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日蓮大聖人・池田大作

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海外派遣メンバー協議会 現実の大地から″夢″を掘り出せ

1991.2.14 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  学会は不変の王道を歩む
 「世界広宣流布」は御本仏の御遺命である。それを現実に行っているのはSGI(創価学会インタナショナル)である。御本仏は、どれほどお喜びであろうか。この誉れは無上であり、永遠である。
 「御義口伝」には「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」――この法華経を全世界に行じていくことは、普賢菩薩の威光ある優れた力によるのである。この経が世界に広宣流布することは、必ず普賢菩薩の守護によるのである――と仰せである。
 ここには甚深のお心が拝されるが、普賢菩薩の「普」とは、″あまねし″と読む。普遍性のある″不変の真理″(不変真如の理)を意味すると「御義口伝」には説かれている。また「賢」とは、″かしこし″と読む。「御義口伝」では″智慧の義″(随縁真如の智)とされる。
 「普」が普遍にして変わらない仏法の真理を意味し、「賢」は、その真理にもとづいたうえで、たとえば、その国と社会、その時代、その状況によって、自在に発揮するべき智慧を意味すると拝される。
 「菩薩」とは、民衆と社会の中に飛び込んで戦う″慈悲の行動者″とも言えよう。
 ともあれ、世界への広宣流布には、″英知の力″が不可欠である。普遍性のある哲理と、豊かな知恵の両方があって初めて、多種多様な民族、歴史、伝統をもつ世界の人々の心をとらえることができる。また、あたたかい慈愛、人間性あふれる行動があってこそ「菩薩」の働きとなる。
 人類普遍の聖典たる御書を根本とせず、変転する状況に追随する無節操は、「普=あまねし」の正反対である。文化、学問への偏見や、広布のための柔軟な知恵を嫌う硬直性は、「賢=かしこし」の正反対である。無慈悲や人間蔑視、権威主義、弘法の行動なき安直さと傲慢は、「菩薩」の正反対である。
 万が一にも、そのような傾向性が出てくれば、世界広宣流布ができるはずがない。御本仏のお心を踏みにじってしまうことになろう。
 こうした点からも、SGIが進めている献身の弘法、そして仏法を基調にした文化・平和・教育の推進の運動が、どれほど正しい軌道であるかを確信していただきたい。
2  権力の魔性を描いた『動物農場』
 イギリス(スコットランド)のある哲学者の言葉に「無知は恐怖の母」とある。
 知らないから恐れるし、惑う。英知の光で闇を払ってしまえば、何ものも恐れることはない。迷う心配もない。その「英知」のために、きょうも少々、語っておきたい。
 イギリスの作家ジョージ・オーウェル(一九〇三年〜五〇年。管理社会の暗黒の未来を描いた小説『一九八四年』で著名)。彼の代表作の一つに、寓話『動物農場』がある。(工藤昭雄訳、『世界文学全集』69所収、筑摩書房、参照)
 長年、「人間」という暴君に支配され、しいたげられていた動物たちが、ついに革命を起こす。
 「動物に自由と平等を!」――イギリスのある農場に起こった、この″民主革命″は成功した。人間の農場主は追い出され、新たに「動物農場」の旗揚げをした。
 彼らは、皆で決めた「動物主義」の原則にしたがって、自治を始めた。皆、幸せだった。誇りに燃えていた。
 「すべての動物は平等である」。この永遠の指針のもと民主的な理想郷をつくるのだ! 人間たちからの逆襲も、全員の奮闘で見事、撃退した。
3  ところが――時とともに、平等の原則は崩れてくる。
 それまで、動物みんなの合議で運営されていた農場が、いつしか、リーダーを自認する豚たちの手で、何もかも決定されるようになっていった。
 初めはささいな変化だった。全員のためのミルクが、ある朝、こっそり消えたのである。
 やがて真相がわかった。豚たちが、自分のエサにまぜていたのだ。彼らは皆のリンゴも横領していた。豚たちは弁明した。詭弁では、だれもかなわない。
