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日蓮大聖人・池田大作

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第一回沖縄県総会・第六回壮年部幹部会 全戦全勝の歴史つづれ

1991.2.5 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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2  なお、本日、秋谷会長は東京の江東文化会館で開催されている壮年部幹部会に、森田理事長は東京戸田記念講堂での集いに、それぞれ出席している。全国各地での壮年部の方々のご活躍を心から祈りたい。
 また、一昨日の世界平和祈念勤行会でも紹介したが、香港並びに東南アジア各国の皆さまから、「沖縄はじめ日本全国の皆さまに、よろしくお伝えください」との伝言が寄せられている。
 あわせて、香港、シンガポール、マレーシア、タイ、フィリピン、インドの理事長等の方々から「私たちアジアのメンバーは元気です。いっさい心配ありません。どうか日本の皆さまも頑張ってください。SGI(創価学会インタナショナル)の派遣団の来訪を、心からお待ちしています」とのメッセージが寄せられている。あらためて紹介させていただきたい。(拍手)
 さらに、本日はアメリカの友とともにアジアの代表メンバーが多数、参加されている。″本当に、ようこそ″と歓迎申し上げたい。(拍手)
3  前回の沖縄訪問(一九八八年)から三年。この間、沖縄の皆さまは、広宣流布のあらゆる法戦において、「連戦連勝」「全戦全勝」の見事な歴史を刻んでこられた。それは、地域・社会に広く深く根を張りながらの、大いなる模範の前進であった。
 沖縄は、社会的には、「ベトナム戦争の軌跡展」や「沖縄戦の絵」展、「平和への行動展」等の展示活動を全県下で展開され、各界から高い評価と反響を呼んでいる。
 これまでの多彩な平和活動とあわせ、今や沖縄創価学会は、完壁なる″一大平和勢力″を築き上げたと、私は皆さまとともに、高らかに申し上げておきたい。(拍手)
 また、「聖教新聞」の啓蒙も、地域の人々に大きな共感の輪を広げており、一月には、全国でもっとも目覚ましい推進をされている。(拍手)
 さらに、県下に五つの新会館が誕生している。泡瀬会館、名護平和会館、沖縄平和記念館、中頭文化会館、那覇東文化会館である。本年三月には、久米島会館も落成する予定となっている。
 このように「全戦全勝」の沖縄は、まさに創立七十周年への″トップランナー″として、日本そして世界の同志に、大いなる「勇気」と「希望」を与えてくださっているのである。これも、ひとえに、皆さま方の健気なる祈り、誠実の行動、そして、うるわしい団結のたまものであり、その尊き活躍の姿を、私は心からたたえたい。(拍手)
4  金の魔力は人間を迷わす
 話は変わるが、徳川幕府の八代将軍・吉宗(一六八四年〜一七五一年)は、歴代将軍のなかでも有名である(江戸三大改革の一つ「享保の改革」でも知られる)。彼が、あるとき、大岡越前守(町奉行として活躍し″大岡裁き″として有名)と話をしていた。
 吉宗が、越前守に、聞いた。
 「善悪とは、どんなものか?」
 すると越前守は、「おきあがりこぼし」の人形を取り出し、転がしてみせながら言った。
 「このように、いくら転がしても、すぐにまた起き上がります。これが善です。倒そうとしても、決して倒せるものではありません」
 善は絶対に負けない――と。
 吉宗は、うなずいて、「よくわかった。それでは悪とは?」。
 越前守は、今度は一枚の小判を取り出し、「おきあがりこぼし」の背中に結びつけた。
 「よく、ごらんください。これも、黄金を背負って、欲に迷いますと、悪に変わります。すると、このとおり、ふたたび起き上がることができなくなるのです」と。
 倒そうと思っても倒れない「おきあがりこぼし」も、小判を背負うと、もう起き上がれない――つまり、″善人″も金によって″悪人″に変わるというたとえである。
 この逸話はできすぎた話で、史実ではないと思うが、語られている真理は真理である。
