Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ドイツ・オーストリア合同最高会議 庶民こそ「王」、尊極の「宝塔」

1991.6.5 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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1  ドイツ統一――新しい歴史の扉は開かれて
 ドイツならびにオーストリアの合同最高会議、おめでとう!(拍手)。また、本当にご苦労さま。(拍手)
 八年ぶりにドイツを訪問することができ、本当にうれしい(拍手)。この間、訪問の予定が幾度か変更となり、恐縮している。念願かなって、ようやく皆さまとお会いでき、感無量である。また、オーストリアの皆さまも遠いところ、ようこそおいでくださった。
 このほど、「オーストリアSGI(創価学会インタナショナル)」との法人が発足した。心からお祝いしたい。(拍手)
 ドイツの皆さまが敬愛する理事長も元気になられ、これほどうれしいことはない。理事長夫妻をはじめ、懐かしい草創からの功労者の方々が、皆、はつらつと第一線で活躍しておられる。ドイツ広布、ヨーロッパ広布三十周年の佳節を、皆さまと一緒に最大に喜び合いたい。
 今日まで「社会の繁栄」「人々の幸福」のため、真剣な広宣の歩みを重ねてこられた皆さまの活躍に、最大の敬意と感謝を表し、「統一のドイツ祝して初会合」――この句を皆さまに贈りたい(拍手)。そして、皆さまの愛する祖国のますますの「繁栄」と「平和」、未来の「栄光」を、心からお祈り申し上げる。(拍手)
2  さて、前回の訪問から八年――。あの劇的な″ベルリンの壁″の崩壊、そしてドイツ統一と、新しい歴史の扉を開いている貴国にあって、皆さま方は目覚ましい前進の足跡を示された。世帯も四倍に増えた。なかでも、前回、私がドイツを訪れたさいに誕生した青年部が、みごとな大発展、大成長をとげている。当時、青年部が百人、現在は七百五十人にのぼっている。初代の青年部長が、今、総合本部長として指揮をとっている姿は、その象徴といってよい。
 またオーストリアも、十年前の私の訪問以来、十倍の世帯増である。先ほど発表があったように、今回は、新たに男子部、女子部が結成された。
 ドイツのことわざに「鷲は鳩をかえさない」とある。″勇者は臆病者を育てない″との意味である。
 勇敢なる草創の先輩方に、勇敢なる青年部の若鷲が陸続と続いていく――。その後継のリレーはまことに頼もしい。
 この間、すばらしき広布の城として、ドイツ文化会館、ならびにオーストリアのウィーン会館も誕生している。またドクター、教育者、音楽家の方々をはじめメンバーの、社会に開かれた活躍も、目を見張るものがある。さらに、平和・文化への貢献の活動も、大きく共感を広げている。
3  なかでも、ベルリンでの「核の脅威展」(「核兵器――現代世界の脅威」展、一九八五年一月)は、歴史に残る催しとなった。また明年には、ウイーンのキュンストラーハウスで、私の写真展が開催される運びとなっている。(=「日本美術の名宝展」とともに九二年一月二十六日から三月二十二日まで開催)
4  日淳上人は、次のように述べられている。
 「創価学会の牧口先生は実証ということを常に叫んでおられました、実証です。正宗の信仰というのは理くつではありません。皆様方の生活の上に正しい法の結果というものを実証されることが何よりも肝心であります」(昭和三十二年四月、九州第一回総会。『日淳上人全集』)と――。
 牧口先生以来、私どもは、大仏法の「実証」を、生活に、地域に、社会に堂々と示しぬいてきた。これからも、この痛快なる勝利の道を、さらに晴れがましく、「確信」と「誇り」に満ちて進んでまいりたい。
5  私は、ヨーロッパ最高峰の仏教学者であるコルム博士(フランス・パリの社会科学高等学院教授)と仏法思想について本格的に語り合った。
 コルム博士は語る。
 「仏教思想こそが西欧の最も深い病の数々を、いやしてくれます。エゴイズムの克服など現代の根源的問題群に対して、西欧の伝統的宗教には、大きな限界があります。これに対し、仏教は、あたかも奇跡のような、驚くべき明快な解答をもっています。そして名誉会長が推進しておられる運動こそ、こうした時代の要請に応えるものです」と。
 これが、西洋の第一級の知性が私どもの思想と行動に寄せる期待である。とくにコルム博士は、「自分とは何か」という大テーマについて、仏法が確固たる″答え″をもっていることを高く評価しておられる。そこにこそ、自分自身を解放し、自分自身を完成させゆく真実の自由の道が開かれているからである。そして、東欧の民主化に象徴されるごとく″新しい時代″を迎えた今、人類は次の一歩を踏みだすために、仏法の英知に学ばざるをえない。また学んでいくべきである――。これが、コルム博士の主張である。
6  法華経に説かれる「宝塔」出現の意義
 「自己」とは何か。「わが身」の本来の姿とは、何なのか――。
 日蓮大聖人は、門下の阿仏房に与えられたお手紙の中で、次のように仰せである。
 「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」――今、阿仏上人の一身は地・水・火・風・空の五大である。この五大は題目の五字である。それゆえ、阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房である――。
 文永九年(一二七二年)三月、念仏を捨てて入信したばかりの阿仏房が、法華経の見宝塔品で涌現した宝塔の意義を質問したことに答えられた御文である。
