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日蓮大聖人・池田大作

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大田区記念勤行会 「新しい人」「新しい力」に光を

1990.11.7 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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1  広布の戦人こそ誉れの人材
 待望の″大田城″(大田文化会館)の完成おめでとう!(拍手)
 大田は私にとっても、宿縁深き古里である。懐かしい多摩川を望む、この城の完成を心から喜んでいる。(拍手)
 先ほどは、この多摩川のかなたに、真っ赤な夕日が沈んでいくのを見た。あたり一面を染める夕日――その前を、数十羽の雁が飛んでいった。昔も、こういう光景を見たことがあるが、まことに荘厳なひとときであった。
 皆さまは、このすばらしい文化会館の完成を、自分自身の新しいスタートともして、堂々たる″わが人生の歴史″をつづっていっていただきたい。(拍手)
 また、きょうの日を迎えるまでには、区の中心者をはじめ、多くの皆さま方が力を尽くしてくださった。あらためて感謝申し上げたい。(拍手)
2  さて、この大田城は何のためにできあがったのか。それは「広宣流布の人材」を育てるためである。広布の城はすべて、人材育成の道場である。大田城は、世界に陸続と「人材」を輩出しゆく″本丸″なのである。この根本目的を銘記していただきたい。(拍手)
 それでは学会の「人材」とは何か。それは現実に広宣流布を進めていく人である。広宣流布こそ、学会の生命であり、根本目的である。
 ゆえに、人材とは、広宣流布のために、学会を徹底して守り、支え、伸ばす人である。何があろうと、いかなる時代になろうと、学会とともに広宣流布に戦いぬく人――それが人材である。
 この基本を忘れて、社会的な地位や名声などを基準にしては、人材の見方を誤る。たとえ社会的には著名人であっても、信心の世界にあっては、それがそのまま人材であるとは言えないであろう。
 信心の世界は、どこまでも信心が基準であり、広布の世界は、どこまでも広宣流布が基準である。そして仏法は永遠であり、社会的栄誉などは現世のみの無常の飾りにすぎない。
 ゆえに自身の立場を特別のように慢心し、学会の崇高な意義がわからずして、学会を手段にし、第二義的に見くだしていく人――そういう人は、何より自分が不幸である。何かあれば退転していく場合が多い。そういう人を出してはならない。本物の「広宣流布の人材」を育てていただきたい。(拍手)
 そうした意味で、小泉隆・元理事長は立派であった。あらゆる敵と戦いながら、一貫して学会を守った。信念があった。大田、蒲田と言えば、どうしても小泉さんの話になる。大功労者である。
 きょう十一月七日を選んで、私が大田にこさせていただいたのも、きょうが小泉さんの三回忌だからである。私は、学会に尽くした人のことは絶対に忘れない。(拍手)
3  大田は、戦後の学会再建のころの「原点」の地である。
 昭和二十一年(一九四六年)五月五日、戸田先生が戦後初めて座談会に出席されたのが、ここ鵜ノ木の小泉宅であった。以来、幾多の法戦の舞台となった。この″誉れの歴史″は不滅である。
 一方、こうしたところから、大田には多くの大先輩がいらっしゃる。古くからの幹部の方も多い。それらの良き先輩は、仏法上、「善知識」に当たる。
 善知識とは御書に「一向・師にもあらず一向・弟子にもあらずある事なり」――いっこうに師でもない。いっこうに弟子でもないのである――と仰せのごとく、正しき信仰への善縁である。善知識は師弟関係を言うのではないが、善知識である良き同志に近づこうとすることが大切である。
