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日蓮大聖人・池田大作

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第一回中国総会 勝つ人生は愉快なり、幸福なり

1991.3.9 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  勝利への労苦は福徳に変わる
 ″春到来″を告げる、すばらしい合唱でした。楽しい歌声は幸福の一つの証です。本当にありがとう(拍手)。(各部の代表による広島混声合唱団が、″春の歌メドレー″と、名誉会長が広島の友に贈った長編詩をモチーフにした創作曲「凱旋の歌声」を披露した)
 そして、ここ広島と岡山、山口、鳥取、島根の五県を結んでの第一回中国総会の開催、おめでとう。たいへんにご苦労さまです。(拍手)
 さて当初、新聞でも予告していた衛星中継が、システムの故障でできなくなり、本日は音声だけでの中継となった。心からおわび申し上げたい。私の責任ではないが(爆笑)。ところが、ものは考えようで、じつは″中国の男性の幹部は、あまリテレビ映りがよくない(笑い)、皆さまに、アップでお見せしなくて、よかったのではないか″と言う人がいる(爆笑)。私は、そんな″人権侵害″のことは言わないが(爆笑)、どうも、大きくうなずいていらっしゃる方が多いのは、どうしたことか。(爆笑、拍手)
2  人生は、ともかく「勝つ」ことである。「勝つ」ということは、人生を愉快にする。幸福にする。満足をもたらす。自身の課題に挑み、一歩一歩勝利する。これほど充実した、愉快なことはない。
 「仏法は勝負」と、大聖人は教えてくださっている。また、一切法はこれ仏法なるがゆえに″一切が勝負″なのである。
 人生もまた、戦いである。同じ戦う一生ならば、後ろ向きよりも、勇んで進んだほうが得である。楽しいし、信心の功徳も大きい。
 ″なぜ自分は、こんなたいへんな所に来てしまったのか″などと嘆くよりも、″苦労が大きいほど勝った喜びも大きい。成長も大きい。充実も大きい。わが人生も大きくなる″と、一念を決めたほうが価値的である。その一念が、苦労をすべて幾百倍、幾千倍もの福徳に変える。
 日蓮大聖人は、門下の富木常忍夫人にあてたお手紙の中で、次のように仰せである。
 「むかしは・ことにわび不楽しく候いし時より・やしなはれまいらせて候へば・ことにをんをも恩重くをもいまいらせ候
 ――昔は、とくに苦しい状況にありました。そのときからあなたに養われておりますから、とくに恩を重く思っております――と。
 大聖人は当時、身延におられた。このころは、身延での御生活もある程度、安定しておられた。そうしたなか、苦境が続き、経済的にもたいへんであられたろう昔のことにふれられ、そのころからずっと檀那(施主)として、大聖人を支えた富木常忍の夫人を「とくに大切に思いますよ」「外護の恩の重さは忘れませんよ」と、あたたかく包んでおられる。
 在家の一婦人の御供養に対して、御本仏は「恩」とまで仰せである。「苦しいころから、支えてくださったことは、今でも忘れていませんよ」と、やさしく語りかけておられる。
 たいへんな時に守ってくれた恩は、絶対に忘れない。これが人間性である。大聖人御みずから教えられた正しき″人の振る舞い″である。その振る舞いに仏法の真髄もある、と大聖人は教えられている。
 自分がたいへんな時は仲良くし、豊かになれば、世話になった人も捨て去る。そんな行動は、人間としての道からも、仏法者としての道からもはずれている。
 この御文にこめられた大聖人のお心に背く門下がいれば、大聖人に対する師敵対であると信ずる。(拍手)
3  チャップリンの一生を支えた母の教え
 さて、これまで何度かチャップリンの話をさせていただいたが、最近は、テレビでも作品が連続放映されるなど、いよいよ人気は高いようだ。不思議な、不滅の魅力をもっている。
 チャップリンの話が続いて恐縮だが、先日、会合の席で、広島ではチャップリンのお母さんの話をすると約束してしまったし(笑い)、多くの方からの問い合わせや要望にお応えする意味からも、少々お話ししたい。(拍手)
 人生は劇である。劇には「喜劇」と「悲劇」がある。その定義は、どう違うのか。
 学問的には――などというと、むずかしそうだが(笑い)、いたって明快である。「結末が幸福なら喜劇、結末が不幸なら悲劇」と。たいへんわかりやすい(爆笑)。途中は関係ないのである。
 人生もまた、結末いかんで悲劇にもなれば、喜劇にもなる。
