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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表研修会 「民衆の金字塔」こそ永遠

1991.1.19 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  「金字塔」とは「ピラミッド」の意
 人生に″何か″を残せる人は幸せである。永遠の歴史を残せる人は、さらに幸せである。周囲の変化に動ずることなく、ひとたび築き始めた″わが塔″を完成させるまで戦う――栄光と満足は、その人のものである。
 風向きしだいで変化する人生。それは砂に書いた文字のようにはかない。二十一世紀まで、あと十年。この十年間、またこの一年を、わが人生と広布の「金字塔」を完成させる建設の日々としていただきたい。
 ところで、「金字塔」とは、じつは「ピラミッド」を意味する。漢字の「金」の字が、ピラミッドを横から見た形に似ている。そこで「金の字」の塔と呼ばれるようになった。
 また「ピラミッド」とは、古代エジプト語の「昇る」という言葉に由来する。赫々たる太陽をめざして昇りゆく精神――その象徴がピラミッドなのである。
 建造当時は、化粧石におおわれ、陽光に、また月光に美しく光り輝いていたといわれる。ピラミッドは、宇宙と人間とを結び、交流させゆく″精神の塔″であった。
2  私がピラミッドを見学したのは、今から二十九年前、昭和三十七年(一九六二年)のことである。中近東六カ国を訪れた折であり、現・秋谷会長も一緒であった。
 中近東訪問は私にとって、宗教と人間、平和と民衆――さまざまな思いが交錯する思索の旅となった。二月七日にエジプトのカイロに到着。アフリカ大陸の大地を踏んだ。
 有名なギザの三大ピラミッドや、スフィンクスも見た。ピラミッドのうす暗い内部も見学した。
 そのうちもっとも大きい「クフ王のピラミッド」は、基底の長さ約二百三十メートル。全体の高さ約百四十七メートル。使われた石の数は約二百七十五万個。一個の平均の重さは二・五トン。総重量は六百九十万トン。この石材を三十センチ立方の角石に切って一列に並べると、赤道の約三分の二の長さになる。
 かのナポレオンが、エジプト遠征の折、兵士たちに「諸君、四千年が君たちを見おろしている!」と言って激励した逸話は有名である。
 ナポレオンに同行していた学術隊の計算によると、三大ピラミッドの石材全部を使えば、厚さ三十センチ(一メートル説も)、高さ三メートルの防壁でフランス全土を囲めるという。
 ともあれ、これほどの大建造物が、じつに四千六百年前からそこにある。人類最大の石造建築物であり、古来「世界の七不思議」の筆頭に挙げられるのも無理もない。まさに″永遠の時間″を結晶させたような巨大な存在感である。今なお、世界中の人々を引きつけてやまない魅力がある。
 トインビー博士は、ピラミッドは、「おそらく将来、幾千年、幾万年ののちに至るまで、その巨大な任務を果たし続けるであろう」「人類そのものよりも長く残り(中略)証明し続けるであろう」(『歴史の研究』第一巻、「歴史の研究」刊行会)とさえ述べておられる。
3  奴隷制でピラミッドはできない
 じつは、ピラミッドは他にも多く造られた。その数は八十基とも二百基とも言われており、大きさや構造も多様である。そして、その多くが長い時間の攻撃に敗れ、崩れ去っていった。
 そうしたなか、どうして、この「大ピラミッド」は五千年の風雪にもびくともせず、そびえているのか。
 「広宣流布」は、ピラミッドとも比較にならない壮大な「金字塔」である。それを、今、私どもは建設している。万年――永遠への偉業である。その意味で、「大ピラミッド」が語る″歴史の声″に耳をかたむけてみたい。著作『私の人間学』(読売新聞社)の中でも少しふれたが、それをより広げて語っておきたい。
