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日蓮大聖人・池田大作

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第一回SGI世界青年部幹部会 諸君は仏法史、各国史に輝く先駆者

1991.7.10 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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2  宇宙論――一切に「声」あり
 フランスの文豪ヴイクトル・ユゴーは、こう謳っている。
  「永遠の賛歌が、もうひとつの大気のように
   ひろがりあふれ、大海をくまなく
   おおっていた。世界はこの交響楽に包まれ
   空中を流れるように 諧調の中を流れていた。
   わたしは思いにふけりつつ この天空の竪琴に聞きいった」
  「夜も昼もうたいつづけるこの大合唱のなかで
   一片の波 一人の人間が それぞれ自分の調べ 自分の響きをもっていた」
   (「山のうえで聞いたこと」から、詩集『秋の木の葉』辻昶訳、『世界名詩集大成』2所収、平凡社)
3  この大詩人が、深遠な直観知でとらえた宇宙の姿。それは、壮大なる″天球の交響楽″が、″天空の竪琴″が鳴り響く、「万物が声を発する」世界であった。「賑やかなる宇宙」であった。
 かつて科学は物質的宇宙を、静かな″ものいわぬ物質の集まり″のごとく見なしていた。しかし、最新の科学の知見によれば、自然と宇宙は、絶対に「沈黙の世界」ではない。無言の、また無音のままに凍りついた、静寂が支配する″死の世界″ではない。むしろ音声に満ちた、よリダイナミック(動的)な世界なのである。
 素粒子・原子・分子等のミクロ(極小)の世界から、生物の世界はもちろん、惑星から太陽系・銀河系等のマクロ(極大)の世界まで、すべては調和的な音楽的法則にのっとって、振動し、声を発している、と。
 そのうち″ミクロの世界″はどうか。
 よく知られているように、「物質」と「エネルギー」は別のものではない。「エネルギー」が比較的安定した姿が「物質」と呼ばれる。要するに存在するのは、エネルギーのみであり、宇宙の土台をつくっているのは、運動し、振動してやまない「量子の世界」である。ゆえに宇宙には一瞬の休止もない。いわば″永遠のダンス″を踊っている。
4  原子が歌い舞う――ミクロの世界
 素粒子の世界には「スピン」(回る、舞う)と呼ばれる固有の運動量がある(ある軸の上をコマのように舞うと表現される)。「スピン」の運動量によって、それぞれの原子の性格が決まっていくとされる。しかも原子内の粒子のエネルギーは決して無秩序に変化するのではない。プランク定数を単位として整数倍で変化し、いわば音楽の「和音」と同様の調和的法則にしたがっている。
 「どの原子も絶えず一つの歌をうたっている」(原子内の運動は音楽的振動である)――これが現代物理学の描く世界の一側面である。
 そうした″ミクロの音楽″が、人間の耳に聞こえないのは、聴取可能な音域(二〇〜二万ヘルツ)よりも二〇オクターブも高いからである。
 それを聞こえる音にまで下げて、「酸素の歌」「水銀のアリア」「窒素の叫び」などをバレエ曲として聞かせてみせた科学者もいる。
 また分子は、絶対零度(マイナス二七三・一五度)以上であれば、たえず運動している。たとえば、氷の水分子(H2O)は結晶の中で毎秒百万回の格子運動をする。
 このように物質は、素粒子から原子核、原子、分子とそれぞれのレベルで、絶え間なく振動している。音を奏でていると表現できる。いわば「エネルギーの歌」を宇宙はうたい続けているのである。
5  先日も懐かしく再会したが(六月二十一日、パリ近郊の「ユゴー文学記念館」のオープンの折)、私の友人ルネ・ュイグ氏の著書に『かたちと力』(日本語版は、西野嘉章・寺田光徳訳、潮出版社)という大著がある。
 これは、人文科学、自然科学を問わず、あらゆる分野の諸学問を総動員して、自然界の見える「かたち」と、見えない「力」のダイナミックな関係を探究した労作である。仏法的にいえば、「かたち」とは「仮諦」、「力」とは「空諦」の一側面を志向しているといえようか。
 その書でもふれられているが、「波動学」(波動形態学〈サイマティクス〉)という学問がある。あまりなじみがないかもしれないが、要約すれば次のような観察から始まっている。
 ――ガラスや金属の板の上に砂粒をまき、ヴアイオリンの弓をこすると、その振動に合わせて、まるで手品のように、砂粒が規則正しく、一定の幾何学模様をつくる。十九世紀初頭、ドイツの物理学者・音楽家のE・クラードニが発見した。こうしてできる音響図形は対称図形をなす。
 この発見を発展させると、人間の声を含む一定の周波数の音を、目に見える形に表すことができる。すると驚くべきことに、ある周波数になると、音による模様は、自然界にある生物の形そのものになったのである。
 すなわち、ヒトデ、オウム貝、サンゴの枝、ソラマメ、魚の骨、植物の葉や花弁の形そのものに……。偶然と考えるよりも、音が描く「形」と、生物の「形」との間には、深い相関性があると考えたほうが合理的である。
 自然界の「形」もまた、一定の″リズムが結晶したもの″、いわば″目に見える音声″なのである。形や動きも、また、ここでは省くが光や色も、音声へと還元できる――これが、最新科学の結論である。
 ユイグ氏は、波動学の権威ハンス・イェンニの言葉を引いて、こう結論されている。
 「自然のなかには、『どんなものにでも波動、振動、脈動の状態で存在を許している、ある周期的なリズム』が、そのリズムだけが存在する」(前掲書)。すなわち「はじめにリズムありき」である、と。
