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日蓮大聖人・池田大作

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第四回全国男子部幹部会 連戦連勝を青年の「知恵」「努力」「忍耐」で

1991.2.17 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  無上の富――青春をどう使うか
 「戦う人生」は美しい。美しい人生は、自分も幸福である。他の人の心をも打つ。なすべき戦いを避ける人生に、輝きはない。
 今、時は「春」間近。風のにおいも、春めいてきた。
 「風は是れ天地の使なり」――風は天地の使いである――と、日蓮大聖人は池上兄弟へのお手紙で仰せである。
 風は″天の使い″として、気象の変化等をとおし、諸天の動向を告げる。とともに″地の使い″として、社会と人心の動きを雄弁に語ると、仏法では説く。
 それはそれとして、諸君も今、「青春」の真っただ中。諸君のはつらつたる姿は、いちはやく広布の本格的な「春」を告げているように思えてならない。
 世界広宣流布への道が、いやまして広々と開けていく、今この″時″に巡りあい、青年部として戦っている諸君の存在は不思議である。どれほど大きな使命があることか。
 男子部が立ち上がれば、一切に勝つ。これが学会の伝統である。私を中心に諸君の先輩が渾身の闘魂で築き上げた歴史である。この伝統が永遠に健在であることを、本年もまた、見事に証明していただきたい。(拍手)
 吉田絃二郎氏は、とくに戦前、愛読された作家である。昔、氏の″若いということはすばらしい。青年は青年であるだけで、どんな高位高官よりも、財産家よりも尊い″という意味の言葉を読んだ。(=吉田絃二郎『土と人と言葉』日本青年館発行。「青年よ、君等は青年であるというただその一事だけですでに誰よりも尊まるべきだ。詩のごとく、神のごとく自然なる生活に生くるところの青年であるということは、宰相であり、哲人であるということよりも人類の衿恃ほこりなのだ」)
 本当にそのとおりだと思う。宰相の権力も、大富豪の巨万の富も、「青春」の光の前には色あせる。
 その人生最大の富を諸君はもっている。どう使うか、どう何十倍、何百倍の価値を生ぜしめるか、決めるのは自分自身である。
2  「開目抄」には、こう述べられている。
 「たいをなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ」――ひとしずくをなめて大海の潮がどのようなものであるかを知り、ひとつの花を見て春が来たことを推察しなさい――と。
 大聖人は、法華経で最難事とされる妙法の弘法をなされ(六難九易の説相)、大難を受けておられた。人々はその事実を見て、大聖人が、一切経の勝劣を知られた、真の「法華経の行者」であられることを知るべきである、と仰せである。
 大難を繰り返し受ける人、それでも妙法弘通に進む人、その人こそ「法華経の行者」である。「受難」の事実こそ、「正義」の証明なのである。大聖人は、この道理を強く教えておられる。
 仏法では、何事にも″兆し″があり、″現れ″があると説く。善きにつけ、悪しきにつけ――。その小さな″兆し″を敏感に察知して、悪い芽は摘み、善い芽は伸ばす。その人が賢者であり、勝利者となる。
 愚かであってはならない。「法華経」には「智慧聡達」(開結五〇二㌻)と説かれる。(=寿量品の″良医病子の譬″で、良医が「智慧聡達」と説かれる。智慧が世法仏法にわたり、聡明で、人心の深い機微に通達していること)
 鋭敏で、思慮深い「知恵の人」であっていただきたい。そして、何があってもへこたれない「努力の人」「忍耐の人」であっていただきたい。その人が勝利する。この連戦連勝の兵法を教えたのが「法華経」である。
3  赤誠の忠言に歴史の教訓
 ″殷の紂王″(紀元前十一世紀)といえば、中国古代の悪王の代表として有名である。「異体同心事」など御書にも登場するので、諸君も名前を知っていると思う。
 暴虐な彼が殷の王朝を自滅させることを、じつは、初めから見抜いていた臣下がいた。小さな″兆し″を見逃さなかった、その名臣の名は箕子きし
