Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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イギリス最高協議会 広宣の″宝の塔″は厳然

1991.6.23 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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2  私の友人で、世界的作家のアイトマートフ氏は、自身の故郷キルギスの「民衆の英知の泉」にいつも立ち返り、みずみずしい″人間の真実″を語り続けておられる。
 キルギスの民話といえば「賢い乙女」の物語を聞いたことがある。
 貧しいけれども聡明な乙女が、その知恵のすばらしさのゆえにハーン(王様)の妃に選ばれ、ハーンをみごとに助けていくという物語である。
 ハーンの花嫁選びの試験としてむずかしい質問が出されていた。その一つに「真実とウソの間には、どれほどの距離があるか?」と。金持ちの娘たちはだれも答えられない。
 しかし、その貧しい乙女はいとも簡単に答える。
 「ウソと真実との距離は、たった指四本分の距離にすぎません。耳と目の間の距離です。なぜなら、私たちの耳は、たくさんのウソを聞きますが、私たちの目は、つねに真実を見るからです」と。
 無認識な悪口や無責任なうわさ話に惑わされず、どこまでも自分の「目」で真実を確かめ、真実を見抜いていく。キルギスの乙女は、その自分の確かな「目」を信じていた。
 もちろん現代では「作られた映像」もウソをつく。「見た」ものが「真実」とは限らない。ウソも複雑になり、高度になっている。その分、より賢明にならねばならない。現場での「なまの事実」を尊重する揺るぎなき良識と、「根拠は何か」を厳しく問う鋭い知性が必要になっている。
 ともあれ牧口初代会長も「認識せずして評価するな」とよく言われた。
 その意味から、アイトマートフ氏のような″具眼の友″をもっていることは私どもにとって幸福である。
3  凡夫の生命に仏、わが身が宝塔
 大聖人は、繰り返し繰り返し、次のように教えられた。
 「仏と申す事も我等の心の内にをはします」――仏ということも、われら凡夫の心の中におられる――と。
 しかし、そのことが、凡夫にはなかなか信じられない。大聖人は″まつげが近すぎて見えないように、凡夫は自身の心の内に仏がおられることを知らない″と嘆かれた。そして、″桜のたとえ″をもって説かれている。
 すなわち、凡夫の生命に仏が宿っていることを、「さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ」――桜は目の前がパッと開けるように明るくすばらしいものであるが、黒くゴツゴツした木の中から咲き出る――と、たとえをもって、わかりやすく示されたのである。
 ここイギリスにも、春には美しき桜の園が広がる。
 私どもは今、イギリスに、世界に、仏界という、至上の「平和」と「幸福」の桜の花を満開に咲き誇らせようとしている。人々が憩い、蘇生し、希望の人生を出発しゆく、妙法の″花ざかりの森″の造営に汗を流しているのである。
 このように大聖人は、どこか遠いところ、自身の生活と生命を離れたところに「仏」や「法」を求めるのは迷いであることを、多くの御書で強く教えてくださっている。
 「塔婆」も、大聖人の仏法では本来″わが身が塔婆なり″と教えておられる。
 法華経の「見宝塔品」についての「御義口伝」では「妙法蓮華の見なれば十界の衆生・三千の群類・皆自身の塔婆を見るなり」――「見宝塔」すなわち、大地から涌出した「宝塔を見る」とは妙法蓮華の上の「見る」であるから、地獄から仏界までの十界の衆生、一念三千の当体である一切衆生が、ことごとく「わが身の塔婆(宝塔)を見る」ことである――と仰せである。
 ここでの「塔婆」とは、「宝塔」の意義であり、大聖人は″われ宝塔なり、塔婆なり″と見ることが、法華経の「見宝塔品」の真義であることを強調しておられる。
 塔婆は率塔婆そとばの略であるが、率塔婆とは本来、インドの「ストゥーパ」(塔)の音訳からきている。もともと「積み重ねる」意味があり、土や石を積み重ねて塔を作ったわけである。
 それらを背景に、法華経では、壮麗な七宝の「宝塔」が説かれるが、末法においては、別していえば御本尊が宝塔であられる。
 また、総じて「宝塔」とは「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」と。
