、広宣と人生の「道」について、何点かにわたり語っておきたい。
 最初に、根本である御書を拝したい。私どもは、つねに、御書を学び、御書を基準に、日蓮大聖人の仰せどおりに進む。
 建治元年(一二七五年)七月十六日、四条金吾は他宗の僧と「諸法実相の法門」について法論した。金吾は、その様子を大聖人に書面で報告申し上げたのであろう。このことが、御書の中に記されている。さて、金吾の報告に対して、まず大聖人は「諸法実相」について″簡潔″に、そして″明快″に御指南されている。そのうえで大聖人はこう仰せである。
 「良薬に毒をまじうる事有るべきや・うしほの中より河の水を取り出す事ありや、月は夜に出・日は昼出で給う此の事諍ふべきや、此れより後には加様に意得給いて御問答あるべし、但し細細は論難し給うべからず、猶も申さばそれがし我等の師にて候日蓮房に御法門候へとうち咲うて打ち返し打ち返し仰せ給うべく候
 ――良薬に、わざわざ毒をまぜることがあるであろうか。潮の中から、河の水を取り出すことがあるであろうか。月は夜に出、太陽は昼に出る。これはあえて言い争うような事がらではないであろう。これから後には、このように心得られて問答をしなさい。ただし、こまごまと相手の非をつく議論はなさるべきではない。なお、それ以上、相手が言うようであれば、「私の師匠である日蓮房に対して問答なさい」と笑顔をもって、繰り返し繰り返し言われるがよい――。
2  仏法は道理である。道理は万人に″明快″なものである。これに対し、詭弁は複雑になりがちである。煙幕を張ったように、もっともらしい、へ理屈を組み合わせる。
 しかし、道理の″太陽″が昇れば、それらの″霧″はすべて晴れていく。私どもには御書の明確な基準がある。その光に照らして、万事、明確に判断していけばよいのである。
 厳然たる「事実」の前には、後からつけたどんな理屈もむなしい。言葉で事実を消すことはできない。私どもが、「広宣流布」を大きく進めてきたことは議論の余地のない事実である。その前進のなかで、一人一人が幸福の実証をつかんできたことも、だれ人も否定できない。(拍手)
 さらに、大聖人が仰せのごとく、つまらぬ言いがかりにいちいちつきあって、煩わされる必要もない。真摯な対話を求めてくるのならともかく、最初から仏子を苦しめ、揚げ足を取ろうとして近づいてくる邪な論難に、振りまわされる必要はない。
 私どもには大聖人がついていてくださっている。面倒なことは「大聖人にうかがいなさい」と笑って言いきればよいとの御指南である。今でいえば「御書を読んでください」「御書のとおりですよ」と言いきっていけばよいのである。
 戸田先生もよく言われたが、私どもは、いわゆる″宗教のための宗教屋″などではない。
 自身のため、そして民衆の幸福のために信仰したのであり、大聖人の仏法を根本として、人生に、生活に、社会に、すべてに勝利し、豊かに価値創造しゆくために行動しているのである。
 一切を御書に照らしながら、低次元の難くせなど笑いとばし、おおらかな心で余裕しゃくしゃくと進んでまいりたい。
3  ガンの治癒と心の関係に医学も注目
 さて、「健康」は「幸福」の大切な条件である。そして、どんな病においても、強き心で病気に挑戦していくことが重要である。仏法では、「色心不二」の生命観を説く。肉体(色法)と精神(心法)が一体不二に深くかかわっていることが明かされている。
 この点については、ノーマン・カズンズ氏との対談集『世界市民の対話』(毎日新聞社)でもふれた。また、昨年暮れ(一二月十五日)にガン研究の権威であるカナダ・モントリオール大学のルネ・シマー副学長とも語り合った。シマー副学長とは、さらに対話を重ねて「対談集」を発刊することになっている。
 シマー副学長も述べられていたが、病気における精神と肉体の関連については実験などが行いにくい。生身の人間にストレスを与えて病気にすることなどは、倫理的にも問題が多いからである。そうしたことから、精神と健康の関係について具体的に断定することはむずかしく、諸説があるようである。しかしながら、この問題については社会の関心も高い。そこで、これまで発表された学説などをふまえつつ、ここでは、ガンと心の関係について一側面から考察してみたい。
