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日蓮大聖人・池田大作

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「3・16」記念全国青年部幹部会・第六… 創立七十周年を諸君の「凱旋行進曲」で飾れ

1991.3.12 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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2  さて、賛成はしたものの、「″アイーダ″はよく知らない」(笑い)という方もいらっしゃるかもしれない。そこで少々、紹介しておきたい。とくに若き諸君は、いつも何かを学んでいく姿勢をもっていただきたいからだ。
 作曲者のヴェルディ(一八一三年〜一九〇一年)は、古今を通じて最大のオペラ作家の一人である。北イタリア・パルマの小さな村の宿屋に生まれた。十八歳でミラノに出て作曲を学ぶ。当時、イタリアは統一運動によって社会全体が揺れ動くなか、ヴェルディは「オペラ作家になろう」と情熱をもち続けた。
 この人生に″何か″を残すのだ。社会が揺れ動こうと、だれが邪魔しようと、私の人生は私のものだ。必ず歴史を刻んでみせる――恵まれた環境、平凡な人生からは、偉大な人間は生まれない。
 ″波瀾万丈の激動こそ、望むところだ″。この「心意気」が、人物をつくっていく。
 さて歌劇「アイーダ」は、古代エジプトを舞台とした物語で、マリエット(フランスのエジプト学者)の作品をヴェルデイが一八七〇年に作曲した。(=スエズ運河の開通を記念し、エジプト太守から作曲の依頼を受けたもの)
 物語は四幕からなり、エチオピアの王女アイーダが戦いでエジプト軍に捕らえられ、身分を隠したまま奴隷に――。やがて若き将軍ラダメスと、ひそかに愛し合うようになる。アイーダは、祖国への思いと恋人への愛との板ばさみに苦しむが、自分のために反逆罪で捕らえられ、死刑となるラダメスとともに死のうと決める。そして二人が永遠に結ばれる喜びをうたって、この世に別れを留げるという内容である。一面、悲劇だが、政治的な権力や野心による画策のなか、祖国愛と人間愛に生きた主人公の姿をとおして、時代を超えた「人間」の真実を情感豊かに描いている。
 「凱旋行進曲」は、「アイーダ」の第二幕で、エジプト軍がエチオピアとの戦いに大勝利し、帰国した兵士たちを歓喜の歌や踊りで祝う場面の曲である。(=「アイーダ」は悲劇ではあるが、作品の成立動機や性格から、音楽祭や祝典での出し物、オペラ・シーズンの幕開きとして多く上演されている)
3  夢に生き、信念に生きよう
 きょうは、中部が生んだ世界的なジャズ・トランペッター、ミスター・シュンゾウ・オオノがこられている(拍手)。広布のために、たいへんな状況のなかで戦っている皆さまを、何とか元気づけてあげたい、とのことで、本日の中部総会、青年部幹部会の祝福に、わざわざ駆けつけてくださった(拍手)。先日(三月四日、第一回関西代表幹部会)のハービー・ハンコックさん、バスター・ウィリアムスさんに続いての、超一流プレーヤーの来日である。(拍手)
 オオノさんは一九四九年(昭和二十四年)、ここ中部の岐阜県生まれ。岐阜県音楽隊の出身である。現在四十一歳。トランペットを吹きたい一心で、十九歳で故郷を離れ、東京へ。そして一九七四年三月十三日、著名な演奏家からの誘いもあり、心に期するところあってアメリカに渡られた。彼にとって、きょう(十二日)は渡米十六年から十七年に入る節目の日にあたる。(拍手)
 子どものころに入会されているが、本格的に妙法のトランペッターとして立ち上がったのは、渡米から三年後(一九七七年)、二十八歳のころからという。以来、音楽活動と学会活動を両立させながら、ニューヨーク方面の男子部の中核として頑張ってこられた。現在は男子部の副方面長である。
