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日蓮大聖人・池田大作

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江東、墨田、杉並三区合同記念幹部会 大勇の信心で広宣流布を

1990.12.24 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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1  創立六十周年、この一年の足跡
 この一年、江東、墨田、杉並の皆さまは、見事に戦ってこられた。本当にご苦労さま―(拍手)
 とともに本日は、荒川(東京)、東北、中部、石川、友舞会、方面文化局長の方々、さらに海外七カ国の代表も参加されている。全国の、また全世界の皆さまの、一年間のご活躍に対して、心から感謝申し上げたい。皆さまの力で、団結で、「創立六十周年」を最高に荘厳することができた。日蓮大聖人も、どれほどお喜びであろうか。(拍手)
2  私も私の立場で戦った。本年の各種会合でのスピーチは、「聖教新聞」に別項掲載のものだけで、今回を含め八十回となる。また各界の要人、識者との会見は、三十一ヶ国九十四人、百十二回。そのほか各地で出席した「創価同窓の集い」は十四回、十八方面となった。
 さらに、一年間に記した揮豪は、約四千枚。いただいた手紙は、海外も含め数十万通にのぼる。読むだけでもたいへんであるが(笑い)、皆さまの様子がくわしく、よくわかる。
 また、海外からはさまざまな顕彰をお受けした。
 そのまま紹介すると、アルゼンチン・ブエノスアイレス大学名誉博士号、アルゼンチン「大十字五月勲章」、メキショ・グアナファト大学最高名誉博士号、ブラジル「南十字国家勲章」、中国・北京大学「教育貢献賞」、中日友好協会「平和の使者」の称号、ケニア口承文学協会名誉会長の称号、「トルコ・日本友好百周年記念金褒章」。
 さらに中国・武漢人民放送局「日本語放送貢献賞」、ブラジル・サンパウロ美術館「最高名誉評議会員証」、イギリス・オックスフォード大学ボドリーアン図書館「日本館友会名誉館友」の称号、武漢大学名誉教授の称号、インド「ラルバドール・シャストリ記念ICDO(国際文化開発協会)国際賞」、インド「一九九〇年ラグヴィラ賞」と、その数は十四にのぼる。(拍手)
 もとより、これらはすべて、皆さまを代表してお受けしたものである。私自身は世間的栄誉ど、微塵も必要ない。ただ私への顕彰は、そのまま皆さま方お一人お一人への顕彰である。また皆さまが喜んでくださるし、広宣流布という「正法宣揚」の一つの証ともなる。
 さらに、これら一切が、生々世々にわたる、皆さま方の幸福と繁栄の姿をも象徴していると、私は信じる。(拍手)
 また著書は、『友光抄』『春秋抄』『「生命の世紀」への探求』(=アメリカのポーリング博士との対談)、『敦煌の光彩』(=中国の常書鴻敦煌研究院名誉院長との対談)、小学生向けの創作『平和の清き河――ぼくたちのピース・リバー』、中学・高校生向けの小説『革命の若き空』などを刊行。
 このほか、月刊誌『第三文明』に連載されていた「太陽と大地 開拓の曲――ブラジル移住八十年の庶民史」(=ブラジル移住の先駆者・児玉良一氏との対談)、同じく『潮』に連載されていた「平和への流転 人類の光」(=アメリカのノーマン・カズンズ教授との対談)も、近く発刊される運びとなっている。(=それぞれ『太陽と大地 開拓の曲』第三文明社、『世界市民の対話』毎日新聞社として発刊)
 また海外訪問も四回(=アメリカ、中国、ソ連、韓国)、行った。
 ともあれ私も、この一年を健康で、存分に戦いきることができた。明年は、本年の何倍も働く決心である。広宣流布のため、大切な皆さま方のために、道を開いていくつもりである。(拍手)
3  さて、日蓮大聖人の門下に秋元太郎兵衛尉という、下総(現在の千葉県北部および茨城県の一部。秋元殿は千葉の印藩郡に住んだ)の人がいた。富木殿の親族ともいわれ、曾谷殿や大田殿らとともに、一丸となって活躍していた。
 大聖人は、富木殿はじめ一同に、互いによく連携をとり、集い合い、語り合いながら、仲良く前進していくよう励ましておられる。