 ガンの発生、治癒については、精神的要素が関係をもつという。放射能や発ガン物質、ウイルスなどの物質的な原因とともに、精神的なストレスや幼児期からの生活環境が大きく影響を及ぼしていることが、いくつかの統計的な調査からうかがえる。
 たとえば、発病の前に、妻や夫あるいは子どもの死などの重要な人間関係を失い、そのショックから長期間にわたって立ち直れないこと、またそのとき、悲哀、不安、怒りなどの感情をうまく表出できずに、長い間、自分自身を責めさいなみ続ける――このような傾向が強いと、ガンに対する抵抗力を弱めてしまうといわれる。
 つまり、生きがいをなくし、抑うつ状態(気持ちがふさぎ沈んだ状態)などが長く続くと、ガン細胞の増殖、進行をはやめ、予後(病後の経過)をいっそう悪くするのである。逆に、新たな生きがいを発見し、目標に向かって前向きに生きぬいていこうという強靭な意志は、ガン細胞を退縮させることに有効であるといわれているようだ。(カ―ル・サイモントン他共著『がんのセルフ・コントロール』近藤裕監訳、創元社)
4  さらに、宗教的な生き方が、ガンの退縮に重大な影響を与えた例も報告されている。
 ある報告では、ガン患者には幼児期に両親や愛する人を失うという孤独の苦悩を経験していることが多く、約三分の一を占めていた。その体験が精神的ストレスとなって、ガン発生への引き金の一つになることもあるという。
 ストレスのなかでも、愛する対象の喪失がいちばん影響が大きいようだ。しかし、たとえ幼児期に両親を失ったとしても、人生の途上で″父性・母性″を求める渇きをいやしてくれる存在に巡りあいさえすれば、そうした精神的ストレスから解放され、ガン細胞の退縮に有効な影響を与えるという。宗教との出あいによって、そうしたことが可能であると論じる人もいる。
5  仏は衆生を救う父であり母
 法華経警喩品には、主師親の三徳を示す「今此三界……」の文がある。
 「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処は 諸の患難多し 唯我れ一人のみ 能く救護を為す」(開結二三三㌻)
 ――今、この三界(生死の迷いを流転する六道の凡夫の住処)は、私(釈尊)が所有するところである。その中にいる衆生は、ことごとく私の子どもである。しかも今、この所はもろもろの患いや苦難が多い。ただ私一人だけが、よく救い護ることができるのである――と。
 この文の中で仏は、三界の衆生はすべて「吾が子」であると、「親」の徳を示している。また、日蓮大聖人は御書で、「法華経」にこそ永遠なる父と母の義がともに具わっていることを示されている。
 たとえば「開目抄」では、伝教大師の『法華秀句』の文を引いて御指南されている。
 「伝教大師は日本顕密の元祖・秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義をく、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖・学・無学及び菩薩心を発せる者の父なり」等云云
 ――伝教大師は日本における顕密二教の元祖であるが、その著述された『法華秀句』に「他宗のよりどころとしている経は仏母の義が一分はあるけれども、ただ愛のみあって厳の義を欠いている。これに対し、天台法華宗は厳愛の義をそなえている。このゆえに、一切の賢人・聖人、また学(修学の途中にあり、まだ学ぶべきことのある者)・無学(もう学ぶべきことがない者)および菩薩心をおこした者の父である」といっている――。
 法華経に説かれた「親」の徳、すなわち「永遠常住なる根源の父母」の徳は、いうまでもなく法華経の肝要である南無妙法蓮華経、すなわち御本尊に一切そなわっている。
 御本尊が、御本仏日蓮大聖人が、永遠の「父」であり「母」であられる。私どもは日々、妙法を唱え、大聖人の御遺命たる広宣流布をめざして生きぬいている。三世常恒の父母につつまれて生きているのは私どもなのである。永遠に寂しくない。いつも安心である。いつも見守ってくださっている。このことを確信していただきたい。
6  患者自身の生き方がガンに影響