 ジャズを愛好する世界の若者の、だれもが憧れる街ニューヨーク。音楽家にとって″決戦場″ともいうべき地で活躍するまでには、たいへんな、また孤独な、猛練習の日々が重ねられた。
 ″千里の道も一歩から″である。その″一歩″に″千里″が含まれている。次の″一歩″また″一歩″ごとに「夢」が「現実」に近づいていく。大事なのは足元である。歩みを止めないことである。
4  一九八一年、私がニューヨークを訪れたさい、彼は、ベース奏者のバスター・ウィリアムスさんらとともに、見事な演奏を披露してくださった。あのすばらしい光景、あの感動を、私は忘れない。
 きょうは、そのときの思い出の曲「オーバー・ザ・レインボー(虹の彼方に)」を演奏してくださることになっている。(拍手)
 また一九八七年、アメリカのマイアミ・トレーニング・センターで、創価班メンバーとして、額に汗し、さっそうと駆けまわっていた姿も、脳裏に焼きついている。
 ″真剣さ″は、見ていても気持ちがいい。立場や形ではない。人間であり、生命である。ひたむきに仕事に打ち込む。信念の行動に励む。こうした姿こそ美しいし、周囲の心を洗う。
5  彼も、これまで決して順調な道程ではなかった。重大な転機があった。一九八八年十二月、アメリカで思わぬ交通事故に遭ってしまったのである。
 詳細は略させていただくが、トランペッターの命ともいえる前歯を折り、口を六針も縫う大けが。一年半、苦闘の日々を余儀なくされた。多くの人から再起不能とみられていた。
 昨年二月、アメリカでお会いしたときには、私は全魂をこめて激励した。何とか立ち上がってもらいたい。世界のファンが待っている。まだまだ若い。強い心、強い信心があれば、必ず道は大きく開けていくことであろう――と。
 交通事故に遭ったのは、個人指導から帰る途中のことだったという。私は胸が痛んだ。しかし信じた。広布の活動へ、友の激励へと、信心のリズムにのっとった生命は、いかなる宿命をも必ず転換することができる。むしろ早く転換されるためにこそ、宿命が顕れてくる場合がある。オオノさんも、必ず「変毒為薬」してくれるにちがいない、と。
 愚痴ひとつ言わず戦った。そして、この一年半のブランクを信心で見事に乗り越え、フェニックス(不死鳥)のごとく蘇ったのである。(拍手)
 昨年はモスクフでの第一回インタナショナル・ジャズ・フェステイバルにも出場され、大喝采が送られたとうかがった。またヨーロッパでの公演も、大成功であった、と。心から「おめでとう」と申し上げたい。(拍手)
 ″大人に己なし″である。彼は、変な気どりがないし、表面的なものごとに左右されず淡々としている。いつも、あたたかい眼差しで後輩、同志をつつみ、妬みや驕とは無縁である。
 彼は、つねづねこう語っているという。
 「すべての人々に″希望″と″勇気″と″自信″を与えられるような音楽を創造したい」と。
 自分自身への励ましの言葉でもあろう。
 きょう、この講堂での演奏を、亡くなられたお父さま、お母さまも、どれほど喜ばれていることか。また、ここには、婦人部として名古屋で頑張っておられる二人の妹さんも参加されているとうかがっている。
 それでは、いよいよ、世界最高峰のトランペッター、シュンゾウ・オオノの登場です!(拍手)(壇上中央で、「オーバー・ザ・レインボー」を演奏。参加者からは万雷の拍手)
 世界のスーパースターとしての、ますますの活躍に期待し、祝福の拍手をお送りしたい。(拍手)
6  ここにもう一人、本日の″スペシャル・ゲスト″を紹介したい。スウェーデンの青年部長である。
 彼は一九五六年生まれ、まもなく三十五歳になる。彼のおじいさんが創立し、お父さんが経営するスウェーデン屈指の総合食品会社で、なんと八歳のころから売り子に立ち、経営を仕込まれたという。
 スウェーデン一の名門であるストックホルム大学に学んだあと、他の食品会社に就職。父の会社が経営の危機で傾くや呼び戻され、二十六歳の若さで一部門を任され、見事に再建した。その後、独立し、貿易会社を経営する青年実業家として、実社会の荒波のなかで自身を磨き、懸命に戦っている。
