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日蓮大聖人・池田大作

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第一回四国総会 「妙法の王国」「われらの王国」を

1990.11.27 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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1  土佐から再びの時代回転を
 本日は、第一回の四国総会、本当におめでとう(拍手)。私にとっても十二年ぶりの高知である。皆さま方の真心が天に通じたのか、昨日は暖かなよい天気のなか訪問でき、お元気な懐かしい皆さま方のお姿を拝見し、たいへんうれしい。(拍手)
 今回の訪問は、時間の都合もあり、南国土佐が中心となったが、本日の総会には、香川、愛媛、徳島の方々も、各県のそれぞれの会場に参加されている。重ねて「おめでとう」と祝福申し上げたい。(拍手)
 ところで、「歓喜の歌」で知られるベートーヴェンの「第九交響曲」が、日本で初めて演奏されたのは、この四国(徳島)の地とうかがっている。
 どうか創立七十周年の佳き日には、四国だけで盛大なる「歓喜の歌」の大合唱を、ご提案申し上げたい。それまで、ますます若々しい、お元気な皆さま方であっていただきたい。
2  さて、土佐の海は雄大である(=高知県の海岸線は七百六キロに及び、きわめて長じ。ロマンがある。この土佐の大海原は、坂本竜馬たちの青春の魂を、壮大なる新世界へと広げた。また、その潮騒は、明治維新という近代日本への歴史回天の大波を力強く育んできた。
 私も、先ほど桂浜を訪れた。あいにくの曇り空だったが、銀色の大海原は勇壮に舞っていた。竜馬の像も、少し寒そうだったが(笑い)、はるか太平洋を望んでいた。
 戸田先生は、四国には高知しか訪れておられない(=昭和三十年一月)。牧口先生の来訪はなかった。私は戸田先生の訪問の折、お供をして、この地に法戦の第一歩を刻んでいる。高知は、ことのほか忘れがたい、大好きな天地である。(拍手)
 戸田先生は、竜馬について、よく私ども青年に語ってくださった。この高知から、歴史回天への船出をした竜馬。それは、日本の新しい夜明けを告げる、青春の旅立ちだった。どうか、今度は皆さま方が、人類史に希望の夜明けを開く新しき広布回天の出発をしていただきたい。(拍手)
3  大施太子、慈愛と信念で大願を成就
 思えば、日蓮大聖人も、太平洋を眼前に望む地で、幼少時代を送られている。
 経典には、海を舞台にした、次のようなドラマが展開されている。
 これは、釈尊が過去世において「精進波羅蜜」という菩薩の修行をしていた時の物語で、要旨を簡潔に紹介しておきたい。
 昔、インドに大施太子という名の王子がいた(大施とは「大きく施す」との意味)。″なんとしても人々を幸せにしたい″との大願を立て、たゆみなく修行を続けていた。しかし、世の人々は、生活のために殺生の罪を犯している。それを嘆き悲しんだ太子は、自分の持っていた財宝を、人々に分け与える。だがついに人々に施す宝も尽きてしまった。
 そこで太子は、「如意宝珠」(万宝を雨のように降らし、人々の願いを満足させられる宝珠)が、竜宮城にあると聞き、「如意宝珠」を求めて、はるかな竜宮城へ向かう。
 長く苦しい航海の果てに、ようやく竜官のほとりにたどり着いた。金の砂浜、銀の峰、青蓮の池――竜宮城はおとぎの世界さながらであった。
 竜王は太子の美しい心に感銘して、最大にもてなした。そして、太子の願いどおりに、もっとも大切な「如意宝珠」を与え、本国に帰してくれた。さっそく太子は、この無上の宝を用いて、人々を救済しようとした。
 ところがその矢先、竜王は、周囲の者たちから激しい反発を受ける。「如意宝珠は、竜宮第一の宝である。それをどうして人間にあげてしまったのか」と。
