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日蓮大聖人・池田大作

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第四十一回本部幹部会 民衆の「信念」と「団結」が歴史を開いた

1991.4.25 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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2  今月、創価学園の招きでモスクワ市第一二三四小中学校の代表(児童十二人、教員三人)が来日された。私も真心こめて歓迎した。(四月七日、聖教新聞社)
 来日中、同校の校長であるウォロシコ女史が、関係者にこう語っておられたという。
 「池田先生は、つねに『善の人』です。お会いして、そのことがよくわかりました。けれども、あまりにあけっぴろげの裸の心の方ですので、悪人にだまされたり、いじめられたりするのではありませんか」と。
 まことに鋭く見ておられた(笑い)。実際、私はこれまで、さまざまな策謀や悪意の中傷を一身に受けてきた。また真心を利用され、裏切られてきた。
 しかし、「善」に生きぬく限り、「悪」の力による反作用は必然である。醜いエゴによって、そうした「悪」の一味となるよりも、迫害の嵐をも壮快に乗り越えて進む「大善の人生」のほうが幸福であるし、美しい。(拍手)
 私どもは肉親以上に強く、深く、うるわしい″広宣流布の三世の同志″である。この永遠の絆を、さらに楽しく広げつつ、最高の「団結」の前進をしてまいりたい。(拍手)
3  妙法弘通の大福徳を世々代々に
 さて、このほど五日間にわたり、フイリピンを訪問(四月十九日〜二十三日)した。皆さまの唱題に支えられ、一切の日程を無事、大成功で終えることができた。心から感謝申し上げたい。(拍手)
 今回は、国立フィリピン大学のお招きによる訪問であった。同大学から、最高に栄誉ある「名誉法学博士」の称号をいただいた。(拍手)
 ご招待をいただいた式典(第八十回卒業式典)は、それはそれは荘重かつ厳粛な祝典であった。フィリピンを代表する教育と文化の殿堂である同大学に学び、各学部の課程を最優秀の成績で終えた卒業生の代表が出席されていた。その方々の端正な知性の顔は、まことに頼もしい輝きを放っていた。とくに女性が多いのが印象的であった。
 国旗と大学の旗のもと、ガウンを着した卒業生が、一人一人、卒業バッジを授与されていく――。その姿を壇上で拝見しながら、私は、「教育」に力をそそぐフイリピンのすばらしき伝統を感じ取った。
 「名誉法学博士号」は、「仏教の哲学を日本および世界に宣揚し、国連への平和提言や識者との対話、多角的な著作活動、各種の教育・学術・文化機関の設立を通して、平和・文化・教育の推進に貢献してきた業績」に対して贈られたものであった。
 仏法を基調とした私どもの教育・文化・平和運動に対する深い賛同と称讃の証として、皆さまを代表して、いただいたものである。(拍手)
4  私が、なぜこうした栄誉をお受けするか。それは私自身の名誉のためではない。世間的な評価など、まったく望んでいない。また、私一人の力によるものと、高ぶる気持ちも毛頭ない。
 それは、″無冠″のまま殉教の生涯を終えられた初代会長牧口先生、第二代会長戸田先生から譲り受けた、師弟一体の「大福徳の遺産」の一証明となるからである。
 妙法弘通に身命をささげられた、牧口先生、戸田先生の崇高なるご生涯。その大福徳を、弟子である私が受け継ぎ、お二人になりかわって歴史にとどめていく――これが私の使命と自覚しているからだ。(拍手)
 とくにアジアにおいては、日本の軍国主義と戦いぬいた初代、二代会長の殉難の歴史は、SGI(創価学会インタナショナル)の平和運動に対する深い信頼の原点となっている。
 それとともに、こうした称号や栄誉は、現地のメンバーをはじめ、世界のSGIの同志の一つの励ましとなる。また、そのお子さんやお孫さんにも、大いなる福徳を流れ通わせていく一象徴でもある。
 子々孫々にわたり、広布と社会の指導者が陸続と育ち、世界の舞台で活躍していけるよう、その″先駆け″の意義を刻んでいるつもりである。このことを、ご理解いただきたい。(拍手)
