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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部最高協議会 仏法は豊かな人間性に脈動

1990.12.23 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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2  中国におけるキリスト教の興亡
 宗教の布教と知性の問題で思い出すのは、中国へのキリスト教布教の歴史である。くわしく言うと複雑すぎるので、ごく簡潔に言うと――。
 中国にはすでに「唐」の時代(七〜九世紀)、キリスト教の一派(ネストリウス派、景教と呼ばれた)が盛んに信仰されていた。その後、「元」の時代(十三〜十四世紀)もかなりの普及があった。あまり知られてないことだが、ジンギス汗の妃の一人も、また元の世祖フビライ(ジンンギス汗の孫)の母も、熱心なキリスト教徒であった。
 「元」が滅び、「明」の時代は、キリスト教はまったくふるわなかった。どちらかといえば、外国文化に対し排他的な時代である。しかし「明」の末期、一人の″中興の祖″が現れる。有名なマテオ・リッチ(一五五二年〜一六一〇年)である。
 イタリア生まれの彼は、東方伝道を決意して、二十五歳の時、インドに到着。次いでマカオに移った。日本に来たフランシスコ・ザビエルらと同じ、イエズス会の宣教師であった。
 マカオで彼は中国語を学んだ。中国に布教するにはどうしても中国の文化に精通しなければならない――と。
 宗教は「人間」を相手にするものである。そして現実には、「人間」は「文化」を離れては生活できない。理解しようと努めるのは当然であろう。
 それだけではない。彼は考えた。中国人がいちばん尊敬するのは何か?
 「それは学問だ」「文化だ」――そこで彼は、学者としての名声を高めるべく努力した。利瑪竇りまとうという中国名も名乗った。
 やがて大陸内部に居住することにも成功。少しずつ、社会の指導層である読書人たちに理解者を増やした。″新しい法″を説く人への警戒心が解けてきた。
 「これほどの学者が言うのだから」と、皆、彼を信頼したのである。彼は、珍しい「世界地図」「天体儀」「日時計」「砂時計」などを展示し、人々の関心を高めた。さらに、新しい科学的知識や「幾何学」を教えたりした。現在、日本でも使われている、この「幾何」という語は、彼が作った新語である。
 また彼は、はじめ仏教の僧侶風の格好をしていたが、たまたま当時の僧侶は、中国人社会から尊敬されておらず、リッチは後に衣服を改めている。
 「布教といっても現地の人々の信頼と尊敬が第一だ」――。漢文による著述も行い、名声の上がったリッチはついに北京に入り、皇帝(万暦帝)から布教の許しを得た(一六〇一年)。祖国を出発してから二十四年後、大陸に移住してから十八年後のことであった。
3  こうしてリッチは「知の力」で、基礎をつくった。彼の死後も、その考えを受け継ぎ、宣教師には優れた学者が多かった。「明」が滅び王朝が「清」になっても、それは変わらなかった。
 ところが――一七二三年、キリスト教が中国で禁止される。リッチが布教の許可を得て約百二十年後である。この禁教令が解かれるのは、そのまた百二十年後(一八四四年)となる。
 百二十年もの間、まったく布教できなかったのである。いったい何が起こったのか。
 それは、リッチの後継者たちは「ともかく中国の文化を大切に」という伝統を持っていた。リッチも中国文明を深く敬愛していた。しかし、後から中国に伝道に来た他の宣教師たちは、中国人の行っている風習を軽蔑し、それを禁じようとしたのである。その中心には、イタリアでガリレオたち科学者を迫害したのと同じ排他的一派があった。こうした態度が中国人の反発を買い、ついに禁教・追放にまでいたってしまう。
4  あるエピソードがある。名皇帝として名高い康熙帝こうきていの前で、一人の宣教師が中国の風習を批判した。「孔子への尊敬」などをやめろというのである。
 皇帝は言った。「汝、この玉座の文字を読んでみよ」。しかし、その宣教師は、四字のうち二字しか読めなかった。当然、全体の意味はまったくわからない。彼は皆に無学を笑われた。
 ″ろくに中国の文字さえ読めない人間に、中国の風俗をとやかく言う資格があるのか″――皇帝は、こう言いたかったのかもしれない。
 風習を認めるか認めないかではない。それは微妙な問題であり、いちがいにどちらが正しいとは決められない。ただ、相手の文化をまず謙虚に理解する必要があろう。
 「他人の家の門前で、家の中のことを論じるようなものだ」――皇帝はそうも言った。この″文化人皇帝″は、ただ傲慢による無知がいやだったのであろう。何も知らないで、あれこれ独善を振り回してほしくない。そんな宗教はお断りだ――と。
 そして次の雍正帝ようせいていの時、ついに禁教となる。
 リッチが「知の力」で蒔いた種は、実をつける前に、排他的・独善的な反知性主義の一派のために、だいなしになってしまったのである。この一派が誤りであったとローマ法王が正式に認めたのは、なんと禁教の二百十六年後、一九三九年(昭和十四年)のことである。後になれば冷静に見られるものだ。
 ともあれ、こうして中国におけるキリスト教の布教は大幅に遅れた。
  ※中国におけるキリスト教の興亡については、主に矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社、平川祐弘『マッテオ・リッチ伝1』平凡社、陳舜臣『録外録』朝日新聞社、矢沢利彦編訳『イエズス会士中国書簡集1〜6』平凡社を参照。
5  「文化」と「知の力」が人々の心を開く
 この史実は、私どもにも多くの教訓を残していよう。もちろん仏教とキリスト教の違い、また時代と社会の違いはある。大聖人の教えとキリスト教の教義とが根本的に違うことは言うまでもない。そのうえで、歴史の一つの方程式というか、人間が人間であるかぎり、おちいる可能性のある共通の弱点があり、流転があるような気がする。
 その意味で、この歴史が教えているのは、「相手が何に魅かれ、何を求めているのか」を考えず、また「相手の文化を独善的に否定する」ことの怖さである。
 その点、戸田先生は本当に鋭かった。また文化を大事にしておられた。
 「まず相手の立場に立って考える」――これが「知性の力」であり、「文化の心」なのである。その人間性の輝きは、人々に法の偉大さをも理解させていく。
 御書にも「世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」――世を治めている世間の法(治生産業のすべて)を、よくよく心得ているのを、仏法で説く智者というのである――と仰せである。
 智者とは言うまでもなく、根本的には日蓮大聖人のことであられる。また総じては私ども門下も、広く世間の法に通じ、時代と人々の動向を鋭くキャッチしながら、この正法を弘めてまいりたい。
 婦人部の皆さまは、ある意味で、もっとも「世間の法」に通じた方々であられる(笑い)。そのうえで、絶えず学ぶことを忘れずに、自分らしく、豊かな″心の世界″を広げていっていただきたい。そうした着実な″向上の姿″は、そのまま無言にして雄弁なる弘法の実践につながっていくにちがいない。
 年末年始は多忙な日々が続く。どうかご家庭を大切に、お体を大切にされながら、最高に充実した、最高に楽しい、よいお正月を迎えていただきたい。
 (青葉寮)

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