 このため竜王は心変わりし、竜王の側にいた竜たちが、ひとたび太子に渡した宝の珠を、こっそり奪い返してしまった。太子のそれまでの労苦は、すべてが水の泡となった。万事休すである。
 いつの時代も、中心者を利用する悪知恵の人がいるものである。自分たちの利益を守るために、讒言し、策を弄し、善良な中心者をおとしいれ、悪を働かせようとする。それが、人間の卑しい策謀の世界なのである。
 近年の悪侶たちの策略も、そうであった。そのために、真面目な仏子たちがどれほど苦しめられたことか。そうした策謀を、絶対に許すことはできない。(拍手)
4  このとき太子は、一人、大海のほとりに行き、声高らかに叫んだ。
 「竜神たちよ、よく聞け。大ウソつきの竜王である。すぐさま珠を返さなければ、大海の水を汲み上げて、海の中の竜宮を露にしてみせるぞ」と。
 すると海神たちはどっと笑い、「そんなことが、できるわけがないじゃないか」と、太子を嘲った。この嘲笑に対して、太子はきっぱりと言いきる。
 「私は、自然の大海より、もっと手強い生死の苦しみの大海に挑戦している。無量無辺の人々を救うことは難事であるが、それを私はなそうとしている。菩提(悟り)の道を得ることも非常にむずかしい。しかし、それも必ずや成就するだろう。そうした難事に比べれば、大海を汲みとることなどやさしいことだ。どうして海水を汲みつくせないことがあろうか」
 指導者は、何があっても決然と進んでいかねばならない。気迫が大事である。嘲笑や迫害にひるんだり、へつらったりする弱い心であると、ますます増長するものである。魔は、こちらが強い心で進んでいけば退いていくし、心が弱くなれば、ますます勢いを増して襲いかかってくるものである。
 「仏法は勝負」である。ひるんではいけない。負けてもならない。相手に財力があるから、名声があるから、権威・権力があるから――そんなものは、信心とはまったく関係がない。信心の利剣で戦い勝っていけばよい。信心の強き一念が、知恵を生み、その知恵によって、一切の幸福を勝ち開いていけるのである。
5  太子は、たった一人で、ハマグリの貝殻を手に、大海の水を一杯、一杯と汲みはじめた。
 「たとえ、この一生で汲みつくせなくても、生々世々、私は解怠(なまけること)しない」と、太子は誓願を立てたのである。
 果てしない労作業が間断なく繰り返された。昼も夜も――。こうして、七日が過ぎた。この間、梵天・帝釈などの諸天は、じっと太子の振る舞いを見ていた。そして、彼のひたぶるな願いに歓喜し、「私たちも力を合わせよう」と言って、太子の応援を始めたのである。
 多くの眷属を従え、巨大な力をもった梵天・帝釈たちが、こぞって太子の味方となり、いっきょに動きだした。地道にして壮大なる太子の″挑戦″は、急速に勢いを増していった。諸天の加勢を得た太子の努力によって、さすがの大海も半分まで水が減り、とうとう竜官の姿も露になってしまった。かつて太子を嘲り笑った海神たちも、驚きあわてて、天を仰いだ。竜王も大騒ぎで、「如意宝珠」を太子に戻したのである。
 太子の「勇猛精進」の勝利であった。「慈愛」から発した強き「一念」の戦いが、ついに大願を成就させたのである(拍手)。そして太子は願いどおり、万宝を限りなく人々に施すことができた。
6  至誠の皆さまに梵釈の守り
 学会は、民衆の大海原に飛び込んで、一対一の指導、一対一の折伏、一対一の対話を粘り強く続けてきた。それは、あたかも、ハマグリの貝殻で一杯、また一杯と、大海の水を汲み出すような労作業であった。
 四国の皆さま方に「大岩を 砕き砕きて 四国路の 福智の通達 光道開けり」と詠んで歌を贈ったが、まさに鉄板を爪で削り、大岩を打ち寄せる波が砕いていくような難事業であった。
 そうした皆さま方の不断の辛労によって、今日の光り輝く広宣流布の大道が、日本に、世界へと開かれてきたのである。現に、この四国だけを見ても、これほどの広布の発展を、だれ人が想像しただろうか。(拍手)
 大目的に向かって懸命に行動しゆく人生ほど、気高いものはない。また強いものはない。いわんや、強盛な信心を貫く「信念の人」には、梵天・帝釈をはじめ、諸天善神の守護があることは間違いない。