 ところで、世界各国から、ガンの自然退縮の例も報告されており、また、そうした臨床例をまとめて、医学的に分析もされている。
 その結果に対し、ニューヨークのある有名な医師(ゴダード・ブス)は、「ガンの自然退縮の現象は、ただ身体面での偶然ではない」として、患者自身の生き方の「実存的転換」、いわば内面の劇的転換ともいうべきものが、ガン細胞の進行を抑えたと明言している。
 つまり、ガン患者が自分の生命の危機に直面したとき、それにたじろぐことなく、どこまでも生きて生きぬいていこうとする力強い態度があるかどうか、人生に対する新たな意欲を生みだせるかどうか――それがガン細胞の進行や退縮に関係してくる、というのである。
 あらためていうまでもなく、ガンとの闘いには、早期発見、早期治療が大前提であり、治療法としては、外科的療法、化学療法、放射線療法や免疫療法も急速に進歩している現状である。これらの方法を最大限に活用するにさいしても、患者の希望に満ちた強靱な意志こそが、ガンと闘うカギをにぎっていることを、このようなガンの自然退縮の例は指し示しているといえよう。
 またガン患者の治療に取り組むある医師は、その著書の中で″患者自身が自分の病気の経過に深い影響を与え得る″として、末期ガンを克服した患者の臨床例から、要約すると次のような指摘をしている。
7  (1)健康を維持している患者たちは、強力な「生きる意志」の持ち主である。
 (2)患者自身の内にある治癒力、その最大のものは、強い信念の働きである。
 (3)病気に対する悲観的な通念を克服して、希望的な考え方を育成する。
 (4)恨みの感情を克服する。
 (5)将来における目標を設定する。
 (6)健康に導く「内なる指導者」を発見する。
 (7)痛みのコントロールも可能である。
 (8)死の恐怖を克服し、永遠の死生観に立つことが重要である。
 (9)家族との心のかよい合ったコミュニケーションが、治癒力を増強する。
    (前掲『がんのセルフ・コントロール』)
8  ここに指摘された諸点は、次のことを示していよう。すなわち、たとえガンになっても、そのショックから恨みや怒りをいだいたり、悲哀やうつ状態に沈むのではなく、つねに希望をもって、信念と使命感に燃え、強い意志力をもつことができる人は、その闘病生活を、より効果的に実りあるものにすることができる、と。
9  学会にはあたたかき″励ましの同志″が
 希望、そして信念のカ――。大聖人は、病気に悩む富木常忍の夫人に、次のように激励されている。
 「命は三千にもすぎて候・而も齢もいまだ・たけさせ給はず、しこうして法華経にあわせ給いぬ一日もきてをはせば功徳つもるべし」――命は三千世界よりも尊いものです。しかも尼御前は年もまだそれほどとられているわけではありません。しかも、法華経にあわれたのです。一日でも生きておられれば、それだけ功徳が積もるのです――。
 全宇宙よりも尊い生命。しかも、あいがたき妙法を持ち、使命に生きゆく、かけがえのない、この一生、このわが命――たとえ一日たりともおろそかにできるものではない。
 大聖人は「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず」――極楽での百年の安楽な修行の功徳は、汚れたこの国土での難を受けながらの修行の一日の功徳におよばない――とも仰せである。この「大切な命」「大切な一日」との自覚と確信が、希望を生み、その希望が生命の力を増していく。功徳をも増していく。病の治癒をも進めていく。
 「まだ若い。大事な体です。一日一日を妙法根本に精いっぱい生ききっていきなさい」――大聖人の激励によって富木常忍夫人の心身は、どれほどか晴れやかに蘇生していったことであろうか。
10  病に倒れた者にとって、周囲からの″励まし″がどれほど心強い支えとなることか――。学会は、いずこよりもうるわしき″励ましの世界″である。
 かつて、ドクター部や白樺グループの方々が、医療の現場で感じることとして、ガン患者などを病院に見舞う場合、留意すべき点についてアドバイスしてくださった。いずれも「常識」ともいえるかもしれないが、大切なことであり、この機会に紹介しておきたい。