 一九七五年にアメリカで入会し、信心十五年。求道心の厚い、立派な青年リーダーである。一九八三年、彼がスウェーデンの男子部長に就任した折に、私は「ヨーロッパを守る妙法の騎士に」との言葉を贈った。
 そのとおりに、彼はたくましく、各部のメンバーを守りぬいてきた。一昨年(一九八九年)、私が初めてスウェーデンを訪問したさいにも、若き青年たちの中心として、さまざまな行事の運営や渉外の中核として、はつらつと活躍していた。「世界広布」に生きる諸君の大切な″友人″である(拍手)。(ここで同青年部長があいさっ。スウェーデン青年部の活躍の模様を述べた)
7  カズンズ教授「すごいですね、人間の力は!」
 話は変わるが、昨年十一月二十日、″アメリカの良心″とうたわれたノーマン・カズンズ氏(カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授)が逝去された。(享年七十五歳)
 私の大切な友人であった。
 この四月には、対談集『世界市民の対話――平和と人間と国連をめぐって』が発刊される運びにもなっている(=平成三年五月三、毎日新聞社から発刊)。カズンズ氏の対談集は、これまでになく、連載中(月刊誌『潮』)から、各方面からの反響と期待の声をいただいている。
 先日、私の代理が夫人を弔問した。そのさい、夫人は「生前、夫は池田SGI(創価学会インタナショナル)会長のことをいろいろと話してくれました。このように夫との共著が発刊されることは、本当にうれしいことです」と語っておられた、という。
8  昨日まで、私は広島を訪問していたが、カズンズ氏は広島と縁が深い。広島の特別名誉市民にもなっておられた。
 というのも、同氏は戦後まもなく、″行動するジャーナリスト″として、原爆孤児たちへの教育援助や、被爆した乙女たちを治療のためアメリカに招くなど、「人道」と「良心」の貢献を懸命に重ねられたのである。深い「学識」とともに、氏はどこまでも「行動」の人であった。
 人々のため、社会のため、正義のために、どれだけ「行動」したか。人間の偉さも、この一事にある。地位ではない。口先でもない。
 トインビー博士は、″人生の先輩としてのアドバイス″を求める私に、こう言われた。
 ――私は一個の学者にすぎません。あなたは、人類のために大きく行動しておられる。私からあなたに何か申し上げるなど、おこがましいことです――と。
 あまりにも謙虚なお姿であった。今でも忘れることができない。
 誠実の行動もなく、深き学識もない人ほど、傲慢に人を見くだすものだ。
 諸君は、″世界の一流″の高さをめざしていただきたい。そして″無名の民衆″のなかに、深く心の根をおろして生きぬいていただきたい。中途半端では、光輝ある「人格」は築けない。
9  カズンズ氏が初めて広島を訪ねたのは、終戦から四年後の一九四九年(昭和二十四年)――。その折、復興に取り組む広島の人々の強く、たくましい生き方を目の当たりにし、感動された。
 氏は、その様子を、こう語ってくださった。
 「どんな哲学者があえて夢見たよりも深遠な勇気と蘇生の源泉を人間は備えている」、そして、「戦争のためのいかなる装置や爆発物よりも偉大な力、それは、生きぬく意志であり、希望を受け入れる人間の能力だ」と。
 人間には、底知れぬ生命力がある。どんな哲学者の想像をも超えて、深い勇気を、生きぬく力を秘めている――。このことを、カズンズ氏は、広島の民衆の姿から感じ取ったというのである。
 あの原爆の惨禍でさえも、″何するものぞ″と、乗り越えていこうとする庶民のパワー。
 「池田会長、すごいものですね、人間の力は!」
 カズンズ氏の笑顔が、今も鮮やかに浮かぶ。
 原爆は原子のなかの″悪魔の力″を解放した。仏法は人間のなかの限りなき″仏の力″を顕現させる。