 彼は、紂王が即位し、初めて″象牙の箸″を作らせたのを見て、嘆いた。
 「象牙の箸を用いたら、もう普通の土を焼いた食器ではすまない。きっと玉の杯を作らせるだろう。玉杯に象牙の箸となったら、質素な食事、衣類、住居などでは、とてもすむまい。錦を重ね、豪邸を建て、何か足らないと遠方から取り寄せ、民からしぼり取り、どんどん華美になっていくにちがいない。ああ、行く末が恐ろしい!」と。
 彼の予見どおりであった。″象牙の箸″から間もなく、ぜいたくはエスカレートし、際限がなかった。税金は上がり、民は苦しみ、ついに皆に見限られるにいたった。民衆も、心ある臣下も皆、心でそむいた。(=王に批判的な者が出ると「刑軽きが故に反く者あり」として過酷な刑罰を設け、ますます人心は離れた)
 独裁者は、そうした人々の心すら、わからなくなるものだ。自分のことさえ自分でわからなくなる。皆が何でも言うことを聞くゆえに、自分を律する基準が見えなくなる。紂王も、その一人であった。
 「異体同心事」に「殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさけぬ」――殷の紂王は、七十万騎の大軍だったが、同体異心だったので、異体同心の周の武王に「牧野の戦」で負けた――と仰せである。
 教学試験にもよく出題される(笑い)、あまりにも有名な御金言である。
 「同体異心」とは、形だけ無理に権威・権力でまとめ、取りつくろっている姿であろう。見かけは一致しているようで、そのじつ、心はバラバラである。皆、自分のことを中心に考えている。従わねば、後が怖いので、格好だけ合わせている――真の「団結(異体同心)」とは正反対の姿である。
 紂王のぜいたくと無慈悲。だれもがその実態を知っていた。とても尊敬はできない。利害でついているだけである。心は離れていた――王朝は滅んだ。
 国の滅亡を、″象牙の箸″一つで予見した箕子は、まことに「人間を知っていた」というべきであろう。(=殷滅亡後、「周の武王は箕子を朝鮮に封じた」と、『史記』は伝える。これが「箕氏朝鮮」のもととされる)
4  これも中国の話である。後魏(四〜六世紀)の太武帝が、狩りをして遊んだときのこと。ある臣下に、「もっと良い馬をそろえよ」と命じた。「良い馬」とは、今でいえば″高級車″等にあたろう。
 だが、その臣下は、わざと弱い馬しか出さなかった。
 帝は怒った。「斬る」と胴喝した。しかし臣下は少しも動じない。それどころか、心配する自分の部下に淡々と語った。
 「主君の遊びのために十分尽くさなかった罪は小さい。だが、国家の不慮(危険)に備えない罪は大きい。今、わが国は、北から南からも狙われている。私は、これを心配し、そのために良い馬を養っているのだ。その馬を、遊びには使えない。
 明主に対しては、筋をとおせば、命令を聞かなくてもよいと、古来から言われている。責任は私にある。お前たちは、心配しないでよい」と。
 この言葉を伝え聞いた太武帝は、「ああ、このような臣下こそ、国の宝だ」と感嘆したという。
 ″国のための馬だ。主君の命令であろうと、遊びのためには出せない″――主君を怒らせても、あえて言うことを聞かなかった臣下は、真の忠義の人であった。
 そして、太武帝もまた、いったんは怒ったが、臣下の国を思う心を知り、このときは、自分の非を認めたのであった。(増井経夫『「智嚢ちのう」中国人の知恵』朝日新聞社、参照)
 ″筋のとおった″主張を、率直に認められるかどうか。指導者としての賢愚がためされるのは、そこである。(だが、臣下を恫喝する帝の性癖は改まらず、後年には多くの反対を押し切って仏教を弾圧、やがて側近に殺される末路を招いた)
 「道理」が「道理」として通じない世界は不幸である。永続するはずもない。やがて人々に見捨てられ、滅びていく。それは多くの歴史が証明している。
 御書に「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」――仏法というのは道理である。道理というのは、主君(権力)にも勝つものである――と仰せである。