 私どもの、仏法の根本の師匠は日蓮大聖人であられる。ゆえに、どこまでも御書を深く拝さねばならない。「教学」を徹底して深めていくことである。
4  拡大の突破口開いた若き日の法戦
 さて、学会の歴史は、″正法の拡大″の歴史である。とくに、戦後の拡大はいちじるしい。そのエネルギーは、どこから生まれたか。
 それは、大御本尊を根本として、戸田先生と″心のギア″をかみ合わせた同志の奮闘から生じた。その先駆となったのが、昭和二十七年二月、ここ大田を中心とした「蒲田支部」の法戦である(拍手)。この時の模様はよくご存じと思うが、大田の新しい出発にあたり、その意義を確認しておきたい。
 この年は戸田先生の第二代会長就任の翌年。学会は″立宗七百年″を期して、本格的な″拡大″の前進を開始した。ところが――。
 当時の十二支部は、いずれも月に七十世帯、八十世帯の入会をみるのがやっとという状況であった。このままでは、戸田先生の掲げられた「七十五万世帯」という大願の達成は、だれが見ても不可能と思われた。遂足踏み状態である。だれかが″壁″を破らねばならなかった。
 なすべき時に、なすべきことを、断固として実践する――戸田先生は迷わなかった。
 「そろそろ、大作を出すか!」
 先生の生命ともいうべき折伏戦が本格化したゆえに、その一大推進者として、私を指名されたのである。当時、私は二十四歳。この年の一月、蒲田支部の支部幹事に任命された。私は、「突破口を開け」との戸田先生のお心を深く知っていた。
5  蒲田支部――小泉さんが支部長であった。私はさっそく語り合った。大森駅の西口で、食事をとりながら、二人きりで話をした。私は言った。
 「小泉支部長を日本一の支部長にしてみせます」
 支部長は半信半疑だったが(爆笑)、私は一カ月後には約束どおりの結果を出した(拍手)。また「戸田先生を日本一、世界一の会長にします」と。これも、すべて実現した。(拍手)
 小泉さんは亡くなる直前、最高幹部の座談会で、当時を振り返っておられる。
 「若き日の名誉会長が、蒲田支部幹事でこられたときの支部長は、僕なんだ。当時は一カ月に折伏百世帯もたいへんだった。ところが池田先生は支部として″折伏を何世帯をやろう″と言うんじゃない。『組で二世帯はどうですか』なんだよ。当時、一つの組に、二、三十人いましたからね。
 ″それならできるじゃないか″と、だれもが思いましたよ。一人一人の目が、輝いてくるのがわかったね。蒲田にこられた翌二月には、二百一世帯もできちゃった」
 なんだか、あっさり語っておられるが(爆笑)、陰にたいへんな努力があったことは言うまでもない。私も渾身の一念で祈った。また小泉支部長、白木静子初代支部婦人部長も真剣であった。
 そのうえで、語られているとおり、私は活動の焦点を、最前線の「組」、今でいう「ブロック」に定めた。皆、驚いた。反対する幹部もいた。「組」単位なんて、新しい人ばかりで、まだまだ信用できない、と。
 私の考えは違った。″新しい人″だからこそ、″新しい力″を持っている。それを引き出そう。新鮮な若芽のような″新しい息吹″もある。それを伸ばそう――そこに私の着眼点があった。いわば新思考である。″新しい発展″は、この″新しい発想″から生まれた。
6  二月のスタートの会合は、ちょうどこの新文化会館の近く、「鵜ノ木三丁目会館」という町内の集会所で行った。以来、私は支部内を駆けめぐった。座談会場も一日に二カ所、三カ所と――。自分が動いた分だけ、広布の組織も回転する。行動を拡大し、皆の歓喜を拡大し、支部内の空気を一変させた。
 組織といっても、「人」である。「組」という小さな単位に光を当てた結果、一人一人に、きめ細かな激励ができた。納得し、心から立ち上がる人が増えてきた。その″新しい波動″が次の波動を呼び、組織全体がフレッシュに躍動しはじめた。