10  世界を変えるのは″雄弁な人間″の連帯
 ロサンゼルスにおられるカズンズ氏から、対談集の「序文」が届けられたのは、逝去の十日ほど前のことであった。文字どおり、氏の″遺言″となった。
 その中で氏は、こう論じておられる。
 ――さまざまな難題に直面する今日の時代を転換する希望は、どこにあるか。それはただ一つ、「明快に発言し意思を交わしあう市民が世界中に輩出する」ところにこそある、と。
 雄弁たれ、明快に語れ、何を思っているかをはっきりと伝えよ――そうした市民の連帯こそ、世界を変えゆく希望なのだ、と。
 今日、世界は新しき安定の国際秩序を求めている。平和を願う″庶民の声″の結集、そして″市民の連帯″が、ますます強く求められている。
 この意味でも、氏はSGIの民衆運動に注目し、期待しておられた。
 大切なのは「人間」である。「市民」である。人間主義の市民の世界的輩出である。私どもこそ、世界を変えゆく″先駆″なのである。(拍手)
 もはや、″もの言わぬ大衆″であってはならない。一方通行の受け身に甘んじてはならない。
 たとえ一人であっても、言うべきことは言い、抗議すべきことは抗議していく。これこそ真の「人間」である。そうした主体性のある個人の連帯が、新しき時代の扉を開ける″カギ″である。
11  カズンズ氏はさらに、こうも述べられている。
 ――だが「人間同士の新たな結びつき」を創出しようとすれば、自分たちの集団エゴを「永久保存」しようとする人々からの反発は、避けられない。閉ざされた世界の利益にこだわる勢力との対立が、必ず起こってくるであろう。
 そのとき、この「対決」のなかで勝負を決するものは何か。それは「庶民の声」である。このときにこそ、その真価が発揮される。
 これがカズンズ氏の洞察であり、期待であった。(拍手)
 そこで、氏は続ける。
 「いま庶民が必要としているのは、自分の感じること、言いたいことが全世界の前進を助けられるという確信のもてる励ましです」と。
 まさに、このとおりの「励まし」を、日々、私どもは重ねている。カズンズ氏ご自身も、最後まで「庶民の心」に生きぬかれた。偉大な友人であった。
 私は、今は亡き氏に心で語りかける。
 「私どもも、いやまして″庶民の声″を高めていきます。堂々と正義を主張してまいります。人間同士の新たな結びつき。ここにこそ真の平和がある。幸福の広場がある。これが私どもの確信ですから」と。(拍手)
12  「信心」あらば、大安心の生死
 ここで、御書を拝したい。日蓮大聖人は、妙心尼の病気の夫について、次のように仰せである。
 「ただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん、中有の道にいかなる事もいできたり候はば・日蓮がでし弟子なりとなのらせ給へ
 ――病気も治るし、やがて霊山に行かれたならば、太陽が出て十方の世界を見晴らすようにうれしく、「ああ早く死んでよかった」と喜ばれることでしょう。中有の道(死から次の誕生までの道)で、どんなことが起きようと、「日蓮(大聖人)の弟子である」と名乗りなさい――と。
 仏法の眼で見れば、「生死」は「不二」である。「死」を嫌い、悲しむのは当然の″人情″かもしれない。しかし、仏法に説く「三世永遠」の生命観から言えば、「死」は新たな「生」への旅立ちである。あすの活力を得るために「睡眠」をとり、″リフレッシュ″し″充電″する。それに似て、「死」は次のすばらしき人生への飛翔となる。
 大聖人は、妙法は全人類の大良薬であるとされている。決して一部の特別の人のためのものではない。この大良薬によって「病」も、また「死」も根本的に克服できると、大聖人は教えてくださっている。決して、苦しみの生死ではない。悲しむだけのものではない。
 ″楽しき死″″うれしき死″となるさまを、大聖人は、太陽が夜の闇を破って全世界を照らす壮麗な光景にたとえておられる。さびしい不安と恐れの「死」ではなく、「大安心」と「大満足」の荘厳な死である。
