Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広布三十周年イギリス記念総会 「正義の道」「良識の道」「満足の道」

1991.6.25 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

前後
2  もう十七年ほど前になると思う。コーストン理事長が、大法弘通の大願を掲げて日本からイギリスに帰国する直前、夕食をともにしながらイギリスの国民性について語り合ったことがある。
 「イギリス人は、最初はとっつきにくい面がある。しかし、ひとたび友情を結ぶと、その心の深さにだんだん、だんだんとひかれるようになる。イギリス人の心は、世界一深い」
 「イギリス人は、用心深く、自分の考えを、なかなか変えようとしない。しかし、慎重に思索して決意すると、直進して決してひるまない」など、私の印象に、理事長は「そのとおりです」と賛同してくれた。
 かつて十九世紀のイギリスの詩人ロバート・ブラウニングはうたった。
3   僕は、敵に背を向けることなく胸をはって邁進し、
  暗雲に閉ざされても晴れることを疑わず、
  正義が敗れても悪が勝つとは夢想だにせず、
  斃れるのは再起するため、
  敗れるのはよりよき戦いを戦うため、
  眠るのは目覚めるため、と固く信じていた男だ
   (「『アソランドウ』のエピログ」から、『イギリス名詩選』平井正穂編訳、岩波文庫)
4  また、女流作家で詩人のエミリ・ブロンテもこううたう。
  私の魂は怯儒きょうだではない、
  この世に吹きすさぶ嵐に戦くような、そんな魂ではない
   (「私の魂は怯儒ではない」から、同前)
5  イギリスの心は深い。イギリスの魂は強い。イギリスの精神は気高い。そして、イギリスの友は本当に信頼できる――。これが、この二十年をとおしての私の確信である。
 ゆえにわがイギリスの人材の流れがとうとうと流れゆく限り、世界広布の未来は何の心配もない。(拍手)
6  三十年前の一九六一年(昭和三十六年)十月、私はヨーロッパに第一歩をしるした。
 このときは九ヶ国を歴訪した。十月四日に日本を出発して、デンマークのコペンハーゲン、ドイツのデュッセルドルフとベルリン、オラングのアムステルダム、フランスのパリ、そしてここイギリスのロンドン。さらにスペインのマドリード、スイスのジュネーブ、チューリヒ、オーストリアのウィーン、イタリアのローマ――。約二十日間の旅であった。
 戸田先生のご遺言であった総本山の大客殿建立の資材購入のため、各国で名品を一点一点みずから選び、心をこめて集めたことも、懐かしい。
 ロンドンを訪れたのは、十月十三日。その夜、ロンドンのピカデリー・サーカスにほど近いホテルの一室で、ヨーロッパに初めて広布の組織が産声をあげた。
 この折、イギリスをはじめ、ドイツ、フランス、スイス、イタリアの五カ国の連絡責任者が任命されたのである。このイギリスからのヨーロッパの出発であった。
 当時、ヨーロッパ全体でメンバーはわずか八世帯。もちろん会館も一つもない。まことにささやかなスタートであった。しかし、そのロンドンのホテルの一室での出発が、今、イギリスだけでも、かくも絢爛たる「哲学」と「文化」の城、タプロー・コートでの盛大な三十周年の祝賀の集いとなった。(拍手)
 いずこの世界に、三十年でこれだけの偉大なる歴史をつづった運動があったであろうか。皆さま方のこの誉れは永遠であり、この福徳は無限である。
 そして本日、次の三十年への壮大なる一歩を、皆さまとともに踏みだしたい。(拍手)
7  「心」輝けば「人生」も輝く
 ここで、御書を拝したい。大聖人は、こう仰せである。
 「仏法は自他宗異ると雖も翫ぶ本意は道俗・貴賤・共に離苦得楽・現当二世の為なり
 ――仏法は自宗と他宗の違いはあっても、それを習う本意は、出家と在家、立場の貴賤の差別なく、皆、苦しみを離れて楽しみを得るためであり、現在世そして未来世のためである――と。