 ――われわれ豚は、リーダーとして頭脳労働をしている。農場の未来は、すべてわれわれ豚の双肩にかかっている。そこで、いやいやながらも、ミルクをたくさん飲み、リンゴを食べて、栄養を取り、諸君の福祉に努めねばならないのだ、と。
 自分たち″豚族″を敬い、大事にしてもらいたい。ミルクとリンゴをかすめとったように見えるかもしれないが――事実そのとおりなのだが――それもすべて農場のためだというのである。
 ひとのいい動物たちは、皆、だまされた。
 いったん、こうなると、あとは歯止めがきかない。豚は″特権階級″になった。堕落するのは早かった。人間たちが残した豪華な家で眠り、禁じられている酒を飲み、昼間から酔っぱらっていた。苦しい仕事は、すべて他の動物たちにやらせ、自分たちは何といっても豚なのだから、偉いのだと胸を張った。
 本来、他の人よりも苦労するゆえに、リーダーは尊敬を受ける。大切なのは、立場ではなく行動である。ところが、豚たちは、俺たちは特別なのだから、何もしなくても、また何をしても許され、尊敬されるべきなのだというのである。
 とうとう彼らは、根本原則の「動物主義」を勝手に修正した。
 「すべての動物は平等である」――このあとに、豚たちは、こっそりと、こう書き加えたのである。「しかし、ある動物(豚のこと)はほかのものよりも、もっと平等である」
 自分たちの都合に合わせて、規約を少しだけ変更する。これが権力のじ常套手段である。よく理解しないと、だまされてしまう。
 その″ほんの少しの変更″が悲劇的結末へとエスカレートしていく。そうなっては手遅れである。悪の芽は早いうちから徹底的に摘まねばならない。
 他にも「どんな動物でも酒を飲むべからず」は「どんな動物も過度に酒を飲むべからず」に、「どんな動物もベッドに寝るべからず」は「どんな動物もシーツをかけたベッドに寝るべからず」に、「どんな動物もほかの動物を殺すべからず」は「どんな動物も理由なくしてほかの動物を殺すべからず」に、こっそり書き換えられた。そして豚たちだけが酒を飲み、安楽なベッドに寝、処罰と称して動物を殺した。
4  特権階級になると権力闘争が起こるのは、歴史の常である。学会のように、リーダーが本当に責任と苦労の立場であれば、だれも好んでなりたがるはずがない。(笑い)
 豚たちも権力を争って仲間割れし、一頭のおす豚がライバルを追い出して、絶対的権力をにぎった。彼は「ナポレオン」と名乗っていた(笑い)。彼は″批判″を許さない。命令に従わない者は、徹底的に迫害され、追放された。彼のやり方を疑うこと自体が、不遜な悪とされるにいたった。
 「皆の幸せ」が目的であり、そのためのリーダーであったはずなのに、いつのまにか「リーダーの権威と権力」が目的になってしまっていた。
 しかし、それでも、おひとよしの、また無知な動物たちは、豚たちを信じていた。
 やがて、食糧不足と重労働で動物たちは希望を失っていった。いちばんの働き者で、″革命″を支え続けてきたロバのボクサーも、とうとう体をこわした。
 彼の口癖は「ナポレオンにまちがいはない!」と「わしがもっと働けばよいのだ!」であった。
 彼なくして、動物農場の建設はありえなかった。しかし、だれよりも頑健な彼も、無理に無理を重ねて、ついに倒れた。
 すると――「ナポレオン」は、彼の大功労をねぎらうどころか、皆をだまして、彼をさっさと″食肉処理″の業者に引き渡してしまった。
 もはや「自由と平等の世界」の理想は完全に消えうせた。権力による恐怖の支配だけがあった。
 ついに「ナポレオン」は″敵″のはずの「人間」と手を組んだ。仏法の世界でいえば、仏法破壊の謗法者と密謀し結託するようなものである。
 酒を酌みかわしながら、″動物たちを利用して、儲ける″相談をする豚と人間。窓の外から、この様子を見ていた動物たちには、もはや、人間と豚の区別がつかなかった――。かくして動物たちの″革命″は失敗した。
 暴君を追い出しても、追い出した者のなかから、新たな、より巧妙な暴君が出現する。この歴史の″宿命″をわかりやすく描きだした現代の寓話である。
5  作者オーウェルが、この「おとぎ話」を書いた時(一九四三年〜四四年)、当然、ソ連のスターリン主義への批判がこめられていた。労働者の″解放″の美名の裏に、特権階級(官僚)と独裁者(スターリン)が生まれていることを、彼は見抜いていた。