 大きな単位のみに注意を向けていると、どうしても指示や伝達が中心となり、信心の息吹や感動が伝わりにくい。いつしか惰性におちいってしまうものである。一人一人の「人間」よりも、「組織」という機構だけに目がいってしまう。それでは、悪しき組織主義となる場合がある。指導主義、人間主義ではない。
 「組」単位に――という、この時の実践は、こうした硬直化を打ち破る、いわば″組織の人間化″への挑戦であった。わが生命をふりしぼって、地域のすみずみにまで、清新な「信心」の息吹を脈動させていく。その戦いであった。
 そして、この月に蒲田は支部で初めて三百世帯を突破し、日本一の支部となった。私は、うれしそうな小泉支部長の顔が忘れられない。(拍手)
 他の支部も目を見張った。やれば、できるのだ――ここから学会総体も本格的な″拡大″への回転が始まったのである。ここに「伝統の二月」の淵源がある。
 こうして、大田から″拡大″の火ぶたは切られた。その人は、戸田先生の胸に、そして私の胸に、まず燃えていた。そこから大田へ、さらに全国へと広がっていったのである。
 私は、戸田先生の心を心として戦った。戸田先生の願望が即、私の願望であり、祈りとなり、行動となった。先生と私との間には、微塵も爽雑物がなかった。大田は、この″一体″にして″同心″の戦いによって基礎をつくったのである。この歴史を大切にしていただきたい。この原点を現在に、未来に生かし続けていただきたい。
 時代が変わっても、「信心」は変わってはならない。否、時代が進むほど、「信心」をいよいよ深く、いよいよみずみずしく境涯を成長させていくのが、求道者である。そして、ふたたび大田から、次の壮大にして華麗なる世界広宣流布への人ぶたを切っていただきたい。(拍手)
7  心一つに栄光と勝利の大田を
 私は大田を愛する。大切にしている。期待もしている。広布の大入材よ出でよ、と願っている。
 そこで、これまでの大発展のうえに、さらに先駆の使命を果たしていくには、どうすればよいか――。
 本部で検討してもらった結果、将来は三分割をして、それぞれの組織が互いに切磋琢磨してはどうかということになった。
 かつて″新思考″で小単位に力を入れ、広布の先陣を切ったのも大田である。区を分割することによって、これまで秘めていた(笑い)″新しい力″と″新しい人″が伸びてくるであろう。その意味で、時期は検討することにして、私もこの提案に賛成だが、いかがだろうか。(全員、賛同の挙手)
 どうか大田は、私とともに立ち上がっていただきたい。私とともに進み、ともに勝利していただきたい。そして、「大田のあの功徳あふれる姿を見よ」「大田の、すがすがしい団結を見よ」と称えられる理想の天地を築いていただきたい。
 関西が″世界の模範″であるごとく、大田はいわば″東京の関西″となって、全東京、また全国、全世界をリードしゆく発展をお願いしたい。(拍手)
8  ところで、日蓮大聖人が御入滅された池上兄弟の館は、ここ大田の地にあった。大聖人と深縁の国土である。その池上兄弟が、あれほどの難を乗り越えることができたのはなぜか。それは、大聖人の仰せのとおり、仲良く団結したからである。
 大聖人は、兄弟に仲良くしなさい、心を合わせ、一丸となって、一家を救っていきなさいと繰り返し指導された。兄弟は、その教えを守った。実際には、さまざまな心の揺れがあったかもしれない。しかし、兄弟は「同心」の信心を貫いた。だからこそ勝った。
 大聖人は、兄弟の団結の姿に対し、「未来までの・ものがたり物語なに事か・これにすぎ候べき」――未来までの物語として、あなた方の団結の姿以上のものはないでありましょう――と、称えておられる。
 そのお言葉どおり、兄弟の晴れやかな勝利の姿は、今や全世界で語られ、学ばれている。
