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日蓮大聖人・池田大作

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第三十八回本部幹部会・第一回宮崎県記念… 正法を持つ人はみな仏

1991.2.11 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  尊き一生を学会とともに
 久しぶりに、宮崎の皆さまとお会いすることができ、たいへんうれしい(拍手)。また、きょうは第一回の記念総会、本当におめでとう! そして、先ほどは″春″を歌ったすばらしい合唱、ありがとう!(拍手)
 宮崎はじつに美しい。一年中、恵まれたみずみずしい緑。雄大な太平洋。「日向」という名も、″日の出に向かう″ことに由来するとの説があるほど、太陽は燦々と降りそそぐ。
 そして、本日のなんと見事な青空! 宮崎の快晴日数は、全国第一位(一九五一年〜八〇年の年間平均日数は八十一日)という(拍手)。日照時間は第二位。ちなみに第一位は岐阜県である。平均気温も、沖縄、鹿児島に次ぐ。きのうも「春一番」の風が吹き抜けたが、それさえもすがすがしい。
 豊かな太陽の光の国・宮崎。私は以前から、沖縄から宮崎へ訪れてみたいと願っていた。今回、それがやっと実現できて本当にうれしい。(拍手)
2  宮崎は、自然も美しいが、心も美しく、人柄の良い方が多い。なかでも、初代宮崎支部長の故・甲斐速水さんのことが忘れられない。
 私は、ともに戦った″真実の人″を絶対に忘れない。戸田先生より二歳年下であり、健在であれば、今年八十九歳となられる。奥さまは、きょうこの会場に見えておられるだろうか。(ハイ、と夫人が立ち上がれば、会場から大きな拍手が)お元気そうでうれしい。
 『忘れ得ぬ同志』にも紹介させていただいたが、甲斐さんとの思い出は語りつくせない。
 皆さまもご存じかと思うが、顔はちょうど″寅さん″のお兄さんのようで(爆笑)、人柄の良さでは、あの人のような人はもういないと思われる″天然記念物″のような(笑い、拍手)、まことにおおらかな方であった。十人のお子さんを立派に育てられ、お孫さんは二十六人。全員、信心しておられる。(拍手)
 また宮崎県の県総合長、県長、副県長等も、青年部時代、甲斐さんの薫陶を受け、育っている。
 広布の未来を開き、人材を育成しゆくうえで、壮年部の方の存在は、まことに大きい。
 「壮年」とは、人生の大事な″仕上げの時″である。どれだけ広布のために戦い、人のために尽くしたかが、人生の勝敗を決めていく。また一切が、生々世々にわたる、自身の「財宝」となる。
 信心にムダはない。法のため、人々のために尽くした分だけ、自分自身を大きく輝かせていく。
 その意味で壮年部の皆さまは、広布に生きぬく誉れの人生を、悔いなく総仕上げしていっていただきたい。またそのために、婦人部の皆さま方も、どうか、あたたかい励ましをよろしくお願いしたい。(笑い、拍手)
3  さて、県長たち二人が、甲斐さんについて異口同音に語っていたことは、その「祈り」の姿勢であった。何があろうと、まず「祈れば必ず開く。必ず勝つ」と唱題に励んだ。
 彼は、草創の大阪・梅田支部(梅田支部所属の宮崎・高千穂地区)に所属していた。大阪は遠い。現在と違って、交通費を工面するにもたいへんであった。そのなかを、甲斐さんの地区は、弘法でも全国一の成果を収めた。そして、今日の宮崎の大発展の土台を築いてきた。その「だれにも負けない」祈り、「必ず開く。必ず勝つ」との一念は、現実となって大きく開花したのである。
 また、宮崎は「台風銀座」ともいわれてきた。甲斐さんが″台風で県民が苦しまないように″と、真剣な祈りを続けたことはよく知られている。強き祈りは、国土をも大きくつつんでいく。現に台風の直撃も少なくなっている。その陰に、そうした甲斐さんたちの深い祈りがあったにちがいない。