5  さて本日、島根県では松江支部の結成三十周年記念幹部会が、県下四会場で盛大に開催されている。また、沖之永良部島会館をはじめ全国四十九会場で、本日から新たに衛星中継がスタートした。これらの地域の方々にも、心から祝福を贈りたい。(拍手)
 次に、「聖教新聞」の創刊四十周年を記念し、また「5・3」記念の意義もこめて、配達員の方々の「功労の碑」(仮称)を設置することが決定したことをお伝えしたい。(拍手)
 「聖教新聞」を配達された方々のなかには、まことに残念なことに、配達中に事故等で亡くなった方もおられる。私は、かねてから配達員の皆さまのご無事と安穏を深く祈念するとともに、広布の途上に逝いた「無冠の友」への追善を行ってきた。そして、広布の労作業に殉じた友の誉れを、何らかの形で後世に残したいと念願していた。
 そこで創刊四十周年の節にあたり、そうした尊き方々の功績をたたえ、写真入りの功労者芳名録を残し、永久に顕彰させていただくよう提案申し上げたい。聖教新聞本社の良き場所を選んで、今後、具体的に設置の準備を進めていただきたい(拍手)。(=平成四年四月、「聖教新聞配達員顕彰之碑」として本社屋内に設置)
6  正しき信仰に行き詰まりはない
 ここで、つねに根本である御書を拝したい。
 私どもは、御本仏日蓮大聖人の門下として、日興上人が教えられたとおり、どこまでも御本尊根本、御書根本で進む。ここに「信心」の正しき軌道がある。
 何ごとも、軌道を外れれば、自分では、どんなに進んでいるようでも、目的地には着かず、まったく別のほうへ行ってしまう。幸福への前進ではなく、狂った迷走となる。
 御本尊は絶対であられる。だからこそ、正しき「信心」が大切である。「心こそ大切」なのである。
 たとえば、どんなにすばらしい車に乗ったとしても、運転する人が、酔っていたり、わき見をしたり、居眠りをしたり、運転技術が未熟であったりすれば、スムーズには進まない。事故等を起こしてしまうであろう。
 自分ばかりでなく、車に同乗している人や、その他の人をも巻き込み、けがをさせたり、苦しめてしまう。取り返しのつかない惨事となる場合もある。最高の車を持っていても、それでは不幸のどん底となる。
 日蓮大聖人の顕された正しき御本尊を持っていても、正しき「信心」がなければ、成仏という絶対的幸福へと″前進″することはできない。かえって不幸への転落となってしまう場合さえある。
 その正しき「信心」を学ぶために、私どもは、どこまでも御書を深く拝してまいりたい。
7  四条金吾は、妬みによって迫害につぐ迫害を受けた。しかし、打ち続く苦境のなか、人々が想像すらできなかった「大勝利」の実証を堂々と示した。新しい所領を得たのである。
 大聖人は、愛する門下の勝利を、こよなく喜ばれた。
 にゆうどうどのみうちたま公達年
 「入道殿の御内は広かりし内なれども・せばくならせ給いきうだち公達は多くわたらせ給う、内のとしごろ年来の人人・あまたわたらせ給へば池の水すくなくなれば魚さわがしく秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人人そねみ候らんに度度の仰せをかへし・よりよりの御心にたがはせ給へばいくそばくのざんげん讒言こそ候らんに、度度の御所領をかへして今又所領給はらせ給うと云云
 ――江間入道殿(金吾の主君)の領地は、初めは広かったが、今は狭くなられているし、しかも一族の子息たちは多くおられる。年来の家臣も大勢おられるので、ちょうど池の水が少なくなれば魚が騒がしくなり、秋風が立つと、鳥が本の実をねらって梢を争うのと同じことで、どんなにか御内の人々が、あなたを妬んでいることでしょう。さらに、あなたは、たびたび主君の仰せに背き、折々の御心にそわれなかったので、どれほど多くの讒言があったでしょうか。ところが、主君からたびたびいただいた所領をも、こちらから返上したほどであるのに、今また新しい所領をいただかれたと――。
 妬みや策謀の渦巻くなかで、すべてをはね返して金吾は勝った。
 大聖人は「此れ程の不思議は候はず此れひとえに陰徳あれば陽報ありとは此れなり。我が主に法華経を信じさせまいらせんと・をぼしめす御心のふかき故か」――これほどの不思議はありません。まったく「陰徳あれば陽報あり」とは、このことである。わが主君に法華経を信じさせようとされた、あなたの御心の深きゆえであろうか――と、たたえておられる。
 金吾の勝利は、まさに「信心」の勝利であった。「真心」と「誠実」の一念の勝利であった。自身の、さらには大聖人の「正義」の証明にも通じる大勝であった。