 「道理」「筋のとおった話」は、主君、権力者にも抑えきれるものではない。国を思い、未来を思うならば、主君は道理に耳をかたむけるべきであり、臣下は、主君に非があれば、道理にしたがって諫めるべきである。これは、大聖人が御書で繰り返し教えられたところである。
 大聖人御自身、″権威・権力で道理を曲げる″当時の権力者や悪僧と、一生涯、徹底的に戦われた。私ども門下も、その精神は不変でなければならない。(拍手)
5  仏法の真髄は「慈悲」の精神に
 ″太武帝の馬″と同様の話は多い。後唐(十世紀)の荘宗そうそうという皇帝が、あるとき、遊興のために金を必要とした。しかし、金蔵は、張承業ちょうしょうぎょうという老いた臣下が握っている。皇帝は、あの手この手で、金を引き出そうとした。しかし、老臣は頑固だった。
 「国家の銭は、私の勝手にはできません。だれにもできません」と。
 それでも主君がしつこく頼むので、老臣は言った。
 「私は(あなたの父である)先帝の遺言によって(天下を取るという)後事を託されているのです。金を惜しむのではありません。あなたを助けて、天下に望みを成就しようというだけです。
 どうしても、この金が欲しいといわれるなら、何も私に遠慮される必要はありません。(私を殺すなり)帝の権力を使えばよいでしょう。しかし、財が尽き、民も兵士も離れていって、それで国はどうなるのですか。私一人の災難ではすみませんよ」
 老臣はこう言って、荘宗の着物をつかんで男泣きした。皇帝も、さすがに何も言えなくなった。(前掲書『智嚢』)こういう老臣のような人物こそ、人間として真に偉い人である、と私は思う。
 荘宗が、もしもこのとき、老臣を退け、金を自分の好きなように使い始めていたら、国は滅び、みずからも千載に悪名を残したであろう。
 ″皇帝のわがままに、そのまま従っていたら、先帝の遺命は実現できない。自分の生命をかけてでも、「天下を取る」という誓いは守らねばならない″――この老臣の心境が、深く胸に迫ってくる。
 次元は異なるが、私どもも日蓮大聖人の御遺命たる「広宣流布」のためには、いかなる時代になろうとも、信念を曲げるわけにはいかない。いかなる圧迫があろうとも、言うべきことは言い、守るべきは守る以外にない。(拍手)
 ともあれ、金銭は、賢明な人の心をもむしばみ、狂わせる魔性をもっている。留意すべき根本的な大事ともいえる。
6  私どもは、御本仏の仰せのとおりに進む。御本仏の大慈大悲につつまれた私どもの栄誉と福徳は、三世永遠である。(拍手)
 仏法はどこまでいっても、その真髄は「慈悲」である。それがまた道理である。
 ゆえに感情で、その仏法の真髄をはき違えて、「信者のくせに」「信徒のくせに」という傲慢な心をもったり、怒鳴ったりする人が、もしいたとしたら、その人は、真の仏法を会得した人ではない。
 いわんや聖職者は、あたたかい慈悲で、人を救う立場である。救うべき信者を無慈悲にいじめるような人は、あれほどまでに在家の門下を大切になされた日蓮大聖人の清流を受け継ぐ人のなかにはいないにちがいない、他の宗派の人ならともかく、と私たちは思う。(拍手)
7  ものの見方は、その人の境涯にあり
 人間のものの見方は、その人の境涯による。同じものでも、見る側の目によって、まったく違って見えるものである。
 わかりやすい例で言えば、たとえば恋愛時代。恋をしているときは、相手のすべてがすばらしく見える(笑い)。しばしば、他人には理解できないような美まで発見する(笑い)。ところが結婚するや、見方が一転(爆笑)、奥さんのほうでも″こんなはずじゃなかった。だまされた″と思っている。(爆笑)
 本当はおたがいにそんなに変わっていないはずだが(笑い)、自分の見る目のなさを嘆くより、相手が悪いようにだれもが言う(爆笑)。こうした例があまりにも多い。(爆笑)
 立場や境遇が変われば、ものの見え方も変わるものだ。
 貧乏なときには、少しのお金でもありがたい、と思える。けれども、いったん、ぜいたくになれば、金がいくらあつても足りないと思うようになる。欲に目がくらんでしまうのである。
 政治家など指導者の場合は、問題が深刻である。そういう立場の人間が貪欲であれば、民衆が献身的に努力していても、″働きが悪い″ように見えてしまう。そして、″もっと働け″と民衆に強要し、圧迫する。こうした悪しき権力は、つねに鋭く見破らねばならない。