 さらに、「日蓮が弟子となのらせ給はば・いかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし」と。
 ――名私は日蓮大聖人の弟子である」と名乗りなさい。そうすれば、どんな悪鬼も、あなたに手出しはできないし、絶対に安穏ですよ、と断言しておられる。
 妙心尼の夫は入道であり、在家である。しかも病気になるまでは、それほど強信でもなかったようだ。にもかかわらず、「弟子と名乗りなさい」と大聖人は励まされている。
 ともあれ、御本仏が私どもの「死」を守ってくださる。これ以上の安心はない。
 私どもは「生」も「死」も何の心配もない。「ああ、早く死んでよかった」「ああ、早く生まれて楽しい」――。この繰り返しが、信仰者の三世の旅なのである。(拍手)
13  なお、大聖人は別の御書で、陰で悪行を働きながら形だけ仏道を行じている人のことを、こう述べておられる。
 「譬へばくそをほして・つきくだき・ふるいてせんだん栴檀の木につくり・又女人・天女・仏につくりまいらせて候へども火をつけて・やき候へばべちの香なし・くそくさし
 ――糞を干して、つき砕き、ふるいにかけて、良い香りのする栴檀の本のように作り、美しい女性や天女や仏を作っても、火をつけて焼けば、ほかならぬ糞のくさいにおいしかしないようなものである――と。
 形は香本でも、じつは糞の本。形は天女や仏像でも、じつは糞女であり、糞仏である。焼いてみれば――すなわち時いたれば、悪臭の真実が顕れる。大聖人は、このように喝破しておられる。悪への痛烈な批判である。(拍手)
 大聖人は、三十八歳の御時、「守護国家論」を著された。その中で、こう御教示されている。
 「涅槃経に云く「善男子是の大涅槃微妙の経典流布せらるる処は当に知るべし其の地は即ち是れ金剛なり此の中の諸人も亦金剛の如し」已上法華涅槃を信ずる行者は余処に求む可きに非ず此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土なり」と。
 ――涅槃経には「善男子よ。まさに知りなさい。法華経の流通分であるこの涅槃経が流布される所は、その地がすなわち金剛なのである。また、その中の人々も金剛の如き存在となる」と説かれている。法華経・涅槃経を信ずる行者は理想の国土をよそに求めるべきではない。この経を信ずる人の住む所が、すなわち浄土なのである――と。
 だれしも、今いる場所よりも他の所のほうが良いように思うことがあるかもしれない。しかし、大聖人は、妙法を弘通しゆく人も、その地域も、すべて″金剛″となる、と仰せである。
 何があっても「不壊」(こわれない)、何があっても「不敗」、何があっても「安心」という最高の″強さ″――これが金剛の人生と地域である。
 どんなに小さい家でも(笑い)、わが家は″宝の家″なり、と。そして、使命のわが地は″宝の国″なり、と。この確信で、胸を張って進んでいただきたい。(拍手)
 今いる場所をダイヤのごとく輝かせていく――信仰の醍醐味の一つもここにある。
 勇んで広布の労苦を重ねる人に、一切は永遠の大福徳と変わるのである。
14  皆の力で「不敗不落の中部城」
 「炭労問題」や「大阪事件」が起こった昭和三十二年(一九五七年)。この年の二月、戸田先生は、こう詠まれた。
  いざや征け
    仏の軍は
      恐れなく
    中部の堅塁
      立つは楽しき
 先生の心を受けて、私も詠んだ。
  いざや起て
    いざや築けと
      金の城
    中部の堅塁
      丈夫勇みて
 戸田先生と″ひとつの心″で、中部の大発展を展望したのである。
 ここ中部の地に、不敗にして不落の″金剛の城″を断じて築こう。そのために″金剛の信念″を、″金剛の団結″を――ふたたび私は呼びかけたい。(拍手)
 全国の青年部諸君も、同じ決意で、それぞれの地に勝ちどきをあげていただきたい。(拍手)