9  池上兄弟ゆかりの大田もまた、「団結の勝利」の模範であっていただきたい。
 先輩は兄であり、後輩は弟であろう。しかし、信心のうえでは平等である。広宣流布という目的観のうえでは、同心でなければならない。御本尊のもとに、皆、使命ある仏子であり、同志である。互いに尊敬し合っていくのが、大聖人の教えられた道である。
 後輩を尊敬できる先輩が偉いのである。また後輩は、先輩を追い越して成長していくのが自然の姿であり、そこに広布の発展もある。そのことを心から喜び、願っていける先輩は立派である。
 だれが上とか下とかではない。親分・子分の関係であってはならない。同じ人間として、また妙法の兄弟として、未来までも語られ、称えられていく″仲良き大田″であっていただきたい。そこに無限の力と功徳がわき出づるであろう。(拍手)
 ちなみに池上家は鎌倉幕府の作事奉行であった。当時の建築担当のプロである。彼らが今、この新文化会館を見れば、「いや―、すばらしいことだなあ!」と、さぞかし驚き、感嘆することだろう(笑い、拍手)。また大聖人も必ずや喜んでくださるにちがいない。(拍手)
10  敦煌とんこうの守り人」に生涯かけた常書鴻じょうしょこう
 さて昨日、私は敦煌研究院名誉院長の常書鴻氏ご夫妻ならびにご子息の嘉煌かこう氏とお会いした。そのと席で氏は、私に一枚の絵(=「チョモランマ峰」〈科学技術の最高峰の同志に獲ぐ〉。当時、静岡・富士美術館で開催中の「常書鴻・嘉煌父子絵画展」で展示)を贈りたいと言われた。
 その絵は、ちょうど私が同絵画展の作品のなかで、もっとも心打たれた絵であった。文化大革命(=一九六六年から七六年にかけて、中国全土に吹き荒れた政治的社会的運動)直後の、もっとも苦しい時期に、氏と夫人が魂をこめて描かれた貴重な作品である。もちろん、美術品としても、きわめて高い価値がある。
 お言葉だけを心にとどめます、とお答えすると、氏は重ねて「この絵は名誉会長にお贈りすることが、いちばんふさわしいと思うのです」と言ってくださった。淡々として、あまりにも無欲な姿である。私は感動した。私との友情を、そこまで大切にしてくださっている――。
 ご夫妻は、もはや真実の″心の世界″以外には関心がないようであった。真心、誠実が一切に超越する。それが一流の人の境地である。私はただ、氏のお気持ちがうれしかった。
 ひとくちに「誠実」「信念」と言うが、実行は並大抵ではない。しかし常氏は貫かれた。私も私の立場で貫いてきたつもりである。ゆえに十年前、初めてお会いした時から、魂が共鳴した。″ここに本物の人間がいる″――以来、語り合い、知り合うごとに、絶対の信頼が深まった。
 常氏は、その尊き一生を敦煌のためにささげつくされた。仏教芸術の精華・敦煌の偉大なる″守り人″として、中国はもとより全世界から尊敬を集めている。
 常氏と敦煌との出あい――そこには″永遠の美″を求めてやまぬ青年芸術家と、″永遠の生命″を描ききろうと挑んだ古の画工たちとの、時を超えたドラマがあった。本日は、少々そのことにふれておきたい。
11  人煙途絶えた砂漠の中に輝く″シルクロードの宝石″――。歴史と文化のロマン薫る敦煌は、私の幼いころからの憧憬の地である。
 小学校五年の時である(=羽田第二尋常小学校〈現・大田区立糀谷小学校〉)。学校の教室に、大きな世界地図が張ってあった。担任は檜山先生。
 「みんな世界のどこに行きたいか」
 私は、地図の敦煌の当たりを指して、この辺に行ってみたいと答えた。
 すると先生は「そうか、池田君。そこは敦煌と言って、すばらしい宝物がいっぱいあるところだぞ」と話してくれた。
 その時から、敦煌へのあこがれが芽ばえた。
 敦煌石窟の絵画芸術は四世紀に始まり、約一千年の歳月をかけて営々と築かれた。自然の浸食や、人間による破壊のなかを生き延び、当時の人々の魂の鼓動を、今に生き生きと伝えている。