 いかにすれば、ピラミッドのごとく、精巧にして不動、不壊にして永遠なる「広布の塔」を、そして人類の「平和の塔」を打ち建てられるのか。
4  ピラミッドの永遠性の秘密――結論から言えば、それは「民衆」にある。
 民衆が″自発″の意志と情熱で、この大事業に取り組んだ。そこにはじめて、寸分のスキも手ぬきもない、完全なる「古代の金字塔」ができあがった。
 かつては、ピラミッドというと、一人の王の絶対権力に、人民が奴隷のごとく使われ、涙と犠牲のうえに築かれた――というイメージが強かった。ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前五世紀。著書『歴史』でピラミッド建設にふれている)に由来するこうした説は、今では否定されている。
 私も初めから疑問であった。人々が権力への恐怖のために、いやいや取り組んだものが、かくも精巧にできあがるだろうか。ほんの少しの計算の狂い、ほんの少しの施工の狂いも、長い年月と非常な重量によって、いつしか大きく広がり、致命的なひずみとなろう。五千年ももつはずがない――と。
 ゆえに私は、初訪問のときに、秋谷会長ら同行メンバーに言った。「ピラミッドも立派かもしれない。しかし、結局、いちばん偉大なのは人間だ。人間の創造力だ」と。
 ピラミッドを考え、造りあげたのは、極限まで発揮された「人間」の力、「民衆」の創造のエネルギーだ――私はそう直感したのである。
 いわゆる「奴隷」には、責任感も創造力も出ないものだ。創造の力を引き出すもの、それは″魂の自由″である。建設の情熱を引き出すもの、それは″自発の喜び″である。その意味で、これを造った人々が奴隷であったはずがない――この直感は、幸い、近年の研究で裏づけられた。
 八年前、フランス考古学界(エジプト学)の最高権威であるジャン・ルクラン教授と語り合った(一九八三年九月十八日)。その折、長年の疑問をぶつけてみた。
 「建設の担い手は自由な民衆だったのではないでしょうか」。教授は「そのとおりです」とうなずかれた。
 教授によると、「大ピラミッド」を造ったのは奴隷ではなく、自由な農民たちと、選ばれた技術者であった。
 「彼らには王の栄光を永遠ならしめるとの『使命感』がありました。またピラミッドによって、人類の永遠性を後世に伝えられるとの『確信』がありました。だから、あの奇跡が実現できたのです。私はそう見ています」と――。
 もとより次元は異なるが、私どもの「広宣流布」の建設もまた、日蓮大聖人の仏法を世界に弘め、人類を永遠に救いゆく「使命感」に貫かれている。そして″あの時代にこれほどの大建設ができたのか″と、「民衆の力」「信仰の力」を後世に燦然と輝かせゆく「確信」に満ちている。
 二十世紀の奇跡ともいわれる広布の発展も、自由なる民衆の自発の信仰と情熱があったればこそである。この方程式は、これからも不変である。
 ゆえに、民衆を抑圧し、権威で縛り、信仰の歓喜を託した″自由の歌声″を封じようとする者は、正法広宣流布の敵となり、破壊者となる。
5  そもそも国民を疲弊させ、自由を奪っては国力は低下する。まさに「太陽が昇る」がごとき勢いが国になければ、大建設はできるはずがない。その道理のうえからも、ピラミッドを造ったエジプトの王が民衆を酷使し、虐げたとは考えにくい。
 事実、「大ピラミッド」を造ったクフ王は、農民によるピラミッド建設の工事期間を、六月からの三、四カ月間と決めた。
 ナイル川は毎年、氾濫し、この間は農作業ができない。農民たちは、この″余暇″を利用して、ピラミッドの建設に参加したのである。(=当時の国民のほとんどが自由農民であった。奴隷制度の確立は後世のことである)
 したがって、本業には支障がなかった。私どもが、広布の活動を、仕事のあいた時間を有意義に使って行っている姿にも通じよう。