6  古代ギリシャの時代からよく知られている美術の法則に「黄金分割」がある。ミロのヴィーナスはじめ、人間が美しく快いと感じる「形の比率」(プロポーション)のことである。「黄金比」ともいわれ、ほぼ″五対八″で表される。この比率は自然界のいたるところに見いだされる。
 美術だけではない。ある学者によると、日本の和歌・俳句などの五音七音の比率は、文字数などを考慮に入れると、この黄金分割に近いという。またこの″五対八″の比率は、音の上では、音楽上、非常に重要な「六度音程」(「ド」と「ラ」〈三対五〉、「ミ」と「ド」〈五対八〉)を表す。
 自然も人間も、知らずしらずのうちに音楽的な法則にのっとって「美」を感じ、発見し、また創造しているのである。ゲーテが「理想的建築は″凍った音楽″である」といった意味も、こうした知識をもった現代人こそ、よく理解できるといえよう。
7  マクロの世界――宇宙は万物が歌う生命の世界
 さて、次に″マクロの世界″ではどうか。
 ゲーテは『フアウスト』の「天上の序曲」で、うたっている。
 「太陽は、昔ながらの調べをなして、同胞はらからの星の群と歌の音を競い……」(相良守峯訳、岩波文庫)と。
 宇宙が壮麗な″天の音楽″を奏でているとする考えは、ピタゴラス、プラトン以来、数多い。
 ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(一五七一年〜一六三〇年)も、そのもっとも熱心な提唱者の一人である。彼の有名な「第三法則」によれば、各惑星は、正確な音楽的法則で軌道上を進んでいる。(第三法則=各惑星の公転の周期の二乗は、太陽までの平均距離の三乗に比例するとする)
 彼は自分の発見をこう要約している。
 「天に空気を与えれば、ほんとうに音楽が鳴りひびくだろう」
 彼の確信は、現代にいたって、コンピューターにより証明されることになった。
 アメリカのエール大学の二人の教授は、惑星の運行軌道を電子楽器(シンセサイザー)のコンピューターに入力した。そして「惑星の歌」をレコードに録音した。
 また別の学者は、宇宙を通過してくる電波や音波をとらえる″プラズマ(超高速の帯電微粒子)波の検出装置″を用い、データをコンピューターに入力して、文字どおり、「宇宙交響楽」を聞けるようにした。
8  総じて、天文学の世界では、この数十年、「ガリレオ以来」といわれる画期的な時代を迎えている。″目″が変われば″世界″も変わる。電波望遠鏡のおかげで、それまで「目に見える光」にのみに頼っていた宇宙像が激変したのである。(=宇宙からの電波の発見は、一九三〇年代初め。第二次大戦後、本格的な電波天文学の研究が進んだ)
 今では、電波天文学のほか、X線天文学、紫外線天文学、赤外線天文学、中性子天文学など、宇宙をとらえる「目」――「耳」というべきかもしれない――をさまざまに変えることによって、重層的な研究が進んでいる。
 詳述は避けるが、それらが教えてくれる宇宙は、賑やかなざわめき、ささやき、とどろき、無数のサウンドに満ちた世界である。かつての「静寂の宇宙」は消え去り、代わりに「賑やかな宇宙」「壮大なざわめきの宇宙」が登場したのである。
 このように、実相は、「世界が音声」である。森羅万象は固有の「声」を発し、たがいに耳をかたむけあっている。ユゴーが直観し、科学が証明しつつあるように、「星々」も「原子」も、全宇宙はある種の楽器であり、声帯であり、振動であり、リズムであり、バレエなのである。
9  「御義口伝」には「惣じて大音声とは大は法界なり法界の衆生の言語を妙法の音声と沙汰するを大音声とは云うなり」とある。
 ――総じて大音声とは「大」とは法界のことである。法界の一切衆生が発する言語は、みな妙法の音声であると見る、その宇宙に遍満する声を大音声というのである――と。
 宇宙に満ちている音声は、すべて妙法のあらわれなのである、と。
 ところで、聖書では「はじめに言葉ありき」(ユハネ不伝)という。「言葉」とは、ギリシャ語の「ロゴス」の訳で、ロゴスとは理法、秩序、理性などを意味する。つまり、この言葉は「はじめにロゴスありき」の意味であり、「はじめに″真理の声″ありき」ともとれよう。
 また、ゲーテのファウストが、これを気にいらないとして、「はじめに行動ありき」と書き直したことは、あまりにも有名である。
 ここでは「言葉」と「行い」が別のものとされているが、仏法ではともに「業」(果報をはらむ行為)である。言葉は口業、行動は身業である。
 これらをふまえて、あえていえば、「はじめに音声ありき」とも表現できよう。もちろん仏法は、宇宙を「無始」と説くゆえに、いわゆる″はじめ″は認めないが――。
 無始無終の宇宙にあって、つねに「南無妙法蓮華経」の大音声が響きわたり、とどろき、鳴っている。全生命、全存在をつつみ、貫き、振動させ、生き生きとした「生」へのリズムを与え続けている。
 ゆえに私どもが御本尊を信じ、妙法を唱え、正法流布に行動していく時、宇宙の根源のリズムにのっとり、もつとも調和した幸福の生命、人生となる。全宇宙が私どものために、「生命の歓喜の交響曲」を奏でるのである。
10  意外に思う人もいるかもしれないが、植物もまた音楽や声を″聞いている″ことが、しだいに明らかになっている。しかも、音楽を好み、好きな音楽や励ましの声、ほめ言葉にふれ続けると、生長が増進されるという実験データもある。
 これを利用した「音楽栽培」も実行され始めている。とくにバッハなどのクラシックやインド音楽を好む傾向があるという。
 また、植物の生体電気を測定する装置のデータをオーデイオ装置に入力し、スピーカーで音が出るようにする。すると、周囲の人間の心や行動に驚くほど敏感に反応することが明らかになった。