 私どもの前進もまた、「信心」の前進であり、広宣流布への「誠心誠意」の勝利である。どこまでも「心こそ大切」なのである。(拍手)
8  大聖人は金吾に対して、別のお手紙で、こうも仰せである。
 「此の事をみ候に申すやうに・だに・ふれまわせ給うならば・なをも所領も・かさなり人のをぼへも・いできたり候べしと・をぼへ候
 ――このことを見ておりますと、日蓮(大聖人)の申すとおりにさえ振る舞っていかれるならば、なおいっそう所領も増え、人々の信用も、さらに出てくるものと思われます――と。
 ″大聖人の仰せどおりに″振る舞っていけば、必ず所領も増え、信頼も増していける。勝利と福運の人生を、いやまして輝かせていけるとの励ましである。
 学会は、どこまでも大聖人の教えのままに広宣流布への「行動」を貫いている。だからこそ、勝利また勝利、上げ潮また上げ潮の歴史を刻んでくることができた。「福徳」も、また「信頼」も、大きく拡大している。
 これほどの迫害、これほどの嵐の中で、人々が想像もしなかった大発展の足跡。それは何よりも、皆さま方の「無二の信心」と「不屈の信念」、そして凱歌をめざす「金剛の団結」によって勝ち取ったものにほかならない。御本仏のお心にかなった「広宣流布」の前進の姿が、ここにあると信ずる。(拍手)
9  きょうの一歩に永遠の幸の軌道
 「広宣流布」のための労苦は、すべてが自身の福徳と輝く。
 きょうは、婦人部の方々が晴ればれと参加されている。有名なお言葉であるが、大聖人は、婦人の門下である日女御前にこう述べられている。
 「今法華経を後五百歳の女人供養せば其の功徳を一分ものこさずゆづるべし、たとえば長者の一子に一切の財宝をゆづるがごとし
 ――今、法華経(御本尊)を後の五百歳(末法)の女性が供養すれば、薬王菩薩がひじを燃やして法華経に供養したその功徳は一分も残さず、その女性に譲られるのである。それはたとえば、長者が一子に、一切の財宝を譲るようなものである――と。
 薬王菩薩は、千二百年もの間、自分の身を焼いて仏に供養し、さらにその後、七万三千年にわたって、ひじを燃やし、灯火として法華経に供養したという。
 それほど長い修行の末に得られた功徳が、どれほど大きいか。その功徳のすべてを、末法に妙法を供養する人は、一身に受けていくことができる――これが、御本仏のお約束である。
 私どもは、大聖人の門下として、折伏を行じている。唱題に励んでいる。「世界広宣流布」へ進んでいる。御本仏の御照覧、お喜びは、いかばかりであろうか。
 三世十方の諸仏・菩薩の、あらゆる修行と果徳の宝を集めた「無上の宝衆」が、この妙法である。かの薬王菩薩にもまさる福徳を受けていることは、間違いない。
 また、だからこそ、「悪」にだまされてはならない。紛動されてはならない。「広宣流布」の正しき道で「大長者」の人生を満喫していっていただきたい。(拍手)
10  皆さま方は、日ごろ、たいへんにお忙しい。他の人よりも、ご苦労も多い。しかし、広布に生きる一日一日は、そのまま、永遠にわたる幸福の軌道へ通じている。今、皆さまが積まれている福徳は、時とともに大きく花開いていく。
 今世の幸福はもちろん、来世にも、社会と広布の大指導者として、ある時は大学者として、ある時は大芸術家、大実業家として、というように、悠々たる長者の姿で、三世を旅していける。生々世々、すばらしき大満足の境涯を、自在に遊戯していける。そのための″今″である。今世の仏道修行である。
 そして大目的に生きる毎日は楽しい。充実している。張りがある。
 ″永遠″から見れば、この一生も、一幕の劇のように短い。ならば、その劇を、わが信ずるままに、悔いなく、恐れなく、堂々と演じぬくことだ――その人は幸福である。
 そして広布の闘争のなかで鍛えられ、磨きぬかれた「大長者」の境涯は、自身を輝かせゆくだけではない。わが一族、わが地域、そして一国、世界をも大きくつつみゆく。一切を「永遠の平和」「永遠の幸福」の方向へと導くことができるのである。(拍手)
11  妙法の方はは三世に解鐸
 御本尊を受持し、題目を唱える功徳が、いかに広大か。大聖人は「題目」の功徳について、こう仰せである。
 「日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大光を備へ給へる故なり」――日輪(太陽)が東方の空に出られると、世界の空がすべて明るくなる。「大光」を備えられているからである――。