 さらに、農民たちにとって、この期間、工事に参加することは、失業対策にもなった。衣食住も保障される。技術も身につけられる。そのうえ、作業の時期には、川が増水していたから、石も運びやすかった。この間、各部族の代表が参加して作業した。この栄光の建設に参加した者は、部族のヒーロー(英雄)となった。
 農作業の時期には、石を切り出して磨き上げるまでの作業を石工たちが行い、翌年の工事期に備えた。
 石切り場の跡からは、石工たちの「労働歌」や「信仰の歌」、自分たちの「隊」の名を刻んだ文字も発見されている。そのなかには、「精力隊」「持久隊」「健全隊」(クルト・メンデルスゾーン『ピラミッドを探る』酒井博六訳、法政大学出版局)といった文字もあり、それぞれの自負心と競争心がうかがえる。それらの名は不朽である。
 私どもの支部や地区名、さまざまなグループ名もまた、仏子の名前とともに永遠に輝いていくにちがいない。
 農民や石工たちは、歓びの歌声を青空に響かせ、異なる部族の出身の人々と友情を育てながら、″世紀の偉業″への誇りに燃えて働いたのである。
 要は、王が国民を大切にしていたということである。また人々に深く尊敬されていた。そして自由と信仰の喜びに皆、心が燃えていた。その心で団結していた。そこに成功の秘密があった。
 民衆を利用し、自分の栄誉と欲望の手段として、搾り取ることばかり考えたり、勝手に分断しようとしたりするのは、建設の指導者でなく、破壊の指導者である。
6  「建設」の情熱は「自由」から生まれる
 ルクラン教授は、「大ピラミッド」の永遠性について、「非常なる熱意と完全なる計算。そして長い時間をかけて、一生懸命、心をこめて造ったことです。信仰と正直さをもった心が、それを成し遂げたのです」と結論された。
 情熱と理性、忍耐と誠実――「大ピラミッド」は、その名も「情熱のピラミッド」と呼ばれる。
 石を一つ切るにも、積むにも、わずかな誤りが全体の崩壊に通じる。すべてが精魂こもる労作業であった。
 権力者が、どんなに鞭を振り、強制労働させても、現場の作業の一切に目を光らせることは不可能である。抑圧すればするほど、人々は復讐のために、わざと手を抜くであろう。
 事実、この「大ピラミッド」以降、もっと小さいピラミッドがたくさん造られたが、いつしか崩れ、ボタ山のような瓦礫の集まりになってしまった。技術が進み、経験も増え、小さいから簡単なはずなのに、どうして崩れてしまったのか――。
 それは「知識」はあっても「情熱」がなかったからである。「形」はまねていても「魂」がなかつたからである。
 どんなに権力者が強権を使っても、「民衆」自身が、ピラミッド建造に喜びを見いだせないのでは、魂がこもるはずがない。ただ人を苦しめながら、せっせと瓦礫の山を造らせているのである。
 民衆にとって、そんな指導者のもとにあることは、どれほど大きな不幸であろうか。
7  「ピラミッド」が人々を結びつけていた時代は、約百年。その間に、一気に頂点を極め、やがて人々の関心は、運河建設など別のものに移っていった。今残る「大ピラミッド」は、その最盛期のものである。
 歴史上、民衆の「創造のエネルギー」が一気に高まる″時″がある。さまざまな条件が合致して、大いなる建設の時期となる″時″があるものだ。
 広宣流布は万年の遠征である。それは当然のこととして、その大きな基盤は、やはり一気につくっておかねばならない。今こそ、その時である。今こそ、万年への基礎を完成させる時なのである。
 ともあれ、このように「大ピラミッド」は「民衆の金字塔」であり、権力の記念物ではなかった。民衆が主役であった。民衆が主体者であり、自発の責任感をもっていた。その真心が結晶して、金字塔が完成したのである。
 それと同じく、大聖人の御遺命である「広宣流布」を、もしも少しでもやる気があるならば、絶対に「民衆」を見くだし、「民衆」に敵対することは許されない。自由を奪った奴隷制度では、ピラミッド(金字塔)は建たないのだ。
 これが明確な歴史の教訓である。何より大聖人が教えられたところである。