 一度、自分や仲間を傷つけた人間が、そばに来ただけで、悲鳴のような″声″(生体電位の振動)をあげたという証言もある。
 あまり上品な言葉ではないが、江戸時代の農民の間には「かけごえ」という作物育成法があったという。「声」をかけ、励ましてやることによって、作物が丈夫に育つことを経験的に知っており、「肥料」をかけることに通じるとしたのである。
 植物さえ、声を聞き、声に反応する。まして人間が声を必要としないはずがない。繰り返し語り、声をかけていくところに、人材育成もあり、友好の輪も広がっていく。
 仏法では「声仏事を為す」と説く。私どもは妙法に基づいて、広布のため社会のために語りに語り、訴えに訴え、正義の声を広げに広げていくことが、正しい。宇宙の法にかなった道である。
 とくに現代は一見、安定し、強く固まっているかに見えて、その実、きわめて流動的な社会である。人々の不安も大きい。この時に堂々たる「大音声」で「こちらに正しい道がある!」「こちらに安穏の道がある!」と明確に示してあげられたところが、次の時代をリードしていくチャンピオンとなろう。
 (以上、宇宙と音については主として、ユイグ、前掲書、およびJ・E・ベーレン卜『ナーダ・ブラフマー、世界は音』大島かおり訳、人文書院を参照)
11  温かな励まし、明快な説明、堂々たる主張
 かつて『裁判の書』(三宅正太郎著、牧野書店)についてふれたことがあるが(=昭和六十三年九月の港、目黒、渋谷合同支部長会で。本全集第71巻に収録)、その本の中に、オーストリアの作家一シュテファン・ツヴァイクのこんな随想が紹介されていた。
 ツヴアイクが高校生の時の話である。一人の秀才の同級生がいた。人気者だったが、あるとき、大会社の社長である彼の父親が、インチキをして検挙されてしまった。新聞は彼の家族の写真まで掲げて悪口を書きたてた。学校にもこられず、彼は二週間も休んだ。三週間目に突然やってきて自分の席についた。彼は教科書に目をおとしたまま顔を上げなかった。休み時間になっても、一人で窓の外を眺めていた。皆の視線を避けていたのである。
 ツヴアイクたちは、彼を傷つけまいと、遠くから見ているだけだった。彼がやさしい言葉を求めていることはわかっていた。しかし迷っているうちに次のベルが鳴った。
 そして次の時間になると、彼はもう学校から出て、以来、二度と彼の姿を見ることはなかった――。
 そして三宅氏は、この話をとおして、「裁判官は人の運命に重大密接な関係のある仕事を行うのであるから、いうべきことは敢然といい、為すべきことは敢然となすべきである」(=新かなづかいに改めた)と述べている。これは、そのまま、あらゆる指導者にあてはまる言葉であろう。
12  言うべきことは、言うべき時に、十二分に言わねばならない。そうでなければ悔いを残す。
 御書に「仏自身を責めて云く我則ち慳貪に堕ちなん此の事は為めて不可なり」――釈尊は御自身を責めて、こう言われている。「法華経を知りながら説かなければ自分は慳貪(もの惜しみし、むさぼること)の罪におちてしまう。それは、まったく良くないことである」――と仰せである。
 言ってあげればよくなることを、労を惜しみ、難を恐れて言わなければ、私どももまた「慳貪の罪」は免れない。
 宇宙も歌っている。草も木も語っている。私どもも正義を語ってこそ、宇宙との調和が実現する。
 一言いってあげれば、パッとわかることがあまりにも多い。また、わかりきっていると思うことでも、交通事故、戸締まりの注意等々、一言いうことで、油断という魔を破れる場合がある。
 あいまいさを残したごまかし、悪を見て見ぬふりをする卑怯さ、あらっぼく、すきまだらけの説明しかしない無責任、粗雑さ――これらは、みな悪である。それでは、広布の組織にクモの巣のような、もやもやしたものを作ってしまう。指導者はつねに明快でなければならない。
 きちっと微妙なところまで、人々が聞きたいと思うところを先回りして語り、心から納得させる。目の前を明るくしてあげる――そこに「声仏事をなし」、また、いゎば「声菩薩事をなし」て、たがいに大いなる功徳に浴することができるのである。
13  看護や臨床医療の現場でも、「声による癒し」の力は重視されている。言葉を惜しまず、あたたかい声で、何でもオープンに語れる雰囲気が、健康をつくっていく。ある人は端的に「『だんまりナース』に看護はできない」と表現している。
 またターミナルケア(死を看とる看護)の現場では、「おじいちゃん」「おばあちゃん」などと呼ぶだけでなく、相手の名前をきちんと呼んであげることが大切といわれる。そのことによって、相手への尊重と敬意を伝えられる場合が多いからである。
 ある医師は、一人の人間として患者と対等に接する必要を説き、″医療の本質は、いばらないということだ″と語っている。
 ケア(看護、面倒をみること)は、権威等による「強制」と対極にある行為なのである。
 彼は「いばらない」ことの一環として、「説明」の実践を強調している。手術などの医療行為に加えて必要な、″もう一つの医療″――それが「説明」である、と。患者の病状について、医師だけが一方的に知るのではなく、わかりやすく、かみくだいて患者自身に説明する。それはつまり、″医師がいばらない″ということである――彼はこう述べている。
 また、患者さんに、何でも聞いてくださいと、質問を奨励することが大切である、と。
14  私はつねに「リーダーは、いばってはならない」と申し上げてきた。
 「いばらない」とは、謙虚ぶった偽善的な態度のことではない。どこまでも対等の裸の人間同士として、心を開いて何でも話し合っていくことである。
 「わかる」「納得する」ことが信頼を生み、展望と、希望と、知恵を生む。リーダーは、何ごとも「ていねいに説明する」ことを怠ってはならない。