 なぜ仏法を信じ、行じ、学びゆくのか。それは、現在から未来へ、最高に楽しい、最高に希望ある人生を生きゆくためである。そして、この一点においては、だれ人も平等である。御本仏は、この平等の目的のために、大法を遺してくださった。平等大慧の御本尊のもと、いかなる差別もない。
 日達上人は「仏といっても決して違うものではない。我々と同じである。大聖人も釈尊も、我々と同じ平等な人間である」(一九七四年四月。『日達上人全集』)と述べられている。
 一切の生命は平等に尊厳である。違うのは、現実の「境涯」である。「心」であり「一念」である。その違いが、自身の今世、そして永遠の軌道を決定していく。外見ではない。立場ではない。「心」がどうか、それこそが根本なのである。
 「心」輝けば「人生」も輝く。「心」暗黒なれば、「人生」も暗黒である。その「心」を「仏界」という常楽我浄の境涯へと広げ、固めていくのが、日々の仏道修行なのである。
8  私どもが読誦している法華経寿量品には「衆生所遊楽」(開結五〇八㌻)と説かれる。
 わが生命の尊極の官殿を開きながら、「人生勝利の劇」で自在に遊戯していく。そして苦悩渦巻くこの現実社会を、崩れざる「寂光の楽土」へと変えていく――。
 その根本の大法を、大聖人は、末法万年、そして一閻浮提(全世界)の全民衆に遺してくださったのである。
 この大仏法にめぐりあえた私どもは、何があっても、すべてを楽しい人生へ、朗らかな人生へ、希望の人生へと回転させていける。また、そのために信心したのである。
 この最高の遊楽の世界に、「僧が上、信徒が下」という差別観など陰湿な複雑性をもちこみ、仏子を苦しめることは、仏法の根本精神に対する違背であると、私どもは信ずる。(拍手)
9  門下である四条金吾が、苦境のなか、新しい領地を得たことに対して、日蓮大聖人は本人の金吾とともに、ことのほか喜んでくださっている。まことにありがたい、慈愛あふれる御本仏のお心である。大聖人は、こう仰せである。
 「いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ、御一門の御房たち又俗人等にも・かかるうれしき事候はず、かう申せば今生のよくとをぼすか、それも凡夫にて候へば・さも候べき上慾をも・はなれずして仏になり候ける道の候けるぞ
 ――いよいよ信心を堅固にして、このたび仏におなりなさい。御一門の出家の御房たち、また在家の人などの中にも金吾の功徳のようにうれしいことはないでしょう。このように領地のことなどについていえば、現世の欲のように思われるかもしれませんが、凡夫ですから、それが当然ですし、そのうえ、その欲をも離れずして仏になる道があるのです――と。
 法華経の「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法義を、大聖人はまことにわかりやすく示してくださっている。
10  大聖人の仏法は、窮屈に人間を縛りつけるものではない。伸び伸びと、闊達に、″わが夢″に向かって進んでいく。その痛快なる向上の生活のエンジンが、信行の実践である。
 現実の課題、具体的な目標――その一つ一つのハードルを越えながら、「一生成仏」という永遠の凱旋のゴールに向かって、前へ前へと走り続けていく。ここに、もっとも有意義で、もっとも価値ある人生の軌道がある。
 走らない人は、汗もかかないし、疲れもしないが、ゴールにもたどりつけない。たゆまず走り、また走りぬく力強い″走者″だけが、人生の栄光のテープを切ることができる。また、こうした美しき″完走の人生″の姿にこそ、仏法への共感も広がっていくのである。
11  ″王者の冠″はわが胸中にあり
 かのユゴーも敬愛してやまなかったイギリスの文豪シェークスピアの作品(『ヘンリー六世』)に、こういう一節がある。
 「私の王冠はこの胸のなかにある、頭の上にではなく。それはダイヤモンドや真珠で飾られたものではないし、目に見えるものでもない。私のは『満足』という王冠だ、この王冠を胸に抱く王はめったにいるものではない」(小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』7所収、白水社)と――。