 「日輪」の光は、法華経の題目の譬えである。
 妙法の旭日が赫々と昇れば、その「功徳の大光」は、わが人生はもちろん、一国、世界をも、闇を破って照らしゆく。胸中に「信心の太陽」を昇らせれば、人生、何ものも恐れる必要がない。
12  また「唱題」の力について、こうも明言されている。
 「此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属けんぞくとなり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給うなり
 ――この題目の五字は、われわれ衆生のために、三途の河(死後に渡るとされる)では船となり、紅蓮地獄(酷寒の苦しみで皮膚が紅の蓮華のように裂けるとされる)では寒さを除き、焦熱地獄では涼風となり、越えゆく「死出の山」では蓮華の台(乗物)となり、のどが渇く時には水となり、飢えた時には食料となり、着る物がない時には衣類となり、場合に応じて妻となり、子どもとなり、助けてくれる眷属となり、家となり、このように無窮むきゅう(きわまりのない)の応用の力を施して、一切衆生に利益を与えられるのである――と。
 妙法の功力は無窮である。そして、妙法を正しく持った人生もまた、無窮となる。無限に開けていくし、窮すること、行き詰まることがない。――これが、大聖人の御断言であられる。
 学会もまた、この仰せのとおり、行き詰まることなく進んできた。いかなる困難のカベも打ち破ってきた。あらゆる障害と戦いながら、「正法興隆」の大道を、開きに開きぬいてきた。
 私たちが正しき信心の心で、渾身の力で築いてきた学会の大勝の歴史。それ自体が、妙法の″無窮の力″の誉れある一大証明であると、私たちは信じる。(拍手)
 ゆえに私どもは、この道を進む。どこまでも進む。ただ大聖人のお心のままに。その「無二の信心」に、人生は年ごとに開けていく。とともに、私どもの周囲には、裕福にして満足の、うるわしき幸の仲間の世界が、幾重にも広がっていく。また、すでにそうなっていると、私は思う。(拍手)
13  アキノ大統領夫妻の「魂の共闘」
 ところで、ご承知のとおり、先日(四月二十二日)、私はフィリピンでアキノ大統領と会見した。初めての語らいであったが、会見終了後、大統領の側近の方が「大統領は、SGI会長のお話を、本当に興味をもって聞かれていました。予定の時間をオーバーしたのは、そのせいでしょう」と語っておられた。
 それはそれとして、会見の席上、私は祖国の民主化のために、生死を超え一体となって戦った″夫婦愛の勝利劇″をたたえ、長編詩「燦たれ! フイリピンの母の冠」(=本全集第41巻に収録)をお贈りした。そして、夫妻の偉大な″人生の詩″を、よりくわしく日本と世界の人々に紹介したい旨を語った。
 そこで、大統領との約束を果たし、その崇高な歴史を永遠に後世に語り継ぐ意味から、夫妻の苦闘の軌跡を紹介したい。
 一九八六年のフィリピン″二月革命″――。″ピープル・パワー(人民の力)の言葉に象徴されるように、それは、権力に対する民衆の勝利、暴力に対する非暴力の勝利を、満天下に示す偉大なる民衆革命であった。歴史に燦然と輝くこの無血革命は、その後の東欧など各国の民主化にも大きな影響を与えた。
 その原動力となったのは、いうまでもなく亡夫ベニグノ・アキノ氏の理想を継ぎ、死をも辞さない覚悟で独裁政権との対決に立ち上がったアキノ大統領の不屈の信念である。
14  コラソン・アキノ夫人(愛称コリー)は、一九三三年、フィリピンのマニラに生まれた。父は、砂糖キビ農園を営み、フイリピンでも十本の指に数えられる中国系の名門財閥であった。
 第二次世界大戦中、当時、小学生だった彼女は、フィリピンに侵攻してきた日本軍の暴虐ぶりを体験する。親戚も日本軍によって惨殺された。そうしたなか日本軍の将校に花束を贈らされたり、日本語も強制的に勉強させられた。当時の教科書の一節「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」は今でも覚えているという。
 日本の軍国主義が招いた言語に絶する非道――。日本人は、あまりにも、こうした歴史に無自覚である。過去の過ちを厳粛に心に刻み、真心をもって各国との友情の懸け橋を築いていかねばならない。
 彼女は中学、高校、大学とアメリカに留学する。とくに大学は全米でも一、二を争う名門女子大のマウント・セント・ビンセント大学に通った。この留学時代、マニラに帰省した彼女は、幼なじみのアキノ氏と再会する。