 金によって道を迷う――それが、つねに変わらぬ人間の弱さ、醜さである。
 人間の世界である以上、信心の世界も例外ではない。お金がないときは、祈りにも力が入る(爆笑)。仏道修行も真剣である。ところが、福運を積み、経済力ができると、何となく力が抜け(笑う)、惰性になっていく場合がある。ここにも、うなずいている方がおられる。(爆笑)
 金銭感覚もだらしなくなり、生活も乱れて、結局、信心から遠ざかる人もいる。「私は、お金がなくて本当によかった」と(爆笑)、安心した方もおられるかもしれない。(笑い)
5  ともあれ、お金は″使う″ものであって、″使われる″ようになってはおしまいである。しっかりした目的観をもっているかどうかで、善にも悪にもなる。
 イギリスの思想家ベーコン(一五六一年〜一六二六年)は語る。
 「金は、よい召し使いだ。しかし場合によっては、悪い主人になる」(『随筆集』)と。
 金に支配され、金に使われ、金を基準に判断する。それは、もはや金の奴隷である。悪である。
 そして、″金の奴隷″になった人を見ぬけず、その人の言うとおり動く人――そうした愚かな人は、″金の奴隷″の、そのまた奴隷である。
 だました人間が、悪道にいくのは当然だが、だまされた人間も、道を踏みはずしたという点では、結局、同じとなり、同様に悪道にいくことになってしまう。これ以上、みじめな人生があるだろうか――。
 むしろ、″金の奴隷″となった人間の悪と策謀を鋭く見ぬき、戦わねばならない。その「英知」と「勇気」の源泉が信仰なのである。
 悪にだまされ、悪の犠牲になったのでは、何のための信仰か。何のための人生か。だれよりも幸福になるために信心したのである。せっかく歩んでいる幸福への軌道を、みずから狂わせてはならない。また、だれ人にも狂わされてはならない。(拍手)
6  金の魔力は、人間と人間の絆をも断ち切ってしまう。
 数十年前のこと、ある地方の町に、長年、連れ添った夫婦がいた。妻は働き者だったが、夫は怠け者で、妻のかせいだ金で遊んでばかりいた。
 それでも妻は、「女は男に仕えるもの」と、長い間、教えこまれてきたので、我慢して尽くしてきた。――今しているのは決して壮年部の話ではない(爆笑)。本当にひどい夫もいたものである。
 夫婦が貧しかった時代は、それでもまだよかった。若く、希望があるし、それなりの心の通い合いもあった。
 やがて妻の懸命の努力で、店が軌道に乗り、生活も安定した。食べるだけなら何とか、利息を中心にしてでも生活できるほどの貯金までできた。
 妻は、やれやれホッとしたと喜んだ。やっと、これから楽になる――。
 ところが、彼女は夫に金を与えすぎた。全部、彼女の名義にしておけばよかったのかもしれないが、あまりにも善人で、一生懸命の彼女は、そうしなかった。
 夫は、彼女が思っている以上に悪い人間だった。金ができると、″これでもう別れても大丈夫だ。あいつ(妻)を捨てよう″と考えた。じつは、こっそり若い愛人もつくっていた。金を手にした以上、妻はもう″ご用ずみ″にすぎなかった。
 しかし、切り出す正当な理由がない。そこで彼女の″黒いうわさ″を徹底してでっち上げた。裏で自分が作り話を流し、何人もの自称″証人″までこしらえた。自分が裏切っておきながら、反対に、彼女が陰で不貞を働いているというのである。
 根も葉もない、ばかばかしい話だった。冷静に見れば、陰謀であることは明らかである。しかし、世間は悪いうわさには耳を貸しやすい。パッと飛びつく。このときも、三流週刊誌のような心の人々が、いっぱいいた。
 昔のことでもあり、町中でうわさになると、だんだん彼女に不利になっていった。男性に甘く、女性に厳しい、古い体質の町であった。
 とうとう、この悪い夫は、長年、身を粉にして尽くしぬいた妻を切り捨てることに成功した。そして、彼女のかせいだ金で、安楽に遊び暮らした――。
 まさかと思うような話であるが、事実である。他の世界においても、同様の無慙むざん(恥知らず)な話は、たくさんある。
 封建時代には、もっと多かったであろう。民主主義も知らず、対話の精神もない、権威的で、一方的なわがままがとおった時代である。こうした古い、非人間的な考え方の犠牲になった人は数限りなくいる。
