Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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世界広布三十周年記念SGI勤行会 仏法の実践は幸福のために

1990.11.17 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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2  しかし、大聖人は、これら過去の修行を、そのまま実践するよう、末法のすべての人に勧めておられるのではない。この点を決して誤解してはならない。むしろ大聖人は、不惜身命の精神を具体的にどう行じるかは″時によって異なる″と強調されている。
 たとえば「佐渡御書」では、こう述べられている。
 「昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩埵さった王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし」と。
 ――昔の聖人は時に応じて法を行じた。雪山童子や薩埵さった王子は、「身を布施とすれば法を教えてあげよう。身を捨てることが菩薩の行となるのである」と言われたので、身命を捨てた。肉を求めるもののない時に、身を捨てるべきであろうか。紙のない世には楽法梵志のごとく身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とすべきである――。
 薩埵さった王子とは、やはり釈尊の過去世の修行の姿で、子を産んで飢え苦しんでいる虎にわが身を与えて助けたという説話が伝えられている。
 不惜身命とは、法を求め、法を弘め、法を後世に残すためには、身を惜しまないことを意味している。つまり、「護法」の一念と行動に、その本義がある。「佐渡御書」に示されているように「正法を惜む心」の強いことが肝要なのである。
 そして、御書に仰せのとおり、「護法」の実践は、時に応じて異なる。雪山童子や楽法梵志の修行をそのまま、まねても、実際に「護法」の結果がもたらされなければ、真の不惜身命の実践とは言えない。
 ″法のために″ということで、安易にわが身を傷つけ痛めたり、命を捨てる等の行為は、今日においてはかえって愚行であり、成仏の因とはならない。むしろ法を下げてしまうであろう。
3  この点について、日達上人は、次のように述べられている。
 「紙のない時代には自分の皮、これは楽法梵志という方がそうしたんですけれども、自分の皮を剥いで紙の代りにして、説かれた正法を書き付けた。しかしながら今のように紙があるんだから、無理に自分の体を傷つけてまでする必要はない。また、ローソクもある。電気もある。それなのにわざわざ自分の腎を焼いて、仏に供養せられたところでなんの役にも立たない」(『日達上人全集』)
 たしかに今の世の中で皆が雪山童子のまねをしたら、″自殺者急増″となって社会問題になってしまう。楽法梵志のように皮をはいだら、外科医が繁盛するだけで、これも大問題になってしまう。(爆笑)
 さらに日達上人は「だから時によらなきゃならない。章安大師が『取捨宜しきを得て一向にすべからず』とおっしゃっております。そういう方法は捨てて、今の物を利用してゆく、それが文明であり文化の世の中である。文化の時に合ったことを行なってゆけばよろしい。それが修行である。ただ、山林に入って自分だけお経を読んだってそれはだめだ。やはり折伏をして人々と共に修行して行かなければならない」(同前)と。
 仏法の修行は時にかなわなければ意味がない。末法においては、弘法こそが正しい修行である、とのご指導である。
4  「自行化他」に真の「不惜」の精神
 ただ、「身を捨てる」というと、どうしても過激な(笑い)イメージが離れないようだ。そこで、さらにこの点を明確にするため、「御義口伝」を拝しておきたい。
 「所詮しょせん日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは捨是身已しゃぜしんいなり不惜身命の故なり云云」――所詮、日蓮および弟子檀那等が南無妙法蓮華経と唱え奉ることが、法華経の授記品で説かれている「是の身を捨ておわって」の文に当たるのである。不惜身命の実践だからである――。
 自行化他にわたる題目、つまり唱題と折伏行こそ不惜身命の実践であるとの仰せである。