 (1)見舞いの時間は短時間とし、患者を疲れさせたり、治療の邪魔にならないようにする。また、人数はできるだけ少人数で。病室がいっぱいになるような大人数では、同室者にも迷惑をかけてしまう。
 (2)患者に勇気や希望を与えるよう、明るく楽しい話をとおして激励する。反対に、たとえば″罰論″などによって重苦しいプレッシャー(圧迫感)を与えるような話はしない。
 (3)「題目を唱えて、生命力を出しましょう」と言うのはいいが、その激励の仕方がかえって重圧となり、患者の心を暗く、重くするようなことがあってはならない。
 患者自身は体力の衰えもあり、一生懸命努力しても、健康者と同じようにはいかないものである。むしろ、見舞いに行く人自身が題目をしっかり唱え、生命力を豊かにしていくことが大切である。
 そこで「私たちも題目を送っていますから、安心して病気と闘ってください」「組織のほうも、皆、元気で頑張っています。あなたの元気な顔を見るのを皆、楽しみにしています」などと、できるだけ心の負担を軽くして、あたたかくつつみこむ励ましが必要である。
 (4)「あの人もガンになつたんですって……」などという無神経な言動には、十分注意する。また、見舞いに行った者同士だけの話題を大声でしゃべり合うようなことはしない。
 (5)医師や看護婦に、患者の病状を根ほり葉ほり聞くようなことはしない。医師や看護婦から正確な情報を得て、適切に対処するのは、まず家族の役割である。そして家族から相談を受けたときには、誠意を尽くして協力することである。
 (6)患者本人より、家族に対して、しっかりと信心指導をすることが重要である場合も多い。たとえば、本人よりも、かえって家族のほうが動揺し、希望を失っている場合に、家族が確信をもって信心に立ち上がることによって、患者本人が大きく励まされ、元気になっていく例も数多い。
 ――これらは医療の現場体験をふまえた、具体的アドバイスである。もちろん、個々の状況によってあてはまらない場合もあろう。
 ともあれ、私どもの励ましは″抜苦与楽″の実践であり、相手の心の苦悩を取り除き、楽しみ、希望を与えゆくための、あたたかき人間性の振る舞いでありたい。
11  釈尊在世、「一闡提」提婆達多の破和合僧
 話は変わる。いうまでもなく、仏法の本意は、すべての人を成仏させることにある。経文には「一切衆生皆成仏道」と説かれる。
 しかし、その成仏の道を、みずから閉ざす人々がいる。それが「一闡提」である。一闡提については、古来、さまざまな見方や議論があるが、基本的には、正法を信ぜず、誹謗し、しかもその重罪を懺悔もしない、「不信」「謗法」の者のことである。(梵語では「イッチャンティカ」といい、もとはインドの快楽主義、現世主義者をさした。断善根、信不具足、極欲、焼種〈仏種を焼いた者〉等と訳されて
 いる)
 さて、釈尊在世の一闡提の代表といえば、提婆達多であろう。彼は釈尊のいとこで、最初は仏弟子となりながら、後に師敵対してかずかずの悪逆を行った大悪人であった。
 御書には「提婆達多は閻浮第一の一闡提の人」――提婆達多は全世界第一の一闡提の人である――と仰せである。
 また、「たとひさとりあるとも信心なき者は誹謗ひぼう闡提の者なり(中略)提婆達多は六万八万の宝蔵をおぼへ十八変を現ぜしかども此等は有解無信の者今に阿鼻大城にありと聞く」と。
 ――たとえ悟りがあっても、信心のない者は誹謗闡提の者である(中略)提婆達多は外道の六万蔵、仏教の八万法蔵の経典を理解し、身に十八神通(十八種の神通変化のこと。右腕から水、左腕から火を出す等である)を現じたけれども、これらは有解無信の者であるために、今なお阿鼻大城(無間地獄)にあると聞いている――。
 提婆は、当時のいわば最高峰のインテリであった。知的能力の面では、仏法はもちろん、あらゆる知識に通じていた。しかし、超エリートの仮面の下には、どす黒い心が渦巻いていた。
 彼は、名聞名利の心猛き野心の人であった。最初こそ釈尊に随順していたが、民衆の厚い尊敬を受ける釈尊をしだいに嫉妬し、その立場にとって代わろうとした。自分が「仏」として尊敬を受けようとしたのである。こうした自身の野望のため、釈尊の殺害を謀るなどの大罪を繰り返した。それらの罪の中でも最大のものは、五逆罪の一つ、「破和合僧」の罪であろう。釈尊を中心とした、尊い清らかな教団を切り崩そうとし、多くの人を悪への道連れにした罪はまことに大きい。