8  中国・南宋(十二世紀〜十三世紀)のある帝王が、銅の像を作らせた。できあがった像を見て、帝は文句を言う。「顔がやせすぎている」と。
 当時の優れた彫刻師たちが作ったものである。偉ぶった人は、必ず何かケチをつけなければ気がすまない。
 しかし王の命令である。何とか直そうとするが、「やせすぎている」のを直しようがない。太っているのなら削ればよいのだが、やせているのでは、うまくいかない。
 困りはてた人々は、ある賢者に相談した。賢者はいとも簡単に解決した。
 「これは、顔がやせすぎているのではない」。皆は「どういうことか」と耳をかたむける。賢者は言う。「むしろ肩や腕が肥えすぎているのだ」と。
 そこで肩や腕を削った。すると顔がやせているようには見えなくなった。(前掲『智嚢』)
 まさに″新思考″であり、″コロンブスの卵″のような話である。言われてみれば当たり前のことだ。けれども、いったん一つの見方を思い込まされてしまうと、別の見方をするのはむずかしい。
 この話は、万般に適用できる知恵を示唆している。知恵が大事である。大智に行き詰まりはない。学会もまた、真剣勝負の「知恵の戦い」で、あらゆる困難に打ち勝ってきたのである。
 相手の姿をどう見るか。それは、そのまま自分の心を映しだしている場合が多い。たとえば、貪りの心が大きければ、人の真心も見えない。けなげな真心も、あくなき欲望の大きさからすれば、小さなものに見えてしまう。真心が足りないのではない。欲が大きすぎるのである。
 学会は、これまで「真心の人」を最大に大切にしてきた。真心には、それに倍する真心で応えてきた。これが信仰者の行き方であり、人間としての″道″であろう。信心の真心――その″心″を大切にする。そこに「信頼」も「福運」も、いや増して深まり、広がっていく。(拍手)
 道理に外れた無法を行っている人には、道理を守っている人のほうが曲がって見える。首をかたむけて見ていて、それが真っすぐだと信じている人のようなものである。
 周囲の人が間違っているのではない。自分が、正しい″基準″を失っているのである。こういう人にだまされてはいけない。従ってはいけない。
 学会はどこまでも変わらない。どこまでも御本尊が根本、御書が根本であり、基準である。この不変の大軌道を歩んでいけばよいのである。(拍手)
 また、どんな闘争においても、こちらが臆病であると、敵が強いように見える。敵が強大で、戦いがたいへんなのではなく、自分が弱くて、そう見えている場合があまりに多い。また反対に、油断もいけない。聡明に敵の実体を見抜くことが、勝利の第一歩である。
 ともあれ、だれがどう見ようと、どう変わろうと、また時代がどうあろうと、学会は不変の大道を行く。皆さまは、その若きリーダーである。皆さまもまた不変の信念に生きゆく″学会の勇将″であっていただきたい。(拍手)
9  「戦う人生は美しい」
 不変の学会精神とは、「広宣流布への大闘争心」である。
 広宣流布の戦いは、さまざまな次元にわたる。御書に「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とお示しのように、森羅万象ことごとく仏法の世界である。仏の法は社会の一切の事象にあまねく通じ開かれている。
 学会が推進している、仏法を基調とした文化・平和・教育推進の運動も、全部この精神にもとづいたものである。
 また、この「広布の大闘争心」のなかに、御本仏のお心にかなった信心があると確信する。形ではない。地位ではない。心である。行動である。
 「人生は美しい。戦うがゆえに美しい」――これは″近代オリンピックの父″クーベルタン男爵の有名な言葉である。
 大聖人の生涯も「戦い」の連続であられた。「開目抄」に「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」――少々の難は数えきれない。大きな難は四度である――と仰せのように、まさに波瀾万丈の御生涯であられた。
 御一身の安楽など微塵も願われなかった。現実社会の嵐に向かって、安住の家もなく、ただ一切衆生のために戦われた。そのお姿は、このうえなく崇高であられる。
 ゆえに、御本仏のお心である「大闘争心」を忘れ、安逸を貪る門下であっては絶対にならない。