 信心の大道も、広布の正道も長い。その途上には、さまざまな苦難があることも必定である。しかし、苦難や障害に、決して屈することなく、信心を持続しぬいていただきたい。その不退転の行動がある限り、諸天の加護によって、加速度的に回転を速め、常識では思いもよらない大勝利の″証″を築いていくことができるのである。(拍手)
7  御書には、次のように仰せである。
 「梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし」――梵天・帝釈等の御はからいとして、日本国の人々が、正法を一度に信ずることがあるだろう――と。
 梵天・帝釈の加護を受けながらの大いなる前進――。日本における学会の歩みも、そしてSGI(創価学会インタナショナル)の世界的な発展も、諸天善神がその働きを大きく広げながら進んでいく段階に入っている。(拍手)
 今日、世界の識者が、仏法を基調とした私どもの平和・文化・教育の運動に絶大な信頼と評価を寄せている姿は、一面からいえば、梵天・帝釈がこぞって応援してくれている姿にも通ずるといえないだろうか。(拍手)
 私は、十年、二十年も以前から、こうした仏法広宣の時代が到来することを予見し、確信していた。そして、ひたすら地道に、着実に、「時」をつくり「道」を開いてきたつもりである。(拍手)
 今や、壮大なる広布と平和の波は、大きく地球をつつみゆかんとしている。どうか皆さま方は、この絢爛たる仏法興隆の時代に生きゆく誇りにあふれ、堂々と胸を張って進んでいただきたい。
8  サーツ女史との友情
 私には宝がある。それは「友人」である。世界に広げた″友情のネットワーク″――そこに私の誇りもある。
 そうした友人の一人に、モスクフ児童音楽劇場総裁のナターリア・サーツ女史がいる。女史はいま八十七歳。いつお会いしても、驚くほど若々しい。ソ連の、また世界の芸術界の至宝ともいうべき存在の方である。
 日本ではあまり知られていないかもしれないが、ソ連ではもちろん、ヨーロッパ、アメリカではたいへんに著名な方である。
 その女史が、先日、民主音楽協会(民音)の公演のため来日された。そして民音を訪れた際、同劇場と民音の交流に触れて、こう語っておられたそうである。――いつも飾らず、ありのままを語る女史である。私も、ありのままを伝えさせていただく。
 「ある時(一九八一年)、控えめな日本人が、モスクワの私たちの劇場にいらつしやいました。非常に立派な紳士ですが、子どものように素直な方で、劇場に来ていた子どもたちともすぐに溶けこまれた不思議な方でした。
 私は後で、その方が世界中で知られている賢人の池田先生であることを知りました。あっという間に、子どもたちの心をとらえてしまつた先生。その先生の聡明さ、率直さ、また純粋さ――そうした先生の心が、私たちの劇場と民音との交流のスタートとなりました」
 また、神奈川での学会創立六十周年記念大文化祭(十一月十八こを見られた感想を、こう述べておられたとのこと。
 「文化祭は、文化と芸術への愛情が炎と燃え上がって、まるで自分がその火中にいるような気がしました。帰国しましたら、私のこの感極まる思いを、ゴルバチョフ大統領、ライサ夫人、また各指導者にも、ぜひ報告したいと思います。新聞にも書きたいと思います。
 印象的だったのは、口シアの民衆に対して、心からの敬意が払われていたことです。大統領への敬意もありました。
 出演者も本当にすばらしく、非の打ちどころがありません。光も音も、世界に例を見ないほど見事なものでした。とくに音楽隊の吹奏楽は印象的でした。
 全体的には、芸術への強い愛情、そして整然とした演技……。日本のような大国で、このように固く団結して演技ができるところは、創価学会をおいてどこにもないと思います。皆さんは、それを誇りになさってよいと思います。驚くべきことです。またもっとも大事なのは、それを指導された方です」――。
 神奈川の方々のためにも、ここで紹介させていただいた。(拍手)