4  また、友のために、どれほど「行動」し、尽くされたことか。宮崎の天地は広い。また交通の便も良くなかった。そのため、夫人とともに、時には泊まりこみで、全県下を、くまなく折伏また折伏、指導また指導に歩かれた。それは、まさに広布に徹した「行動」であった。
 「行躰」は即信心である。「行動」のなかにこそ「信心」はある。「法」のため、「友」のためのく「行動」は、無量の功徳となって、永遠に甲斐さんの生命を飾っていくにちがいない。
 ともかく、一生懸命、多くの人々の面倒をみてこられた。現在も、九州の幹部が宮崎県下を訪れたとき、お世話になったことがよく話題になるという。ここに甲斐さんの偉さがある。たとえ、そのときは地道で目立たないものであっても、同志のために尽くした行動は、時とともに必ず輝いてくるものだ。
 甲斐さんは、県下の会員一人一人の名前を覚え、家を覚えた。どこで会っても、どこのだれかわかるように、いつも心がけておられたという。そして、率直かつ誠実な人柄で、何でも話し合え、語り合える仲になるよう、粘り強く努力を重ねておられる。そうしたなかから多くの人材を育ててこられた。
 ところで彼は、尋常小学校しか出ていない。しかし、大学生で生意気盛りだった(笑い)今の県長たちにも、「自分は学問はないけれども、信心で御仏智をいただける」と確信をもって指導しておられた。
 信心は学歴ではない。理論でもない。確信である。御本尊への強い確信の信心に、無量の知恵がわいてくる。事実、当時の県知事などに対しても、少しもためらうことなく、仏法を語り、「聖教新聞」の啓蒙をしている。
 甲斐さんは、人生の「師弟」を、何よりも大事にされ、誇りともされていた。また、何よりも喜びとされ、強みともされていた。そして、この「師弟の絆」を違えることのないよう、後輩にきちっと教えておられたという。
 「師弟の絆」こそ、人生の原点といってよい。人間の聡明さは、学歴で決まるものではない。いつの時代、いずこの世界にあっても、「師弟」という人生の原点をもっている人こそ、もっとも聡明に人生を生きている人なのである。
 この宮崎を訪れると、あのおおらかな笑顔を思い起こす。そして、今も皆さま方を見守っておられるような気がしてならない。「甲斐さん、ありがとう」と、心から申し上げたい。(拍手)
5  学会の根本は″師弟不二″
 さて、本日は二月十一日。恩師戸田先生の誕生日である。十三年ぶりにお会いする宮崎の皆さま方とともに、戸田先生の誕生日をお祝いでき、私は本当にうれしい。(拍手)
 また、この日は「都城圏の日」とも聞いている。都城には、あす訪問したいと思っているが、あわせてお祝いを申し上げたい。(拍手)
 私ども夫婦にとって、戸田先生は、人生の「師」であり「主人」であり「父親」とも思う方であった。だからこそ、私どもにとって二月十一日は、もっともうれしい、もっとも晴れやかな日であった。また、一年一年、冬から春へと向かう希望の日ともなっていた。
 先生は、たびたび私をご自宅に呼ばれ、厳しく薫育してくださった。
 夜中の三時ごろ、急に呼ばれたこともある。電話がかかってきて「すぐ、来なさい」と。その時間には電車などなく、タクシーで行かなくてはならない。
 妻がタクシーを探しに出るが、銀座通りのようなにぎやかな場所ではないし(爆笑)、ましてや夜中の三時ごろ、家の近くにタクシーがいるはずもない。しかし、不思議と妻がタクシーをみつけてきてくれる。
 そして、車中で″きょうはどういう話なのかな。きっと、こういうことだろう″と考えて、先生のお宅にうかがう。その内容が、ほとんどはずれたことはなかった。それほど戸田先生とは、心の通い合った関係だった。
 こうした厳しい訓練の連続であり、戸田先生にお仕えすることは並大抵ではなかった。しかし、そうした厳しい鍛えがあったからこそ、私は何があっても負けないし、崩されない。恐れるものはない。戸田先生から受けた薫陶は、今でも私の最高の誇りとなっている。
6  思えば、先生の生前、最後の誕生日(昭和三十三年二月十一日)には、私は朝の九時からご自宅にお招きいただいた。赤飯とお汁粉をご馳走になりながら、経済のこと、政治のこと、そして新しい時代への展望などのお話をうかがった。