 「言わなくてもわかってくれるだろう」という独りよがりや甘え、「言わなくても、かまわないだろう」という傲慢や無慈悲、また何よりうそ、ごまかし、裏表があれば、皆の本当の力を引き出すことはできない。
 日本についていえば「以心伝心」という伝統があるが、そうした、あいまいさに甘えられる時代は終わったことを知らねばならない。国際社会にも通用しない。
 大聖人も、たとえ在家の婦人に対してでも、いな、そうであるほど、懇切に、わかりやすく説明――説いて明らかにすることを重ねられた。
15  「声を惜しまぬ」実践から広宣の波が
 大聖人は、御書の随所で「こえも惜まず」等と仰せである。
 これまでの学会の歴史も、「声を惜しまぬ」実践によって切り開かれてきた。
 唱題の声を根本に、あたたかい励ましの声、粘り強い呼びかけの声、堂々たる主張の声、真剣な提案・協議の声、誓いの声、喜びの歌声……等々。庶民と庶民が声をかけあって、″正法の波″″新時代の波″を、一波から万波へとにぎやかに広げてきた。
 「声援」とは文字どおり「声による応援」である。
 広布は、庶民同士がたがいの人生への「声援」を送り合ってきた、人生の「声援運動」「かけ声運動」といえよう。そこには、さんざめき、沸き立つような、あふれるエネルギーがある。
 ともあれ「沈黙は死、音声は生」である。広宣流布に連なる声は、すべて仏事、菩薩事に通じていく。広宣流布のために声を使えば使うほど、仏界の生命がわき、強まってくる。その涌現した仏界の生命が、自身の人生も、広布の環境もすべてを変えていく。
 「御義口伝」に「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり」と仰せである。
 戸田先生は、つねに次のように教えてくださった。(『戸田城聖全集』第一巻)
 「経とは、仏典の経文のことを経と、世人は思っている。しかるに仏教上の経とはしからず。雀がチュウチュウと鳴き、猫がニャゴニャゴと鳴く。大はワンワンとほえ、おかみさん方は井戸端会議、人のうわさをする。これが経である。すなわち、宇宙の森羅万象の語言・動作、ことごとく経である」
 「非情より有情の経は高く、有情のうちでも、猫・犬より凡夫の経が高いのである。また、人のなかでも、凡下の者より智者、智者のなかでも大智者の経が高い。大智者といわるる者のなかでも、仏と名づけられる方の経が、もっとも高い」と。
 さらに、「今日、妙法蓮華経の経がもっとも高し」として、商人は商人、大工は大工としての経を、それぞれ読みながら、信仰したならば、その本質は妙法という最高の経の表現であると教えられている。そして、「妙法蓮華の真髄を日常諸動作のなかに具現して経となすがゆえに、日夜冥々のうちに三世の諸仏に護念せらるること、明々白々の事実である」と述べておられる。
 これまで宇宙に無数の「経」が充満していることを、科学をとおして語ってきた。そのなかで、戸田先生の指導にあるように、私どもの「信心即生活」こそ、最高最善の経を読んでいるのである。
16  大聖人は題目の広大無辺の力について、こう仰せである。
 「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし、たとえば小音なれどもばいに入れて吹く時・遠く響くが如く、手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し、一念三千の大事の法門是なり
 ――題目を唱える音声は、十方の世界の中で届かない所がない。われわれの小さな声でも題目の「大音」に入れて唱えるゆえに、大宇宙に到達しないところは一つもない。
 たとえば小さな音でもほら貝に入れて吹く時、遠くに響くようなものである。また手の音はわずかでも、鼓を打てば反響して遠く響くようなものである。これが「一念三千」の大事な法門である――。
 一人の小さな声でも、マイクをとおせば広く伝わる。一人の一念、祈りでも、「題目の大音」に入れれば、三千世間(如是)へと展開し、宇宙にとどろく大音声となる。
 信心の力は、全宇宙をもつつみ、味方にしていくことができる。また信心の微妙な「一念」は、善かれ悪しかれ、宇宙大に拡大されていくことを知らねばならない。
 以上、「声仏事を為す」の一語にこめられた、広大な意義の一端をお話しした。
 私どもは、どこまでもにぎやかに、朗らかに、たくましく、うなるようなエネルギーで″新しい世紀″へ進んでいきたい。「民衆の声」「民衆の叫び」が正しく生かされる社会をめざして。(拍手)
17  人間論――民衆よ″魂なきロボット″になるな
 さて話は変わる。仏法のうえから見た「宇宙論」「音声論」から、「人間論」へ――。
 日蓮大聖人は、四条金吾に与えられたお手紙(「崇峻天皇御書」)で次のように仰せられている。
 「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ
 ――不軽菩薩が人を敬ったのは、いったいどういうことか、よく考えなさい。教主釈尊がこの世に出現された根本目的(本懐)は、人間としての振る舞いを教えるところにあったのである――と。
 あまりにも有名な御文である。また同抄では、八万法蔵といわれる膨大な釈尊の経々も、その肝心は法華経であり、その法華経の修行・実践の肝心は不軽品に説かれているとも述べられている。不軽菩薩は自分を迫害する者に対しても、仏性があり必ず仏になるべし、と礼拝の行を続けた。要は、仏教とは「人間への尊敬」を根源的に教えた宗教である、との御指南とも拝せよう。その核心が法華経である、と。
 また反対に、人間を軽侮し(軽んじ、あなどる)、仏道修行を妨げようとするのは「魔」の働きであり、法華経の敵となる。