 どんなに権力があっても、どんなに財力があっても、それで、幸福をはかることはできない。その人が「満足」しているとはかぎらない。万人が求めてやまない、真実の幸福の王冠――それはわが胸中に、抱き、輝かせていく以外にない。
12  次元は異なるが、大聖人は、「御義口伝」にこう仰せである。
 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなりあに今者已満足こんじゃいまんぞくに非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」と。
 ――今、日蓮(大聖人)が唱える南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生を、ことごとく成仏せしめるのである。どうして法華経方便品に説かれる「今は已に満足した」の経文どおりでないことがあろうか。「已に」とは日蓮が建長五年(一二五三年)四月二十八日、初めて唱え出したところの題目をさして「已に」と心得るべきである。妙法の大良薬をもって、一切衆生の無明(根本の迷い)の大病を治せることは、疑いないのである。これを思いやるとき、日蓮は満足なのである。「満足」とは、成仏ということである――。
 永遠の未来にわたって、全人類をつつみゆかれる御本仏の大境界であられる。
 私どもは、この御本仏の仏勅のままに、一人一人の友の胸中に崩れざる″満足″の王冠を輝かせてまいりたい。どこまでも御書の仰せが根本である。私どもは大聖人の門下であり、根本の師・日蓮大聖人の御聖訓のままに進む。
 ともあれ、このタプロー・コートは、最極の生命の王冠をもてる人が集い来る「幸福の王者、幸福の女王の宮殿」である。
13  信仰は自身の幸福への権利
 仏道修行は、水の流れるように″たゆまず″前に進むことが大切である。忙しいときや疲れきっているとき、その他、さまざまな事情で甑征が戒肇にはできないときもあるかもしれない。そういうときは方便品・自我偶の勤行、また唱題だけでもよいと思う。ただ決して、止まらないこと、やめないこと、続けることである。
 ともあれ、だれが決めるのでもない。信仰は自身の「権利」である。やった分だけ、境涯は開け、自分が磨かれるのである。
 御書には「此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」――日蓮の門下は、妙法を正しく信受するゆえにこの御本尊の宝塔の中へ必ず入ることができる――と仰せである。
 自身の宝塔を開く、それは同時に、依正不二で、御本尊という根本の「宝塔」の中に入ることになる。″宝の塔″に住む、自在の境涯である。
 ゆえに勤行は、壮麗な″宝の塔″に向かって、天馬、名馬、駿馬にまたがり進むように、生命の勢いと張りのあるものであっていただきたい。
 別の讐えでいえば、ジェット機が、またロケットが大空へと飛びゆくように、法性の大空へ、幸福の青空へ、勤行・唱題のエンジンで、生命力豊かに、また軌道正しく、飛翔していくのである。
14  弘法ぐほうについても、決してあせる必要はない。入信したいという人については、当然それはうれしいことであるが、決して無理をしてはならない。
 一人一人が立派に育っていくことがもっとも重要である。一人の厳たる「灯台」があれば、家族、友人、地域、社会もみな安心である。自身がその灯台になることである。
 また折伏がむずかしいのは、経文と御書に照らし当然といえる。大事なのは、相手を思い、法を弘めようという「一念」である。「祈り」である。その一念、祈りがあれば、それ自体が自身の成仏の因となっていく。
 何があっても御本尊に、深く祈念し、題目を唱えていく。その「信心」「信行」の種が、時とともに必ず「絶対の幸福」の大樹と育っていく。これが「冥益」である。″持続″こそ信仰の要であることを重ねて強調しておきたい。
 どうか、どこまでも朗らかに、楽しく、どこまでも仲良く、悠々と生きぬいていただきたいと念願し、次の三十年への出発のスピーチを結びたい。(タプロー・コート総合文化センター)

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