 人生の途中の姿だけを見て、うらやましがつたり、反対にバカにしたりする。それでは、人生の真実はわからない。
 実業家として一つの頂点を極めながら、最晩年になって汚職等で捕まる人もいる。社会の指導的立場にありながら、庶民を見くだす傲慢さゆえに、陰で悪行をし、″身から出たサビ″を、裁判で追及される人もいる――これは、悲劇である。たとえ途中がよいように見えても、最後にどうなるかはわからない。その最終の勝利のための、私どもの信仰なのである。
 戸田先生も、よく言われていた。″死ぬ四、五年前から本当の幸福を味わえれば、その人生は、幸福だったといえる″と。
 信心の醍醐味というか、人生の総仕上げは、必ず「衆生所遊楽」「所願満足」の、くめども尽きぬ大功徳の生活となっていく。その意味で、苦しいうちは「まだ死なないな、大丈夫!」と安心してよいともいえる(爆笑)。戸田先生も、そう教えられていた。
4  喜劇王チャップリンの母――その人生も、波瀾万丈の「劇」であった。しかし最後は、愛する息子のそばで安らかに暮らし、死んでいった。途中は悲劇であったが、最後は、一つの勝利の劇で結ばれた。
 「わたしは父親のことはほとんど知らぬし、一緒に暮したときのこともおぼえていない」(『チャップリン自伝』中野好夫訳、新潮社)。チャップリンはそう書いている。事実、彼がつづった幼少年期の思い出は母ハンナ(ハナ)のことで埋まっている。両親は彼が一歳の時に離婚していた。
 彼女は、舞台女優だった。美しい声が売りものであった。ところが、喉を痛め、声が割れたり、出なくなったりするようになる。そのため、しだいに失業に追いこまれていった。
 チャップリンが五歳のある日、彼は出演する母について劇場へ行った。お母さんが歌えるかどうか、少年チャップリンは心配でたまらなかったのであろう。
 母は舞台に立った。歌いだした。が、突然、声が出なくなる。声の出ない歌手。致命的である。ヤジと罵声。聴衆は黙っていない。どうするか――。
 舞台のそでに引っ込んだ母に、困りきった監督はこう言う。「代わりに息子を出してはどうか」。とっさの機転であった。チャップリンは、こうして、偶然のようなかたちで初舞台を踏んだ。
 少年は、当時の流行歌を歌った。
 「なまじ黄金の延べ棒が ころがりこんだばっかりに、このあさましい変わりよう……」(同前)
 どこか、現代のことを歌っているような気もするが(笑い)。半分くらい歌うと、小銭の雨が舞台に降ってきた。キラキラ光っている。目がどうしてもそちらにいく(笑い)。彼は思わず歌をやめて、「お金を拾ってから、また続けます」とあいさつした。正直な態度に、客席がどっとわいた。
 監督が出てきて、お金を拾うのを手伝おうとした。五歳の坊やは「監督にお金を横取りされるのではないか」と心配した。その気持ちが客席にも、手にとるようにわかる。笑いがますます高まる。
 引っ込む監督を、チャップリンが心配のあまり追いかけていくと、爆笑は最高潮に――。策のない無心の姿がうけたのである。
 チヤップリンでなくとも、子どもというのは、親が思っている以上に″大人″である。多くのことができるものだ。″まだ子どもだから″と、大人の勝手な判断で決めつけてはいけない。一個の人格として尊重し、伸び伸びと力を発揮していけるよう、接してあげていただきたい。
5  「人間」を離れて芸術も、仏法もない
 こうして、この場は、世界最高の不滅の喜劇王にふさわしい″初舞台″となった。しかし、これは同時に、母の″最後の舞台″となった。彼女の声は二度と元には戻らなかったのだ。
 一家の生活は、またたく間に転落していった。母は裁縫の仕事を始め、何とかチャップリンと兄のシドニー、親子三人の生活を支えた。暮らしは極貧であった。冬が来ても着る物もない。二枚の布団とわら椅子、そしてボロ着をくるんだ包みを抱え、一家は安アパートを転々とした。
 しかし、そんな生活のなかでも、母は変わらず優しかった。子どもたちを何とか立派に育てようと懸命であった。汚い屋根裏部屋でも、いつも清潔に気持ちよく掃除していた。子どもたちに、少しでもと快適な環境を整えてあげた。
 また、本も上手に読んで聞かせた。子どもの時に聞いたことは忘れない。子どもは何でもぐんぐん吸収し、頭に入れるものだ。
 パントマイム(身ぶり手ぶりだけで演ずる芸)も見せた。どんな話でも、身ぶり手ぶりをまじえ、芝居仕立てで面白く語ってあげた。芸人だった彼女ならば、お手のものであったのだろうが、自然のうちに子どもたちを自分と同じく俳優にしようと考えていたのかもしれない。