 しかし、同時に、この「おとぎ話」は、人間が″権力の魔性″を克服しないかぎり、どんな革命、改命運動も、堕落することを描いている。そこで、ドイツの″救国″を掲げたヒトラーの偽善をも鋭く批判する結果になった。
 ″左″であれ″右″であれ、問題は「人間」だということを、鮮やかに示したのである。
 では、その「人間」をどうするのか。特権意識を振り回す「権威的人間」を超えて、どう「民主的人間」を生みだすのか。ここに問題がある。ここに「人間自身」を革命しゆく仏法、信心の重大な意義がある。
 そのうえで、もっとも民主的な日蓮大聖人の仏法の世界にあっても、「権威的人間」に支配される可能性はつねにある。そうなれば「広宣流布」の理想は実現できない。
 民衆が賢明になる以外にない。そして悪とは戦わねばならない。
 民衆の率直な疑問や希望を権威で抑えつけ、納得も信頼も与えようとしない人々。そうした存在と戦いぬかれたのが、大聖人の御生涯であられた。門下の私どもが同様に、正義を訴えるのは当然である。横暴な権威・権力と一生涯、戦ってこそ、真の「民主的人間」となる。
6  少年時代の壮大な夢を実現したシュリーマン
 さて、話は変わる。地中海の東、青きエーゲ海。四千年の昔、ここに華麗なる古代文明が栄えた。ギリシャ文明、トロイ文明(小アジア)、クレタ文明(クレタ島)、ミケーネ文明……現代ヨーロッパの源流たる″黄金の世界″である。
 また″詩人の中の詩人″とうたわれる古代ギリシャのホメロス(紀元前八、九世紀頃の人)の二大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の舞台でもある。いつの日にか、これらについても新たな視点で語りたいが、トロイ戦争等を舞台に、古代ギリシャの英雄たちが生き生きと描かれている。
 今、これらの文明やトロイ戦争の実在を疑う人はいない。万人の常識になっている。しかし、ほんの百年ほど前までは、そうではなかった。ホメロスの詩は全ヨーロッパで読まれ、いわゆるインテリから庶民まで、よく知られていた。しかし、人々はそれらをたんなる″お話″だと思っていた。
 ホメロス自身も伝説上の人物と思われ、彼の物語が本当にあったことだとは、だれも考えなかった。あえていえば、法華経や御書をいくら知っているようでも、現実とかかわりのない、ただの物語として読んでいるようなものである。
 これを、歴史的事実にもとづくものだと証明したのが、ドイツのハインリヒ・シュリーマン(一八二二年〜九〇年)である。昨年十二月が、彼の没後百年にあたる。
 シュリーマンは八歳の時、父から一冊の本をもらった。それは、さし絵入りの『子供のための世界史』。そこに「トロイ戦争」のことが、印象的なさし絵とともに出ていた。
 一人の美女(ヘレネ)をめぐって争うトロイ軍とギリシャ軍。十年に及ぶ戦乱。アキレスやアガメムノンら英雄たちの苦悩と栄光。そして「トロイの木馬」によるギリシャ軍の勝利――。(=大きな木馬の中にギリシャ軍の兵士が隠れ、トロイ軍が木馬を城内に入れてから飛び出して、トロイ軍を打ち破った)
 八歳の少年は、これらの物語を完全に信じた。そして「将来、必ずこのトロイを発掘しよう」と心に誓った。途方もない夢であった。しかし、じつに四十年後、彼はその″夢″を見事に実現したのである。
7  次元は異なるが、私どもは今、十年後の創立七十周年、さらには四十年後の創立百周年をめざして、「広宣流布」という″壮大な夢″の実現に邁進している。
 百周年となると、現在の青年部、未来部にお願いする以外にない。さらに、広布は世代から世代へ、万代にわたって、″永遠に拡大″″永遠に深化″″永遠に蘇生″の大運動である。
 ゆえに青年を大切にしたい。少年、少女の心を大切にしたい。八歳の少年の決意が、世界の歴史を書き換えたのである。子どもだからと、軽く考えることは絶対に誤りである。
 このとき、初めは否定的だった父親が、シュリーマンの熱心さに打たれ、「お父さんも、お前の夢を信じるよ」と励ますにいたったという。父親のこの一言が、その後の彼の支えとなった。子どもへの信頼と共感が、どれほど大切であるかという例証であろう。