 ゆえに、仏と魔との戦い、広宣流布の戦いは、一次元からいえば、「人間を尊敬する者」と、「人間を軽賤する者」との勝負である。また「人間を仏性をもった存在として礼拝する者」と、「人間を手段化し、『ロボット』のようにしようとする者」との闘争なのである。
18  旧チェコスロバキアの作家、カレル・チャペック(一八九〇年〜一九三八年)に、戯曲『ロボット』がある。(一九二〇年発表。原題は『R・U・R――ロッスムのユニバーサルロボット』)
 「ロボット」という言葉を作りだし、世界に広めたのは、この劇であり、SF(サイエンス・フィクション〈科学物語〉)の古典となっている。
 ある発明家が、人間そっくりの「ロボット」を作りだす。ロボットといっても、機械を組み立てたものではない。生きた血と肉をもった、いわば″人造人間″である。実際上は、通常の人間と見分けがつかない。この″人造人間″の大量生産によって、人間は苦しい労働をすべて彼らにまかせるようになっていた。
 人間はロボットたちを売買し、好きな時に破壊し、こき使った。かつての″奴隷″のような存在である。「あの連中は、雑草以下なのです」――ロボット生産会社の社長は、こううそぶく。
 ロボットには情熱もなければ、歴史(伝統)もなく、意志も魂もないと見くだしきっていた。そのような「ロボット」の扱いを、″おかしい″″間違っている″と思う人も一部にはいた。
 「人道連盟」の代表は、「ロボットを解放したい」と、ロボット会社に交渉に乗り込んでいった。しかし、うまくまるめこまれてしまう。そのうえ、みずからもロボットの労働のうえに、あぐらをかいて生きる傲慢な人間の一人になってしまった。
19  人類は、もはや「ロボット」とバカにしている″人造人間″たちなくしては生きていけなくなっていた。初めのころは、ロボットの安い労働力による人間の失業問題もあったが、やがて克服された。何より、一度覚えた安楽な生活は、どうしても捨てられなかったのである。「人間」は堕落した。自分で働かなくなってしまった。
 ″全部あのロボットたちにやらせておけばよいのだ!″
 人間は、ロボットを奴隷として、みずからは何も生産しない″貴族階級″となった。もはや創造への努力もなければ、勤労への意欲もなかった。ゆえに、充実した喜びもなかった。向上もなかった。「人間」はしだいに「人間」でなくなっていった。
 人間は、ロボットの売り買いで金をもうけた。また、自分たちの内紛を、代わりにロボットたちに戦わせた。自分たちが傷つかないために、″代理戦争″をさせたのである。ロボット同士が戦っているように見えたが、じつは人間たちの内部の″勢力争い″であった。
 さらに、誇大妄想的な、勝手な″理想″″へ理屈″のために、ロボットを動員する者もいた。傲りと安逸に心身を腐らせてしまった「人間」たちには、他への思いやりなど、まったくなくなってしまっていた。
 ところが――「魂なんかない」といわれたロボットたちは、じつは人間と同じ心をもっていた。ただ、「人間が主人」と、生まれた時から思いこまされていたため、何でも従順に命令を聞いていたのである。
 耐えがたきを耐え、無理難題もすべて実現した。しかし、ロボットたちが頑張れば頑張るほど、人間たちはそれを当たり前と思い、ますます感謝も配慮も失っていった。″死ぬほど働いて当然だ―なにしろロボットなんだから!″と。
 しかし、しだいに時代は変化する。
 ついにロボットたちが革命を起こした。世界中で、続々と立ち上がった。こうなるとあっけなかった。数の上でも、実力の上でも、ロボットたちのほうがずっと上なのだ。
 ″もう、あなた方、人間のためには働きません!″。革命のリーダーは宣言する。
 「あなた方がロボットのように有能ではないからです。ロボットが何もかもします。あなた方ときたらただ命令するだけです。よけいなおしゃべりをしているのです」(『ロボット』千野栄一訳、岩波文庫)
 ロボットたちは決起した。彼らは自分たちの力に目覚めた。自分たちの尊厳と、今まで尊いと思っていた人間たちの醜さとを知った。″人間はわれわれの寄生虫にすぎない!″と。
 ――人間たちはあわてた。虫けらのように思っていたロボットたちに、こんな怒りと人間らしさがあったとは! ″あの連中(ロボットたち)は機械であることをやめた……″。
 弾圧し、懐柔し、買収しようとし、また絶望したり、人間たちは右往左往する。ある者は、ロボットを使ってもうけた莫大な金を抱いたまま、死んでいく。札束が彼の墓標のようにうずたかく積まれたまま……。
 労働なき不当の富。彼は財産で何でも買えた。ただ自分の幸福だけは買えなかった。あり余る金は、彼の人間性を破壊してしまっていた。
 人類最後の生存者の一人は滅亡を前に叫ぶ。
 「人間であるということは、偉大なことであった。それは何かとてつもなく大きなものであった」(同前)
 しかし、もはや地上には、真の「人間」はいなかった。自分たちのために働いてくれている者たちを、「ロボット」といって侮蔑し、傲慢にいばり、命令していた「人間」たち。じつは「人間」の傲慢は、自分自身をロボットにした。文字どおり″魂のない″機械に変えてしまった。
 反対に「ロボット」たちのほうが、ずっと″人間らしく″なっていた。戯曲は、革命の成功後、「ロボット」たちが試行錯誤のすえ、「新しい人類」となって出発するところで終わる。
20  この劇の見方は、さまざまである。一九二〇年作というところからみて、一九一七年のロシア革命の影響も無視できないであろう。″額に汗して働く者こそ、社会の主人なのだ!″。ロシア革命ヘの歴史的評価はさておき、この理想は永遠の真理を含んでいる。
 それはそれとして、他人をロボットのように見くだし、自在にあやつろうとする人間。その人間こそ、「権力の魔性」のあやつり人形、ロボットなのである。