 女性の解放、「平等」を勝ち取る戦いは、始まったばかりである。このような理不尽なやり方は、もう断じて許さないと、先駆的な人々が立ち上がったのは、ここ一、二世紀の間である。
7  「平等」への女性の人権闘争
 たとえばアメリカで、「女性権利宣言」が出されたのは約百五十年前(一八四八年)。
 「すべての男性および女性は平等につくられており……奪うべからざる諸権利を与えられている」と始まる。男性も女性も、同じ人間ではないか、と。
 当然の主張であるが、当時、この宣言は多くの反対にあった。反対者のなかには女性もいたが、男性からの弾圧は激しかった。
 反対の先頭に立ったのは、牧師たちだった。彼らは聖書を珍妙に解釈して、こう言った。
 「神によって、アダム(″最初の男性″とする)が先につくられたのだから、イブ(″最初の女性″とする)のほうが下だ」(爆笑)
 今から見れば、ずいぶん勝手な言い分だが、この点が永らく″女性は男性に従属すべき存在″とする、重要な根拠になっていたのである。(「イブはアダムのあばら骨から作られたのだから」とも表現された)
 ある″女性解放会議″で、牧師がこうした主張をしたときである。一八五一年、オハイオ州でのことであった。一人の黒人女性が立ち上がった。女性が立ち上がったときの力はすごい。彼女は演壇に上り、怒りをこめて語った。
 「私の腕を見よ! 私は畑をたがやし、作物を植え、取り入れを納屋に運び入れる仕事をしたが、男に負けたことはなかった」(本間長世編『新大陸の女性たち』、『世界の女性史』9所収、評論社、以下同じ)
 男と同じように、それ以上に働いた。それなのに、どうして男のほうが偉いというのか!
 牧師が、男のほうが偉いのは「神の定め」であると論じたのに対しても、鮮やかに破折した。
 「あなたのイエス・キリストはどこから来たのか! 神とマリアとからではないか!」(爆笑)「男はイエスと何の関わりもないのだ」。
 牧師にとっては、キリストは根本である。それが、どこから生まれたのかを考えてもみよ、マリアという女性からではないか。しかも父は人間の男ではなく、男でもなく女でもない神とされているではないか、人間の男に何の関係もない! と。
 別に聖書の解説ではないが(笑い)、相手の矛盾を鋭く突いた舌鋒は見事である。女性が本気で怒ったら、男性はだれもかなわない。(爆笑)
8  日蓮大聖人は「男女はきらふべからず」、末法において妙法流布をする者に対して――男性だから女性だからと、きらうことは決してない。平等である――と明確に仰せである。
 また「貴賤上下をえらばず」、末法において御本尊を持つ男女の姿以外には宝塔はなく――貴いとか賤しいとか、上とか下とかの差別はなく、妙法を唱える者はわが身が宝塔で、多宝如来である――と断言しておられる。
 こうした、大聖人の「平等の仏法」から見れば、キリスト教社会での先のような差別論議は、まことに″遅れた″話に思える。
9  ともあれ、女性の解放運動については、今後もお話しする機会があるかと思うが、それは人類の偉大なる″人権闘争″であった。そして先駆者は、必ず古い権威、既得権(すでに得ている権利)をもつ勢力から迫害されるものである。
 これが歴史の常である。避けようがない。すべての「人権の勝利」は、こうして得られた果実である。
 ゆえに、何ごとも長い目で見なければならない。そうすれば本質が見えてくる。広々とした勝利への道が見えてくる。
 かつては、あれほどの圧迫、嘲笑。しかし今、男女の「平等」は常識である。文句をつける人は、だれもいない。いたとしたら狂人であろう。
 私どものあらゆる戦いも、全部、大聖人の仰せどおりの実践である。また、理性と人間性のうえからの道理である。ゆえに、時とともに、その正しさが証明され、未来には″常識″となることは間違いない。
 否、今でも良識ある人々は、ことごとく私どもの正義を証言している。将来は、″あのころの人たちは、こんな当たり前のことで論議しなければならなかつたのか″(笑い)と人々は驚くであろう。(拍手)
10  本日は壮年部幹部会であるが、壮年部は、たとえ体は老いても、「心は永遠に青年」でいきたい。
 (拍手)
 また、壮年が、和やかで、安定しているところは、一家も、組織も、皆が安心である。