 後世、チャップリンはこう回想する。
 「もし母親がいなかったら私がパントマイムで名を成していたかどうか疑わしい」
 「私は母を見、その言葉を聞くことによって、(中略)人間を観察し掘り下げるそのやり方も学んだのだった」(デイヴイッド・ロビンソン『チャップリン』上、宮本高晴・高田恵子訳、文藝春秋)と。
 世の中には、どんな人間がいるか、どうすれば人の心をつかむことができるのか、どうすれば皆に喜んでもらえるのか――。「人間」をじっと見つめなさい。それが芸術の出発点であり終着点なのだ、と。
 仏法もまた同じである。現実の、ありのままの「人間」を離れてはありえない。断じて抽象論ではない。現実の生活、人間から遊離すれば、その分だけ、仏法本来の精神から遠ざかり、観念論となり、権威主義となる危険が増す。
 チヤップリンの母はじつによく人を観察し、見抜いたという。俳優修業で鍛えた観察眼もあったのだろうが、賢明であった。彼女なりの″人間学″があり、子どもの人格を育てる″人間としての基準″をもっていた。
 善悪、正邪を鋭く見抜く知恵、英知がなければ、敗北の人生となってしまう。
 まして、信仰者は、だれよりも聡明でなければならない。民衆を幸福に導く責任があるゆえに、絶対に悪にだまされてはならない。また、お母さんの賢明さいかんが、子どもの人生を大きく決定づけていく。
6  闘魂が真の「人間」をつくる
 最低の生活、さげすんだ周囲の目――日の差さない、貧乏のドン底に、一家は暮らしていた。そんななか、あるとき、幼いチャップリンは、「死」への憧れを口にした。そのとき、母は言いきった。
 「生きるのよ! お前の運命を全うするのよ!」と。
 ――竹には竹の生命があり、使命がある。大地から生い立ち、天空をめざしてまっすぐに伸びていく。生長しきってこそ、竹は″運命を全うした″ことになる。また、サツマイモであれば、″わが身″を増やし、太ろうとして、生命力の限りを尽くす。自然と宇宙のすべてが、生きるために戦っている。
 自分は自分として、どこまでも伸び、どこまでも生きぬいていく――人生は休みなき自己への挑戦である。戦いをやめれば敗北が待っている。否、挑むことをやめた人生は、もはやその時点で″生きながらの死″となってしまう。
 生きて生きて生きぬくこと――これが一つの人生観の精髄である。その闘争の原動力こそ「信心」なのである。
 少年チャップリンに語った母の言葉は、運命に必死で立ち向かっていた母が、自分自身に言い聞かせた言葉だったかもしれない。
 この言葉を、彼は生涯、忘れなかった。「生きるんだ! 勝つんだ! お母さんを喜ばせるんだ!」
 「自分の運命」「自分の使命」。自分でなければ演じられない「わが人生劇」を全うしきった。完全燃焼させた。その魂の人は、まぎれもなく、この日、母が彼の心の奥底に点じてくれたものだった。まさに、人生レースの最終勝利を飾るため、母から子へと引き継がれた″一念の炎″のリレーであった。
7  当時のイギリスは、貧富の差が激しかった。母は生きるため奮闘した。
 しかし、万策つきて、ついに親子三人で貧民院に入ることになった。貧民院とは、当時の一種の福祉施設であったが、待遇は最低だった。現代からはとても考えられないほどである。
 チャップリンにとって、いちばん悲しかったのは、母と別々に暮らさねばならなかったことだ。わずか六歳だった。(貧民院では家族であっても婦人の棟、児童の棟などに分かれて生活させられ、会うこともままならなかった)
 そして貧民院にいることで、人々が自分を見くだす目が、たまらなかつた。
 さらに運命は、ますます容赦なく母子を襲う。母の精神が異常をきたし始めていたのだ。栄養障害と過労、気苦労によるものだった。二人の子どもは、今度は孤児院に送られた。春は遠かった。
8  やがて、うれしい母の全快。貧しさは変わらなかったが、母子水入らずの日々が戻ってきた。
 その間に、父が亡くなった。病院で父が死にかかっていたときのことを、母から聞いた。
 牧師がやってきて、こう言ったという。「なるほど、チャーリー、あんたの顔を見ていると、どうもあの『播いた種は刈らねばならぬ』という諺を思いださないわけにいかないようだね」(前掲『チャップリン自伝』)と。要するに「自業自得だ」と。
 酒がたたっての病気のことをさしていたのだが、チャップリンは、死を前にした人間への牧師の残酷な言葉を一生忘れなかった。心に刻みつけた。
 ――何が聖職者だ! いくら貧乏でも大酒飲みでも、一個の人間じゃないか。僕の父親なんだ。その父を前にして、そんな無礼な言葉は許せない!