8  シュリーマンは、すぐに学者への道を歩んだのだろうか。そうしたかったが、不可能だった。母を九歳で亡くした。父は七人の子どもをかかえ、生活はすさんだ。父が公金を使いこんだという疑いをかけられ、一家は没落していった。そのためシュリーマンは、手痛い失恋もした。
 彼は、高等学校にも行けず、十四歳で雑貨屋の店員にならねばならなかった。そして十九歳まで、毎朝五時に起き、夜十一時まで働かされた。「勉強がしたい」と、泣けてしかたなかった。しかし彼は、八歳の時の″夢″を片時も忘れなかった。
 そのうち病気になってしまった。胸を悪くし、喀血したのである。
 楽しかるべき青春の十九歳――しかし彼は、一文なしの、青白い、胸を病み、職も失った、みじめな姿の青年でしかなかった。
 食べるためには、住む所や仕事を選んではいられなかった。南米に向かって出発したとき、船が難破して、九死に一生を得たこともある。やっと落ち着いたのは、オラングのアムステルダムであった。
 ある事務所に勤めながら、乏しい給料を削り取って、勉強の費用に充てた。語学に熱中した。自分で編みだした独特の勉強法により、二年でなんと英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語をマスターした。その猛勉強のエネルギーは、やはりあの″夢″であった。
 彼は語学によって学問の基礎をつくるとともに、これを商売に生かして成功を収めていく。語学力のおかげで、外国の人々と直接に取引できた。これが商売の強みとなった。
 「まず、お金をつくらなければ発掘などできない」――人々は彼をただの商人と見ていたが、彼の富は″目的をもった金″であった。最終的に、彼は古代ギリシャ語を含む十五カ国語を自由に話し、聞き、読み書きできるようになったという。ロシアでも商売に成功、やがて巨万の富を築く。
 運も良かったが、彼の徹底した努力と人柄の良さが信用となった。不屈の努力の根本は、「ホメロスの世界」への、強くまた強き″一念″であった。
9  ホメロスの「黄金の世界」を発掘
 四十代になり、いよいよ彼は、少年時代の夢の実現に取りかかった。商売からすべて引退し、世界一周の旅に出た。なおこのとき、明治維新直前の日本にも立ち寄り、横浜と江戸を訪れている。
 四十六歳の時、彼はついに「ホメロスの国」に足を踏み入れる。「オデュッセウス」の住んだ島とされるイタカ島(ギリシャ本土に近い、イオニア海の島)で調査を始めた。そして六十八歳の死去まで二十年間、トルコのトロイをはじめ各地で、新発見に次ぐ新発見を続けた。その模様は、まことに劇的で面白いが、本日は省略させていただく。
 結果として、彼は「トロイ文明」と「ミケーネ文明」という古代の二大文明の実在を証明。近代考古学の″夜明け″をもたらしたのである。
 彼の″導きの星″は、ただホメロス一人だった。「ホメロスはこう言っている。だから、必ずここにこういうものが埋まっているはずだ」――この確信から彼は調査し、掘った。
 それまでの定説など「ホメロスと矛盾する」と言って無視した。そして、ほとんど彼の言うとおりになった。
 少年時代、胸おどらせて読んだ英雄たちの舞台が、徐々に姿を現してくる喜び! 不屈の信念、渾身の情熱、たゆみなき努力。それらを持続しぬいた者のみが味わえる″無上の満足″であった。
 こうして全世界の人々の前に「ホメロスの世界」が黄金のきらめきとともに出現した。伝説はよみがえった。まさに歴史をぬりかえる大事件だった。
 その一方、彼の成功を嫉み、「素人のくせに」と批判する学者も後を絶たなかった。しかし、「事実」ほど雄弁なものはない。しだいに理解者は広がっていった。
 ある人は言った。「彼の成功は、偶然ではない。なぜなら、彼は成功するまで掘り続けただろうから」と。
 また、ある人は、彼は偉人だけがもつ特性をもっていた、と。すなわち「自分自身のこと」まったく考えず、ただ「自分の目的のこと」だけを考え、集中する人間だったと証言している。事実、彼は、発掘した無数の財宝も公的機関に寄贈してしまった。
 「生きている間は、休もうとしなかった人」とも評された。旅先のナポリ(イタリア)で、その波瀾万丈の生涯を閉じるまで、病身をおして研究と仕事(報告書の作成もすべて自分で行った)に没頭した。