 学会も座談会をはじめ、つねに連携をとり、集い合い、協議し、励まし合って進んでいる。この事実ひとつとっても、大聖人の仰せどおりの活動のリズムになっていることを確信し、誇りとしていただきたい。(拍手)
 なお千葉といえば、本年、千葉の同志の前進はすばらしかった。立派に金字塔を打ち立てられた。この席をお借りして、皆さまの健闘をたたえたい。(拍手)
4  正月など五節供も妙法五字に由来
 この秋元殿が、正月をはじめとする「五節供」(五節句)について、大聖人にご質問したことがある。
 ご存じのように、五節供とは、一年のうちの五つの節目である。もともとは中国に由来し、一般に広く普及し定着したのは江戸時代とされる。
 現在でも三月三日の「雛まつり(桃の節句)」、五月五日の「こどもの日(端午の節句)」、七月七日の「七夕」などの諸行事として、暮らしに根づいている。ちなみに、正月の「おせち料理」の「おせち」とは「せちく(節供)」からきたもので、節供(節句)の日に食べるものという意味がある。
5  秋元殿は、この五節供の由来や意義、そして、どのように迎えていけばよいのかについて、大聖人にうかがったのである。
 これに対し、大聖人は、まず「夫れ此の事は日蓮くわしく知る事なし、然りと雖も粗意得て候」――そもそも、このことについて日蓮はくわしいことは知らない。しかしながら、おおよそは心得ている――と、率直に仰せになっている。
 もとより、御謙遜のお言葉であり、飾り気のないお姿がしのばれる。一般にも、本当に偉い人は、決して虚勢を張ったり、いばったりしない。力のない人ほど、偉ぶるのである。みずからに甘い人ほど、人を抑えつけようとするのである。
 大聖人の、こうした人間性そのままのお振る舞いのなかに、私は仏法の真髄を拝する思いがする。大聖人のあたたかい御人格に、多くの民衆が安心し、慕いながら、喜び勇んで、信仰に励んでいった様子が目に浮かぶようである。
 大聖人は、質問に対して、くわしいことは略されて、仏法の深き次元から、端的に、こう御指南されている。
 「先ず五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり」――まず五節供の由来を考えると、妙法蓮華経の五字に由来する祭りである――と。
 すなわち「正月は妙の一字のまつり天照太神を歳の神とす、三月三日は法の一字のまつりなり辰を以て神とす、五月五日は蓮の一字のまつりなり午を以て神とす、七月七日は華の一字の祭なり申を以て神とす、九月九日は経の一字のまつり戌を以て神とす
 ――正月(一月七日)は「妙」の一字の祭りで天照太神をとしの神とする。三月三日は「法」の一字の祭りで、たつをもって神とする。五月五日は「蓮」の一字の祭りで、午をもって神とする。七月七日は「華」の一字の祭りで、申をもって神とする。九月九日は「経」の一字の祭りで、戌をもって神とする――と示されている。
 かつて、仏法を基調とした学会の「文化祭」について、「″祭″の字があるから謗法である」と言った悪侶がいた(爆笑)。根本の御書さえ、きちんと拝していないことが、皆さまにもよくわかると思う。(爆笑、拍手)
 大聖人は、結論して「此くの如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ現世安穏後生善処疑なかるべし」――このように心得て南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。現世は安穏であり、後世(来世)は善きところに生まれることは疑いない――と仰せである。
 五節供の意義といっても、全部、妙法のなかに含まれている。ゆえに妙法を根本に生きている私どもこそ、正月などの四季折々をも、最高に有意義に迎えることができる。季節の彩りを心豊かに味わいながら、健康にして幸福な人生のリズムを自然のうちにつくっていける。
 現世も悠々と楽しく、そして来世も御本尊のもと、すばらしい境涯に生まれる――永遠に″歓喜の世界″が続くのである。反対に、広布に生きる仏子を利用したり、圧迫する者は、永遠に苦悩の境涯へと転落していく。これが大聖人の教えられた厳しき因果の裁きである。(拍手)