 ふだんは、さも、慈悲深そうな笑みをたたえながら、いざとなれば人間を人間とも思わぬ振る舞い。少年は心の底から怒りがこみあげてきた。
 そして、こうした″人間性の敵″と、彼は終生、戦った。みずからの映画をとおして。また、みずからの口で、文で。あらゆる知恵をしぼって、戦いきった。
 「戦う人間主義」が、わが学会である。徹底的な大闘争心が学会精神である。信仰に妥協はない。また信心は口先ではない。行動である。結果である。
 皆さまのために、皆さまの戦いで、この中国に、どうか「広宣」と「人間主義」の壮大なる民衆山脈を築いていただきたい。(拍手)
9  母はチャップリン「高貴なる炎」を点じた
 さて、健康なとき、チャップリンの母はたいへん陽気であった。友だちを大事にした。なけなしのお金を、困っている女友だちに貸してあげたりした。善人だった。人間を愛していたのだ。
 母がチャップリンに、強く強く言い聞かせたことがある。それは「誇りをもて」ということだった。
 「お前は、きっと偉くなる人間だよ。きっと成功するよ」
 ともすれば、退廃した貧民街の空気に染まりそうになる子どもに、″自分は、かけがえのない力をもつ人間なんだ″と、自信と誇りをもたせたのである。
 誇り――信心こそ最高の誇りである。最高の希望である。誇らかな「信心」の大光は、一家を、地域を、人生を、つねにあたたかく、そして正しく照らしきってくれる。
 母は「生涯の重荷を、明るい心で耐えた」「親切と思いやりとが、特に目立った長所だった」(前掲『チャップリン自伝』)。チャップリンは後にこう述懐する。
 「彼女の性質には、一点の卑しさもなかった」(同前)。胸を張って、こう言いきっている。
 金があろうとなかろうと、高貴な魂は高貴である。卑しい者は富とともに、ますます卑しくなる。
 そして、高貴な魂の人こそ、高貴な人である。地位や立場に関係はない。
 チャップリンの母は「貧しさを恥じる必要はない」と教えた。恥ずべきことは、他にある、と。
 心の″貧″そして″どん(むさぼり)″これこそが卑しく、恥ずかしい。
 彼女は、子どもが劣等感など暗い影をもたぬよう工夫した。ひねくれた劣等感は、他人への意地悪や、ことさらに優越感をもちたがる権威主義、虚勢となって、自分も他人もともに不幸にしていく。
 そうした人になってはならない。そうした人の屈折した心理の行動に巻き込まれてもならない。
10  宿命の日が来た。母の病気の再発である。
 チャップリンは十一歳。家のそばまで帰ると、近所の小さな女の子が言った。
 「お母さん、気ちがいになったよ」(同前)――顔をいきなり殴られたようなショックだった。
 母は入院した。兄は水夫として外国にいた。チャップリンは一人で、金も職も宿もなく、道ばたで眠り、ロンドンの街を放浪した。あらゆる職業を経験した。
 しかし、「俳優になる」との一念だけは、熱く燃えていた。最終目標は、一度も見失わなかった。彼の心には、母が植えてくれた「誇り」の種が芽ぶき、根を張っていた。苦難のなかでも将来を夢見る″心の余裕″があった。
 「いつまでも続く雨があるもんか!」。不屈の決意が、やがて彼の才能を開花させ、アメリカの映画界で大成功をもたらした。――本日はその間の話は省略させていただく。
 彼は、良いことがあるたびに思った。「母さんがそばにいて、一緒に喜んでくれたら!」と。
 妬みと利用ばかりの、砂漠のような人間関係が世の常かもしれない。残念なことだが、それが現実である。私どもも、つぶさに見てきた。そのなかで、自分の戦いを、勝利の姿を喜んでくれる人がいることは、幸せである。チャップリンの心には、いつも優しい母の笑顔があった。そこに彼の幸せがあった。
 私の胸には、戸田先生がおられる。三百六十五日、片時も離れない。つねに見守ってくださっている。私にとって、これほどの幸せはない。私は今も、戸田先生と二人で戦っている。(拍手)
11  「アメリカに母を呼ぼう」――これが成功したチャップリンの夢だった。
 しかし、アメリカの移民局は「精神障害のある者は、入国させられない」と頑迷だった。血も涙もない。何年も説得した。やっと許可がおりた。渡米後、十年が経っていた。「やっと、お母さんに会える!」。母への思いが実るかに見えた。
 だが――秘書をイギリスに派遣し、母を連れてきてもらったところ、彼女はニューヨークで移民局の取り調べを受ける。その結果、「好ましからざる人物」としてイギリスに送還されるべく、″牢獄の島″(エリス・アイランド。ニューヨークのハドソン河口にある島。移民局の施設が置かれていた)に押し込められてしまった。チャップリンは悲嘆にくれた。″なんと無情な仕打ちか″――。
 しかも、このとき、新聞は何と書いたか。
