Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

各部代表研修会 「民衆の金字塔」こそ永遠

1991.1.19 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

前後
14  いかなる苦難にも悠々たる気概で
 ここで御書を拝したい。大聖人の御一生は、権威、権力からの迫害の連続であった。しかし、いかなる法戦にあっても、大聖人は、微塵も臆することなく、むしろ権威を悠然と見おろされながら堂々と進んでおられる。
 文永八年(一二七一年)九月十二日、鎌倉幕府の実力者であった平左衛門尉は、大聖人を召し取ろうと、物々しく武装した数百人の武士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲撃する。
 「種種御振舞御書」には、そのときの模様を、次のように仰せである。
 「日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら殿原但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか
 ――日蓮(大聖人)は大高声で彼らにこう言った。「なんと、おもしろいことか。平左衛門尉が、ものに狂っている姿を見よ。おのおのがたは、ただ今、日本国の柱を倒すのである」と叫んだところ、その場の者すべてが慌ててしまった。日蓮のほうこそ御勘気を受けたのであるから、おじけづいて見えるべきであるのに、そうではなく、逆になったので、″この召し捕りは悪いことではないのか″とでも思ったのであろう、兵士たちのほうが顔色を変えてしまったのが見えた――と。
 大聖人お一人を召し捕るのに、数百人からの武士を従えて乗り込んだ平左衛門尉の行動は、まさに″狂気の沙汰″ともいうべき仕業であった。
 この常軌を逸した行動は、彼らの臆病さを示している。権力者というものは、自分の意にそわないものや、正義の声を極度に恐れる。その臆病な心が、時として常識では考えられない、なりふりかまわぬ暴挙へと走らせるものである。
 そうした権力者の本質を鋭く見ぬかれた大聖人は「なんと、おもしろいことか」と一笑され、「ものに狂っている姿を見よ」と一喝されている。すると大聖人を捕らえにきた者たちが、反対に「早まったかな」と顔色を変えるのである。(笑い)
 御本仏の悠然たる御境界に対して、権威、権力の狂った迫害の姿が、なんとみじめで、哀れに見えることか。
 私どもは、御本仏日蓮大聖人に連なった地涌の門下である。大聖人の御遺命のままに広宣流布に走りぬいてきた信仰勇者である。
 私どもを、つねに大聖人が見守ってくださっている。ゆえに、居丈高な非難や迫害があったとしても、風の前の塵のようなものである。何も恐れる必要はない。「ああ、おもしろいことだ」と朗らかに笑いとばしながら、獅子王のごとく悠然と進んでいただきたい。そして、賢明にして勇気ある行動をもって、希望に満ちた広布の″新しき扉″を開かれんことを念願し、本日の研修としたい。
 (学会別館)

1
14