6  法華経の行者を守る諸天の陣列
 大聖人は、秋元殿に対して、さらにこう述べられている。
 「法華経の行者をば一切の諸天・不退に守護すべき経文分明なり」――法華経の行者を一切の諸天が怠ることなく守護することは、経文に明らかです――と。
 「法華経の行者」とは、言うまでもなく、大聖人御自身であられる。とともに、ここでは総じて、秋元殿をはじめ門下をも含めて「法華経の行者」と仰せであると拝される。
 そして大聖人は、法華経安楽行品の文をニヶ所、引いておられる。
 まず「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」――諸天は昼も夜もつねに法華経のためのゆえに、法華経の行者を守る――。これはふだん、初座の御観念文で念じている内容の文である。
 また「天の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」――法華経の行者には、天のもろもろの童子が給仕をし、刀や杖などを加えることもできず、毒をもっても害することはできない――と。
 「刀杖」とは、暴力のことである。広くいえば、暴力には言論の暴力もある。ともあれ、大聖人の真の門下には、いかなる敵も危害を与えることはできない。いかにいじめ、苦しめ、迫害を加えようとしても、決して倒せないとの文証である。それは、私どもがこれまで、事実のうえで厳然と証明してきたとおりである。
 「広宣流布」を開きゆく強き「信心」に勝るものは何ひとつない。御本仏が、そして十方の仏菩薩、諸天が味方だからである。(拍手)
 さらに大聖人は、当時、武士の間で、兵法の一種として用いられていた「兵闘に臨む者、皆陣列して前に在り」との句も、「刀杖も加えず」の法華経の文にあたり、その本義は、法華経の行者の前に諸天善神が陣列を敷き、守護することにある、と教えられている。
 われわれの前には、諸天善神が陣を構え、守り、戦っている――目には見えなくとも、私どもの信力・行力で、その力を縦横に駆使し、すべてに勝利していくことができるのである。
 ゆえに、肝心の自分が「臆病」であってはならない。御書に「大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」――大将軍が臆したならば、部下の兵士はことごとく臆病となる――と。諸天にいくら力があっても、自分自身の一念が臆病であっては、「兵」である諸天も動かない。
 大事なのは「勇気」である。恐れなき「大勇」の信心ありてこそ、諸天は動きに動く。勝利への進撃が始まる。その行く手に勝ち取れない戦いはなく、打ち破れない獣はない。(拍手)
7  仏子をたたえ、大切にされた大聖人
 大聖人が、仏子をどれほど尊重され、たたえておられたか。「秋元殿御返事」では、続いてこう仰せである。
 「提婆品に云ふ「所生の処常に此の経を聞く」の人はあに貴辺にあらずや」――法華経提婆品にある「生まれるところで、つねにこの法華経を聞く」の人とは、どうしてあなたでないことがあろうか。あなたのことです――。
 すなわち、いずれの時代、いずこの地であれ、必ず御本尊とともに生まれてくる、とのお約束である。そして最後に「善男子とは法華経を持つ俗の事なりいよいよ信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし」――経文に説かれる善男子とは、法華経を持つ俗人のことです。いよいよ信心に励んでいきなさい。信心に励んでいきなさい――と。
 これは文永八年(一二七一年)正月のお手紙である。大聖人は在家の門下を、「善男子」また「善女人」と最大に尊重され、励まされつつ、年頭のお手紙を結ばれているのである。これが御本仏の、つねのお振る舞いであられた。大慈大悲の翼で、仏子を限りなくあたたかくつつんでくださっている。私どもは皆、大聖人の門下である。ゆえに、ただ御本仏の御照覧を確信し、御書の仰せのままに「行躰即信心」(修行の姿がそのまま信心のあらわれであること)の実践を貫いていきたい。
 そして明年も、いちだんと「勇気」「自信」「歓喜」「希望」にあふれ、堂々たる幸福の紳士、淑女として、晴ればれと進んでまいりたい。(拍手)