10  青空が美しいのは、上空で強い風が走り、戦っているからである。その戦い(風)がやめば、空には雲がたれこめる。
 人生もまた同じである。戦いのなかに、生命の美しき青空は開く。戦いのなかに、鍛えられ、磨かれた人間性の美が輝く。「挑戦」という戦いをやめれば、人生は張りもなく、たるんだ曇天の日々となろう。
 「静」という字は「青が争う」と書くのだという詩人もいる。闘争のない静穏、平静は偽物なのである。″大闘争のなかにしか、本当の平和はない″と語った指導者もいた。
 また、花が美しいのも、それが厳寒の冬と戦い、勝った笑顔だからである。
 闘争ある人生は美しい。自分自身に秘められた可能性も個性も、厳しき苦闘のなかで引き出され、磨かれる。そこで、初めて大輪の人間的魅力となって開花する。
11  戦っている人は、目が違う。美しく、光を放っている。心の充実感は、おのずと外面に表れ、顔にも何ともいえない気品をたたえるようになるものだ。
 諸君も戦っている。寒風のなか、金銭的には何の見返りもない精神闘争に、広宣流布の戦いに挺身する諸君の姿は尊い。″わが青春を最高に価値ある形で時代に刻もう″と進む姿は、じつに美しい。
 もし信心をしていなければ、きょうは日曜日でもあるし、自宅でゆっくりとくつろいでいたかもしれない。だいたい十一時半ごろまで寝ていて(笑い)、食事は朝昼兼用(笑い)。奥さんやお母さんに怒られ(笑い)、やっと起きても、半分眠ったままテレビに向かい(爆笑)半日が過ぎる(笑い)。さえない頭で″今晩はどう過ごそうかな″と考えているうちに、なんとなく一日が終わる(笑い)。これではあまりにもむなしい。(笑い)
 忙しいようであるが、もっとも価値ある青春を諸君は生きている。″戦いきった青春″の光は、年月を重ねるごとに、大きく、豊かに、満足をもって、輝きを放つ。そのことを確信していただきたい。(拍手)
12  広布の組織は歴代会長の″命の結晶″
 さる二月十一日は、第二代会長戸田先生のお誕生日であった。生きておられれば九十一歳。先生は、まさに「闘争の人間」であり、その生涯は「闘争の人生」「不可能を成し遂げた人生」であられた。ご自身の「生命」「寿命」をすべて広宣流布にそそぎこまれた。学会の組織にそそがれた。
 わが使命の完成に、生命をそそいで生きる。一日一日をわが身を削って生きる――。偉大な人生に、手抜きなどない。
 もとより次元は異なるが、釈尊は自分自身の生命を法華経にそそぎこんだ。
 大聖人は次のように仰せである。
 「果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ
 ――釈尊は、修行の結果得た仏としての功徳の三分の二をわが身に使われ、寿命は百二十歳まで生きられるはずだったのを、三分の二の八十歳で入滅し、残る四十年の寿命を世にとどめて、われら衆生に与えてくださった――。
 長寿は大切であるが、それ以上に大切なのは、いかに生きたかである。使命を完成したかどうかである。
 釈尊は出世の本懐である法華経を説いたあと、間もなく入滅の道をとった。あとは、その法華経を師として門下が生きていけばよかった。この御文には甚深の意義があると拝されるが、ともあれ、釈尊は「法」のため「民衆」のために、慈悲の命をそそぎきった。
13  同列に論ずることはできないが、学会も、戸田先生が、また牧口先生が、身命を賭した仏道修行によって得られた福運と知恵、生命力をかたむけ、そそいでできあがった。御本仏の御遺命実現のために出現した仏意仏勅の組織である。
 この恩師の″命の結晶″である学会を、私たちは永遠に守り、発展させていきたいと思う。青年部の諸君、どうかよろしくお願いしたい。(拍手)
 釈尊といえば、昨年の夏に続いて、今後もインドに青年部の代表が訪問する予定である。また、中国をはじめ他の国にも交流団の派遣が計画されている。
 このほか、創立七十周年へ向けて、これまでの何倍、何十倍と、親善交流、友好交流、また広布拡大の「世界への道」を広げていきたいと願っている。また諸君の力で、全世界を舞台にした、壮麗なる広布の新章節を開いていただきたい。(拍手)
14  青年の鋭き眼、鋭き弁舌で正義を!