 ――なお、経典をはじめ、敦煌の多くの貴重な文物が、海外に流出したままであることもよく知られている。これら″人類の宝″が、いつか故郷に帰る日を、私は心から願っている。
12  ″永遠なるもの″を求めよ
 敦煌はまさに″砂漠の大画廊″である。この文化遺産が、歴史の試練に耐えることができたのはなぜか。長い風雪を、どうして生き延びてこられたのか。地理的、あるいは気候的要因等、さまざま考えられるが、その根本は、敦煌の美にこめた、人々の″魂の力″ではないだろうか。
 常氏は、私との対談集(『敦煌の光彩』徳間書店)でこう語られている。
 「敦煌の作品が、今日なおみずみずしいのは、画工たちが心で、魂で創作したからだと思います。心の底から生み出した創造的な力は、にせものではありません。真の芸術作品は千数百年を過ぎたとしても、人々に感動を与える力は衰えないのです。長い歳月を経過して、今日も影響力があるというのは、作品が強い生命力をもっているからです」と。
 魂をこめた仕事は永遠に朽ちない。それは、時を超えて、魂が魂を揺さぶるからである。反対に、小才や手先の器用さだけで作り上げたものは、どれほど見栄えよく整っていても、深い感動を与えるものではない。見る人が見れば、すぐにわかるものだ。
 人生という″作品″も、また同じである。先に学んだ大聖人の仰せも、池上兄弟が命をかけて戦い、″本物の信心″に徹していたからこその称讃であったと拝される。
13  敦煌の芸術家たちにとって、絵を描くこと自体が、困難に満ちた仕事であった。常氏は対談集で、無名の画工たちの住居であった″画工洞″のありさまを紹介されている。それは、人間がまっすぐに立つことができないくらい低い洞窟であった。
 さらに氏によれば、洞窟を開く石匠と画工たちのなかには、あまりの貧しさのために、子どもを担保として借金をする者さえあったという。それでも彼らは、描いた――。
 また当時、画工たちの仕事は「廝役しえき」(しもべの仕事)とされていたという記録もある。交通手段の発達した今日でさえ、訪れるのに遠い砂漠のまんなかで、彼らがどれほどの苦労を忍んでいたことか。
 だが、それほど厳しい環境にあっても、彼らは懸命に仕事に取り組んでいった。
 彼らが見つめていたものは何か。それは″永遠″であった。信仰を根本に、″永遠の生命″を信じ、それを″永遠の美″として描こうとしていた。奴隷のような境遇であったかもしれない。しかし心は王者であった。絵筆をとる時、別世界が目の前に開けた。自在に天を翔け、時をも超えた。地上の権勢や栄華も眼中になかった。
 ″永遠なるもの″を呼吸しながら、至福の時を刻んだ。一筆一筆に、高貴なる魂のしたたりを込めた。その、祈りにも似た″永遠″への情熱が悠久の歴史を超えて、今なお私どもの魂に直接、訴えてくる。ここに本物の芸術のみがもつ生命力がある。
14  ″永遠なるもの″を創造しゆく人生――その人は幸福である。
 そして「広宣流布」こそ、最高に永遠なる事業である。千年、二千年、万年、その先までも、人類を救いゆく聖業である。今は、その土台作りである。この労作業に連なる皆さまの誉れも福運も、三世に輝いていくことは間違いない。これ以上、尊き、幸福な人生はない。(拍手)
 ゆえに、この大切な「正法の城」「民衆の城」を、永遠たらしめるために、皆さまは一日また一日、自分らしく、魂をこめた建設と創造を重ねていっていただきたい。その努力が、自分自身の″不滅の歴史″となって、生命を飾っていくのである。(拍手)
15  民衆こそ偉大なる創造の主役
 敦煌芸術の本質――それは、「民衆の芸術」であった。たしかに、それらは、支配者や富裕な人々にささげられたという一面をもっている。しかし描いたのは、無名の画工たちであった。作品には、彼ら庶民の生活やあこがれなどが色濃く反映されている。