 また大聖人は、池上宗長(弟)に与えられたお手紙の中で「今年御つつがなき事をこそ法華経に申し上げまいらせ候へ」――今年もご一家がつつがなく過ごされることをこそ、法華経(御本尊)に御祈念しております――と仰せくださっている。
 一年一年の門下の無事安穏、幸福を何よりも大事にされ、祈ってくださっている。もったいなくも、ありがたい大慈大悲の御本仏のお心である。
8  日淳上人「学会の聖業をたたえたい」
 また、学会を深く理解し、大切にしてくださった日淳上人は、昭和三十一年の元日のお言葉として、こう述べられている。
 「新年に当り学会の聖業を讃して益々その功徳の厚からんことを祈念致します」(『旦淳上人全集』)と。
 学会の広布の活動を、「聖業」として最大に称えてくださっている。そして、その功徳が、ますます厚く、いや増していくことを祈ってくださっている。この、あたたかく、深き上人のお心を拝し、さらに広布の聖業に、闊達に進んでいきたい。
 日淳上人には、御遷化(昭型三十四年十一月十七日)の前日、私は小泉理事長(当時)とともに、お宅に招かれ御目通りした。柿沼広澄庶務部長(当時)、早瀬道応教学部長(当時)も待っておられた。
 その際、上人は「今度、常在寺(=日達上人)にあとを任せることにしたからよろしく」と。そして、戸田先生について懐かしく語られ、「戸田先生には、私よりもっと長生きしていただきたかった。あべこべになってしまいました」とおっしゃっていた。
 さらに、戸田先生を深く尊敬されており、戸田先生の本やレコードを御宝蔵に納めたい、とも言われた。
 思えば、戦後、総本山を観光地にしようという話があったとき、戸田先生が断固反対され、総本山を厳護されたことがある。
 当時、財政的基盤を整えるということで、一部の僧侶のなかに、総本山を観光地にしようという積極的な動きがあった。総本山を中心とする富士北部の観光懇談会ももたれていた。それを聞かれた戸田先生は、「総本山を絶対に観光地にしてはならない」と断固反対された。「この戸田が、大法を守ります」と叫ばれ、厳然と外護に立たれた。そして登山会も開始され、総本山参詣の学会員もしだいに増えて、総本山の観光地化は防ぐことができたのである。
 そのことを、すべてご存じであられた日淳上人は「戸田先生のおかげで、創価学会のおかげで、大法は清浄に今日までまいりました。本宗は、戸田先生、創価学会の大恩を永久に忘れてはなりません。こう細井(=日達上人)に言っておきました」と言ってくださった。
 この、御遷化前日の日淳上人のお言葉は、上人の御遺言ともして私の胸に深く刻まれている。
 近年の正信会の悪侶らにとっても、日淳上人は先師である。その先師のお言葉に反すれば、それは師敵対であり、もし、上人のこのお言葉を知っていれば、悪侶らのような問題は絶対になかったと、私はあえて言っておきたい。(拍手)
9  サーツ女史「歴史のバトンを未来世代へ」
 ところで皆さまよくご存じの″サーツおばさん″(爆笑)であるが、先日、サーツ女史から、「日本での模様は全部、ゴルバチョフ大統領にお伝えします」との連絡をいただいた。
 また女史は「ぜひ伝えていただきたい」と、私に次のような言葉を寄せられた。そのまま紹介させていただく。私自身のことになるが、私どもはみな同志であり、何でもありのままの真実を語り合い、「情報公開(グラスノスチ)」(爆笑)しておきたいからだ。(拍手)
 「池田先生と友人になれたことは、私の人生の最高の幸せです」「私は人生の総仕上げの時期を迎え(今年八十七歳)、池田大作という最高の、かけがえのない友人を得ることができました。先生、本当にありがとうございました」「私は、アインシュタインにも、プロコフィエフにも、スタニスラフスキーにも、ラフマニノフにも親しみを感じ、そして真の友人であると思っておりますが、池田先生は、そのだれよりもずっと上のほうにいる友人なのです」と。