 先生に教えていただいたことは「信心」だけではない。「社会」のこと、「時代」のことを多くうかがった。それは、社会を離れて「仏法」はなく、生活を離れて「信心」はないからである。
 社会や時代の中で、どう生きていくか。どう勝利していくか。仏法の眼からとらえた社会観、歴史観、人生観を教えていただいた一コマ一コマは、すべて私の宝となっている。
 先生は、この前の年(昭和三十二年)の秋から大きく体調を崩され、医師からは厳しい宣告を受けられていた。しかし、先生は「広宣流布の前途を思えば、今、みすみす倒れるわけにはいかない」と偉大なる生命力で病魔と闘い、この五十八歳の最後の誕生日を、勝利の姿で元気に迎えられまさに先生は、広布の戦人であった。獅子王の戦いであった。そして、一切に勝利された。大勝利で五十八年の生涯を飾られたのである。(拍手)
7  かつて、わが国が戦争の狂気に染まり、人々が信念を曲げていくなかにあって、牧口先生はただ一人、大聖人の「立正安国」の大精神に殉じられた。これは学会の誉れの歴史である。
 そして、多くの同信退転の徒が、ネズミのごとく右往左往し、師と言っていた牧口先生を憎み、裏切っていった。人の心は弱く、はかない。利害で移ろいゆく人の心は怖いものだ。そのなかで、ただ一人、戸田先生だけが「私は牧口先生の弟子である」と、師弟の道を貫かれた。
 牧口先生とともに獄に入れられた戸田先生は言われている。「あなた(=牧口先生)の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」と。
 普通なら、牢獄まで一緒に連れていった人に感謝するはずはない。悪口や文句を言って当たり前であろう(笑い)。しかも、第二次大戦中の獄中の厳しさは、現在の比ではない。だれが喜んだだろうか。
 しかし、戸田先生は、牧口先生に心から感謝されていた。ここに、学会の根本である″師弟の精神″を残されたのである。
 広宣流布のためには、たとえわが身がどうなろうとも、″不二の精神″で、三世にわたり、どこまでも一緒に進んでいく――これが人生の師弟である。牧口先生と戸田先生は、まさにそのとおりのお姿であった。戸田先生と私も、またそうであったと確信している。(拍手)
 また、難があることは、じつはすばらしいことなのである。これについては、別の機会にくわしく述べたいと思っているが、難との戦いがあるからこそ、清らかなものがつくられる。何事もない平々凡々な環境のなかでは、すべてが濁り、生気を失ってしまう。大闘争の嵐があってこそ、生命の″青空″は広がり、生き生きとした躍動が生まれるのである。
8  恩師が拓いた大道を進め
 先日の沖縄訪問の折、私は沖縄の大田昌秀県知事とお会いする機会があり、種々、懇談した。(二月八日)
 昨年(平成二年)十二月に就任された同知事は、沖縄を代表する平和学者でもあられる。
 みずから反戦・平和の活動を進めてきた氏は、かねてより学会の平和運動を高く評価され、懇談のさいも強い期待を寄せてくださった。
 また、かつて、学会の青年に次のようにも語られている。
 「私自身の体験からいっても、平和運動に本気で取り組むのは、刃渡り、綱渡りのような危険の連続です。世間がどのように批判・中傷しようとも、私が創価学会を信頼しているのは、初代、二代の会長が、ともに軍部権力から弾圧され、投獄されているという事実があるからです。そして、この初代、二代の精神をすべて受け継ぎ、平和のために戦う池田先生を、私は心から尊敬しています」「創価大学に平和研究所があることにも注目し、期待しております」と。
 一流の人は鋭い。本質を見る。「学会の平和主義は本物である」との評価は、アジアはもとより各国の識者からも多く寄せられている。牧口先生、戸田先生の生命を賭しての信念と行動が、世界に信頼を広げているのである。
 みずから死して「大法」を護りぬいた牧口先生。その後を継ぎ、「大法」の弘通に生ききった戸田先生。この「死身弘法」の偉大なる師弟が、わが創価学会の″出発点″である。お二人が示し残した「不惜身命」の信心が、学会の魂であり、御本仏の門下としての永遠の誉れなのである。