 ベニグノ・アキノ氏(愛称ニノイ)は、一九三二年の生まれで、彼女とは一つ違い。彼の実家も名門ではあったが、実際には経済的に恵まれず、靴磨きや鉄工所でのアルバイトをしながら学業に励み、十七歳の時、志願して朝鮮戦争従軍記者となり、そのリポートで名声を得る。
 彼女は、こうした彼の知性とバイタリティーにひかれ、一九五四年、結婚にいたる。
15  結婚後、アキノ氏は政界入りする。二十八歳で生地であるタルラック州の知事、三十四歳で上院議員、三十八歳で大統領選の最有力候補にと、いずれも最年少の若さで政治の頂点へ上りつめる。
 この間、コリー夫人は、政治家の妻としては、努めてひかえめに振る舞った。夫が壇上に登っている時でも、彼女の姿はつねに聴衆のいちばん後ろにあった。
 また、裕福な出であったにもかかわらず、彼女は地味で質素な暮らしを心がけた。私との会見の部屋も落ち着いた小さめの部屋であった。訪問客との会見を、いつもこうした部屋で行うのは大統領の意向であるという。
 ″質素は美徳″――彼女のモットーは、大統領となった今も変わらずに生きている。
 自分ばかりでなく、一男四女の子どもたちに対しても、お金の使い方は厳しかった。浪費のくせをつけないように、子どもたち一人一人に、銀行口座を作って、自分のお金を管理させるようにした。
 また、彼女は、幼い子どもであっても世の中の問題は知っておくべきであると考え、進んで国際情勢を語った。さらに、祖国愛を育むため、家庭内では子どもたちとタガログ語(フイリピンの現地語)で会話した。
 多忙であったアキノ氏も、食後の家族との団楽だけは大切にした。それが家族との唯一のコミュニケーションの場であったからだ。
16  フィリピンの歴史は、他国による植民地支配との闘争の歴史でもある。
 スペイン、アメリカ、日本――。治める国は変わっても、支配階級が現地の人々を抑圧し、みずからの私腹を肥やす構造は、基本的には変わらなかった。
 フイリピンは米西戦争(アメリカ・スペイン戦争、一八九八年)の結果、米国領となった。アキノ氏の祖父は、アメリカのアーサー・マッカーサー初代フィリピン総督(ダグラス・マッカーサー氏の父)と対決し、逮捕、投獄されている。
 また、第二次大戦中、下院議長を務めていた父親も、ググラス・マッカーサー氏によって、日本軍に協力したかどで逮捕され、日本の巣鴨拘置所に投獄されている。
 いずれも外国人による逮捕、投獄であった。
17  アキノ氏は七年余の獄中に信念を貫いた
 アキノ氏も、同様に過酷な運命に翻弄される。しかも今度は同国人によって。諸外国による支配の後に、同胞による独裁政治が訪れたのだ。
 当時のフィリピンの憲法は、大統領の三選を禁止していた。ゆえに、アキノ氏の次期大統領就任は衆目の一致した予想であった。しかし、みずからの政権維持をねらう時の大統領マルコスは、一九七二年、″共産分子による国家転覆計画から国を守る″という口実のもとに戒厳令を施行。
 政府転覆、殺人、武器不法所持の容疑で、最大の政敵アキノ氏を逮捕、投獄する。
 さらにマルコスは、三選を禁じた憲法を改正し、みずからの独裁権力を強めていく。そして、一九七七年、アキノ氏は軍事法廷において、銃殺刑を宣告される。
 みずからの地位を利用し、民衆をみずからの富を増すための道具にする。その悪行の障害になる人間をなきものにするためには、法をも歪める――いつの時代、どこの国でも権力者の手回は似ている。
 しかし、アキノ氏は、こうした独裁者の陰謀に一歩も退くことはなかった。
 「不正義を認めるくらいなら私は死を選ぶ」(若宮清『コラソン・アキノ――闘いから愛へ』立風書房)と。
 むしろ、毅然たる態度で、信念を貫いた。
18  七年七カ月――。想像を絶する牢獄での戦いが始まる。
 ″行動の人″であったアキノ氏にとって、人々との対話、交流を遮断された独一房での生活は筆舌に尽くしがたい苦しさであった。
 彼は獄につながれたほとんどの時間を読書にあてたという。その量、約三千冊。それは、獄舎の中で、孤独と絶望から発狂することを防ぐための手段でもあった。
 彼を待つ妻と子どもたちのために、そして、祖国の自由と民主主義を勝ち取るために――この一念が彼を支えた。
 一方、コリー夫人は、夫の投獄中、許された週一回一時間の面会を一度も欠かすことなく、手作りの食事を携えて子どもたちと一緒に赴いた。面会時間の延長にはマルコスの許可が必要とされたが、もちろん認められるはずがなかった。