 「けちなチャップリンは、母親を移民として二等船室で渡航させ、あげくの果てに監禁させ、送還しようとしている!」(ジョルジュ・サドゥール『チャップリン』鈴木力衛。清水馨訳、岩波書店)
 真実とは正反対だった。デタラメも度がすぎていた。――妬みゆえの中傷。いつの時代も変わらない。そうした″さかさまの評価″を信じたり、動じたりするのは、あまりにも愚かである。人間として卑しく、みじめである。
 チャップリンは相手にしない。八方、手を尽くして、母を島から救いだす。そしてハリウッドに近く、気候のよい、太平洋岸のサンタモニカの別荘に、付き添いと看護婦を付けて住まわせた。母の健康を思ってのことである。
 すると、新聞はまた書いた。
 「チャップリンは母親と一つ屋根のしたに住むことを拒否した」(同前)
 だが、売らんがための新聞がどう書こうと、チャップリンは見おろしていた。真実は自分がよく知っている。何と言われようと結構だ。それより、またお母さんと一緒に生きられるんだ、なんてうれしいことだろう、と。
 ちなみにサンタモニカには、SGI(創価学会インタナショナル)のアメリカの本部がある。私も、なるべく早い機会にふたたび訪れ、できるだけ長く滞在して、世界広宣流布への道を大きく開いていきたい。(拍手)
 ともあれ、私どもの舞台は全世界。いよいよ、これからが、私どもの時代の本格的な幕開けである。(拍手)
12  汝の使命を全うせよ
 チヤップリンの母は、息子の成功を当然と思っていた。信じきっていた。
 そして「だけど、病気になっちゃ、それもおしまいだからね」「こんな夢のような芝居の世界にいるより、本当の自分に一戻ったほうがいいんじゃないのかい?」(前掲『チャップリン自伝』)と。
 ――どんな富と名声を得ても、「本来の自分」を忘れてはいけない。そして体に気をつけて――これだけが、母の忠告だった。
 自分は自分である。自分の道を、自分らしく歩みぬいていけばよい。大事なのは、わが信念の道をはばむ「悪」と戦う勇気である。「悪」をそのままにしておけば「悪」は増長する。それではこちらまで結局、「悪」に通じてしまう。「善」は「悪と戦う」事実の姿のなかにしかない。
 そして正義を主張するのに、だれ人にも遠慮する必要はない。黙っている義務もない。私どもは、広布のため、幸福のために、戦う権利がある。(拍手)
13  ともあれ、母親がわが子をどこまで信じ、自信を与え、支えられるか。ここに「教育」の一つの要がある。チャップリンの母は、まさにそうであった。チャップリンの天性を見抜き、「誇り」の尊さを教え、「あなたはあなたの運命を全うしなさい」と励まし続けた。
 決して過保護ではなく、″人間としての基本″をきちんと教えた。そのうえで自由奔放に生きさせた。子どもの″自発″の意志を尊重した。
 これは、婦人部の皆さまへの一つの示唆となるかもしれない。たとえば勤行にしても、「もう中学生なんだから、勤行は朝晩きちんとやりなさい!」などと、頭ごなしに言われては、子どももやりきれない(笑い)。わかっていても″強制″されると、だいたいいやになるものだ。(爆笑)
 勤行・唱題の大切さを教えたうえで、おおらかに長い目で、成長を見守ってあげることである。少しずつ向上していけばよい。大事なのは、生涯にわたる信仰である。自分が納得すれば、自発的に続けるにちがいない。
 どこまでも親子の「信頼」が基本である。その絆があるかぎり、幸福を願う親の気持ちは伝わっていく。短慮によって、信心のことで争ったり、信頼の絆を壊したりするのは、あまりにも愚かである。
 また″ともかく信心だけさせておけば心配ない。あとはすべてうまくいく″というような安易な考えは、厳しく言えば、信仰の利用である。努力の放棄となる。信心は即生活であり、即知恵でなければならない。
 どう子どもの立派な「人格」を育てるか。わが婦人部は、どこまでも聡明であっていただきたい。
 深い心の絆で結ばれた喜劇王とその母。彼女は晩年、陽気で、何不自由なく、天衣無縫に生きた。病気もほとんど大丈夫だった。二人の息子の成功を見届け(チャップリンの兄も俳優に)、孫たちに囲まれ、アメリカに来て七年後、安らかに死んだ。六十四歳。四十歳のチャップリンは、声をあげて泣いた。
14  「時」は満足の結末を贈る
 さて、チャップリンは言っていた。
 「時というやつは偉大な作家だよ。いつも間違いのない結末を書きあげるじゃないか」と。
 「時」。春を迎えなければ、水仙も咲かない。秋が来なければ、お米も収穫できない。「時」は誤らない。仏法も「教・機・時・国・教法流布の先後」を説く。「時」の力を重視する。
 いかなる世界でも、達人は、「時」の力に目をそそいでいるものだ。チャップリンもそうであった。
 ″長い日で見よ!″″うまず、たゆまず努力していれば、立派な結末が来るよ!″――彼が母から受け継いだ楽観主義が、ここにあった。