 私については過分な讃辞で恐縮の思いであるが、サーツ女史は、ソ連内外の一流の方々とすばらしい友情を結んでおられる。(=アインシュタインは二十世紀最大の物理学者。サーツ女史は、このアインシュタイン博士とも友人であった。一九三一年のベルリン公演の際に同博士夫妻と出会い、その後、住まいに招かれて、博士の家族とも親しく交流している。また、プロコフイエフはソ連の作曲家として国際的にもっとも有名な一人で、同国の作曲界で指導的な役割を果たした。「交響曲第五番」、オペラ「戦争と平和」などが著名。モスクワ児童音楽劇場の民音公演〈十一月二十一日〜十二月五日〉では、プロコフィエフ作曲のバレエ「シンデレラ」が、同氏の生誕百周年を記念して上演された。スタニスラフスキーはソ連の演出家・俳優で、モスクワ芸術座を創立し、指導した。彼の演劇理論は、二十世紀の演劇界に深大な影響を与えた。ラフマニノフはソ連の作曲家・ピアニストであり、ピアノ曲に名作が多く、とくに「ピアノ協奏曲第二番」は有名である。女史は、スタニスラフスキーに演出を、またラフマニノフに音楽を学んでいる)
 モスクワ児童音楽劇場の公演は、日本の各地で大反響を呼んだ。私も、今月五日の最終公演で、世界の子どもに夢と美の喜びを与えてきた舞台を鑑賞した。高い芸術性をそなえ、かつ、にぎやかで楽しい演目の数々――。私は、感動の思いを身ぶり手ぶりに託していたが、サーツ女史はその姿を目ざとく見つけておられた。
 「すばらしい観客の中でも、池田先生がいちばん楽しく喜んでくださったことは、本当に驚いています。先生は舞台に向かって立ち上がり、カリンカの曲にあわせて踊っているではありませんか。私は先生の姿に気づきました。なんとすばらしい方でしょう。私はこの光景を忘れません」
 「そのような人生を歩み、だれよりも子どもを愛してやまない心を持っておられるからこそ、先生は人にも本当の心を伝えていけるのだと思いました」と。公演終了後の声である。
 さらに女史は、今回の公演の大成功について「ふだん(=の公演)は、緊張のあとはアーチストも指揮者も疲労を感じるものです。しかし今回は民音の、そして学会の皆さんの真心につつまれて、疲れが残りません。皆、幸せで、前よりも若くなりました」
 「これもひとえに先生の人材育成のおかげであると思います」「先生は人間に対する、芸術に対する熱い心を培っていらっしゃいます」「どうぞ、先生にお伝えください。私の先生に対する心からのお礼を。『ありがとうございます』の言葉を百回も申しておりました、と」――と。
 皆さま全体へのメッセージでもあり、そのまま伝えさせていただく。(拍手)
10  一流の人は鋭い。何事も自分の眼で見る。ゆえに迷いがない。ごまかしもきかない。サーツ女史は、一観客であった私の姿を鋭敏に見ておられた。さらに、短期間の日本滞在でありながら、″人材育成″という私の行動の焦点を評価してくださった。こうしたさりげない言葉のなかに、女史の目の鋭さが表れていると思う。
 また女史は、来日した劇場の方々が「皆、幸せで、前よりも若くなりました」と喜んでくださった。民音の創立者として、招聘の代表者として、これほどうれしい言葉はない。
 集い来た人々に「希望」と「安らぎ」を与え、また皆が「勇気」と「自信」に満ちて帰っていけるよう心を尽くす――そこに指導者の重要な役目がある。
 私は、スピーチにしても、会館訪問や懇談の際にも、この一点に全魂をこめてきた。人の心を軽くし、元気にするのが指導者である。人に威圧感を与え、疲れさせる(笑い)のは独裁者である。(拍手)
11  サーツ女史の波瀾の人生については以前に述べたが(=平成二年八月七日、関東会・東京会合同研修会)、自身の投獄、夫の銃殺をはじめ、筆舌に尽くせぬ試練を受けながら、それでも信念に生き、戦いぬいている。その生き方に学ぶものは大きい。
 その女史は、人生で出会った人々のなかでも文豪トルストイとの不思議な縁(=サーツ女史の両親の出会いも、トルストイの呼びかけた難民救援活動が機縁となっている)を感じているという。また女史の名前「ナターシャ(ナターリヤの愛称)・イリイニシナ」は、トルストイの代表作『戦争と平和』の女主人公ナターシャと同じである。
 女史は「二十世紀の冒頭に生を享け、激動の二十世紀をつぶさに体験してきた者として、十九世紀のトルストイからの文化の歴史のバトンを受け、それを二十一世紀を生きる世代に渡していくのが、私の役日です」と、つねづね語っている。