 ゆえに牧口先生、戸田先生の″金剛の信念″のままに、学会は学会らしく、どこまでも「獅子王」のごとく堂々と、仏勅の実現へ進んでいけばよいのである。(拍手)
9  恩師は叫ばれた。「戸田の命よりも大事な広宣流布の創価学会の組織」と。学会は、日蓮大聖人の御遺命たる「広宣流布」の組織である。この尊い使命の団体を守り、発展させゆく福徳は絶大である。反対に、学会の前進、すなわち広布の前進を妨げたり、学会員を苦しめる罪は、あまりにも大きい。大聖人が厳然と裁かれるであろう。(拍手)
 私どもは、戸田先生の誕生日である本日を一つの出発として、先生の生誕百年、すなわち二〇〇〇年をめざし、何十倍、何百倍、すばらしき「世界第一の創価学会」へと、新たな建設をしてまいりたい。(拍手)
 ちなみに、戸田先生の生誕は一九〇〇年(明治三十三年)。世紀の変わり目のときであった。この年、パリでは新しい世紀の開幕を告げる万国博覧会が開かれている。
 戸田先生は、文字どおり二十世紀とともに人生の年輪を刻まれた。ご存命ならば、本日、九十一歳を迎えられる。
 私どもは、ともどもに、戸田先生の分まで長寿で健康で、戸田先生の生誕百年を盛大に祝賀したい(拍手)。この年、二〇〇〇年は、奇しくも学会創立七十周年。日本ならびに世界で、この一年を最高に晴れやかに祝うことを提案したい(拍手)。その折は、本日の「銀河コーラス」の皆さまも、美しき歌声で祝福していただきたい。(拍手)
10  なお、本日は、全国各地で記念の集いも行われており、心から祝福を申し上げ、ご健闘をお祈りしたい。(拍手)
 ともあれ、広宣流布を祈り、めざしての活動は、すべてわが身の福徳となって輝いてくる。また、私どもは妙法の真実の当体である。私どもが動き、語った分だけ、多くの人々と仏縁を結んでいくことができる。
11  妙法は三世の″頼もしき杖″
 さて、先ほど何人かのご年配の方とお会いした。広宣流布のため、学会のために、今も変わらぬ誠意と情熱で戦っておられる方々である。私は、こうした年配者、学会を支えてこられた功労の方々を、だれよりも大切に思っている。また、ともかくご長寿で、安穏で、そしてご一家がますます栄えていかれるようにと、日々祈念している。
 それはそれとして、だれしも迎える人生の総仕上げ、そして死に際して、妙法への確信がいかに大事か――。その意味から、ここで御書を拝読したい。
 大聖人は、こう仰せである。
 「法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも・たのみ給うべし、けはしき山・あしき道・つえを・つきぬれば・たをれず、ことに手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし
 ――法華経(御本尊)は、三世の諸仏の発心の杖である。ただし、日蓮を杖・柱とも頼まれるがよい。険しい山、悪い道でも、杖をつくならば倒れない。ことに、手を引かれるならば、転ぶことはない――。
 「南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・多宝仏上行等の四菩薩は手を取り給うべし日蓮さきに立ち候はば御迎にまいり候事もやあらんずらん
 ――南無妙法蓮華経は死出の山では杖・柱となられ、釈迦仏、多宝仏、上行等の四菩薩は、あなたの手を取られるであろう。日蓮が先に霊山にたつならば、お迎えに行くこともあるであろう――と。
 ″たとえ、どんな険しい道に行こうとも、私が杖となって守るよ。大丈夫だよ。何も心配はいらないよ″とのお言葉である。
 そして″死に際しても、南無妙法蓮華経が杖となり、仏菩薩が手を取ってくださいますよ。私が先に霊山に行けば、あなたをお迎えしますよ″と約束してくださっている。死のときも、御本仏が導いてくださる。これ以上、大安心の、満足の生死はない。(拍手)
 生死は不二である。信心は、「生」も「死」をも、限りない幸福と満足でつつんでいく。妙法は「三世永遠の最高の杖」となるのである。そう、御本仏が保証してくださっている。