 青年門下の南条時光については、これまで何度もお話ししたが、本日は、男子部の諸君の集いでもあり、少々、紹介しておきたい。
 大聖人は、当時十九歳(数え年)であった時光に、次のように仰せである。
 「かまへておほきならん人申しいだしたるらんは・あはれ法華経のよきかたきよ、優曇華か盲亀の浮木かと・おぼしめして・したたかに御返事あるべし
 ――大身の人(身分や地位などの高い人)から、圧迫を加えようとして言いだしてきたことに対しては「ああ、法華経のよい敵よ! 三千年に一度咲く優曇華の花や、一眼の亀が奇跡的に巡りあえる浮木のように、あいがたい敵である」とお考えになって、したたかに強く御返事をなされるがよい――と。
 この御文をしたためられた建治三年(一二七七年)ごろは、熱原方面(現在の静岡県富士市)で、日興上人を中心に盛んに折伏、弘法が進められていたときである。そのため、上野の地頭であった時光の身辺にも迫害の手がのびはじめていた。
 そこで大聖人は、信心のゆえに迫害を受けることは、あいがたい法華経の敵にあうことである。成仏への願ってもない機会である。だから、信心の心を強くもって、厳然と言いきりなさい。妥協したり、脅しに負けてはいけない、と励まされているのである。
15  諸君も、青春時代に、思いもよらない苦難や″強敵″に直面する場合もあるだろう。しかし、じつは、そのときほど自分の人生を開いていく絶好の機会はないと知ってほしい。より大きな″敵″との大闘争のなかでこそ、より大きな力を引き出すことができる。より大きく、より強く自分を鍛え上げることができる。
 私も、青年時代から、ありとあらゆる戦いをとおして、訓練につぐ訓練を受けた。鍛えに鍛えられた。だから、何が起こっても動じない。恐れない。負けもしない。本物の信仰者をつくるには、厳しき仏道修行は当然だと思ってきた。
 草創期の青年部の強さも、まさにここにあった。数々の熾烈な戦いのなかで鍛えられてきたのである。諸君も、信心を深め、人間を鍛える、この方程式を忘れないでいただきたいし、避けないでいただきたい。
 とくに、この御文の中で大聖人は「したたかに御返事あるべし」と仰せである。いかに権威・権力をふりかざしての威圧的な攻撃に対しても、若き信仰者らしく、堂々と「正義」の切り返しをしていけばよい。
 学会は、これまでの幾度の難に対しても、この御書にお示しのごとく戦いを進めてきた。だからこそ、今日の大勝利の発展を築くことができたのである。(拍手)
16  続いて大聖人は、時光に、こう仰せである。
 「千丁・万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をて所領をめさるる人もあり
 ――千町・万町という広大な土地を治める人でも、わずかの事(つまらない事)で、たちまちに命を捨て、その所領を取り上げられてしまう人もいる――。
 現代も、こうした人生模様は、さまざまに見られる。新聞などで報じられる出来事を見ても、思わぬことで一生を棒にふったり、これまでの功績を無にしたり、生命を失ったりすることは枚挙に暇がない。
 そして、「今度法華経のために命をつる事ならば・なにはしかるべき、薬王菩薩は身を千二百歳が間・きつくして仏になり給い・檀王は千歳が間・身をゆかとなして今の釈迦仏といはれさせ給うぞかし」と。
 ――それを思えば、このたび、法華経のために命を捨てるということならば、何が惜しいことがあろう。薬王菩薩は身体を千二百歳(年)の間、焼きつくして仏になられ、須頭檀王(釈尊が過去世において因位〈仏果を得るための修行の位〉にあって修行していたときの名前。千年の間、師の阿私仙人のために、水をくみ、薪を拾い、身を床として仕えたと説かれている)は、千歳の間、身を床として師に仕えた功徳で、今の釈迦仏といわれるようになられたのである――と。
17  人生、何に生きるか、である。人それぞれに人生があり、生き方がある。自分の置かれた立場で、みずからの使命を自覚し、自分自身に生ききることである。