8  なお当時、地球上にはまだ現在のような「民族国家」はなかった。主に、部族ごとの小さな共同体の集まりであった。
 この「ピラミッド建造」という大事業が、初めて「民族国家」をつくった。バラバラの部族が、一つの目的に向かって団結した。ある学者は、ここにこそ「ピラミッドの真のねらい」があったとさえ論じている。(=ドイツのエジプト学者クルト・メンデルスゾーン博士の説。他の観点からも、「王の墓」とする説には、現在、さまざまな疑問が投げかけられている)
 この時できた「民族国家」は、五千年後の現代まで続いている。
 そして現代は、その「国家」が無意味となり、より大きな「人類共同体」をつくるべき時代を迎えている。バラバラの国家と民族を一つに結びつける「現代のピラミッド」――私どもの立場でいえば、それが「仏法を基調とした平和・文化・教育の推進」の大運動である。「権威」で人々を縛り、一つに束ねるのではない。人類普遍の「理想」と「友情」で、世界の心を結ぶのである。
9  「人間に奉仕」が宗教者の使命
 ロマン・ロランは言った。「ピラミッドは頂上から作られはしない」と。
 着々と、また忍耐強く、盤石な基礎をつくらねばならない。個人の人生においても、団体においても――。
 そして、ひとたび「わが塔」を築きはじめた以上、「頂上」に最後の石を置く完成のその日まで、何があっても、その場所で「建設」の歌声を止めないことだ。「完成」なくして、一切はムダとなるからである。
 そして、何があろうと「建設」の同志を裏切らない、その不屈の剛毅さ自体が、「精神の金字塔」であり、「信仰の金字塔」であると、私は強く訴えておきたい。
 自由は幸福である。自由なくして幸福はない。仏法は幸福をもたらす法である。ゆえに自由の敵は、幸福の敵であり、仏法の敵である。
 宗教は人間のためにある。人間が宗教のためにあるのではない。ゆえに「宗教の指導者」とは、″人間のために奉仕する人″の別名である。
 ところが、あまりにも多くの場合、宗教の指導者、なかんずく聖職者は、″人間のために奉仕する″どころか、″自分のために人間を奉仕させる″転倒を繰り返してきた。
 宗教は本来、人間を内側から解放するものである。しかし、宗教が硬直化した権威になり、形骸化するとき、宗教は、外側から人間を縛り、搾取するものへと一変する。
10  宗教が悪しき権力と結びつき、またみずから権力と化した時の恐ろしさ――その一断面が、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴの小説『一粒の麦』に描かれている。かつてアフリカを研究している友が、その抄訳を贈ってくださった。
 この作品は人種差別をテーマにした、アフリカ文学を代表する名作である。ピラミッドを語った折でもあり、アフリカ民衆が近代において味わった苦悩の一端にふれておきたい。
 そこには、このような描写がある。集会で、ある男が「奪い取られた大地」の話をする。この数百年のアフリカの歴史を象徴した話である。
 ――俺たちは、白人たちの教会に行った。白いロープをまとった宣教師が聖書を開いて言った。「ひざまずいて、祈りましょう」と。
 俺たちがひざまずくと「それでは、目を閉じましょう」と言う。そのとおりにした。すると、どうだ! やがて俺たちが目を開けると、自分の土地がどこかに消えているじゃないか! かわりに、ぎらっと光る剣を持った奴らが俺たちを囲んでいたんだ。
 しかも、俺たちに、お金や財産を天国に納めろと要求していた宣教師たちは、自分の分だけは、ちゃっかりこの世に残していたのさ―――。
 聖職者の言うとおり、ひざまずき、目をつぶっているうちに、気がつくと、身ぐるみはがされ、奴隷の身におとされていた、と。アフリカの悲劇を印象的に要約している。