 ご家庭でも、たまには、奥さまに「早く休みなさいよ。ご飯も、ぼくがたいておくよ」(爆笑)と、ウソでもいいから(爆笑)、優しい笑顔で言ってあげられる壮年部であっていただきたい。(爆笑、拍手)
 男である。どこにいようと、どんな状況にあろうと、「俺は俺だ。いちばんの幸福者だ。最高の人生だ」と誇りをもって生きていただきたい。そして人々に「元気」と「希望」を奮い起こさせ、つねにほっとし、楽しくさせていく、王者の人生であっていただきたい。(拍手)
11  武器を捨てた国に文化の華
 「平和の要塞」沖縄。沖縄には、平和への深き使命がある。歴史の源流がある。
 今から五百年前の十五世紀末、日本は戦国時代の真っただ中にあった。戦乱に次ぐ戦乱。家を追われ、飢え、苦しみ、殺されていった人々――長く悲惨な時代の幕開けであった。
 そのころ、沖縄は、平和と繁栄の世を謳歌していた。文化の華咲く時代を迎えていた。――琉球王国(第二尚氏王朝)の第三代、尚真王(在位一四七七年〜一五二六年)の治世である。
 この時代、武器は沖縄の社会から姿を消した。事実上、軍備撤廃と戦争放棄を実現した国が生まれた。日本の″平和憲法″の、約五百年も前のことである。
 そして、武力によらず貿易で、中国(当時は明)や韓・朝鮮半島(当時は李氏朝鮮)、東南アジアの各国と交流し、友好を深める。沖縄にかつてない安定と繁栄をもたらしたその選択は、まことに賢明であったといえよう。
 当時、沖縄の人々は、自分たちの国を誇りをこめて呼んだ。
 「万国の津梁(懸け橋)」と。
 尚真王はまた、税を軽くし、芸術を奨励するなど、国の発展に尽くした。壮大な建造物も数多く建てられた。その一部は現在もなお残っているほか、今後、復元が考えられているものもあるようだ。
 また、この時代に前後して、構難・沖縄の古い密語を集めた『おもろそうし』が編纂されている。
 当時の繁栄ぶりは後世、「春の花」にたとえられ、語り継がれた。まさに、におうがごとき文化の華々が、爛漫と咲き薫る時代であった。
12  ただ不幸にも、この平和な琉球王国を、その後、薩摩の島津氏が襲った(一六〇九年)。沖縄の人々は、武器を捨てて久しい。圧倒的な武力の前に、島の平和は破られた。王国はかろうじて存続を許されたものの、島津氏の支配のもとで、苦しい忍従の歴史が始まった。
 武力の否定――その″沖縄の心″″沖縄の思想″は、あまりにも時代に先んじていたのかもしれない。当時は、悲劇を迎えてしまった。
 しかし、戦禍が人類全体の破局にさえ連なりかねない現代こそ、もう一度、そのすばらしき先見をよみがえらせる″時″であると思う。いかなる戦争も許さない――不戦への、この″沖縄の魂″を、世界に広げていただきたい。(拍手)
 また、次元は異なるが、私ども学会の「広宣流布の世界」も、あまりにも幸福であり、あまりにも仲良く、繁栄している。ゆえに、その世界を切り崩し、侵略して支配下に置こうとする勢力は、つねにねらっている。断じて負けてはならない。断じて、だまされてはならない。
 御本仏の仰せのままに、民衆の力で、苦労して築き上げた「民衆の城」の「民衆の宝」を、断じて守りきっていかねばならない。そうでなければ大聖人が嘆かれる。人類の未来も真っ暗である。
 守るためには、どこまでも「強く」なければならない。平和の前進を拡大するには、どこまでも「賢く」なければならない。「知」と「勇」と、これさえあれば、正義である私どもは必ず勝つ。
13  ″平和の仏法″栄えゆく都を
 さて、十九世紀初めのこと。沖縄を訪れたあるイギリス人の医師が、その印象をこうつづっている。
 「英国の普通海員階級のあいだに、きわめて強力に存在する誇らかで、尊大な国民的優越感は、彼らをして、すべての外国人を見くびり、軽蔑心をもって取り扱うようにさせ、しばしば、外国に行ってまで、その国の人間を、のろま呼ばわりをさせているが、琉球では、そういった感情は、地球上で、もっとも平和な住民の礼儀正しい振る舞いと、親切な態度によって、完全に制御され、順致されてしまっている」(ジョン・マクラウド『アルセステ号航海記』大浜信泉訳、時事通信社)
 ――「地球上で、もっとも平和な住民」である沖縄の人々の前では、イギリス人の尊大で傲慢な心も、すっかり影をひそめてしまった、と。