 さらに続けて「又云く此の身をほどこすと読む時は法界に五大をほどこすなりつる処の義に非ず、是の身を捨てて仏に成ると云うは権門の意なりかかる執情しゅうじょうを捨つるを捨是身已しゃぜしんいと説くなり
 ――また、この文を「この身をほどこす」と読めば、法界にわが身の五大(地水火風空)を施すという意味になり、わが身を捨てるとの義ではないのである。むしろ、「この身を捨てて仏になる」というのは、爾前権教の立場のとらえ方であり、「権教のこうした考え方に対する執着の心を捨てる」ことを、法華経では「是の身を捨ておわって」と説いているのである――と仰せになっている。
 「わが身を捨てる」のではなく、「わが身を法界にほどこす」のが法華経の本義なのである。また、「身を捨てる」という低い教えへの執着をこそ「捨てるべきである」と。
 法界のため、すなわち仏法のため、人間のため、世界のために、身を惜しまず尽くしていくところに、真の不惜身命の意義があると拝される。どこまでも強く、生きて生きぬいていくことである。
5  ″時″を無視して、経文を表面的、機械的にとらえては悪しき教条主義になってしまう。また、不惜身命の真義もわからず、いたずらに命を捨てることを美化するのは、いわば玉砕主義であろう。それでは大聖人のご精神にまったく反する。
 また、そうした偏狭な生き方を強いることは、断じて誤りである。皆が幸福になるための信仰である。苦しむための信仰では絶対にない。
 わかりやすくいえば、正法が失われようとする時に、断固、命がけで戦う――これは、いわば″戦時″の実践である。
 他方、″平時″においては、正法を持つ人が生活の中で功徳の実証を示し、法の偉大さを証明しながら、正法を民衆の中、社会の中に流れ通わせていく――これが法を宣揚していくことになる。
 仏法を基調に、平和、文化、教育の運動を推進し、時代、社会に貢献していくことも、その一環である。
 ともあれ一人も犠牲を出さぬように、一人残らず永遠の幸福をつかむように、楽しく悔いなき人生を生きぬいていかれるように――そのために辛労を尽くしていくのが仏法の指導者である。ここに御本仏のお心にかなった道があると確信する。(拍手)
6  末法の凡夫は「志」で成仏
 大聖人の仏法における修行は、民衆の生活の中に開かれている。
 「白米一俵御書」では、雪山童子や、みずからの腎を焼いて仏に供養した薬王菩薩の修行を述べられたうえで、次のように教えておられる。
 「此れ等は賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候。ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心て仏になり候なり
 ――これら雪山童子等の修行は賢人・聖人の修行であるから、われら凡夫にはかなわぬ修行である。ただし、仏になるということは、凡夫は「志ざし」という文字を心得ることによって成仏できるのである――と。
 雪山童子や薬王菩薩等が行った修行は、過去の賢人・聖人の修行であって、末法の凡夫には不可能である。そして、末法においては、信心の「志ざし」こそが成仏の因となる、と。
 凡夫の現実に即して成仏の道を示してくださる大聖人の深い慈愛が拝察されてならない。
7  さらに同抄では、世法と仏法とを立て分けるのは法華経以前の浅い教えであり、″世間の法がそのまま仏法である″ととらえるのが法華経の深理であると示されている。
 すなわち「まことの・みちは世間の事法にて候」――真の仏道は世間の事法のことである――と。
 また「やがて世間の法が仏法の全体」――世間の法がそのまま仏法の全体である――と仰せである。
 このように大聖人は、「志ざし」ある限り、世間における凡夫の生活が、そのまま仏道修行の場となることを明かされている。一部の人のみがなし得る過去の修行ではなく、一切の人々が実践できる修行を教えられたところに、大聖人の仏法の偉大さがあると私は信じる。(拍手)
 大聖人は、みずからは命に及ぶ大難を受けられながら、しかも後世の門下には、広々とした「成仏への大道」を教えてくださったのである。私どもは、この大慈大悲を拝して、どこまでも深く「広宣流布」を志し、社会への貢献と実証を志す一人一人でありたい。(拍手)
8  なお「佐渡御書」には、雪山童子等の例を引かれた後、「身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや」――仏法のために身命を捨てる人が、他の宝を仏法のために惜しむだろうか――と仰せである。