 大聖人は、巨大な宝塔が出現した意義とは、釈尊の弟子たちが「己心の宝塔を見る」、すなわち自分自身の生命の中に仏性があることを悟ったことである、と端的に述べられている。
 さらに、末法においては、法華経(御本尊)を持って題目を唱えるものは、男女、貴賤を問わず、その身がそのまま「宝塔」である、と明かされている。そして、阿仏房の一身を構成している地・水・火・風・空の五大とは南無妙法蓮華経の題目であり、題目こそ宝塔の当体である。ゆえに阿仏房の身はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房である、と仰せになっている。
 法華経の見宝塔品に説かれている宝塔は、高さ五百由旬(インドの距離の単位。一由旬は帝王の一日の行軍距離をさす)、縦広じゅうこう二百五十由旬。一説によれば、およそ地球の三分の一から半分ほどの巨大な塔である。
 地から涌出して空中に在り、金・銀・瑠璃・瑪瑙・真珠などの七宝によって造られ、さまざまな旗や飾りで荘厳され、すばらしい香りを放つとされている。そこから「七宝の塔」とも「宝塔」とも呼ばれる。
7  この壮麗な宝塔は、何を表しているのか。それは、仏性、すなわち「仏界」の生命である。天台大師は、その巨大さについて、仏の一切の因行、果徳が具わっていることを意味している、と述べている。宝で造り、飾られている姿は、仏界の生命の荘厳さ、尊さ、すばらしさを表現しているのである。
 現代的にいえば、それは「生命の尊厳」を表現しているともいえる。真の「尊厳」とは、他の何物にも代えられない、絶対的な価値をもっているということである。仏界を具えたわれわれの生命こそ、絶対的な価値をもつ存在である。このことを、「宝塔」という表現で示しているととらえることができる。
 また、宝塔は、四面に栴檀(香木の名)の香りを出し、その香りは世界に充満したと説かれている。
 これは、一つには、妙法に生きる者の放つ「人徳」「人格」の香りではなかろうか。信心から発する優れた人間性、豊かな精神性の香り――。それが、多くの人を引きつけてやまない魅力となるのである。
8  日達上人は、この阿仏房への御文を拝し、次のように述べられている。
 「お題目を唱える我々は即ち宝塔、我々即ち南無妙法蓮華経である。妙法蓮華経即ち宝塔、宝塔即ち妙法蓮華経を唱えるところの我々であるということを、はっきりお考えになればいいと思うのであります」(昭和四十年十月。『日達上人全集』)と。
 阿仏房に限らず、御本尊を信受して題目を唱えるわれわれは、そのまま妙法の当体であり、宝塔なのである。
 阿仏房は、大聖人が佐渡御流罪になり、塚原の三昧堂に入られたさいに、大聖人を論詰しようとしてかえって破折され、念仏を捨てて妻の千日尼とともに帰依したといわれている。
 そのお手紙を賜った当時、阿仏房は入信してわずか数力月。その身分も、もともと佐渡に住んでいた在家宅主たくしゅ(家と田畑を持った自作農)であったようで、地頭でも有力な武士でもない、″庶民″の一人であった。
 大聖人は、庶民の代表ともいうべき阿仏房を最大に顕彰され、妙法を信受した阿仏房の一身が、そのまま荘厳な宝塔であると教えられて、妙法を持った境涯のすばらしさを自覚させられたのである。
9  真実の「人間尊厳」のための大仏法
 仏法は、徹底した「平等主義」「民主主義」の教えである。しかも、一人一人が本来、このうえなく尊貴な存在であると説いている。
 権威、権力の側からすると、一人一人の庶民が等しく仏の当体であり、宝塔であり、尊極の存在であるという仏法の教えは、自分たちの権力基盤を脅かす危険な思想となる。だからこそ、その大法の流布に励む者には、迫害が打ち続くのである。
 私ども創価学会は、庶民をさげすみ、支配し、いじめてきた人間の歴史を逆転させて、″庶民″を″王″にする戦いを展開している。その私どもに、さまざまな迫害や中傷が加えられることは、当然でさえある。むしろ、それこそが、私どもの実践の正しさ、偉大さを証明しているのである。
 また、日達上人は、こうも述べられている。
 「地・水・火・風・空の、世の中のすべての当体が南無妙法蓮華経であり、我々の体そのものが妙法蓮華経の当体であるということを大聖人が悟られて、そして末法の我々に、南無妙法蓮華経の文字としてお示しくださったのであります。だから、大聖人の教えに随って、大聖人の教えを信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、即座に当体蓮華仏であります。我々は、当体の仏として、凡夫身そのままで即座に仏である。けっして、この体が変わってしまうとか、女の人が男の体に変わってから仏になるとかいう爾前経の教えではなく、凡身そのままをもって仏に成ると説かれるのでございます。
 これを名字即の位と申しまして、凡夫身そのままで生きている人間が、南無妙法蓮華経と唱える修行によって即座に立派な仏の境涯に到達する、これを当位即妙と申します」(昭和五十三年九月。『日達上人全集』)
 われわれ凡夫が、この身このままで、仏の境涯に到達できるのが、大聖人の仏法なのである。そのことを教えられたのが、「阿仏房さながら宝塔」の御文の本義と拝される。
 このように、皆さまは、尊極無上の「宝塔」であり、「妙法の当体」であられる。「仏子」である皆さま方の健康と幸福、福運と長寿を、私は日々懸命に祈り、また、そのために行動している。(拍手)
 ともあれ、お体を大切に、二十一世紀の″栄光の大空″へ、全員が元気に雄飛していっていただきたい。そのためにも、今日は早く寝て、ゆっくりと″機体″を休めてほしい(笑い)。以上をもって、″偉大なる歴史″を刻んだ本日の最高会議を終了します。ありがとう。(フランクフルト市郊外)

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