 人生の″ハッピーエンド″を信じ続ける。そのために、「今」を懸命に生きる。目下の課題に挑戦する。そうすれば、いつか必ず、努力が花咲く時が来る――。「時」の力を知っているがゆえの、あっけらかんとした強さだった。
 「強く」、あくまでも「強く」。そして「前へ」、あくまでも「前へ」。それが、人生を悲劇で終わらせない力である。一つの″コツ″である。
 何かあるとすぐ、神経質になったり、おびえたり、悲しんだり――そんな弱い心は、それ自体、悲劇である。わびしい。
 柔軟で、何でも陽気に弾き返せる、ふてぶてしさ、不敵さ。戦うべき時には見事に戦う闘争心、生命力。この強さで、喜劇王チャップリンは、実際の一生でも「喜劇」――楽しい劇を演じて見せた。人生の王者と立ち、そびえたのである。
15  「時は偉大な作家なり」。このことは、広布の戦いにおいて、いよいよ真実である。視野が狭ければ、何が正義かもわからない。長い目で見ることだ。そうすれば正邪の本質が見えてくる。
 あの″言論問題″も、いわゆる″政教分離″も、″正信会″の追放も、反逆者の″正体露見″も、今となっては、すべて意味があった。もし、何事も起こらなければ、どうなっていたか。悪侶や、それと結んだ悪人たちに、いいように攪乱されていたであろう。取り返しがつかなくなるところであった。それらがあったから、皆、救われた。私はそう思うが、どうだろうか(拍手)。とともに、先を見つめながら、一切に耐え、戦いぬいた人の栄光は、いかばかりであろうか。
 今のあらゆる戦いも同じである。必ず後になって、″本当によかった″と感謝されることは間違いない。(拍手)
 立つべき時に立たねば、真の人間とは言えない。大聖人の門下とは言えないであろう。悪を放置しておいては、後輩があまりにもかわいそうである。どれほど皆が苦しむか。
 「まことの時」。今が、その「時」である。
 私どもは進む。大聖人の仰せのとおりの道を行く。絶対に正義であるゆえに、恐れないし動じない。そんな必要は微塵もない。一切は「時」とともに明らかとなろう。
 御本仏が私どもの最大の味方であられる。勝利しないはずがない。安心して戦っていただきたい。(拍手)
16  「母の心」を「独裁者」から守れ
 先日(二月十七日、第四回全国男子部幹部会)、映画『チャップリンの独裁者』での演説のラスト、″恋人への呼びかけ″を紹介した。
 「ハナ、ぼくの声が聞こえるかい? いまどこにいようと、さあ、顔を上げて! 見上げてごらんよ」(ラジ・サクラニー『チャップリン』上田まさ子訳、佑学社)
 この恋人の名ハナ(ハンナ)こそ、忘れ得ぬ母の名前であった。母の死から十年たっていた。母は自分に「愛、そして人間の心」を教えてくれた。その母への呼びかけで、「非人間性との戦い」であるこの映画を、彼は締めくくったのである。
 「非人間性との戦い」――私どもの戦いも、同じである。(拍手)
 「独裁者」(ヒ上フー)は、「母の心」と対極にあった。
 母は、自分を一個の″かけがえのない人間″として、大切にしてくれた。反対に、独裁者は、人間を機械の部品か、おもちゃのようにしか見ていない――。
 学会も「一人」を大切にする。この心は「母の心」に通じる。これほどまでにあたたかく、一人一人の面倒をみ、幸福を祈り、守り合っている世界が、他のどこにあるだろうか。学会ほどうるわしい、民衆の人間性の世界の広がりは、これまでなかった。これからも、とてもつくれないであろう。
 また、母は「誇り」を与えてくれた。独裁者は「誇り」を踏みにじる。
 母は、どんな貧しさのなかでも、「希望」を教えてくれた。独裁者は、「希望」を摘み取ろうとする。
 母は、楽しく「歌う」こと、「踊る」ことを教えてくれた。独裁者は、自由な歌も踊りも禁じた。皆が胸を張って、歓びの歌を歌うことが、我慢ならないのである。嘆きの歌、隷属の歌を歌わせたいのだ。
 母は、「私を乗り越えて、賢くおなり」と。独裁者は「何も知らないでいいから、黙って私に従え」と。まさに正反対である。
17  「母の心」が、チャップリンの原点であった。彼は、この原点を忘れなかった。ゆえに強い。ゆえに戦えた。勝った。
 原点を忘れてはならない。戸田先生のあの「大闘争心」「学会精神」を永遠に失ってはならない。
 また、この「母の心」が彼の全身に生きていたからこそ、彼の作品は、全世界の人々の心を打った。「母の心」は、いずこの国でも共通だからである。
 人の心を打つ。感動させる。芸術だけではない。宗教も、この″心をとらえる″事実なくして広まらない。心から納得できる話と、心から安心し、信頼できる人間の絆がなければ、支持されるわけがない。
 まして、多様にして激変を続ける社会であり、世界である。広宣流布を少しでもやる気があるのなら、この道理に気づかぬはずがない。広布を進めないどころか、進めている人を迫害し、前進を妨げる。それでは、大聖人の御遺命は、いったいだれが実現するのだろうか。(拍手)