 初めての面会の時、十キロ以上もやせ、憔悴の色をかくせない父の姿を見て、子どもたちは泣きだした。しかし、彼女だけは、涙を見せなかった。なぜなら、それが夫との約束だったからだ。
19  戦っていたのはアキノ氏だけではなかった。
 逮捕された時、氏は夫人に二つのことを守ってほしいと望んだ。
 一つは、子どもや公衆の面前では決して泣かないこと。
 もう一つは、マルコスに決して自分の釈放を請わないこと。
 彼は、妻や子どもが人に弱みを見せることを望まなかったのである。
 彼女は、夫との約束をけなげにも守りとおした。夫が銃殺刑を宣告された最高裁の法廷でも、彼女は涙を見せなかった。
 そうした一方で、彼女は周囲の人には思いやりが深く、自分が苦しみの渦中にいながらも、愚痴をこぼさず、かえって皆の良き相談相手になったという。パーティーなどでも、寂しそうにしている人がいれば、彼女は進んで話しかけ、同じテーブルにつくように声をかけた。
 しかし、胸中には絶えず不安と苦しみが渦巻いていた。彼女は語っている。
 「私はものが読めなくなりました。簡単なものしか読まなかったのに、何も頭に入りませんでした。何も理解できませんでした。きっと神経過敏になっていたのです。しょっちゅう腕時計を見ては、何が私に起こっているのかと考えました」(前掲書)と。
 おそらく、彼女が涙を見せたのは、自分一人きりの時だけであったのだろう。
 会見の席上、大統領は語っていた。
 「夫は面会に行く私たち家族に何も贈るものがないといって、詩を贈ってくれました。獄中では何も買えないかわりに、私と子どもたちに詩をつくってくれたのです」と。
 私は、その美しい家族愛に感動した。
 彼女にとって、そして子どもたちにとって、それは生きる希望と勇気を与えてくれた至極の言葉であったにちがいない。わが″生命の言葉″で、家族一人一人の心を結ぶ――それ自体が「魂の叙事詩」の名画のごとき一光景である。
20  アキノ氏の信念は獄中にあって、いささかも揺らぐことはなかった。むしろ圧政に苦しむ民衆を思う正義と民主の炎は、ますます燃えさかった。
 氏はつねに夫人に語っていたという。
 「私は自分の力で上院議員に選ばれたのではない。つまり、私に特別な地位が与えられたわけではない」――ゆえに夫人も「自分を振りかえり、奢侈にふけることなく、民衆に模範を示せ」(前掲書)と。
 さらに一九七八年、氏は、獄中から選挙戦への立候補を決意する。夫人は、勝ち目がないといって反対した。
 しかし氏は彼女にこう語る。
 「民衆を目覚めさせるにはわずか数人の『勇気ある魂の人』がいれば十分なんだよ」と。
 彼の言葉どおり、後にフィリピンの民衆は、夫の遺志を継いだ夫人のもとで独裁政権打倒に立ち上がる。大切なのは″核″となり″柱″となる人である。数ではない。心である。「勇気ある魂」である。
 ポーランドのワレサ大統領(自主管理労組「連帯」の議長当時)は、あるインタビューに応えて、アキノ氏のことをこう語っている。
 「その人をまったく知らないが、彼に正義があることだけは確かだ。なぜなら、七年あまりもの長い間、牢獄に入れられてなお権力に屈しなかったんだから」(前掲書)と。
 ワレサ大統領自身、労働争議によって十年間で百回以上も投獄されている。
 立場等ではない。「信念に生きる」人が「本物の人間」なのである。また、一流の人間は一流の人間を見抜くものだ。
21  ″私は行く、そこに課題があるから″
 一九八〇年、長きにわたったアキノ氏の獄中生活が終わりをつげる。心臓発作を起こし、仮釈放となり、手術のため家族とともにアメリカに渡ったのである。手術成功後も、療養が必要であり、一家はアメリカにとどまり、事実上の亡命生活が始まる。
 独裁者の心根は陰湿である。マルコスは、獄中のアキノ氏をあえて処刑することなく、自由なき″生きながらの死″を科した。それは、国内の反政府勢力への牽制でもあった。同様に、この時、アキノ氏の出国を認めたのも、彼が″進んで祖国を捨て、安易な生活を選択した″と国民に思わせ、彼の政治的信用を失墜させようとのねらいがあった。
 とはいえ、アキノ氏の健康は順調に回復し、一家にはひさしぶりの安息の日々が訪れる。それは、二人が結婚して以来のもっとも平穏な時期であった。
22  ″亡命″から三年。アキノ氏は、アメリカでの自由な生活を捨て、敢然と帰国を決意する。