 大聖人の仰せが私どもの根本である。御書こそが永遠の基準である。この鏡に照らして見るとき、何の心配もいらない。また、いかなる悪意の策動をも打ち破っていける。なんとありがたいことであろうか。(拍手)
12  正法と文化の万年の都を
 ここで少し話題を変えて、京都のお話をしたい。宮崎にも、かつて平家の人々が京都から落人として渡ってきたといわれる。その他、宮崎と京都は、歴史的にも関係が深いといわれる。
 京都は、三年後の一九九四年、平安京が建設されてから千二百年という節を迎える。百五十万人もの大都市に、豊かな歴史の遺産と美しい山河が調和している地は、世界でもまれであろう。京都は、ある意味で、日本の心のふるさとであり、世界のあこがれの都である。宮崎の都城はそれ以上かもしれないが。(爆笑、拍手)
 その京都も、千二百年という歳月の間には、幾度となく存亡の危機に直面した。十二世紀には鎌倉幕府誕生による打撃、十五世紀には応仁の乱、そして近くは明治維新の東京遷都――。しかし、そのつど、京都の人々は、民衆のたくましいエネルギーと、民衆のみずみずしい知恵で立ち上がった。むしろ、困難を乗り越えるたびに、京都の伝統と心は磨かれ、強くなってきたといってよい。
 こうして築かれた「文化の都」としての風格、品格――。″これからは文化の時代″といわれる今こそ、京都から発せられる″平和の波″″文化の光彩″は、ますますその広がりと輝きを増していくにちがいない。
 また京都は、日本の百万都市のなかで、老齢人口の比率がもっとも高い、とうかがった。そして「国際長寿モデル都市」を志向している、と。高齢化社会にあって、まことに重要な着眼点である。
 私は学会の同志の皆さまこそ、一生涯、心若々しく、はつらつと、長寿を楽しみきって、″すばらしき長寿″のモデルとなられると信じ、また祈っている。(拍手)
13  平安京は千二百年。学会はまだ六十年である。これからが大いなる歴史を開くときである。私どもには洋々たる、壮大な未来が待っている。全人類が待っている。
 そして、これまでもそうであったように、大きな山を越えるたびに、より強く、より豊かに、より未来性をもって出発していけるのである。
 大切なのは正法である。そして民衆である。その民衆が築いた、正法流布の学会である。学会の勝利が、民衆の勝利となる。また広宣流布の勝利となる。
 永遠に民衆が栄えゆく「正法の都」「文化の都」――。これが学会である。皆さま方の現当二世の宿縁の都である。ともどもに、この妙法の「万年の都」「永遠の都」を築いてまいりたい。(拍手)
14  世代から世代へ、強き信心の″心″を
 「文化の都」といえば、シルクロードの敦煌が浮かぶ。この敦煌を蘇生させた大功労者が、皆さまよくご存じのように、中国の常書鴻氏である。昨年、私は、氏との対談集(『敦煌の光彩』徳間書店)を発刊した。後世に思想と歴史を残しておくためである。
 常氏は今年、八十七歳になられる。みずから「大漠痴人」(敦煌狂い)と名乗られ、今なお敦煌のために働いておられる。いずこにおいても、「××狂い」と呼ばれるほどの執念の人がいて、初めて興隆していくものだ。
 常氏とは、周恩来総理の思い出も語り合った。周総理も青年時代、京都の地で学ばれている。
 常氏は、あるとき、周総理から質問された。
 「あなたのお孫さんたちも、しっかり頑張っていますか」
 氏には、質問の意味がよくわからなかった。
 その様子を見てとった総理は「私が言っている意味は、敦煌――この宝庫の事業は、私たち一代だけでやる事業ではなく、子々孫々、世々代々まで、その研究と保護を継承していくべきものだということです」と。
 常氏は、この言葉を胸に刻み、実行を誓った。
 私にも「私の一生、そして子々孫々まで敦煌のためにという思いで頑張ってきました」と、しみじみ語っておられた。
 広宣流布も万年にわたる大事業である。世代から世代へ、強き信心の″心″を、永遠の「学会精神」を伝えつつ、完成させていかねばならない。
 後輩は、どんな立場になろうとも、先輩を大切にし、謙虚に尊敬する。先輩は、後輩を心広々と包容しつつ、自分の体験と、学んだ学会精神を語っていく。そうしたうるわしい、世代から世代ヘのリレーをお願いしたい。学会二世、三世、四世、五世と、たゆまず、止まらず、人類のための力走を続けてまいりたい。(拍手)