 盲従は怖い。無知は不幸をもたらす。″食いもの″にされる。民衆の「理知」を抑えつけ、「文化」を嫌い、ただ従え、従わないものは罪人だ、と宗教が強調するとき――その裏には、何らかの意図があることが歴史の常であった。ゆえに、私はそうした悲劇をいかなる意味でも起こさぬために「英知を磨け」と叫ぶ。訴えに訴える。
 さて、いよいよ今年五月、フランスに、「ヴイクトル・ユゴー文学記念館」がオープンすることになった。フランス各界の識者からも、大きな賛同と協力が寄せられ、ユゴー自筆の原稿や書簡、貴重な初版本、オリジナル写真など、すでに千五百点を超える品々が準備されている。フランスと世界の文化に貢献し、日仏友好の懸け橋となる本格的な記念館となるよう、充実を図っていきたい。
11  ジョルジュ・サンド「人々に勇気と希望を」
 収集された資料の一つに、フランスの有名な女性文学者ジョルジュ・サンドヘ宛てた、ユゴー自筆の手紙がある。一八五六年六月三十日付。今から百三十年以上も前の書簡である。
 当時、ユゴーは、ナポレオン三世(ルイ・ナポレオン=ナポレオン一世の甥)の独裁に抵抗し、亡命生活のさなかにあった。その亡命先ガーンジー島から、サンドの郷里である、フランスの美しい田園ノアンの地へ送られた手紙である。
 その中でユゴーは、こう語りかける。
 「あなたは、高貴で誠実で、そして偉大な魂を持っておられる。
 私は、ある日の朝食の折、子どもたちに″彼女は、思想界で最も優れた女性であり、常にそれは変わらない″と話したことがあります」と。
 またユゴーは、この″優れた女性″亡きあと、「ジョルジュ・サンドは一個の思想であった」とも回想している。
12  ユゴー(一八〇二年〜八五年)とサンド(一八〇四年〜七六年)の生きた時代は、ほぼ重なっている。激しい権力闘争が繰り返された十九世紀フランス。とくに、その半ばごろは、一度は革命によって共和制が実現されながら、人々が託した民主社会実現への希望が、無残にも踏みにじられた時代でもあった。一八四八年六月には、労働者運動を抑圧しようとした議会に対して、パリの民衆が抗議をする。しかし、厳しい弾圧によって抑えられてしまった。新聞も弾圧され、いくつかの政治組織が閉鎖させられた。
 サンド自身、「理想の共和国」をめざす熱烈な行動者であった。それだけに、本来、「民主」を実現するべき指導者たちが、逆に「抑圧体制」協力へと民衆を裏切っていく姿に、だれよりも深い幻滅を味わった。悔しかった。
 こうした暗い世相のなかで、あえてサンドは、心あたたまる美しい田園小説を書き残す。その代表作が『愛の妖精』である。皆さんのなかには、読まれた方も多いと思う。若千、この物語をとおしてお話しさせていただきたい。
 サンドが、なぜ、田園を舞台にした美しい人間性のドラマをつづったのか。
 彼女は、こう思った。″動乱で流された血に対して、もっとも嫌悪と絶望を感じているのは、名もない庶民だ。この人たちは、だれも殺戮や破壊を望んでいないのに″と。
 また彼女は、当時の絵画などが現実社会の陰惨な部分を強調し、人々を暗い気分にさせているのを見て、疑問をいだく。″これが芸術の本来の使命だろうか″″誤解や憎しみが渦巻く時代にあって、人々に希望を与え、勇気づけていくのが文化ではないのか″と。
 いわば、悪意と策謀が渦巻く動乱の時代にあって、どこまでも人間性を武器に、人間らしいやさしい感情や、昔ながらの心の正しさを示しながら、社会の空気を変えていきたいと願ったのである。暴力に対する″文化の闘士″、民衆を裏切る変心の指導者に対する″信義と友情の戦士″――それがサンドの横顔であった。
13  こうして生まれたサンドの名作『愛の妖精』は、中部フランスの田園地帯が舞台であった。主人公は、野性児ともいうべき自由奔放な少女ファデット。彼女は、双子の兄弟との愛と葛藤のなかで、美しく聡明な女性として生きていく。
 しかし、ファデットは、家柄が良かったわけではない。家庭環境に恵まれていたわけでもない。少女時代は「ちっぽけで、やせっぽちで、髪の毛を振り乱して」(宮崎嶺雄訳、岩波文庫)、見栄えもよくなかった。近所の人々から「こおろぎ」とあだ名され、いじめられる。作者サンド自身の少女時代が、一つのモデルとなっているという。