 「佐渡御書」は、不惜身命の折伏を強調された御抄であり、この御文も供養を勧めることを趣旨とされたものではない。それを前提として、一歩すすめて、供養の精神に触れれば、″他の宝を仏法のためにささげる″ことも、決して強いられて行うものであってはならない。「白米一俵御書」に述べられているように、「志ざし」――真心が大切なのである。真心の「信心」によってこそ福徳が積まれるからである。
9  皆さまには人類の「知恵の眼」開く使命
 私ども創価学会の誇りは、わが身を惜しまず正法弘通の法戦を展開するとともに、広布推進のために未曾有の御供養の誠を尽くしてきたことである。
 そして今日、正法大興隆の時を迎えられたことは、全世界の学会員に無量の功徳が開かれゆくことを象徴していると、私は確信している。(拍手)
 話は変わる。大聖人が遠くからはるばる訪ねてくる門下のことを、どれほど濃やかに思いやられておられたか――。
 御書には「鎌倉の尼の還りの用途に歎きし故に口入くにゅう有りし」云々――鎌倉の尼が佐渡からの帰りの旅費に困っていたので、一谷入道に大聖人が口ぞえして世話をしてあげた――という記述もある。
 ご自身が佐渡流罪という最悪の状況にあられながら、在家の一婦人の旅費のことまで心を砕いておられた――これが御本仏のお振る舞いである。
 その意味からも、さまざまにやりくりしながら、正法のために来日された海外の仏子のご苦労を、大聖人は全部、御照覧くださっていることは、間違いない。(拍手)
10  さて、旅費を立て替えていただいた、この「鎌倉の尼」がだれを指すかは断定できない。ただ、当時の状況から、幼子を連れて佐渡を訪ねた日妙聖人ではないかとの説もある。
 この日妙聖人・乙御前のけなげな母子に、大聖人はこう仰せである。
 「そもそも一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、いわんや日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何にいわんや一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はんをや
 ――そもそも一人の盲目を開ける功徳でさえ言葉に表せないほどである。まして日本国の一切の人々の眼を開ける功徳にいたっては言うまでもありません。さらにそれ以上に、全世界の人々の見えない眼を開ける功徳はとうてい言いつくせません――。
 広宣流布は、人類のもっとも本源的な「知恵の眼」を開きゆく大運動である。そして大聖人門下として、この仏勅の聖業を現実に世界へ展開しているのは皆さまである。その功徳は無量無辺である。(拍手)
 大聖人はこの後、次のように述べられている。
 「法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候、日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をじる人なり
 ――仏の滅後に法華経(御本尊)を持つ人は一切世間の天界と人界の衆生の「眼」であると説かれています。日本国の人々が日蓮をあだむのは、一切世間の天と人の眼をえぐりとる人なのです――。
 私どもは、この大聖人の門下として、妙法を信じ、行じ、学びゆく仏子であり、仏徒である。ゆえに、御書に仰せのとおり、私どもをあだむ罪も計り知れない。
 いずれにしても、いよいよSGIは世界の民衆の眼目、文化の眼目、平和の眼目として、知恵の光源として、大きく期待され、見つめられる時代となった。さらに限りなく、一人一人が希望の瞳を輝かせながら、前進してまいりたい。(拍手)
11  信仰は″貫く″ことが肝要である。途中、さまざまな悩みや坂もある。疲れをおぼえることもあるであろう。勤行が完全にできないという時もあるかもしれない。それでも、御本尊から決して離れないことである。
 自分自身のために、少しでも唱題し、また少しでも前進していこうという「信心」があれば、時とともに必ず開けてくる。
 夫婦の愛情でも、″つねに熱烈″というわけにはいかない場合がある(爆笑)。しかし風雪を経ることによって、深い味わいと絆が生まれてくるものだ。(笑い、拍手)
 それと次元は異なるが、信仰もまた″持続″が大切である。「一生成仏」であるゆえに、一生涯にわたる水の流れるような信心即生活が、知らずしらずのうちに、三世にわたる「幸福の大海」「福運の大海」へとわが身を運んでいくのである。(拍手)
 最後に、皆さまのますますのご健康と、それぞれのお国のご繁栄をお祈りし、記念のスピーチとしたい。
 (創価国際友好会館)

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