 ただ言えることは、ある一つの世界で、たとえ頂点に立つ人になったとしても、それだけでは、その世界の範疇の人生を超えることはできない。
 しかも、三世という次元から見れば、どんなに栄華を極め、どんなに財産を築き、社会的地位を得ても、それらは決して永遠ではない。無常を免れることはできない。
 しかし、妙法は永遠である。ゆえに妙法に生きる人は永遠となる。妙法は広大無辺である。ゆえに妙法に生きる人は、まさに宇宙即我の広大無辺の境涯に生きることができる。
 広宣流布は全人類のための戦いである。ゆえに広布に生きる人は、全世界と全人類へと開かれた人生を生きることができる。また、広宣流布は永遠不滅の聖業である。ゆえに広布に生きる人は、永遠不朽の光彩を輝かしていく人生となる。
 その意味で、若くして妙法とともに生き、広布のために戦っている諸君は、いかに光輝に満ちた、意義ある人生を生きていることか。なんと幸福な人生であることか。そのことを深く確信していただきたい。(拍手)
18  とともに、この御文に仰せの、千年、千二百年の歳月の修行に象徴されるように、仏道修行は、自分自身の果てしなき連続闘争とも言える。
 もちろん、大聖人の仏法では、爾前の諸経で説くような歴劫修行は必要ではない。
 しかし、成仏のためには、たゆみなく信心の歩みを進めなくてはならない。自分自身への挑戦の道を歩みゆかねばならない。そう決めた人生には、もはやグチや嘆きはない。
 どうか、広宣流布という、もっとも尊い、永遠不滅の大業に生きている諸君である。大聖人の門下の誉れを忘れてはならない。獅子王の子の誇りを失ってはならない。
 たとえ現実の社会が、いかに波浪高く、嵐の吹き荒れるものであっても、それらを信心で見事に乗り越えていく、連続闘争の人生であってほしい。そして、連戦連勝の栄光の人生を手中にしていただきたいのである。(拍手)
19  さて、大聖人は、この時光へのお手紙の結びに、こう仰せになっている。
 「されば・ひが事をすべきにはあらず、今はすてなば・かへりて人わらはれになるべし、かたうど方人なるやうにて・つくりおとして、我もわらひ人にもわらはせんとするがきくわい奇怪なるに・よくよくけうくん教訓せさせて人のおほくかんところにて・人をけうくんせんよりも我が身をけうくんあるべしとて・かつぱとたたせ給へ
 ――したがって道理に反することを、すべきではない。今さらこの信仰を捨てたならば、かえって人の笑いものになってしまう。さも味方のように見せかけて退転させ、自分もあぎ笑い、人にも笑わせようとする奇怪な者たちには、十分に言わせておいたうえで、「多くの人が聞いているところで人を教訓するよりも、まず自分の身を教訓しなさい」と言って、勢いよくその場を立たれるがよい――と。
 信念の道を軽々しく捨ててしまう人は、結局、人から笑われる。たとえ別の人についたとしても軽く見られ、利用されるだけである。自分を利口だと思い、世の中をうまく渡っていると得意になりながら、じつは苦悩の流転の坂を、果てしなく転がり続けていくのである。
 青年期に戸田先生の厳しい薫陶を受け、またこれまで、さまざまな人の姿を見てきた経験からも、私は確信をもってそう言いきることができる。若き諸君には、絶対にそうした敗北の人生だけは、歩ませたくない。
 ともあれ、卑劣、奇怪な策謀に対しては、青年の鋭い日で見破り、鋭い弁舌で、敢然と正邪を明らかにしていく以外にない。(拍手)
20  ″文化の進歩が人類を幸福に導く″
 最近、チャップリンの作品や生き方をとおしてスピーチしたところ(=一月六日の第三十七回本部幹部会、同月二十二日の第十五回全国婦人部幹部会など)、何人かの方から、「ぜひ、ビデオでも観賞を」と強くすすめられた(笑い)。目が疲れるため、テレビはあまり長く見ないことにしているが(笑い)、せっかくのお言葉なので、昨日、『チャップリンの独裁者』のビデオを見た。