 今、彼は生涯をかけて愛した「ホメロスの国」すなわちギリシャのアテネで、安らかに眠っている――。
10  若き日の「誓い」を、生涯、貫ける人は偉大である。幸福である。
 私どもには「広宣流布」という最高の「誓い」がある。そして自分には自分の、尊き「使命」がある。世界は広い。私どもの未来も洋々と開けている。
 この広大な世界のなかに、また二十一世紀という新世紀のなかに、自分だけが、その扉を開けられる「黄金の世界」が待っている。人類のために、光を放つ日を待っている。
 それは何か。決めるのも、見つけるのも自分自身である。
 私は入信して本年で四十四年。当時は、だれ人も想像もしなかった「世界広宣流布」という、黄金の世界の扉を大きく開けることができた。何の悔いもない。
 皆さまも、身近な一歩また一歩の努力を重ねて、みずからの黄金の″夢″を立派に掘り出し、燦然と世界に示していただきたい。
11  魯迅は「時を知れ」と祖国に叫んだ
 きょうは先日、ともに香港を訪問(一月二十七日〜二月二日)したメンバーが来ておられるが、革命の文学者、中国の魯迅(一八八一年〜一九三六年)は、一九二七年二月、香港を訪問している。この時、二回、講演をした。その一つが「古い曲はもう歌いおわった」(萩野脩二訳、『魯迅全集』9所収、学習研究社)と題する香港青年会での講演である。彼は訴えた。
 ――清朝が滅びたばかりの祖国・中国。もう、いいかげんで「新しい曲を歌う」(新しい思想を語る)人々が出てきてもよいではないか。
 ところが、学者先生たちは、民衆の幸福に何の関係もない「古い曲」、すなわち道学(古い道徳を説く学問)とか、古典の訓詰註釈を続けている。そんなことを中国はいつも繰り返し、いつも滅びてきた。またも、性懲りもなく古い曲を歌うのか。
 もう「歌い終わる」べきだ。青年の皆さんは、「まったく新しい時代」が来ていることを知ってほしい――。これが、香港での魯迅の叫びであった。
12  ベートーヴェンの「歓喜の歌」合唱の歌い始めは、「おお友よ、こんな調べではなく!」である。それまでの第一楽章から第二楽章までの調べを否定し、人類融合への新しい「民衆の歌」を歌おう! と立ち上がる。
 魯迅の講演の題は、おそらくこれを踏まえているのだろう。
 「どのようにすればいいのでしょうか」(前掲書)
 魯迅は言う。――古い曲をやめない人々には、閉じた家や書斎から出ていってもらって、自分の周囲がどうなっているか、さらに社会が、世界がどうなっているかを見てもらいましょう! と。
 社会と世界の「現実を知る」ことだ。そうすれば、自分たちがどんなに時代遅れになっているか、わかるだろう。そうやって、自分でわからせる以外に、どうしようもないのだ、と魯迅は説いた。
 ″今までがこうだったから、これからも、というのは進歩の敵だ。社会の敵だ。新しい時代にふさわしい、新しい調べを歌うのだ!″
 ベートーヴェンも魯迅も、こう叫んだのである。
 仏法も″時″を大切にする。時を見ぬけず、時を誤ること、いわんや時に逆行することは、真の仏法者の振る舞いとはいえない。
 時代は「民主」と「対話」へと向かっている。ひとにぎりの政治権力者等のために、この流れを逆行させてはならない。今こそ、抑圧と暴力的問答無用という「古い調べ」は終わらせねばならない。そして、「平和の歌」「自由の調べ」「暴力なき文化の歌」を、民衆が声高らかに歌っていきたい。
13  沖縄の平和の心、優しさの文化
 先日、沖縄訪問の折、大田昌秀知事と懇談する機会があった。そのときの模様を含めて、本部幹部会(二月十一日)でも少々お話しした。きょうも氏の「平和への思い」について、重複する部分があるかもしれないが紹介しておきたい。
 氏は、大正十四年(一九二五年)六月、沖縄生まれである。六十五歳になられる。
 十九歳の時(昭型二十年三月)、沖縄師範学校在学中に、鉄血勤皇隊の一員として、沖縄戦に動員された。敗戦後、捕虜として、収容所生活も経験しておられる。
 氏の行動の原点は、若き日に刻んだ戦争への怒り、また敗戦後、二十七年間におよんだアメリカ軍の統治に対する憤慨にある、と言われている。