 友人であるソ連の作家アイトマートフ氏は、学会が仏法を世界に弘めた歴史を讃嘆され、「これまで、だれにもできなかったことです。まさに『新思考』で、難解な仏教の教えを、わかりやすく世界の民衆の心に入れた。すばらしいことです。この道以外に広まるはずがありません」と語っておられた。
 多くの海外の人、また一流の人の目には、真実は鮮やかに見えている。
18  「出発点とゴールを一致させる人。その人を、私は幸福者と呼ぶ」という言葉がある。
 中途でコースから脱落しては、栄冠はない。最後が大事である。幸福の総仕上げのゴールヘ完走しなければ、それまでのせっかくの努力が水の泡となってしまう。
 学会という「母なる大地」で発心し、育った皆さまである。一生涯、この人間愛の世界を大切にし、この広布前進の世界で生きぬいていただきたい。そして「時は偉大な作家」であることを、みずからの「すばらしき人生」で、晴れやかに証明していただきたい。そうした、皆さまの幸せだけが、私の切なる願いであり、祈りである。(拍手)
 チヤップリンが、自分の子どもに語った言葉がある。
 「もし、いいと思ったら、どうやろうかなどとけっして心配するな、ねえ、チャールス(=子息の名)、つまり直感だよ」(チャールス・チャップリンJr、N&M・ロー共著『わが父チャップリン』木種三郎訳、恒文社)
 あれこれ考え、迷っている間に、思いきってやってみることだ。まず行動だよ。そうすれば知恵は、いくらでもわいてくるものさ、と。
 決して″無謀″を勧めているわけではない(笑い)。何事も、緻密な作戦、計画が必要なことはいうまでもない。そのうえで、やるべきことが決まったら、あとは、躊躇せず、ともかく動いてみることだ。知恵はあとからついてくる――これも一つの重要な真理である。戸田先生も、同様のことを、よく教えられていた。
 この「まず動いてみろ」も、″人生と奮闘し続けた母″の背中から、チャップリンが学んだことだったかもしれない。
19  権力者の責めが「行者」の証明
 さて、チャップリンの話ばかりだと、ほかに知らないように思われてしまう(爆笑)。ここで根本である御書を拝したい。
 仏法の眼で見れば、自分より上位の者に責められる、迫害されることが「法華経の行者」の証明である。日蓮大聖人はこう仰せである。
 「上のせめさせ給うにこそ法華経を信じたる色もあらわれ候へ、月はけてち・しをてみつる事疑なし此れも罰あり必ず徳あるべし・なにしにか・なげかん
 ――権力者である「上」が(大聖人を)責められるからこそ、(大聖人が)法華経を信じていること(法華経の行者であること)がはっきりと目に見えてわかるのである。月は欠けては満ち、潮は引いては満ちることは疑いない。今、私(大聖人)も竜の国の法難・佐渡流罪という罰(不利益)をこうむった。ゆえに今度は必ず徳(利益)があるでしょう。何を嘆くことがありましょうか――。
 文永八年(一二七一年)九月十四日、佐渡に御流罪になられる直前、大聖人は、相模(現在の神奈川県)の依智におられた。そこから在家の門下・富木常忍を励まされたお手紙である。
 いうまでもなく、御文の「上」とは、直接的には当時の幕府権力をさしている。そのうえで、もともと、この言葉は、広い意味での「高位の人」「権力者」を意味する。今でも「お上」といえば、周囲に有無を言わせぬ権力の姿をさす。
 「上」、すなわち、地位においても、権威・権力においても、自分より上位の存在に迫害されることによって、法華経を正しく行じている一つの証明となるのである。
 事実、大聖人の御生涯は、幕府から、また良観など大きな権威をもった僧からの迫害の連続であられた。当時、大聖人には、社会的には何の特別な権威も、また地位もなかった。
 自分より「下」の者にいろいろと批判されるのは、「法華経の行者」の証明とはならない。「上」の人から弾圧されて、初めて本物なのである。私どもは、このことの重大な意義を、深く拝してまいりたい。(拍手)
 また、大聖人は、月が欠ければ次は必ず満ちるように、潮が引けば次は必ず満ちるように、この大悪の後には、必ず大善、大利益がありますよ、と。
 御自身が大難のさなかにあられるにもかかわらず、むしろ門下を激励しておられる。
 「なにしにか・なげかん」――何を嘆く必要があろうか、むしろ喜んでいるのだ、と。このお言葉に、門下はどれほど安心したことであろうか。
 苦しいときほど、民衆に「希望」を与える。「確信」を与える。その広大な大慈悲こそ、大聖人の本来の御精神である。(拍手)
20  瀬戸内は″文化創造の地中海″
 広島には、また中国には、無限の力がある。くめども尽きぬ希望がある。それが、私の偽らざる感想であり、信念である。(拍手)