 この点、常氏は次のように語っている。
 「私は画学生のころ、『芸術は芸術のための芸術』という考えをもっておりました。(中略)しかし、敦煌に行って民衆芸術に深い感動を覚えました。芸術は民衆に奉仕するものだと思いました。敦煌芸術は、民衆の手による民衆のための芸術だと信じています」「自己の考え方、理想を芸術のなかに表現し、民衆に捧げ、民衆のために貢献していくことが大切だと思います」と。
 敦煌の芸術が、権力者に奉仕することのみを目的としていたならば、これほどまでに人々の心をひきつける力は、とうに失われていたにちがいない。権威や権力に虐げられても屈しない。踏まれても踏まれても、頭を持ち上げていく。そんな雑草のような民衆の生命力に支えられていたことに、敦煌の″不滅の美″の一つの秘密があるのではないだろうか。
 常氏は「芸術は民衆に奉仕するもの」との信念をもっておられた。
 宗教もまた、そうでなければならない。「一切衆生」と御本仏は仰せである。今の言葉で言えば″全民衆″ということである。その無数の民衆のためにこそ、御本仏は出現され、あれほどの迫害を受けてくださった。そして全世界(一閻浮提)の民衆のために、大御本尊を建立してくださった。
 ゆえに私どもも、民衆のために進む。御本仏の大慈悲を拝して、民衆とともに歩むことが大切なのである。(拍手)
16  真実の悔いなき人生とは
 常氏自身、この民衆芸術を守るために、画家としてのエリートコースを捨て去られている。氏がフランスに留学し、西洋絵画の勉強を始めたのは二十三歳の時であった。そして、十年の間に数々の賞も受賞され、フランス・リヨンサロン(美術家協会)の委員、フランス肖像画協会の会員になるなど、画家として大成の道を歩んでいく。しかし、パリでの敦煌の写真集との出合いが氏の人生を変えた。
 「祖国にこれほど優れた芸術があったのか」「これは奇跡だ」――敦煌の美は、氏の魂を魅了し、中国人であるならば、これらの宝物を保護する責任があると、決意されたのである。
 本来なら、悠々と送れた安楽の人生コースだったかもしれない。しかし、それをなげうって、住む人もまれな″陸の孤島″の敦煌のために生きる人生を選んだ。
 そして、一九四三年(昭和十八年)に敦煌に行かれて以来、じつに半世紀もの間、砂漠に踏みとどまって、シルクロードの「美の宝石」のために全生涯をかけてこられた。なんと崇高な一生であろうか。
 パリでの留学生活を途中でやめ、敦煌へと向かった常氏。北京の美術界からは、″もはや画家ではない″と見なされたともうかがった。しかし、氏は、敦煌の仕事の激務のかたわら、毎日、油絵の修業を欠かさなかった。そして八十六歳の今なお、みずみずしい創作の歩みを続けておられる。
 今回の絵画展は、こうした大画家としての氏の多彩な業績を紹介したものである。「敦煌の守り手」として、これまでずっと、いわば陰の立場に徹してきた常氏を、このような形で晴ればれと顕彰することができ、私は本当にうれしい。
17  常氏自身が、今回出展された作品群を「私の五十八年間の絵日記」とされている。それは、たんなる芸術のための芸術ではない。敦煌芸術という偉大なる民衆芸術を、ひたすら守りぬく戦いのなかから生まれた作品群である。それだけに、私には、一点一点が、氏の人生の「勝利」の光を放っているように思われてならない。
 しかも、この展示は、父の志を継ぎ、同じ道(画家)を歩んでおられる息子さんとの、父子一体の展示会となっている。
 さらに、陰で常氏を守り、支えてこられたのは、夫人の李承仙りしょうせん女史である。長年にわたる敦煌での苦しい生活のなかでも、氏の、こよなき同志として尽くしてこられた。その夫人との、夫婦一体の作品も出品されている。まさに今回は、家族一体の展示会となったのである。