 やはり名演技である。とくにラストシーンの彼の演説は、何度聞いても、深い余韻を残さずにはおかない。先日のスピーチではふれなかった部分を、ここではご紹介したい。
 チヤップリンは語る。
 「すべての人間に働く機会を与え、青年には未来を、老人には安心を与えてくれるまともな新しい世界を作り出すために、みんなで戦おうではありませんか。
 独裁者も似たような約束をして権力を手にしました。しかしかれらはうそつきでした! 約束は守られませんでした。永遠に! 独裁者というのは、自分は自由でも、他の人を奴隷にします。世界を自由にするために戦いましょう。国境をなくし、欲望や、憎しみや、監視をなくしましょう。科学と進歩がわたしたちみんなを幸福にしてくれるような理想的な世界をみんなで作りましょう。兵士の皆さん民主主義の名の元にみんなでひとつになりましょう!」(ラジ・サクラニー『チャップリン』上田まさ子訳、佑学社)と。
 大事なのは「良識」である。だれが民衆との約束を果たすのか。いかにすれば、人類を幸福に導くことができるか。ここに、社会のもっとも基本とすべき「良識」がある。「道理」がある。そして、その実現のためには″戦わねばならない″と。
 また、人類を幸福に導く「科学と進歩」――。映画のなかでは「文化の進歩」とも訳されていたが、何よりもチャップリンが、理想的な世界の実現に「文化」の役割が不可欠だと主張していることは、注目に値する。
21  さらに彼は、独裁者たちの迫害から、遠く国外へ逃れた恋人ハナ(ハンナ)へ向けて、次のように語る。
 「ハナ、ぼくの声が聞こえるかい? いまどこにいようと、さあ、顔を上げて! 見上げてごらんよ、ハナ! 雲が切れるよ! 光が射してきたよ! やみが去って、僕たちの上にも光が輝くんだ! 欲望と憎しみと残忍さをなくした、よりよい世界がやってくるよ。見上げてごらん、ハナ!
 人間の魂には翼を与えられていたけれども、いまやっとはじめて空を舞いはじめた。にじの中へ、光の中へと、いま飛んでいるんだ。空をごらん、ハナ! 顔を上げて!」(同前)と。
 ″人間の魂の翼は、羽ばたく権利をもっている。だれ人も、それを邪魔することはできない。人間は本来、自由な存在なのだ。さあ、希望の空へ飛び立とう。幸福の虹をつかむのだ″――。
 この人間として当然の叫び。そのなかに、映像に託されたチャップリンの「理想」があった。「哲学」があった。
22  法のため、人のため、社会のために、そして人類の永遠の幸福と安穏のために尽くしゆく青春――。諸君は、その偉大にして崇高なる使命に立ち上がった創価学会青年部である。これほどのロマンと充実と喜びに満ちた青春が、ほかのどこにあるだろうか。断じてないと、私は申し上げたい。(拍手)
 諸君の尊い一生が勝利と栄冠にいろどられ、広宣流布の未聞の歴史を開いて、輝ききっていくように。また、日々健康で、大いなる知恵を働かせつつ、自分自身の人生の偉大な″金字塔″を打ち立てていかれるように。そして「闘争」と「努力」と「忍耐」の青春であるかどうかを、つねに自身に問いながら、″大満足″″大成功″の一生を築きゆかれんことを、私は祈りに祈っている。(拍手)
 お子さんがおられる方は、しっかり育てて、できれば大学に行かせてあげていただきたい。また、お父さんやお母さんがご病気の人は、心から優しくしてあげてほしい。親にとっては子どもの励ましが、最高の″薬″ともなるからだ。
 それから″じつは目下、恋愛中″という人は(笑い)、あくまで信心第一で力をつけ、できれば失恋しないように、と祈りたい。(爆笑)
 ともあれ、大事な大事な諸君である。どうか、くれぐれも体を大切にしていただきたい。そして地域の壮年部、婦人部の方々のためにも、諸君が広宣流布の陣頭に立って、一切の勝利の原動力となっていただきたい。このことを心から念願し、本日のスピーチとさせていただく。ありがとう。お元気で!
 (創価国際友好会館)

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