 仏法では生命の魔性の王を「第六天の魔王」と呼ぶ。別名を「他化自在天」といって、人々を自在にあやつって破滅させていく働きである。この魔性に支配されたなら、もはや悪の奴隷である。
 一方、ロボットのようにバカにされながら、現実に働き、現実に力をもっている労働者――それこそ「人間」なのである。
 さらに、傲慢な権威・権力の横暴に忍従することをやめて、「俺たちこそ主人公なのだ!」と立ち上がった時、彼らは、真の「人間」へと大きく脱皮した。頭を上げ、胸を張り、勇気をもって、正義を主張した時、難攻不落に見えた権威の城は、あっけなく滅びた。すでに「人類」は冷たい「ロボット」(機械)になり、かえって「ロボット」のほうが熱い血潮の「人間」になっていた。実質は、たがいに入れかわっていたのである。
 作者チャペックは、機械文明の発達によって、人間がまるで機械のようになっていく不安を感じたという。ただ働くだけで、自分で考えることをやめてしまった人間。その「機械のような人間」をさす言葉として、チェコ語の「賦役、苦役」を意味する「ロボタ」から、「ロボット」という新語を作った。
 ――ともあれ、「真の人間とは?」と問いかけるこの戯曲は、今も新鮮さを失っていない。
21  僣聖増上慢の本質を見抜け
 「人間」を軽蔑する人は、みずからが冷血の「ロボット」になる。人の「人間性」を破壊する者は、みずからの「人間性」をこそ破壊している。
 法華経勧持品には、そのような人間の姿が詳細に描きだされている。
 「或は阿練若に納衣にして空閑に在って自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賤する者有らん」(開結四四一㌻)
 ――あるいは、寂静処(静かな場所)で、法衣を着け、俗世を離れて、みずから真の道を行じていると思って、人間を軽んじ、いやしめる者がいるであろう――。
 これは法華経の行者を迫害する敵人(三類の強敵)のうち、もっとも悪質な「僣聖増上慢」の姿である。
 つまり、″聖僧″の名を盗んで、その資格もないのに偽って名乗り(僣聖)、大衆を離れて人間を見おろしながら、しかも「真の仏道を行ず」と称する――そういう存在が、法華経の実践者の最大の敵として現れてくるとの予言である。これが現れなければ、真の法華経の行者ではない、というのである。
22  勧持品では、彼らの実態を、さらに、こう描写し、予言している。
 「利養に貪著するが故に 自衣の与に法を説いて 世に恭敬せらることを為ること 六通の羅漢の如くならん 是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮って 好んで我等が過を出さん 而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は 利養を貪るを為っての故に 外道の論議を説く 自ら此の経典を作って 世間の人を証惑す 名間を求むるを為っての故に 分別して是の経を説くと 常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん 我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん」(開結四四一㌻)
 ――この悪僧らは自己の利益を貪り、執着し、そのために在家に法を説いて、世間から尊敬されることは、六種の神通力を備えた聖者のようであろう。この人は悪心を胸にいだき、つねに世俗のことを思いめぐらし、静かなところにいる外見を示しながら、好んでわれら法華経の行者の悪口を言うであろう。
 しかも次のように言うであろう。「このもろもろの僧など(法華経の行者)は、わが身の利益を貪るゆえに、仏教ではない外道の教えを説く。勝手に、この経典(法華経)をでっち上げて世間の人々をだまし、惑わす。法華経の行者たちは名聞(名声)が欲しいために、さかしらな知恵を出して、この経(法華経)を説くのだ」と。
 僣聖増上慢はつねに大勢の人々の中で、われら法華経の行者を中傷しようと願っている。そこで、権力者の国王・大臣、権威をもつバラモンや社会的有力者、および他の仏教者に向かって誹謗して、「これは邪見の人である。外道の論を説く」と、われらの悪口を言う。われらは仏を敬うがゆえに、こうした三類の強敵のもろもろの悪をすべて忍耐しよう――。
23  貴き聖職者の外見で人々の尊敬を受けながら、そのじつ、「利養」すなわち金銭等と「世俗」の名聞や享楽に執着し、正しき法華経の実践者を追い落とそうとする。その手段として「権力」と「権威」にすり寄り、利用する。また自分たちこそ「真の仏道」を行じているのであり、法華経の行者などは「外道」にすぎないと、自分の権威を使って内外に言いふらす。これが法華経に予言された″末法広宣流布の敵″の姿である。この″鏡″に照らして見れば、何が起ころうと、真実は明白であろう。
 日達上人は、次のように述べられている。
 「もし僧侶にして大多数の信徒に対して君臨しているというような、傲慢な考えを少しでも起したなら、それは天魔であります。また多くの信徒に阿諛(=おもねり、へつらうこと)して貪著供養の者は禿人とくにん(外見は髪を計って僧の姿をしているが、修行に励まない者の蔑称)であります。よろしく本宗僧侶は止暇断眠の大聖人のお教えに従い、日夜に行学に勉めなければなりません」(昭和四十年、『大日蓮』年頭の辞。『日達上人全集』)
 この日達上人の言葉に反し、「天魔」と化するならば、だれ人であれ、仏罰は厳然であろう。御本仏日蓮大聖人、日興上人のお怒り、お嘆きはいかばかりであろうか。
 「人間を軽賤する者」――その肥大した病的な特権意識。人を人とも思わぬロボット(機械)的冷血。邪智にたけた策謀好きの性格。好んで悪口ばかり言う嫉妬深さ。権威・権力に寄りかかる臆病さ。そうした本質を、私どもは鋭く見破らねばならない。