 涅槃経には、五逆罪を犯して、なお、おそれ恥ずるところなく、仏法を破壊し、軽んずる人は「一闡提の道」へ向かうと説かれる。
 いわく――「若し四重(殺生・偸盗・邪婬・妄語の四つ)を犯し、五逆罪を作り、自ら定めて是の如き重事を犯すを知り、而も心に初より怖畏、慙愧無くして肯て発露せず、仏の正法に於いて、永く護惜建立の心無く、毀呰きし軽賤して、言に過咎かく多き、是の如き等の人も亦一闡提の道に趣向すと名づく」(大般涅槃経巻第十。大正十二巻)と。
12  釈尊以上の名声を願っていた提婆達多は、釈尊をおとしめ、教団の統率者の地位を奪うために、うまい方法を考えだした。それが、いわゆる″五法の行″とか、″五事″といわれるものである。
 いくつかの説があるが、一資料によって列挙すれば――。
 (1)糞掃衣(汚い布で作った衣)のみを着て、人の施す衣を受けないこと。
 (2)托鉢のみで生活し、供養招待を受けないこと。
 (3)一日に一度、午前中に食事をとるほかは食事をしないこと。
 (4)つねに屋外の露天に座って、家の中や樹の下に座らないこと。
 (5)塩や五味(牛乳・乳製品の五種の味)を服しないこと。
 この五点である。こうした厳しい生活規定の厳格な順守を、提婆は教団に要求したのである。
13  彼の主張は、極端な戒律主義、禁欲主義の要求である。一方、仏法は中道である。大事なのは「悟り」であり「精神」である。仏の智慧と慈悲を得るのが目的であり、当時の戒律もその手段にすぎない。
 結局、提婆の心中にあったのは、釈尊が「竹林精舎」(迦蘭陀長者が釈尊に寄進したとされる寺院)や、「祗園精舎」(須達長者が寺院を、祗陀太子が土地と森林を寄進した)などを法城として弟子を訓育していたこと、清らかな信心の発露として教団に多くの供養が寄せられていたこと等へのやっかみであった。しかし、五カ条の要求は、提婆がいかにも純粋な修行者、厳格な仏道修行者であるという印象を与えた。
 もちろん、釈尊は提婆の心底のねらいを見抜き、彼の主張を退けたのであるが、提婆は釈尊の精神のわからない新しい弟子を巧妙に手なずけた。そして五百人の弟子が、正義はわれにありといわんばかりの、提婆のもっともらしい主張、まじめで純粋そうな姿にひかれて、釈尊のもとを離れてしまったのである。
 教義の純粋性をよそおいながら、正法を行じ弘める人・団体から人々を引き離す。その真のねらいは、己の我欲と嫉妬を満たすことだけであった。
 なおこの時、釈尊の教団の青年リーダーであった舎利弗、目連の二人が提婆の計略を打ち破り、師・釈尊の正義を証明して、これら五百人の比丘を魔手から連れ戻したことは、有名なエピソードである。
 私も以前、青年部への期待をこめて舎利弗と目連の戦いについて語った。(=昭和六十三年九月、港、目黒、渋谷区合同支部長会。本全集第71巻に収録)
14  謀略の人は、その策謀の意図が深いほど、みずからの野心と名聞名利を巧妙に隠す。清廉をよそおった言動をなし、″正統派″の旗印を振り回しては人々の心をとらえようとする。
 破和合僧といっても、粗暴な言辞や仕打ちをもって正法の教団に攻撃を加えるとはかぎらない。まじめそうな姿勢、非道と戦っているのだといわんばかりの言葉で、清浄な教団を攪乱してくることがあることを忘れてはならない。その底流の真意を見抜けず、正義ぶった「悪知識」に従っていくことの恐ろしさ――。
 ゆえに皆が賢明、聡明にならなければいけない。言葉よりも、現実の生活、人格、いざというときの振る舞いを見れば、真実は明らかである。経文と御書に照らせば、一切が明白となる。
15  大聖人在世にも「僣聖増上慢」良観の謀略
 日蓮大聖人の御在世にも、こうした和合僧に対する謀略の図式はまったく同じであった。御書に次のように述べられている。
 「仏言わく我が滅後・末法に入つて又調達がやうなる・たうとく五法を行ずる者・国土に充満して悪王をかたらせて・但一人あらん智者を或はのり或はうち或は流罪或は死に及ぼさん時・昔にも・すぐれてあらん天変・地夭・大風・飢饉・疫癘・年年にありて他国より責べしと説かれて候、守護経と申す経の第十の巻の心なり。当時の世にすこしもたがはず、しかるに日蓮は此の一分にあたれり