 じつは、初代会長牧口先生も、この中国の豊かな将来性を洞察しておられた。(拍手)
 牧口先生の一つの着眼点は、「瀬戸内海」であった。「瀬戸内」というと、「山光」(山陰)地域の方は、なんだと思われるかもしれないが(笑い)、全中国のことと思ってスクラム固く、大きな心でとらえていただきたい。(笑い)
 温暖な気候、穏やかな波。風光明媚な約七百の島々――。瀬戸内海は、日本で最大の「内海」であり、その一部は、瀬戸内海国立公園に指定されている。
 牧口先生は、青年時代の大著『人生地理学』の中で、「半島が文化の起点たらば内海は実に半島をして文化の基点たらしむるものなり」(以下、引用は聖教文庫版による)と述べられている。つまり、半島は文化の出発点であり、さらにその半島が文化の中心地になるうえで、内海は欠かせない役割を担うということである。
 牧口先生は、その例として、「吾人(=私)はこれらの観察をなすに当たりて、遠くヨーロッパに例を求むるにおよばず。近くしてかつ顕著なる好例を瀬戸内海に得。本州、四国、九州の三大島に包囲せられたる瀬戸内海は、さながらアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大州に囲繞(=囲まれた)せられたる地中海」と、地中海と対比するかたちで瀬戸内海を挙げられている。(拍手)
 いうまでもなく、地中海は古来、海上交通路として重要な役割を担い、貿易の一大センターとなり、ヨーロッパ文明をリードする輝かしい文化を生みだしてきた。
 同じように、瀬戸内海は、古くは縄文・弥生時代から、北九州と畿内を結び、政治や文化の交流に重要な役割を果たしてきたといわれる。以来、瀬戸内海は、重要な航路として、また産業、文化の中心地としてあり続けた。
 たとえば、遣唐使、遣新羅使なども、瀬戸内海を通って旅立っていったことは有名である。
 また、牧口先生は「全国統制の基礎は、実にこの内海の権力を把握(=握りおさえる)するに在ることは明瞭のことなり。これにおいてか、歴朝関西の大戦は、常にこの内海において決せられたり」と。全国を統一するには、瀬戸内海を制することが不可欠だったのである。
 そして、具体例として、「源平の戦」「南北両朝の争」「織田信長の一統(統一)」「豊臣秀吉の勃興」を挙げられている。
 ともあれ、牧口先生は、文明論的な視野から、瀬戸内海の無尽蔵の未来性を鋭く論じておられたことを知っていただきたい。(拍手)
21  その瀬戸内海は、現在、新たな発展をめざしている。瀬戸内海沿岸十府県(広島・岡山・山口・愛媛・香川・徳島・兵庫・大阪・福岡・大分)は、日本全体のなかで、面積の約一五%、人口の約二五%を占めている。経済圏・文化圏のなかでも、枢要な地位にある。
 近年は、海を利用した観光、レクリエーション、スポーツが注目されていることもあって、広島県を中心として、瀬戸内海の総合的な利用・開発がめざされている。
 たとえば一昨年(平成元年)には、「'89海と島の博覧会・ひろしま」が約四カ月にわたって盛大に開催された。また、国際港湾都市をめざして、「広島ポートルネッサンス21」と銘打ち、本格的な計画が実施されようとしている。(拍手)
 さらに、一九九三年(平成五年)十二月には、新しく「広島空港」が完成する予定とうかがっている(拍手)。中国、シンガポール、台湾、香港、グアム、サイパンなどへの国際線の就航が予定されており、将来的にはアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパなどへの便も考えられているという。
 また、その翌年の一九九四年(平成六年)には、広島で「アジア大会(アジア競技大会)」が開催されることになっている(拍手)。現在、その準備が着々と進んでおり、アジア各国から多くの青年を迎えるということで活気づいている。(=日本では、東京に続いて、広島が二番目のアジア大会開催地となる)
22  ともあれ、今、私どもの「世界への道」は広々と開けている。「世界」に背を向けた閉鎖性は、学会には無縁である。きょう集まった皆さまも、できれば全員、海外に行きましょう。ここ広島から!(拍手)
 中国五県の皆さまは、長寿、健康であっていただきたい。何の悔いもないと言いきれる、完全燃焼の″すばらしき人生″を生きぬいていただきたい。地域においても、職場、家庭においても、いずこにおいても、一切に勝ちぬいていただきたい。
 そして、″勝つことは愉快である″″広布闘争の人生劇は愉快である″との気概で、大満足のハッピーエンドヘ、たくましき″勝利王″と輝いていただきたいと申し上げ、本日のお祝いのスピーチを結びたい。
 (広島平和記念会館)

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