 また別のイギリス人船員は、沖縄の人々との別れにあたり、まばゆいばかりの風光と、人々の美しき心をたたえた詩を残している。その一節に、
 「こうして、友情がすべてのものになべて示され、
 相通じる心と心は、深く結ばれた」(同前)と。
 言葉や習慣の違いを超えて結ばれた、人間と人間の絆――。沖縄の人々のぬくもりは、初めて出会ったイギリス人たちの心をも優しくつつんだ。遠い異国の旅人の胸を、あたたかい感情で満たしたのである。
14  さらに当時、ワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に流されていたナポレオンも、あるイギリス人から沖縄の模様を聞いている。(このイギリス人は、薩摩藩が陰で琉球王国を支配していることを知らなかった)
 ナポレオンは、沖縄に武器がなく、戦争もないと聞いても、なかなか信じない。「太陽の照らすところで戦争をしない民族があるとは考えられない。不思議なことだ」(山里永吉『沖縄史の発掘』潮出版社)と。
 戦争に明け暮れた彼にとって、あまりにもかけはなれた話だった。人間の世界ではない、どこか別の世界の話でも聞くような気持ちであったろう。
 戦乱の流転の果てに、絶海の孤島で失意の底にあったナポレオンにとつて、沖縄こそ″夢の島″であったかもしれない。
 沖縄の歴史には、「平和の心」が、深く脈打ってきた。どうかこの天地に、皆さま方の手で、さらにすばらしき「平和と幸の楽園」を築いていっていただきたい。美しき海、空、そして花々にいろどられたこの研修道場もまた、皆さまの希望のあすを象徴しているように思えてならない。
 「平和の島」沖縄、「平和の仏法」栄える沖縄に栄光あれ―――と祈りたい。(拍手)
15  檀那なくして正法の流布なし
 さて、大聖人門下のなかで″壮年部″の代表といえば、やはり四条金吾である。大聖人は、金吾にこのように仰せである。
 「設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんばいかでか弘まるべき
 ――たとえ正法を持つ智者がいても外護の檀那がいなければ、どうして正法が弘まるであろうか―――と。
 この御文で「智者」とは、御本仏日蓮大聖人であられる。大聖人の御出現なくして、末法での正法の広宣流布がありえないことは当然である。そのうえで、大聖人は、外護の檀那(在家の門下)なくして、正法の流布はありえないと仰せである。
 現在で考えれば、外護の創価学会の存在があったからこそ、大聖人の仏法は、世界に弘まることができたのである。その誇りと確信を、私どもは忘れてはならない。
 さらにまた、次のようにも述べられている。
 「日蓮をたすけんと志す人人・少少ありといへども或は心ざしうすし・或は心ざしは・あつけれども身がうご合期せず・やうやう様様にをはするに御辺は其の一分なり・心ざし人にすぐれて・をはする上わづかの身命をささうるも又御故なり
 ――日蓮を助けようと志す人は多少いるが、あるいは志が薄かったり、あるいは志は厚いようでも、行動が心にともなわないというようにさまざまであるが、あなた(四条金吾)はその一分にあたっている。日蓮を助けようとする志が人にすぐれておられるばかりか、日蓮がわずかの身命を、ここまで支えることができたのも、あなたのおかげである――。
 「天もさだめて・しろしめし地もしらせ給いぬらん殿いかなる事にもあはせ給うならば・ひとへに日蓮がいのちを天のたたせ給うなるべし
 ――このことは、天も必ず知っておられるし、地もご存じであろう。もし、あなたが、どのような災難にでもあわれたならば、それはひとえに日蓮の命を、天が断とうとするのも同然である――と。
 大聖人の御生命をお守りし支えてきた四条金吾である。ゆえに四条金吾が、災難にあえば、大聖人の御生命をお守りすることができなくなる。つまり、金吾の身に何か起きることは、天が大聖人のお命を断とうとするのと同じことである、と仰せなのである。
 諸天が大聖人のお命を断つことなど絶対にありえない。それがありえないことをとおして、四条金吾が災難に負けるようなことはないことを教えられている。