 ――釈尊の言われるには「わが滅後、末法に入って、提婆達多のように、尊げな姿をして五法を行ずる者が、国に充満して、悪王を味方にし、ただ一人正法を弘める智者を、あるいはののしり、あるいは打ち、あるいは流罪にし、あるいは死にいたらしめようとするとき、昔にもまして、天変、地夭、大風、飢饉、疫病が年々に起こり、他国からその国を攻めるであろう」と説かれている。これは守護国界主陀羅尼経という経の第十の巻の心である。この経文は今の世と少しも違わない。それなのに日蓮は「但一人あらん智者」の一分に当たっている――と。
16  権力者に働きかけて大聖人を死罪に及ぼそうとし、一門を攪乱した「破和合僧の張本人――その代表格が真言律宗の僧・極楽寺良観である。
 もともと良観は、北条幕府の権力者の外護を得て、世間の尊崇を受けていた。ところが、大聖人が出現され、良観の邪な本質が明らかになってしまった。人々の自分への尊敬をどうやって保つか彼は焦った。そこで幕府の要人と結び、裏から動かして、大聖人を亡き者にせんとした。生き仏のごとく仰がれてはいたが、野心、名間のためには手段を選ばない、冷酷な人物であった。まさに、法華経に予言された「僣聖増上慢」の姿である。
 大聖人は、良観の実態を「持戒なるが大誑惑おうわくなる」――仏法の諸戒を持っているようには見えるが、世間の人を大きくあざむき、まどわしている――と指摘されている。
 さらに大聖人は、池上宗長への御状の中で、このように述べられている。
 「これは・とによせ・かくによせて・わどの和殿ばらを持斎・念仏者等が・つくり・をとさんために・をやを・すすめをとすなり、両火房は百万反の念仏をすすめて人人の内をせきて法華経のたねを・たたんと・はかるときくなり
 ――これは、何かとことによせて、持斎(律宗等の僧をさす)・念仏者たちがさまざまに画策して、あなたたちを退転させるために、まず親をそそのかして悪道に堕としている。両火房(良観)は百万遍の念仏称名をすすめ、人々の仲を裂いて、法華経の仏種を断とうと謀っていると聞いている――。
 「三類の強敵」は、人々の心を言葉たくみに動揺させ、その仲を裂いて、成仏への道、広布の流れを断絶させようとするものであることを、私どもに教えてくださっていると拝される。
17  「立正安国論」には、次のように仰せである。
 「悪侶を誡めずんばあに善事を成さんや」――悪侶を戒めずして、どうして善事を成就できようか。できはしない――。
 安国論は、「主人」(大聖人)と「客」との対話によって進められていくが、この御文は、客が「これほど仏教が栄えているのに、どうして仏教が滅びたと言うのか」とただしたことに答えて述べられた部分である。
 大聖人は、主人の言葉として「なるほど、寺院等の建物も多く、経も多い。僧侶もたくさんいる。しかし、僧が名利に執着し、心に嫉妬をいだいて堕落している」(趣意)と答えられ、これらの者について「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」(大正十二巻)との涅槃経の文を引いておられる。すなわち、形は出家のようであっても、実際には「僧侶と思ってはならない」との仰せである。
 そして、こうした「悪侶」を戒めず、放置しておけば、仏法は滅びると主張されている。また″ニセ僧侶″である「悪侶」とは、安国論では法然をさすが、「下山御消息」(御書348㌻)では、良観のことであるとされている。
18  「一闡提」「悪侶」「三障四魔」――さまざまに表現されるが、仏法には″敵″がいるのである。法華経には「三類の強敵」と説かれる。″悪との戦い″なくして″善の実現″はない。
 一切衆生に等しく仏性があると説いたのが法華経である。その理念を現実化する道を大難のなか示してくださったのが日蓮大聖人である。その「道」を全世界の人々に伝え弘めているのが、私どもである。
 法華経の敵は、こうした「一切の人々を平等に仏にしゆく戦い」を妨げる。極善に敵対するゆえに極悪の行為となる。