 昨日も、会談の席でお話ししたが、日蓮大聖人は御書(法蓮抄)に、中国の古典を引かれて、次のように仰せになっている。
 「松さかふれば柏よろこぶ芝かるれば蘭なく情なき草木すら此くの如し何にいわんや情あらんをや又父子の契をや
 ――中国では、昔から松が栄えれば柏が喜び、芝が枯れれば蘭が泣くといわれている。情のない草木ですらこのようである。ましてや、有情(人間など動物)はなおさらである。また、父子の契りで結ばれた、あなたとお父さんは言うまでもない――と。
 この言葉を紹介すると、常氏は「すばらしい言葉です」と深くうなずき、感動されていた。心が心に通じたことがわかった。
 氏は繰り返し言われた。
 「文革の暗黒をはじめ、私たちが乗り越えた苦しみは、とても言葉では言い表せません。ただ、池田先生はわかってくださる。それは先生が、人類のために、風雪の峰々を越えてこられた方だからです。これほどの偉業の陰に、どれほどのご苦労があったことか。私は自分の体験から、そのあまりにも大きなご苦労がしのばれるのです。ゆえに、私は先生のことを思うと、私の人生と二重写しのようになって、万感胸に迫ってくるのです」
 私も氏に対して、まったく同じ気持ちである。
18  対談集の中で、私は「人生のなかで、もっとも楽しかったこと、もつともうれしかったことは」とうかがった。
 氏は、もっとも楽しかったことは、一九五一年(昭和二十六年)、北京で開かれた敦煌文物展覧会に周恩来総理が来てくださったことである、と。
 また、うれしかったことは、敦煌の莫高窟に、初めて電灯がつけられたことを挙げておられた。なんと一九五四年(昭和二十九年)のことである。それまでは、薄暗く、風が吹けばすぐに消えるランプに頼って、模写などの精緻な作業を続けておられた。
 そこに十一年後にして初めてついた電灯――。氏は、その時の喜びを、壁画に描かれた人物たちが、「私に向かって、ほほえみをみせながら歩いてくるような錯覚を起こしました」と述べられている。
 筆舌に尽くしがたい苦労をしのばせるエピソードである。
19  日蓮大聖人は「立正安国論」の中で、「仁王経」の次のような一節を引かれている。
 「人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」――人が夜の暗闇の中で書いた文字は、たとえ明かりが消えたとしても、書かれた文字自体は、きちんと残っている。それと同様に、生命に刻まれた因果も消えることなく、その報いが、いつか必ず現れる――と。
 陰徳あれば陽報あり――。ご夫妻の尊き人生は、今、″勝利の春″を迎えられた。
 人生の山頂で、悠々と、また闊達な青年のごとく、ご夫妻は、使命の総仕上げへの情熱を燃やしておられる。私には、ご夫妻を称える敦煌の「飛天」たちの喝采が聞こえてくるような気がしてならない。(拍手)
 本日は、氏に創価大学の名誉博士号が贈られた。また″父子絵画展″には、すでに一万人を超す人々が訪れ、惜しみない讃嘆が寄せられている。(拍手)
20  ともあれ、私にとって大田は古里であり原点である。古里に帰れば、だれもがホッとする。そのように、どこよりも安心できる、どこよりも心が通う、どこよりも頼もしい大田であってほしいと私は願う。
 私も、今後は何度もこの地を訪れたい。そして、できうれば一週間ぐらい滞在して、皆さまとともに広布と人生を語りたい。(拍手)
 最後に、きょうお会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えくださいとお願いし、「大田、万歳」と申し上げて、お祝いのスピーチとしたい。ありがとう、また来ます!
 (大田文化会館)

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