 異国にあっても、聞こえてくる民衆のうめき声。独裁者に蹂躙された祖国――。それを、自分だけ安全地帯から傍観していることはできなかった。
 フイリピン独立運動の英雄ホセ・リサールも、家族や親戚の反対を押しきって、危険のなか帰国し処刑された。氏は、ある時、この先達の姿をとおし、心境を語った。
 「リサールと同様、私も帰らなければならない。なぜなら、そこに、問題があるからなのです。指揮官は必ず兵士の前にいなければならない。兵士の後ろにいてはいけない。もし私がリーダーであるなら、皆と困難を共にしなければならないのです」
 「手をこまねいていてはいけない。民主主義の火を消してはいけないのだ。たとえ九対一の劣勢でも全力で闘わなければならない」(前掲書)――。
 人間として、また民衆のリーダーとして、″千釣の重み″をもつ言葉である。
23  帰国の希望に対し、権力からの脅しもあった。″危険だ″と心配し、制止する声もあった。それをすべて振りきって、覚悟の帰国であった。
 氏は、フィリピンヘの出発を前に、夫人にこう語っている。
 「コリー、私たちはいい結婚をしたよ。ぼくはもしかしたらマルコスに殺されるかもしれない。でも、そうなったとしても、ぼくの死はムダじゃない。祖国を解放するために死んだんだと思って、そのときは許してほしい……」(前掲書)と。
 何か予感があったのであろうか。これが夫人の聞いた″最後の言葉″となった。一九八三年八月二十一日、氏は、祖国の土を踏んだ直後、邪悪な凶弾に倒れた――。
24  妻は民衆革命の理想を継いで立った
 アキノ氏暗殺事件は、世界中を震撼させた。まして、危惧していたとはいえ、最愛の夫を奪われた夫人の衝撃の深さは、他のだれにもわからないであろう。悲報を聞き、彼女はとるものもとりあえず、五人の子どもたちと帰国する。
 氏を襲った″問答無用″の暴力。保身のためなら手段を選ばない。平気で不正もするし陰謀もめぐらせる。ただ邪魔者は消せ――これほど、陰湿残忍なものはない。
 しかし、魂の真実は、どんな権力も消すことはできない。″生死″を賭した戦いは″生死″を超える。「自由」と「民主」を守るために犠牲となった亡き夫の耳もとで、彼女は、涙をぬぐいながら、静かに誓った。
 ″フイリピンが「民主」と「自由」を勝ち取るその日まで、あなたの遺志を継いで、戦い続ける″と――。
 ″不滅の誓い″で結ばれた夫妻の人生劇。なんと崇高な″夫婦一体″の魂のドラマか。
 葬儀の夜、彼女は亡夫が生前よく「勇気は、臆病と同様、感染するものである」と述懐していたことにふれながら、こう語った。
 「もし、この時に、たった一人でも、また二人、三人でも、勇気を示すことができるならば、他の人もそれに続くでしょう。そして、ニノイの真実が明らかになるにちがいありません」
 一人の「勇気」が、次の一人の、やがて万人の「勇気」を生む。万人の「勝利」を開く。彼女は、その″一人″だった。悲しみの極限にあって、それを毅然として制覇し、夫の遺志を継いだ。邪悪な権力と戦うため″一人立った″。そこから、「民衆の海」に、「勇気の波」が一波また一波と広がり、あの″民衆勝利″の逆転劇につながっていったのである。私は、その偉大な″先駆の夫
 妻″を、心からたたえたい。
25  アキノ氏の暗殺は、腐敗した独裁政治に対する国民の批判を一気に高めた。そして、夫の後継者として、″未完の理想″の実現へ立ち上がった彼女は、政治の舞台に押し出されることになる。
 もとより″政治のプロ″ではない。″普通の主婦″からの転身である。演説も決してたくみではない。派手なスタンドプレーもない。しかし、何より誠実だった。ウソがなかった。真剣だった。日を重ねるごとに、民衆の支持と信頼は膨れ上がった。
26  夫人は、大統領選への出馬を決意する。政治家でも何でもない平凡な主婦が、マルコスに勝つ。そのことが、夫の遺志の最高の証になる、と。
 「誠実を貫き通せば、何ごとをも成し遂げられるでしょう。そして人々を恐怖から解放することもできるはずです」(前掲書)――。
 一九八五年暮れ、全世界の注目のなか、フィリピン世論を二分しての大統領選挙が始まる。熾烈な選挙戦をとおして、″アキノ支持″の民衆の間に二つのシンボルが定着している。
 一つは親指と人さし指でつくる「Lサイン」。これは、「ラバン(闘い)」の頭文字を取ったもので、独裁政治に対する″民衆闘争″の象徴となった。