 トルストイは、私が青年時代から愛読し、また思索を重ねてきた一人である。これまで著作やスピーチでも、トルストイについて幾度となく述べてきた。(=一九八一年にはモスクワの「トルストイの家」「トルストイ資料館」も訪れている)
 そして本日の「聖教新聞」で紹介されたように、このほどトルストイのお孫さんに当たるセルゲイ・トルストイ氏から、トルストイとその一族についての著書をいただいた。私自身にとってもトルストイとの不思議な縁を感じさせる出来事であった。
 ともあれ「歴史のバトン」「精神のバトン」を受け継ぎ、未来の世代に立派に手渡していく――その日まで生きて生きぬいていく。ここに崇高なる″人間としての責任感″の輝きがある。皆さまもまた、使命の走者として勇んで走りぬいていただきたい。(拍手)
12  アメリカ社会から見た仏教
 さて、聖教新聞のアメリカ特派員が、数人のアメリカの識者にインタビューした感想を寄せてくれた。その内容の一部をご紹介したい。
 「最近、全米の女子大学の最高峰と評価されるスミス・カレッジの東アジア語学・文学部長のスーザン・チェルニアク博士にインタビューしました。
 博士は東洋の思想にひかれて仏教を学びましたが、社会から孤絶した瞑想的な出家仏教は、実証的・功利的なアメリカの社会にはなじまないとの印象をもちました。
 アメリカにも各種の仏教が紹介されていますが、博士によれば、異色の衣をまとう、異形の生活を強いるような布教・実践は、かえって仏教を人々から縁遠い存在にしていると話しておりました。
 しかし、仏教の思想を社会に開かれる名誉会長の行動に接し、これこそ、仏教をアメリカ社会に根づかせていく確かな弘法の方軌である、との深い共感をもったとのことです」
 文化の異なる社会の人々が、仏教をどう見ているのか。また、その社会に仏法を根づかせるためには、どうすればよいのか。チェルニアク博士の見方は一側面を言われたものかもしれないが、世界各国における仏法流布のあり方への一つの重要な示唆といえまいか。
 さらに、次のようにも述べていた。
 「数年前、ボストン・カレッジの哲学部長であるフラナガン教授にインタビューしました。その際にも、仏教がアメリカ社会に根づくとしたら、それは仏教のもつ普遍のヒューマニズムを社会に実証してみせることが要件であろう、と語っていました。
 また先日、シカゴ大学教授で『幸福の心理学』の研究者として著名なチクセントミハリー博士を取材しました。インタビューをとおして印象深かったのは、世界の識者が仏法の言葉を使わずに語ったことが、説得力をもって、仏法の精神と実践の卓越性を証明していたことです。これはアメリカに限らず、異文化、異民族への仏法流布は、ヒューマニズムを基盤とした平和・文化運動によることが大きいことを示す証左でもあると思います」と。
 世界の民衆に妙法を弘め、絶対の幸福への道を開いていくことが広宣流布である。大聖人の御遺命であられる。ゆえに、世界各国の人々が何を求めているのか、それにどう応えていくかが大事となる。これを忘れて、仏教についての知識のない人、あるいはそういう国に、いきなり仏法の言葉で一方的に語っても、人々の理解と納得は得られない。ひいては、いたずらに反発を招き、大聖人のお心に反することになりかねない。その意味で、私どもが世界に展開してきた広宣流布の行動、仏法を基調とした平和、文化、教育の推進こそが正しき道であると確信している。(拍手)
13  一次元から見れば、大聖人の仏法は、日本において、あまりにも教条主義的にとらえられてきた。また国粋主義にも利用されてきた。そうしたこともあって、世間では大聖人の真実のお姿と、大聖人の仏法のもつ豊かなヒューマニズムに、十分に目がそそがれなかった。日蓮大聖人というと、なんとなく″怖い″″近寄りがたい″というイメージすら作られてきたのが現実である。
 もとより大聖人の仏法は「法華折伏・破権門理」であり、厳しく国主諫暁をされ、折伏を根本とされたことは言うまでもない。
 しかし、かえって「法」が根本的に間違っている謗法の親鸞などが、その人間くさい一面をたくみに宣伝して伝えられ、多くの人をひきつける残念な結果となってきた。こうした歴史は、正法を弘める者にとって考えなければならない一つの課題を示唆しているといえよう。