15  「偉大なる中部」――。
 「朗らかな中部」――。
 「痛快なる中部」――。
 本日の「聖教新聞」に、広告みたいに大きく(爆笑)掲載されていた。(拍手)
 春の歩みとともに中部には、また青年部には、いよいよ喜びと希望が満ちている。この一年も、中部は偉大なる前進を刻む。
 十月には、「愛する創価 偉大なる中部」のテーマで、「中部大文化祭」が名古屋市総合体育館・レインボーホールで開催される。できれば私も出席したい。(=十月二十日、中部文化友好祭として開催)
 心から大成功を祈ります(拍手)。その模様を衛星中継で全国に放映することも検討していただいている。(拍手)
 また、「第七回中部総会」そして「幸の風 中部婦人文化総会」も予定されている(=中部婦人部の「レインボー総会」として開催)。さらに、「青年部大学校祭」(五月〜六月)の開催、「座談会の中部――輝く百万の人華」をスローガンとした大座談会運動(九月〜十一月)や、平和・文化・教育の各種展示も各地で行われる。(=「平和への行動展」「『自然との対話』写真展」「環境展」「世界のおもちゃと教育展」「世界の童話展」など)
 そして、会館の建設も各地で進んでいる。現在、愛知県の一宮平和会館、蒲郡文化会館、岐阜県の長良文化会館、本巣文化会館、三重県の四日市北文化会館の五会館が建設中である。(拍手)
 また、愛知県の新城平和会館、三重県の大台平和会館の二会館の建設も計画されている。まさに、″幸の風″が、ぐんぐんと勢いを増して、中部の大空をつつんでいるように感じられてならない。(拍手)
16  大胆不敵たれ!荒波も勇者には痛快
 先日、ポルトガルのゴウヴェイア駐日大使と東京でお会いした。初めての出会いであったが、私がポルトガル領であるマカオを初訪問(一月三十日)することも、よくご存じであった。
 その折、「大航海時代」のロマンをうたったポルトガルの大詩人カモンイス(一五二四年または二五年〜八〇年)のことを私は語った。(マカオにはカモンイスゆかりの公園もある)
 最後に、「広布」と「人生」の大航海に進みゆく若き諸君に、彼の詩の一節を贈りたい。
  すでに船は用意されている。いかなる
  恐怖も青春の意気をはばまない。
  なぜなら海陸のつわものどもが
  世の果てまで同行のつもりだから。
   (『ウズ・ルジアダス』小林英夫・池上容夫・岡村多希子訳、岩波書店)
 彼は船出の心意気を、こううたう。ひとたび決めた信念である。ともに行こうと誓った同志である。ゆえに逡巡はない。恐れもない。この意気で、ポルトガル人は大洋の荒海を越え、かの「大航海時代」を築いていった。これは、不撓不屈の「学会精神」に通ずる。青年部の諸君もこの意気で、信じるに足るわが″つわもの″の同志とともに、″民衆の大海原″を進んでいただきたい。
 カモンイスは叫ぶ。
  かれらは大胆不敵にも陸地の
  苦難をしのぶだけではあきたらず
  荒海の冒険に乗りだすのだ。
   (同前)
17  ″大胆不敵″――これこそ青年の特権である。開拓者の魂である。臆病であってはならない。弱気な神経質なだけの若者であっては、大事は成せない。より大きな困難を、みずから求める。その心ありてこそ「青年」である。
 「世界広布」という大海原の向こうには、数限りない民衆が、多様な文化が、「妙法」を待っている。「わづかの小島」で汲々としていてはつまらない。
 後継の若き同志よ、大胆不敵な魂で、嵐の海も痛快に越え、千年先、万年先への新しき「創価の道」「友情の道」を、私とともに進んでいただきたい、と念願し、本日のスピーチとしたい。(拍手)
 なお「3・16」を記念し、三月十六日付の「聖教新聞」に寄稿する予定である。
 諸君のご健康、ご長寿、ご活躍を、また幸福と無事故を、毎日ご祈念しています。どうかお元気で。きょうは本当におめでとう。
 (中部記念講堂)

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