 モンテーニュいわく「臆病は残酷の母」(『エセー』原二郎訳、岩波文庫)と。
 残酷で手かげんしない人間というのは、じつは、臆病なあまり、感情的に相手をやっつけてしまう――というのである。
 非人間的な残忍さは、自分の「おびえ」をごまかすためである。残酷な独裁者として歴史に名を残すスターリンもヒトラーも、小心者であった。ヒトラーと戦ったチャップリンの裸の人間性こそ「勇気」の表れであった。
 私どもが世界に展開している人間的な「対話」「友情」こそ、本当の「勇気」の証明なのである。
24  人間尊敬(法華経の実践者)か、人間蔑視(法華経の敵)か
 「法華経の行者」は「人間を尊敬する者」である。ゆえに、その振る舞いは高貴である。すると、「人間を軽侮する者」たちは、何と言いだすか。「まるで″生き仏″ですね」「仏さまですよ」などと、いやみを言い始めるのである。これは、法華経と御書に明確に記されている。
 すなわち、勧持品に「軽しめて 汝等は皆是れ仏なりと言われん」(開結四四二㌻)――われわれを彼らが軽んじて、『なるほど、あなた方はみな仏さまですよ』と言われるであろう――と。
 そして、この文の「御義口伝」には、「法華経の行者をあなづり生仏と云うべしと云う経文なり、是は軽心を以て謗るなり」――法華経の行者をあなどり、彼らはわれわれを「生き仏」と言うだろうとの経文である。これはわれらを軽んずる心で、謗るのである――と述べられている。
 学会もこれまで「会長本仏論」など、こちらが聞いたこともない(笑い)、想像すらできないような珍説をたてているかのごとく宣伝され、それを圧迫の口実とされてきた。そのたびに「ああ、御書と法華経の仰せどおりの悪人たちの行動だな」(笑い)と、私どもは仏法への確信を強めてきた。(拍手)
 ともあれ、こうした悪の本質を″知っている″ことが「力」となる。そして、人間の仮面をつけた「権力の魔性のロボット」に対しては恐れることなく、「真の人間の叫び」を起こすべきである。
 目覚めた民衆の力ほど偉大なものはないからだ。
25  皆さまもよくご存じのように、ヨーロッパ各国では十六世紀を中心として、権威主義・形式主義に堕した教会、聖職者を批判し、信仰の根本精神を取り戻そうとする運動が起こった。いわゆる「宗教改革」である。
 それはルネサンスの運動とともに、市民生活に重要な変化をもたらし、中世から近代への夜明けを告げる歴史的要因となった。「神の権威」への従属から「人間の精神」の解放へ、形式主義から人間主義へと、人々は新しい意識に目覚めた。
 次元は異なるが、法華経二十八品も、閉鎖性と権威主義におちいった小乗仏教を乗り越え、人間生命の平等と解放を主張する大乗仏教運動の展開のなかで成立した。それは、″釈尊の精神に還れ!″という、仏教の根本にかかわる重要な改革であり、法華経は、その「宗教革命」の最高の″結晶″ともいえる。
 勧持品をはじめとして、法華経の行者への迫害の構図が詳細に述べられているのも、その「革命」が、いかに熾烈なものであったかを反映していると解することもできよう。
 私どもSGI(創価学会インタナショナル)の行動は、大聖人の″太陽の仏法″で全人類を照らしゆく、一大「民衆運動」「人間主義運動」である。どこまでも人間として、人間とともに、人間のために、「生命の解放」を実現しゆく、かつてない根本的な「宗教革命」である。
 ゆえに、魔軍の反動がいかに激しくとも、退くことはできない。私どもの後退は、人類の希望の消滅につながる。私どもの勝利こそが、人類を不幸の鎖から永遠に解放しゆくからである。負けてはならない。断固、一切を乗り越えて、前へ進まねばならない。
 皆さまの、先駆の実践、崇高にして地道な使命の一歩一歩が、大いなる人間主義、生命至上の歴史を、それぞれの国に、世界に、厳然と開いていることを確信していただきたい。法華経と御書に仰せどおりの、絶対に正しき軌道を歩んでいることを誇りとしていっていただきたい。(拍手)
26  聖人も凡夫も唱える題目の功力は平等
 さて「松野殿御返事」には、次のように述べられている。
 「御文に云く此の経を持ち申して後退転なく十如是・自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり、但し聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云
 ――松野殿からの手紙に「法華経(御本尊)を受持して後、退転することなく、方便品の十如是と寿量品の自我偶を読誦し題目を唱えています。しかし、その題目も、聖人が唱えられる題目の功徳と、われわれが唱える題目の功徳とでは、どれほどの相違があるのでしょうか」との質問があった――。
 「更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり
 ――そこでその質問にお答えするのだが、題目の功徳にはまったく勝劣はない。その理由は、愚者が持っている金も、智者が持っている金も、また愚者がともす火も、智者がともす火も、なんら相違がないのと同じ道理である。ただしこの法華経(御本尊)の心に背いて題目を唱えた場合には、差別はあるのである――。
 たとえば、日本円の千円札がある。米ドルでは七、八ドル(=平成三年七月当時)になろうか。そして、経済学者が持つ千円札も、小学生が持つ千円札も、その価値には変わりがない。また、世界的に有名な大政治家がロウソクにともす火も、無名の一主婦がともす火も、同じ「火」である。
 大聖人は、道理をとおして、聖人が唱えられる題目の功徳と、われわれ凡夫の唱える題目の功徳には、まったく差別がないと教えてくださっている。