 私がスピーチの中で、大聖人の御書を拝して心がけてきた一つも、大聖人が、どれほど民衆の一人一人を大事にされていたか、どれほど濃やかに激励され、優しく包容されていたかを示すことにあった。つまり、日蓮大聖人の仏法の深くあたたかき人間性を拝することである。たとえば、″どんなことでも困ったことがあったら、私のもと(身延)へおいでなさい。お会いしますよ。この山で、一緒に飢え死にしましょうよ″とまで仰せになり、門下を励まされた御文も拝読した。(=「乙御前御消息」〈御書一二二二ページ〉、平成二年二月二十五日、第七回アメリカSGI青年研修会でのスピーチ等)
 私どもは、こうした大聖人の深き御慈愛、御精神を拝しつつ、さらに折伏・弘法に進んでまいりたい。要は、どこまで深く社会の人々の心をとらえ、共感と納得を与えて、正法へと向かわせていくかである。ただ勇ましく「折伏、折伏」と繰り返しても、皆が寄りつかなくなったのでは何にもならない。
 次元はもとより異なるが、軍国主義の時代、日本を挙げて、「鬼畜米英」「皇軍万歳」「必勝」等々、勇ましい言葉が氾濫していた。新聞も大々的に「敵艦隊撃滅」とか報じていた。しかし結果は敗北であった。
 このような歴史的事実のうえから、一般論としても、ただ人々の心を扇動していくようなことばかり言っていては、賢明な民衆の心が離れてしまうことを知らねばならないであろう。
 ともあれ、私どもの広布への行動は、大聖人のお心に深くかなった実践であることを確信していただきたい。(拍手)
14  檀那とは「施主」
 ここでさらに御書を拝しておきたい。日蓮大聖人は「曾谷入道殿許御書」にこう仰せである。
 「風聞の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多あまたの聖教あり等云云、両人共に大檀那為り所願を成ぜしめたまえ
 ――私(大聖人)の聞くところによれば、あなた(曾谷教信)と大田乗明殿の越中(富山)のご領地内と近辺の寺々に、多くの仏典があるということです。お二人はともに私の大檀那でありますから、仏典を収集しようとする私の願いを成就させてください――と。
 この御文で、大聖人は、曾谷入道や大田金吾を「大檀那」と呼ばれている。
 ちなみに、大聖人は御書の中で、在家の門下の人々に対して、「檀那」という言葉をもっとも多く用いられている。「檀那」あるいは「檀越」は、もとは梵語で″供養を施す者″という意味である。「施主」すなわち″施す主″と訳される。仏法のために御供養する人々への尊敬の念がうかがえるお言葉である。
 また「信者」という語を見てみると、具体的に在家の人の名前を挙げられて「信者」と呼ばれているのは、『御書全集』で一カ所である。(=「日本には・かたならぶべき者もなき法華経の信者なり」の御文。ここでは、命を賭して信仰に励んでいた四条金吾を日本一の法華経の信者と称えられている)
 さらに、大聖人はこう続けられている。
 「涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜もうき等を相語らい伝教大師は国道くにみち弘世ひろよ等を恃怙む云云
 ――涅槃経の文には「内には智慧の優れた弟子がいて仏法の甚深の法理を理解し、また外には清浄の檀越があって、仏法は久住する」と説かれている。天台大師は、陳の国の毛喜大臣等と相語らい、伝教大師は、大伴国道や和気弘世等をたのまれた(外護の頼りとされた)――と。
 涅槃経の文を引かれて、仏法を守り弘めていくためには、甚深の義を解った智慧の弟子とともに、外護の檀那が大切であることを述べられている。外護の檀那を絶対におろそかにしてはならないとの教えと拝する。また大聖人は、天台大師や伝教大師の例を引かれて、僧俗が「相語らう」(よく話し合う)ことの大切さを示してくださっている。これが大事と拝する。この点を、見落としてはならない。ここに真の「和合」の一つの意義がある。(拍手)
15  最後に、皆さま方の一年間のご苦労に、重ねて感謝し、讃嘆申し上げたい。そして、最高に晴れがましい新年をお迎えくださるよう、祈り、願って、私の本日のスピーチとしたい。
 (創価国際友好会館)

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