 ――末法に入って法華経(御本尊)を受持する男女の姿よりほかには宝塔はない。もし、そうであれば、立場が貴いとか賤しいとか、上とか下とかとは無関係に、すべて南無妙法蓮華経と唱える者はわが身が宝塔であり、また、わが身が多宝如来である――。
 御本尊を信じ、妙法流布に進む私どもが「宝塔」であるとの御断言と拝される。
 また「法界の塔婆にして十法界即塔婆なり」――われら衆生の生命は十法界の塔婆であり、地獄から仏までの十法界が即塔婆である――と。
 全宇宙が宝塔(塔婆)であり、小宇宙であるわが身も仏の当体としての宝塔(塔婆)なのである。
 少々、むずかしい話になったが、大切なことは、現実に「我が身宝塔なり」と輝くことである。同時に、世界に幾百千万人、幾億人の「宝の塔(塔婆)」を林立させることである。それが大聖人の御遺命である。その御遺命をイギリスに、ヨーロッパに営々として実現されてきたのが皆さまである。まさに如来の使いであられる。尊貴なる、また不思議なる地涌の勇士なのである。
4  教養の人は「事実」こそを大切にする
 話は変わる。
 人々が「活字」(文字)を、ことさらに尊敬し信用するのは、昔からのことかもしれない。しかし、透徹した教養の人は、「書かれたもの」以上に「事実」と「生活」を大事にする。
 十九世紀初頭の、ドイツの著名な著作家フリードリヒ・シュレーグルの妻も、その一人だった。
 彼女は学識もあり、文章もうまく、才色兼備の婦人。しかし、夫の死後は、つつましい生活を続け、シャツ縫いの内職をしながら、子どもたちを育てていた。
 ある知人が言った。
 「あなたのように学問のある婦人が、他人のシャツなど縫っておられるとは! それより筆をとって、著述をされたらどうですか。きっと世の中に迎えられますよ」
 華やかな生活になるでしょう――と。しかし、彼女は静かに微笑して言った。
 「世の中には『無用の書物』がおびただしくあります。しかし『無用のシャツ』があるとはまだ聞いたことがありません。私などが何を書きましても、無用の書物が一冊増えるだけです。それよりも、さあ、シャツを縫いましょう」
 こう言って、針を取り、また縫いものを続けた――。決して、書物が悪いというのではない。ただ、「私の縫いもののほうが世の中の役に立っている」と信じる彼女の心意気がすがすがしい。
 「本を書いている」「文が活字になっている」――それだけで、傲慢になり、縫いもののような仕事を見くだす人がいる。自分が社会の人々より一段上に立っているような、大いなる錯覚をもつのであろうか。また世の中も、そうした華やかな仕事をうらやむ傾向がある。書いた中身こそが、それだけが問題であるのに――。
 しかし、彼女は、くだらぬ本などより、自分の地味な努力のほうが、格段に上の仕事だと確信し、胸を張っていた。くだらぬ活字をはるかに見おろしていた。
 「――それよりもシャツを縫いましょう」。言い方は穏やかだが、その信念と気迫は激しかった。
 いわんや、広宣流布に通じる私どもの、すべての地味な活動は、世のどんな権威より、有名人より尊い。
 仏法では、一切に本迹、わかりやすくいえば、「実体(本)」と「その影(迹)」の立て分けをつけることを教える。その意味で、「書かれたこと」等は「迹」である。「事実」「生活」「人間」こそが「本」といえる。
 私どもは、この「本」に即し、事実のうえで、どこまで人類に貢献できたかをみずからに問いながら進んでいけばよいのである。「迹」にとらわれれば、その人生も″迹門の人生″となる。
5  仏法者は「個人の尊厳」のために戦う
 尊き使命の仏子を見くだす人は、すでにそれだけで見くだされるべき人間になっているのである。仏子を心から尊敬できる人こそ、真の仏子なのである。権威にだまされてはならない。大切なのは人格である。道理である。現実の生活である。
 個人の尊厳――その実現のために仏法者は戦う。この道は″人類の進歩″のメーンストリートである。私どもはその先駆者である。
 「差別なき世界」をつくろうとする民衆を、差別意識をもった人々が敵視し、妨害しようとするのは、むしろ当然であろう。そうした反人権、反仏法の人々から圧迫されることは、むしろ誉れである。大聖人がたどられた道だからである。
 真実は、やがて大聖人が厳然と裁かれ、私どもの正義は証明されることを確信する。
 最後に、皆さま方の、ますますのご健康と、ますますすばらしき人生でありますことを祈りつつ、本日のスピーチとしたい。(ロンドン市内)

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