9  また、来月五日まで行われる今回の公演について「コンサートの最後は劇場の女性七人で、池田先生が作詞された『母』を歌わせていただきます」と。(拍手)
 「『母』とは、子どもたちだけに必要なものではありません。先生の作詞された『母』とは、″おかあさん″というだけでなく、先生のような、大きな心で芸術を愛し、文化を愛し、平和を愛し、人間の心をつつんでいく人を指すと思います。そうした意味で、今回の公演では、先生に(=『母』の歌という)″月桂冠″をささげながら幕を飾れることに感謝しております」と語っておられたという。ともあれ、女史のご厚情に、恐縮のほかはない。私は十八日にお会いした際、尊敬と親愛の気持ちをこめて、詩を贈らせていただいた。(=詩は十二月五日付『創価新報』に掲載。本全集第41巻に収録)
10  民衆は「知」の向上を求める
 社会は動いている。何かを求めて。時代も刻々と変化している。その行方はどうなるのか――それを真剣に考え模索している方々の多くは、年ごとに、私どもの運動への期待を強めておられる。
 ある著名な報道機関の方も、先日、こう言われていたと聞いた。
 「創立六十周年を迎えた創価学会が、日本の社会のなかで、押しも押されもせぬ社会的勢力になったことは、だれもが認めるところである。それだけに、閉塞した今の状況のなかで、何かを成し遂げてくれるのではないかとの期待感も大きいと思う。
 先ごろ行われたアンケート調査によると、現代の若者がもっともひかれる人物像として、その第一位に挙げたものは、″中途半端ではなく、何かに懸命に打ち込んでいる人″というイメージだった。創価学会の運動に数多くの青年がひかれる理由も、こうした社会の風潮と無縁ではないと思う」と。
 さらに「ニュース報道で読者からの反応が大きいものは(1)人権報道(2)未来学特集、の二つである。読者の突っ込んだ質問に、それ以上に国民の知的関心の深まりを痛感する。
 人々が知的豊かさを求める時代に入った今、政治・文化・宗教など人間生活を支えるあらゆる基盤に″知力″が必要なのである。宗教活動においても、そこに知的向上という付加価値が伴わなければ、宗教団体としての活力も低減せざるをえないと思う」と。
 私が仏法を根本に、あらゆる角度からスピーチを続けてきた理由の一つも、こうした時流の先取りにあった。(拍手)
 そして「かつてケネス・ボールディング(アメリカの経済学者)が″宇宙船地球号″を唱え、″運命共同体としての世界″を提起したが、東西の枠組みが本質的な変化を遂げた現在、人類は地球号から″宇宙船知求号″へと乗り移る時期にきている。創価学会はこの″知求号″の舵取りの一員として、社会をリードし、人々に安心感と共感を与えつつ、その存在価値を大きく示していただきたい」と結論しておられる。
 学会は時代の先端を進んでいる。未来への光源である。堂々と、明快に、誇りをもって、ありのままの姿を示していくことである。明快に語った分だけ、理解は進む。
11  また、ある報道関係者はこうも語っている。
 「池田名誉会長のご活躍はすばらしく、心から敬服します。抜群の行動力と仏教の思想性。平和を求めての世界の偉人たちとの語らい。こうした思想と行動は、日本を代表する哲学者として名を残されるにちがいない。
 そのことが、残念なことですが、日本人にはわからない。海外の人たちのほうが、かえって、おぼろげながらでも理解できている。
 名誉会長の言われるこの十二年間が、その意味でたいへん重要です。ニーチェ、ヘーゲル、カント、あるいは西田幾多郎などのように、偉大な哲学者として、日本を代表する思想家として、歴史に名を残していただきたい」
 過分なお言葉だが、人間にとって″励まし″は大切である。いわゆる″お世辞″ではなく、心からの″励まし″が、人を守り、育てていく。その点、日本人は人を励ましながら育てようという気風に乏しいといわれるが、それでは人間として不幸であろう。
 ともあれ、言葉どおりにお伝えすると、あるいは自慢のように聞こえるかもしれないが、あくまでも私どもへの励ましの言葉として、ありのままを紹介させていただいている。
 さらに、これは以前にもお話ししたことだが、こうも言われていた。