 この極悪と戦い、打ち破ってこそ、真の極善の人生となる。断じて″戦い″を忘れてはならない。断じて″勇気″と″英知″の利剣を手放してはならない。断じて″勝利の歴史″を残さねばならない。正法のために、人類のために、自分自身のために。
19  ″境涯を開く″人が ″幸福を開く″人
 ここで、ふたたび話題を転じたい。ドイツのある学者のエピノードである。こう、パッと話のチャンネルを変えると、興味もわく。頭にも入りやすい。(笑い)
 彼は昼間は生活のために会社に勤め、事務員として朝から夕までコツコツと計算ばかりしている――それが日常だった。夜の時間だけを研究に使っていたのである。
 ある日、見かねた友人が忠告した。
 「君ほどの人物が、会社の事務員をしているなんて、もったいない。君の主人は、いつもいばってばかりいるが、学問を比べたら、君の小指ほどもないだろう。そんな男のもとで、使われているなんて、くだらないよ」
 しかし、大学者は少しも悪びれず、こう答えた。
 「いや、これでいいんだ。僕を使えばこそ、会社も利益を得られるし、僕も食べていけるのだ。反対に、僕が会社の主人で、あの主人が僕の立場だったら、どうなる? 僕はあの人を使いきれないよ」と。
 組織上の役職、社会などの機構は、必ずしも実力のとおりとはいえない。生身の「人間」の世界であり、人事配置にしても、適材適所でない場合もある。また、貴族制、世襲制などは、実力より身分、家柄、地位等を優先した典型であろう。
 それはそれとして、実体なき地位や身分が″上の人″よりも、実際に″働く人″のほうが、結局は幸福だし、満足がある。
 広宣流布をめざしての活動においてもまた同じである。立場でもない。役職でもない。実際に悩める人々の中に飛び込み、語り、苦労して、仏法を弘めた人が偉いのである。立場や権威の上にあぐらをかき、いばり、命令し、皆を困らせるような人間は、仏法の目から見れば最低の存在である。そうした悪を許してはならない。
 そのうえで、一つの「発想の転換」「心の切り替え」の例として、時には、この大学者の考え方を見習ってみるのも、よいのではないだろうか。「俺たちが働いているから、もっているのだ。立場が反対なら、なにもかもめちゃくちゃになるさ」と――。
 要は、聡明に知恵を使い、境涯を広げ、つねに一切の矛盾をも悠々と見おろしていける人が賢者であり、幸福なのである。
20  「失意泰然、得意淡然」(失意の時も悠々と動ぜず、得意の時も淡々としてふだんと変わらない)という言葉があるが、何ものにも動ぜぬ「心の世界」を確立している人は強い。着実に向上していく。そこに自立した「人格」の力がある。
 人生の目的は幸福である。その幸福を決めるのは自身の境涯である。″境涯を開く″人が″幸福を開く″人なのである。その境涯を無限に開きゆく原動力が「信心」である。
 有名な御書に、「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり
 ――賢人は八風といって八種の風に侵されないのを賢人というのである。八風とは、利・衰・毀・誉・称・識・苦・楽である。そのおおよその意味するところは、世間的利益があっても喜ばず、それを失っても嘆かないなどということである。この八風に侵されない人を、必ず諸天善神は守られるのである――と。
 要は、八風に侵されない、八風に微動だにしない「自分自身」であればよい。それが、「賢人」である。
 現代は、あまりにも虚栄、誘惑が多い。刹那主義、享楽主義が、社会を覆っている。しかも、日本人は、世間体や格好、形式ばかりを気にして、内実をおろそかにする傾向がある。風評に動かされて、事実を冷静に確認しようとしない弱さもある。
 それでは、状況の変化のまま、風向きのままに動かされる。あまりにも不安定な人生であろう。大きな嵐、時代の変動の前には、ひとたまりもない――。
 そうしたなか私どもは、何ものにも左右されることのない、信仰という、不動の支柱をもっている。八風に断じて侵されることなく、堂々とまた仲良く、この最高の「人類貢献の道」「永遠の幸福の道」を歩んでまいりたい。
 全国的に暑い日が続いている。健康にくれぐれも留意され、有意義な、楽しい夏を過ごされることをお祈りして、きょうの話としたい。
 (長野青年研修道場)

1
1