 だが、この少女には、人の悩みや感情を鋭く読みとる天性の力があった。そして、成長するにつれ、持ち前の清らかな心、強い意志、知恵を発揮し、恵まれない境遇も、複雑な人間関係も、すべてを「幸福」の方向へと回転させていく。
 ファデットは、思いやり深い乙女であった。どんなに苦悩に沈んだ人でも、心の眼を開きさえすれば必ず蘇生し、幸せになれると信じていた。「心の勝利」が「人生の勝利」をもたらすのである。
 また、それを分かってもらうために、言うべきときには、遠慮なく言いきった。それが、その人を助けることになるのだ――と。
 その毅然としたさわやかさ、清々しさ。それが彼女の、ありのままの姿であり、もともと備えていた魅力、人間性、生き方であった。そして、そのあたたかな人間性をもって、人生を苦悩の闇にしばりつける″鎖″を解き放ち、幸福になる力を与えていったのである。
14  いかなる苦難にも悠々たる気概で
 ここで御書を拝したい。大聖人の御一生は、権威、権力からの迫害の連続であった。しかし、いかなる法戦にあっても、大聖人は、微塵も臆することなく、むしろ権威を悠然と見おろされながら堂々と進んでおられる。
 文永八年(一二七一年)九月十二日、鎌倉幕府の実力者であった平左衛門尉は、大聖人を召し取ろうと、物々しく武装した数百人の武士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲撃する。
 「種種御振舞御書」には、そのときの模様を、次のように仰せである。
 「日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら殿原但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか
 ――日蓮(大聖人)は大高声で彼らにこう言った。「なんと、おもしろいことか。平左衛門尉が、ものに狂っている姿を見よ。おのおのがたは、ただ今、日本国の柱を倒すのである」と叫んだところ、その場の者すべてが慌ててしまった。日蓮のほうこそ御勘気を受けたのであるから、おじけづいて見えるべきであるのに、そうではなく、逆になったので、″この召し捕りは悪いことではないのか″とでも思ったのであろう、兵士たちのほうが顔色を変えてしまったのが見えた――と。
 大聖人お一人を召し捕るのに、数百人からの武士を従えて乗り込んだ平左衛門尉の行動は、まさに″狂気の沙汰″ともいうべき仕業であった。
 この常軌を逸した行動は、彼らの臆病さを示している。権力者というものは、自分の意にそわないものや、正義の声を極度に恐れる。その臆病な心が、時として常識では考えられない、なりふりかまわぬ暴挙へと走らせるものである。
 そうした権力者の本質を鋭く見ぬかれた大聖人は「なんと、おもしろいことか」と一笑され、「ものに狂っている姿を見よ」と一喝されている。すると大聖人を捕らえにきた者たちが、反対に「早まったかな」と顔色を変えるのである。(笑い)
 御本仏の悠然たる御境界に対して、権威、権力の狂った迫害の姿が、なんとみじめで、哀れに見えることか。
 私どもは、御本仏日蓮大聖人に連なった地涌の門下である。大聖人の御遺命のままに広宣流布に走りぬいてきた信仰勇者である。
 私どもを、つねに大聖人が見守ってくださっている。ゆえに、居丈高な非難や迫害があったとしても、風の前の塵のようなものである。何も恐れる必要はない。「ああ、おもしろいことだ」と朗らかに笑いとばしながら、獅子王のごとく悠然と進んでいただきたい。そして、賢明にして勇気ある行動をもって、希望に満ちた広布の″新しき扉″を開かれんことを念願し、本日の研修としたい。
 (学会別館)

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