 「私が学会に強く共鳴していることの一つは、学会が病院をもっていないということです」「世間には、自前の大病院をもっている宗教団体もある。肉体は肉体の問題だとして、近代医学に頼ろうとする。これは、宗教の堕落以外の何ものでもない」
 宗教は本来、内なる心の次元から人間を救っていく使命をもっている。ところが、教団と称し精神の救いを説く一方で、教団自体で病院を経営する。そうすることで、自分たちの教えの無力さをおおいかくそうとするばかりか、営利に走る場合がある――そうした宗教としての敗北の姿を鋭く見てとられての言であろう。
 医学や医療施設が重要であることは言うまでもない。それはそれとして、「精神闘争」「生命闘争」という宗教本来の使命の道をまっすぐに進んできた学会の進路は、心ある識者から大きく評価されているのである。(拍手)
12  学会は、つねに時代の流れを的確にとらえ、社会の求めるところを満たしてきた。それが伝統であり、誇りである。こうした期待の言葉も、その一つの証明といえよう。
 日淳上人は、こうした学会の運動の「時代性」「社会性」について、次のように述べられている。
 「今、創価学会の発展が何を意味するものかと申しますれば、現今の世人が一様に心の底に求めているものが学会によって与えられたという事と考えられるのであります」
 「創価学会は、この求めるものを適切に考え、求めるこの世人の心を満たして行く、これが、学会の世人に受け入れられて行く所以だと思うのであります」(昭型三十年十一月、創価学会第十三回総会。『日淳上人全集』)と。
 また、日達上人も「時代性」ということを繰り返し強調しておられた。
 たとえば、次のようにも語られている。
 「広宣流布、広宣流布といっても時代に反対して、広宣流布ができますか。時代によって広宣流布して、初めて大聖人の仏法を各人広めればよいのです。それを忘れて、時代錯誤のことをいって、布教を妨害するようでは、これは世界的宗教とはいえない。日蓮大聖人の南無妙法蓮華経は万年の外未来までも流る、と口で言っても実際それができなくなってしまう」(昭和四十九年十二月、法華講連合会第一回全国青年部大会。『日達上人全集』)
 「今、我々は大聖人の仏法、南無妙法蓮華経をいかにして世界に広宣流布するかその方法手段を考え、それによって大聖人の仏法を布教して行かなければならないのであります。
 ゆえに今日において『仏法は時に依るべし』の解釈は、南無妙法蓮華経の布教手段を時代に合わせて行かなければならないのであります」(昭和五十一年七月、法華講連合会第十三回大会。同前)
 私どもの道こそ、時に適った正しき道であることを強く確信していただきたい。(拍手)
13  社会・時代に応じゆく観世音の力用
 ところで、高知市は、地球上できわめてユニークな″位置″にある。地元の皆さまはご存じと思うが、ちょうど東経一三三度三三分、北緯三三度三三分という「三」のそろう地点が高知市である。
 これほど「三」の並ぶ都市は、世界でも例がない。私も学会の「第三代」であり、何か不思議な縁と親しみを感ずる。(拍手)(=地元としても、このユニークさを誇りとして、東経一三三度三三分三三秒、北緯三三度三三分三三秒と、じつに「三」が十二個も並ぶ地点〈高知市内の江の口川にある〉を″地球三十三番地″と名付け、標示塔が建てられている)
 言うまでもなく「三」や「三十三」は、仏法においてたいへんに意義の深い数字である。
 たとえば、三大秘法はもとより、三重秘伝、一念三千、一心三観、三因仏性(正因・了因・縁因の各仏性)、三世間(五陰・衆生・国土の各世間)、三徳(法身、般若、解脱)、三身(法身、報身、応身)、三学(戒律、定、慧)、三諦(空諦、仮諦、中諦)、三千世界、三千塵点劫、三蔵(経、律、論)、三智(一切智、道種智、一切種智)……等、じつに多い。
 「三十三」に関するものとしては、「三十三天」のほか、観世音菩薩の「三十三身」が挙げられる。これは、法華経の「観世音菩薩普門品第二十五」に説かれる。