15  「御本仏の門下」の誉れは無上
 ここで御書(「松野殿御返事」)を拝したい。青年時代、戸田先生に講義を受け、たいへんに感動した一節である。
 「何に賤者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし
 ――どんなに社会的に身分の低い者であっても、仏法のことについて、少しでも自分より優れ、智慧のある人に対しては、この経(法華経)のいわれを問い、求めていかれることです――。
 「しかるに悪世の衆生は我慢・偏執・名聞・名利に著して彼れが弟子と成るべきか彼れに物を習はば人にや賤く思はれんずらんと、不断悪念に住して悪道に堕すべしと見えて候
 ――しかし、末法悪世の衆生は我慢(慢の一種)をいだき、偏った考えへの執着をもち、名聞名利に執着して、「あのような人の弟子となるべきであろうか。もし、あのような人に、ものを習えば、人から軽蔑されるであろう」と、つねに悪念を断ずることができず、ついには悪道に堕ちると経文には説かれております――。
 本来、求道の心は、相手の地位を選ばない。大切なのは「法」であり、「人」の立場ではないからだ。これが仏法の根本精神である。だれ人も納得する人間性と民主のお言葉である。
16  また、大聖人はこうも仰せである。
 「此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり
 ――法華経第四の巻(この場合、法師品第十)には「もしも、在家であれ出家であれ、法華経を持ち、説く人に対して、だれかが一言でも、そしることがあれば、その罪の多いことは、釈迦仏を一劫(約八百万年という説がある)の間、面と向かってそしった罪以上である」と説かれている――。
 「は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。加様に心得て唱うる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし、
 ――あるいは、普賢菩薩勧発品第二十八に「事実にせよ事実でないにせよ、法華経を持つ者の悪口を言えば、その罪は重い」(趣意)とも説かれている。これらの経文に照らして考えるならば、かりにも法華経を信受する者を、たがいにそしる(悪意の心でののしる)ことがあってはならない。その理由は、法華経を持つ者は必ず皆仏なのであり、仏をそしれば罪を得るからである。このように心得て唱える題目の功徳は、釈尊の唱える題目の功徳と等しいのである――。
 法華経によれば、「法華経を持ち説く者」とは、妙法を受持し、いかなる圧迫があろうとも、民衆のなかで広宣流布へと戦う人のことである。
 その広布の戦士には、いかなる差別もない。在家であれ、出家であれ、尊き仏の使いであり、仏であると説かれている。その人を、悪意をもって、ことさらにおとしいれ、見くだしていく人は、たいへんな罪を得る、仏敵となると仰せである。
 ともあれ私どもは、経文のまま、御書の教えのままに進む。ゆえに何ものも恐れない。一切は時とともに明確になっていく。(拍手)
 「世界一の学会」、また「世界一の宮崎」をめざしていきたい。信心の世界で、世界一をめざし、祈り、努力していくことは、因果倶時で、自分自身が世界一の長者、幸福者となっていくからだ。
 私どもは御本仏の真実の門下として、何があっても堂々と、朗らかに獅子工のごとく、生きぬいてまいりたい。学会によって発心し、学会によって育てられ、幸福になった私どもである。この尊き一生を、学会とともに、最高に晴れやかな勝利で飾っていただきたい。(拍手)
 お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください。また、お会いしましょう!
 (宮崎平和会館)

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