 知事に就任されて二ヶ月余の氏であるが、″平和こそ最大の福祉″を一つのモットーとされている。そして、沖縄の革新県政が掲げてきた反安保・反基地とともに、自然開発への規制、高齢者の医療費無料化、情報公開条例の制定など、環境・福祉問題を前面に出されている。
 琉球大学教授を経て、アメリカのハワイ大学やアリゾナ州立大学の教授をも務められた氏は、日本平和学会会員でもあり、沖縄を代表する平和学者としてよく知られている。知事就任に対しては″学者に何ができる″との非難もあったが、″公正・公平な目を培ってきたからこそ、県民本位の政治ができる″と切り返しておられる。大田県政への県民の方々の期待は大きい。
 今回の湾岸戦争でも氏は、勃発が報じられてからわずか一時間後には、即時停戦の緊急談話を発表しておられる。
 「過去の朝鮮戦争、ベトナム戦争で沖縄は出撃・補給基地として使われた。戦争の開始で県民生活に深刻な影響が出ることを恐れる。即時停戦を切実に希望する」と。
 いかなる理由があれ、戦争は民衆を苦しめる。そのことを、みずから体験してこられた氏ならではの対応の速さであった。
14  ここで大田氏の″平和の言葉″を紹介しておきたい。
 「沖縄の文化は、『やさしさの文化』だといわれ、俗に沖縄の心は、『平和を賞でる心ばえ』だともいわれる」
 「わたしは、折にふれ『沖縄の心』は『反戦平和』『人権回復』『自治確立』という考え方が柱になっていることを、くりかえし指摘してきた」
 「沖縄では他人の苦しみにたいして、それを分かち合うニュアンスをもつ『肝苦ちむぐりさ』(胸がいたい)という表現をつかう。沖縄には『他人にくるさってんんだりしが、くるちえんだらん』
 (他人にいためつけられても寝ることはできるが、他人を痛めつけては寝ることはできない)という言伝えがある」(大田昌秀『沖縄のこころ』岩波新書)
 また「私はガンジーを尊敬している。実は、ガンジーの等身大の写真を持っている。私の宝としている」と言われている――。
15  大田氏は、先日もご紹介したとおり、学会の平和運動にも深い賛同とご理解を寄せてくださっている。「聖教文化講演会」の講師を務めてくださったほか、昭和六十三年(一九八八年)の一年間、「聖教新聞」の文化欄に十二回にわたり連載されている。さらに、氏は、青年部が取り組んできた平和講座を担当。反核展でも応援してくださっている。
 「女たちの大平洋戦争展」では、ご自身が所持されている貴重な写真資料も提供してくださった。また、婦人部の反戦出版『いくさやならんどう――』(戦争はいやだ、してはならない)にも助言され、巻末に解説「戦後の沖縄と女性の生き方」を寄せてくださっている。
 まことに、ありがたいかぎりである。大田氏のみならず、SGIの平和運動への期待の声は多く寄せられている。私どもは、これからも仏法の平和主義にもとづいて、アジアヘ、世界へと、平和と文化の運動を積極的に進めていきたい。それが、多くの人たちの期待に応える道であると信ずる。
16  松尾多勢子――女志士の現実に根ざした知恵
 さて先日、文芸部員の古川智映子さんが、近著を届けてくださった。(=古川さんの前作『小説土佐堀川』については、昭和六十三年十二月の第十二回本部幹部会で言及。本全集第72巻収録)
 題名は『赤き心を』(潮出版社)。幕末から明治維新にかけての激動期を″女志士″として生きぬき、戦った一人の女性――松尾多勢子の物語である。
 多勢子は実在の人物。孝明天皇の暗殺を狙う幕府方の動きを探ったりしている。古川さんは、人知れず、しかし激しく生きたこの一人の女性を、共感をこめてつづっておられる。
 主義主張は別として、日本史上まれにみる激動のなかに、みずから身を投じていった彼女の姿は、人間の生き方に一つの示唆を与えていると思う。そこで、著書の内容にそって、少々お話しさせていただく。
 多勢子が、自己の信条にもとづく活動のため、信濃国(現在の長野県)から京都に出たのは、一八六二年。彼女が五十二歳の時であった。物語は、その旅立ちの場面から始まる。
 十人の子どもを産み、子育ても、家業も、すべて成し終えた彼女は、静かに余生を送ることもできたはずである。まして、当時の京都は、維新前夜の動乱にあった。謀略、暗殺、裏切り――「死」と隣り合わせの世情であった。