14  観世音とは「世音を観ずる」ということで、世の中の動き、ニーズ(欲求、願い)を鋭くキャッチし、それに応じて慈悲の働きをなす生命の力用である。
 学会が「時代性」「社会性」に適応しつつ広布を進めていることは、こうした、法華経の「観世音」の本義にも通じていくといえよう。
 観世音は、人々の多様さに応じて、さまざまな姿を現す。その多彩さは「三十三身」と表されている。くわしくは略させていただくが、仏、縁覚、声聞、梵王、帝釈、大自在天、天大将軍、小王、長者、大臣、在家の男女、子どもの男女――等と、あらゆる職業、立場、階層にわたり、さまざまな姿を現じながら人々を救うと説かれる。
 ゆえに歴史上、観世音すなわち「観音」は、各国の民衆に広く慕われ、絵画や彫刻などにも慈顔をたたえた円満な相で表現されてきた。
 しかし「観音」自身に力があるのではない。法華経、妙法に力がある。三十三身は妙法の力用の一分である。ゆえに「観音」自体を信仰しても意味がない。逆に罪をつくってしまう。
 大聖人は「御義口伝」に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は卅三身の利益なり」――今末法において、日蓮大聖人とその門下で南無妙法蓮華経と唱える者は、観世音の三十三身の利益を顕していく――と明快に仰せである。
 すなわち、社会のあらゆる人々を救っていく観世音の働きは、すべて「妙法」に含まれている。ゆえに、総じては、私どもが妙法を唱え、広布のため、人々のために、慈悲の行動に励んでいること自体が、真実の「観世音」の働きなのである。
 また「普門品」では、観世音の名を呼ぶ功徳を説いている。これも、妙法を唱える功徳に全部含まれている、と大聖人は断言されている。
 「御義口伝」には、「薩の字は観音の種子なり(中略)今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」――妙法は梵語で薩達摩サダルマと言い、この薩の字が、観世音を生みだした種子である(中略)今、末法に入って日蓮大聖人と門下が南無妙法蓮華経と唱えるのは、観世音の利益よりも大なること、天地雲泥の開きがある――と。
15  わが身が宮殿、その一扉を開け
 「三十三身」が立場や職業等の違いを超えて多様な姿を現しているように、私どもの現在の立場もさまざまである。その上に立って、日達上人はこう述べておられる。
 「貧乏人であろうが、金持ちであろうが、御本尊様と一体、同じである。我々の当体、すなわち妙法蓮華経である。だからみなさんが拝んでいるこの御本尊はすなわち、あなた方であり我々である。けっして我々と御本尊と離れるものではない」「大聖人様は南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経の御本尊がすなわち我々だという信心に立ってゆかなければならないのである。だから今の自分の、本分をつくして信心してゆくということがもっとも大事である」(『日達上人全集』)――と。
 御書に「阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」――阿仏房はそのまま宝塔(御本尊)であり、宝塔はそのまま阿仏房である――と仰せのとおり、私ども自身が、そのまま妙法の当体である。皆さま方仏子の身は、宇宙の一切の宝が収まった″宮殿″であり、無上に尊い存在なのである。
 その官殿の″扉″を開くキー(カギ)が「信心」である。その「信心」のあり方を、″御本尊とわが身を決して別々に考えてはならない″と、日達上人は教えてくださっているのである。(拍手)
 なお、「三十三身」のうちに梵王・帝釈、小王などとして表される社会的指導者の立場も、生命の次元から見れば、妙法の当体である皆さまの官殿に含まれている。
 ゆえに広宣流布のために、梵天・帝釈も現実に動いていくし、動かしていける。その意味でも、皆さまは一次元から論ずれば、国王や大統領にも劣らない尊貴な、根本的な平和への働きをなしているのである。(拍手)
16  万事「一人」から出発、「一人」を育てよ