 ただし、「此の経の心」、すなわち法華経の心に背いて十四誹謗を犯している人が、唱える題目には同じ功徳はない、と。御本仏の厳しき戒めである。
 大切なのは「信心の心」である。「ただ心こそ大切なれ」等と、大聖人は御書に繰り返し教えてくださっている。
 また、私どもの信受している御本尊は、家庭の御本尊も、会館の御本尊も、すべて根本の大御本尊を書写されたものであり、その功徳は同じである。無量無辺であられる。御本尊の功力も同じ、題目も同じ。ゆえに成仏を決定するのは、ただ「心」がどうかであることを強く申し上げておきたい。
 私どもSGIには、御本仏の仰せのままに「世界広宣流布」へ進みゆく、燃え上がる信仰の「心」がある。不動の信心の「一念」がある。その心で開いた歴史がある。未来がある。(拍手)
27  広布論――後継のバトンを諸君が
 「世界広宣流布」は御本仏の仏意仏勅である。大聖人はその壮大な使命を、後に続く門下に託された。「種種御振舞御書」には次のように述べられている。
 「わたうども和党共二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」――わが門下よ、二陣三陣と私に続き、インドの迦葉・阿難にもすぐれ、中国の天台、日本の伝教をも超えなさい――。
 これは竜の日の法難を前に、緊迫した状況のなか、門下を激励されたお言葉である。″後継の人々″に対する大聖人の御期待は、初めから世界的スケールで語られていた。仏教史に、また人類史に燦然と光を放つインドの釈尊の十大弟子たち、中国の南岳・天台、日本の伝教、それらを超える存在たれ、と。
 なお、ここではインド、中国の正師たちの名が出ているが、″なぜ、御書ではヨーロッパやアメリカのことにふれられていないのか″との質問があるかもしれない(笑い)。いうまでもなく、当時は、ヨーロッパやアメリカの地域の存在が日本では認識されていなかった。ゆえに、ここではあげられていないが、大聖人がつねに全世界を志向されていたことは間違いない。
 「一閻浮提」(全世界)の語は、古代インドではインドを中心とする世界観を示していたが、やがて人間の住むすべての世界を意味するようになった。大聖人は、もちろんこの意味で使っておられる。
 また、「日蓮大聖人」の「日」は漢字で太陽の意であり、太陽の光が地球上のすべての国々を照らすように、大聖人の仏法の慈光は、一切の国、一切の衆生に平等に降りそそぐのである。なおここでは申し上げないが、大聖人の「日」の文字には重々の意義があると拝される。
28  この御文の前には、妙法蓮華経の五字を、釈尊滅後、だれ人も弘めなかったとされ、「末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」――末法のはじめに全世界に必ず弘まっていく瑞相として、日蓮は先駆を切った――と、堂々と述べておられる。
 全世界への妙法流布――その先陣に続け! と大聖は叫ばれた。そして世界に不朽の功績を残せ! と。
 そのとおり実践したのは、ただ創価学会である。私を中心とした諸君の先輩である。この誉れは無上である(拍手)。世界の青年は、断じてこの道を二陣、三陣、四陣と続かねばならない。
 法華経薬王品には「閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃茶等に、其の便を得せしむること無かれ」(開結六〇六㌻)――この大法を全世界に広宣流布して、断絶させることなく、悪魔、魔民、諸天(第六天の魔王など)、悪い龍、夜叉、鳩槃茶(人の精気を吸う変幻自在の悪神)などに、つけ入るスキを与えてはならない――と。
 「断絶させてはならない」「魔につけ入らせてはならない」と法華経は説く。師から弟子へという「師弟の道」「後継の道」を断絶し、分断し、切断しようと、魔は働く。また、その分断のスキ間に悪鬼は働くのである。
 ゆえに「二陣三陣つづきて」と仰せの「つづきて」(後継)に意味がある。その「不二」への一念、精神と行動の脈々たる連続性に「全世界広宣流布」の生命がある。核心がある。これが法華経と御書の教えである。
29  また、大聖人は先の「天台・伝教にもこへよかし」の御文に続けて、次のように断じておられる。
 「わづかの小島のぬしら主等をど威嚇さんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なり
 ――日本のようなわずかの小島の主たち(権力者)がおどすのを恐れていては、死後、閻魔大王の責めをどうして耐えられようか。仏の御使いと名乗りながら迫害を恐れて臆する者は、最低の人々である――と。
 このように、門下を大慈大悲のお心で叱咤され、励ましておられる。一国の権力者をも「小島の主」と見おろして、「前へ進め!」「後に続け!」と、大聖人は先陣を切られた。
 その御境界は人類の永遠の指標である。その大境界を深く拝し、全世界に「正法」を弘め、全人類のための「平和」と「幸福」の大道を開いているのが、わがSGIである。
 この永遠の誉れの大道を、私とともに、また私の後を継ぎ、SGIの青年部が進みぬいていただきたい。この万感の″魂のバトン″を信頼する諸君に贈り、意義ある「第一回SGI世界青年部幹部会」のスピーチを終わります。(拍手)
 充実した毎日の研修、本当にご苦労さま。私は皆さまの健康と成長とご活躍を、日々、真剣にご祈念しています。また、それぞれの国に帰られたら、幹部の皆さま、メンバーの皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。それでは、サンキュー! シー・ユー・アゲイン!(創価文化会館)

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