 ″無為な毎日を生きるより、私は私の心の命じるままに生きたい。否、生きてみせる″――そんな強い決意が、彼女を支えていたにちがいない。
 書名の『赤き心を』は、歌人でもあった多勢子の歌からとったものである。
 「武士の赤き心を語りつつ 明くるや惜しき春の夜の夢」――。
 幕末、多くの青年たちが、それぞれの燃えたぎる「赤き心」をもって立ち上がった。多勢子も、いつも青年とともにあった。あるときは″母″として、腹をすかせた志士たちに食事をさせ、あるときは年長者として、人生の相談にものってあげた。
 在京中、坂本龍馬、久坂玄瑞(吉田松陰の高弟)、品川弥二郎(高杉晋作等とともに戦い、維新後は内務大臣となった)らとも知り合っている。
 ″女志士″多勢子の強さはどこにあったのか。それは、一言でいえば、女性ならではの「現実に根ざした知恵」であったと言えよう。
 あるときは、一人の青年にこう語る。「論議だけを先走りさせるのは危険に思いますよ。激情に走り、実体を見抜く目を失うとまずいことになりましょう」と。
 そのとおりである。現実を直視せず、憶測や思い込みに動かされるのは、愚かであり、不幸である。
 当時、朝廷での討幕運動の中心人物であった岩倉具視は、勤皇方からは幕府に味方する裏切り者と見なされ、生命を狙われていた。そうした岩倉に対する皆の考えが変わったのも、物事の本質を見誤ってはならないと主張した多勢子のおかげであった。
 また多勢子は、何があっても動じない。″口八丁、手八丁″で、やっかいな敵をも、うまく御してしまう。
 あるとき、多勢子は捕らえられた仲間を探しに、一人で敵の拠点に忍びこむ。怪しまれると、とぼけて、「あまり疑うと(中略)知られたくない隠しごとでもあるのかと思いたくなります」と逆に切り返す。
 そして「妙に図々しくて、それでいて虫も殺さぬような人なつこい笑顔」で、相手の心に飛び込み、相手がひるむと、たちまち自分のペースに引き込んでしまう。とうとう最後には、仲間の居場所も、敵の秘密も、つきとめてしまう。
 ある人から「どうしてそう強くなれるのでしょうか」と問われ、多勢子はこう答える。
 「(=私は)子供を育て、畑を耕し、家業に励み、多くの使用人たちをまとめてきました。夢中で、ただ家をとり仕切ってきただけなのです。地に足をつけて踏んばってきただけなのですよ」と。
 「地に足をつけて踏んばってきた」――ここに、多勢子の飾らないたくましさがあった。
 現実の大地に、人生の根を深く張った女性は強い。根を張ってこそ、年とともに、栄えの葉を茂らせ、満足の花、勝利の花を爛漫と咲き薫らせていけるのである。
17  「現実」に生き「民衆」のなかに生きよ
 仏法は現実主義である。多くの外道が観念論におちいるなか、釈尊は厳然と、現実に即して離れない中道の生き方を説いた。
 「現実」という大地を離れて、仏法はない。「民衆」という大地を離れた宗教者は、根なし草となる。現実に背を向ける者は、現実から背を向けられる。民衆を見くだす者は、民衆から軽蔑されよう。
 私どもは、日蓮大聖人の仰せのままに、いかなる苦労もいとわず、「現実」に生き、「民衆」のなかに生きぬいてきた。ゆえに御本仏のお心に感応し、広布の大展開があったと信ずる。
 私どもは変わらない。この道を行く。法のため、人類のために。だれが変心し、堕落しようと、また私どもにまで、その民衆利用の計画に従わせるため策動しようと、学会は変わらない。従えば、仏法は死滅する。人類の希望の太陽は消える。断じてできることではない。
 悪に従わねば、悪に迫害される。当然のことである。変心と堕落の人々からの攻撃は、信仰者の勲章である。
18  私どもは「地涌」の戦士である。大地から陸続と涌き出でた、御本仏の眷属である。三世にわたる門下である。
 地涌――ここに大きな意義がある。決して、高いところから天下ったのではない。
 地涌には「民衆」の鼓動がある。地涌には「平等」の響きがある。地涌には「自発」と「自由」の歓喜の調べがある。どうか、この「民衆連帯の道」を、また、広々とした「世界への道」を、ともどもに楽しく歩んでいただきたいと申し上げ、スピーチを結ばせていただく。
 (東京。新宿区内)

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