 また、もう一つはシンボルカラーの″黄色″である。これは、アキノ氏が空港で暗殺された後、彼を敬慕する人たちが、″樫の古木に黄色いリボンをつけて囚人の帰郷を祝う″というフィリピンの古歌にちなみ、彼のシンボルカラーとして取り入れたもの。夫人は、それを受け継いだのである。
27  激戦は、夫人をたくましく鍛え上げていった。歴代の大統領候補のなかでも、もっともキメ細かに全国を駆け巡った。
 夫人は、しばしば夫に思いを馳せつつ演説した。「デモステネス(=古代ギリシャの哲学者)がオリンピアで行った演説の中の言葉を、ニノイは確信しているはずです。デモステネスは、こう示唆しました――良き人々が共に働くとき、邪悪は潰えるであろう」(前掲書)
 またある時は、夫の印象的な言葉を引いた。
 「不正、虚偽、反逆のもとに永続的な力などあるはずがない」「人間は言葉ではなく、態度という模範にしたがうのです」(前掲書)
 まさに、今は亡き夫と手を携えての″夫婦一体″の戦いであった。心は、いつも一緒であった。生死を超えた″戦友″であった。
 やがて、国民の審判がおりる。国民からも、世界からも見放され、側近にも反旗を翻され、追いつめられたマルコス一家は国外脱出。アキノ氏の言葉どおり、独裁者の栄華に、悲劇の終幕が訪れた。
 一九八六年二月二十五日、夫人は大統領就任を世界に宣言する。コラソン・アキノ大統領の誕生である。
 「ついに私たちは″家″に戻ってきました」(前掲書)――「Lサイン」を高々と掲げ、大歓声で迎える百万の市民を前に、にこやかに語る夫人。その脳裏には夫の破顔一笑の面影が鮮やかに浮かんでいたにちがいない。
28  ピープル・パワーが時代を変えた
 このフィリピンの″二月革命″は、偉大なピープル・パワーによる変革であった。とりわけ″女性パワー″の爆発は、世界の感動を集めた。
 マルコス独裁に抵抗した不屈の闘士たちのなかには、多くの女性が含まれていた。「ある調査では、六百四十五人の政治犯のうち女性は百六人もいて(八五年五月)、その中には母親が四十一人、夫と共に投獄は十七人」(松井やより『女たちのアジア』岩波書店)であったという。
 独裁による貧困のしわ寄せをもっとも深刻に受けるのは、女性である。また虚偽に対して敏感なのも、女性の特徴といえよう。アキノ大統領は、その全女性の代表である。
 大統領は、語っている。母親はわが子を差別したり、力ずくで支配したりはしない。私は″フィリピンの母″となって、わが子ともいえる国民の心の中に、正義と真実と自由の尊さを伝えたい、と。
29  ″民衆革命″の渦中、こんなエピソードがある。(ルイス・サイモンズ『アキノ大統領誕生』鈴木康雄訳、筑摩書房より)
 ――戦車が塀を破って突進し、群衆と向かい合う。にらみつける兵士たち。静かに歩み寄る民衆。その最前列には、女性たちが手に手に花を持って立っていた。
 一人の若い女性が、兵士の前に進み出る。深呼吸を一つ。思いきって花を差し出す。とまどう兵士。一瞬、緊迫した空気が流れる。兵士は、彼女を見つめ、「回れ右」をして後退した。それを合図のように、民衆と兵士の間の殺気は消え、にわかに笑顔が広がり、やがて、それは大きな拍手の渦となった――。
 「花」が「戦車」に、「非暴力」が「暴力」に、「魂の力」が「剣の力」に打ち勝った。まさに″武力の時代″に取って代わるのは″文化の時代″″女性の時代″であることの象徴のごときシーンである。
 ともあれ、二十年の長きにわたる独裁政治からの″解放″――。そして、長い苦闘の″冬″を乗り越えた夫妻の″凱歌の春″――。″夫婦一体の闘い(ラバン)″による、偉大な勝利劇は、不滅の叙事詩のごとく、燦然と民衆のゆく手を照らし続けるにちがいない。
 以上、十分ではないが、アキノ大統領との会見を記念し、感謝をこめて紹介させていただいた。
 フイリピンの同志も喜んでくれると思う。
30  最後に、「大歓喜の五月三日」をともどもに祝し、ともどもに栄光の新出発をしていきたいと申し上げ、スピーチを結ばせていただく。本当におめでとう! ありがとう。きょうお会いできなかった同志にも、くれぐれもよろしくお伝えください。
 アキノ大統領夫妻については、主に次の文献を参照した。
 ニック・ホアキン『アキノ家三代』鈴木静夫訳著 井村文化事業社刊 勁草書房発売、Lusy Komisar,Corazon Aquino――The Story of Revolution(George Braziller)

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