 さて法華経「普門品」では信仰する「一人」がいれば、周辺の人々も皆、救われる場面が説かれている。(開結六二二㌻)
 たとえば、大海へと航海に出かけた船が漂流し、鬼の国に着いたとする。高知もかつて海の難が多かったが――。そのなかで一人、観世音の名を唱える人がいれば、今でいえば妙法を唱える人がいれば、全員が救われると説いている。
 「一人」が大切である。その「一人」が、船という″運命共同体″を幸福へと引っ張っていく。家族、会社、地域などでも同様である。
 「一人」が唱える妙法の力用は、それほど大きい。太陽がひとたび昇れば、いっぺんに周囲を照らすようなものである。「一人」の成仏が眷属をも救っていく。
 ゆえに決して、家族のだれかが信仰していないことがあっても、そのことで、いたずらに苦しむ必要はない。また、周囲の人々の幸福と入信を願い祈る心は心として、″自分一人あれば、皆を良い方向に引っ張っていける″との確信が大事である。
 それが法華経の教えである。そこから安心と信頼の波も広がっていく。そこに長い目で見た時の、広宣への深き土壌もできていく。人を苦しめるような、かたくなで偏狭な行き方は、仏法の真の精神ではない。
 「普門品」には、こんなシーンもある。商人の一団が重宝を持って旅し、盗賊に遭う。しかし、この隊商(キャラバン)のなかに一人の信仰者がいた。彼は「何も恐れることはない」と皆を激励し、その「無畏(恐れることなし)」の心に打たれた商人たちは勇気を得て、彼の確信に同ずる。そこから全員が難を免れる。(開結六二四㌻)
 人数のみではない。「一人」の強き信心の人を育てることである。そこに根本、根っこがある。そこから一切が開花していく。(拍手)
17  御書には、しばしば「還著於本人」の法理が説かれる。これも「普門品」の経文(開結六三四㌻)である。
 「還って本人にきなん」と読む。邪な人間が、正法の人を害そうとすれば、かえって迫害しようとした本人に害が戻ってくるという生命の原理である。
 高知また四国全体も、邪信の僧らが出て、広布に進む正道の″地涌の仏子″を、いじめぬいた。人間のしわざとは思えぬ非道の連続であった。
 その果報は、ブーメランのように、すべて本人たちに戻っている。真の仏徒を見くだした者は、人々から見くだされ、おどした者は自分の人生から脅かされる。苦しめた者は、その分、苦しみ、全部自分に返ってくる。厳しい因果律である。彼らは、みずからつくった「毒」をみずから食べているのである。哀れそのものの人生である。
 「仏法は勝負」と大聖人は仰せである。皆さまは御本仏による厳然たる裁きを、誇らかに確信していただきたい。(拍手)
18  胸中の「福聚ふくじゅの海」は無量
 「普門品」の最後のほうには、妙法の功徳を「福聚の海無量なり」(開結六三六㌻)と表現している。「福聚」すなわち「福徳の集まり」の海が、妙法を唱えるわが生命に無量に広がっているのである。
 桂浜から望む太平洋のごとく、大海には無量の珍宝がある。無数の″海の幸″がある。クジラも泳ぎ、カツオもはねている(笑い、拍手)。その海よりも百千万億倍、すばらしい宝聚(宝の集まり)が、ほかならぬ、この胸中にある。それを開きに開き、輝きに輝かせていくカギが信心なのである。
 この高知が、四国の天地が、まばゆいばかりの「福聚の海」につつまれゆくことを祈りたい。また、そうなることを私は確信している。(拍手)
 かつて四国は「真言王国」と呼ばれた。今度は皆さまの力で、朗らかな、功徳満つ「妙法の王国」へ、そして正法栄える「創価の王国」へと大転換していただきたい。私も全力で応援したい。(拍手)
 どうか、「信心とは、これほどすごいものか」との実証を、堂々とわが人生で示しながら、これ以上はないという″無上の一生″を飾っていただきたい。
 四国の総会も今日を出発として、第二回、第三回と大発展の歴史を刻んでいただきたい。このことをお願いして、本日の祝福のスピーチとしたい。
 (高知文化会館)

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