 当時、金吾は、いわれのない讒言のために、主君から領地替えを命じられるという、たいへんな苦境に直面していた。その四条金吾に対して、大聖人は、かけがえのない大切なあなた(金吾)に競い起こっている災難は、絶対に克服できないわけはない。あなたが諸天に守られないわけがない、と御断言なされているわけである。
 それは、四条金吾の苦悩を、御自身の苦悩とまでお考えになられた、まさに師弟一体のお心からの、ありがたい大慈大悲であられる。
 また、この御文を私どもの立場で拝せば、大聖人の御遺命のままに、正法を外護し世界に弘めてきたのは創価学会である。ゆえに、学会を迫害したり、学会員をいじめ、苦しませることは、広宣流布を妨げ、遅らせることになる。それは、御本仏日蓮大聖人の御遺命に反するばかりでなく、大聖人のお心をも断とうとすることになるにちがいない。
16  時間は正義の証明者
 これまでも、何かあるごとに退転し、臆病にも逃げ去って、学会を非難、中傷してきた者もいた。それらの者が、いったいどのような人生の末路となっているか、皆さま方がよくご存じのとおりである。
 少々のことがあっても、心を動かしたり、信心を退するようなことがあってはならない。何も恐れる必要はない。
 「戸田城聖はどこまでいっても戸田城聖である。創価学会はどこまでいっても創価学会である。この確信で進め」と、戸田先生は言われていた。
 どうか壮年部の皆さま方も、この絶対の確信をもって、広布の大道を、人生の正道を、自分らしく胸張り進んでいただきたい。
17  また、大聖人は、同じく壮年門下の北条弥源太へのお手紙の中で、次のように仰せである。
 「日蓮房が存知の法門を人に疎ませんとこそたばかりて候らめ、あまりの事どもなれば誑惑おうわく顕われなんとす、但しばらく・ねうじて御覧ぜよ、根あらわれぬれば枝れ・源渇けば流尽くると申す事あり
 ――この事件は日蓮の存知の法門を、人に疎ませようとしてたくらんだのであろう。しかし、あまりの仕打ちであるから、その証惑(人を惑わすこと)が露見しかけているのである。ただ、しばらく時を待って、耐えてごらんなさい。根が露になれば枝は枯れ、源が渇けば流れは途絶えるということはあるものです――と。
 不幸は長く続かない。悪もまた永遠に栄えない。時とともに真実は必ず明らかになる。正義は必ず勝つ、と励ましてくださっている。
 信心も人生も、長い目で見ていくことだ。時を待ち、時を創る余裕をもってほしい。そして、ふところ深く、おおらかな心で、聡明な人生を生き、広布の指導者としての使命を全うしていただきたい。(拍手)
18  この幸福の人生を、信心から出発し、学会とともに出発された皆さまである。であるならば、この信心を貫きとおし、学会とともに生きぬく生涯であっていただきたい。
 三大秘法の御本尊は絶対であられる。しかし、臆病であったり、「狂信」の信心であれば、御本尊の絶大な功徳は受けられない。どこまでも、「勇気」ある信心で「正信」の道を歩んでいかねばならない。それが、何よりも大切なのである。
 どうか、とくに壮年部の皆さまは、朗らかな一生、正しい一生、そして、皆に「希望」を与えゆく一生であっていただきたい。
 たとえ、もうだめだと思えるようなときであっても、″みんな、あの希望の虹をごらん″″創価学会、万歳だよ″と、「安心」と「夢」と「勇気」を、人々の心にパーッと広げゆくような皆さま方であっていただきたい。
19  私は、もう十七年前になるが、昭和四十九年二月、初めて宮古島と石垣島を訪問させていただいた。今も、そのときの模様をたいへん懐かしく思い起こす。なかなか沖縄の島々を訪れることはできないが、宮古島の皆さん、お元気ですか――。石垣島の皆さんも、お元気ですか――。(場内から「ハイッ」と代表が元気に応える)
20  明年には、第二回の沖縄県総会が予定されているとうかがっている。また、この民衆の″幸の都″、花と平和の楽園でもある研修道場には、今後も、日本各地から、またアジアの国々から多くの同志が集ってくるようになるにちがいない。その折は、皆さま方に、何かとお世話になると思うが、よろしくお願い申し上げたい。(拍手)
 本日は、本当にありがとう。お会いできなかった方々にも、くれぐれもよろしくお伝えください。
 (沖縄平和会館)

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