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日蓮大聖人・池田大作

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第十二回関西総会・第四回全国壮年部幹部… 信仰こそ人間の最高の誇り

1990.10.26 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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2  運転手がいるから車は進む。列車には機関士が、船には船長が必要である。飛行機も、パイロットは操縦桿を手放すわけにはいかない。
 組織も指導者がいてこそ、大勢の人々を、幸福へとリードすることができる。そして、指導者は正しく指導できてこそ指導者である。″運転″や″判断″を間違ってはたいへんなことになる。
 そこで本日は、各部の友に対する指導者の接し方について、簡潔に述べておきたい。
 まず壮年部の皆さまに対しては、「尊敬」と「感謝」の念で接していただきたい。
 壮年は社会での仕事もたいへんである。あらゆる面で責任も重く、気苦労も多い。体も若いころのようには動かない。そうしたなか、一般社会では、多くの壮年が理想もなく、ただ現実に埋没して生きている場合があまりにも多い。
 にもかかわらず、壮年部の皆さまは、日々、広宣流布のために活躍してくださっている。人類のため、大切な仏子のために、祈り、考え、行動しておられる。まことに尊く、ありがたい存在である。心から尊敬し、感謝していくべきであると私は思う。
 仏法の日から見れば、世間のいわゆる有名人等よりも、比較にならないほど偉大な方々なのである。また、人間としても尊極の生き方をしておられる。その方々に対し、リーダーは、「本当に立派なことだ」「ありがとうございます」という心が大切であろう。その心があれば、互いの力となっていく。
 とくに、若い人々は、壮年に心から敬意を表し、その円熟した経験や立場を尊重していただきたい。そうできる人こそが、立派な指導者と言えるのである。
 また婦人部に対しては、心からの「優しさ」と「礼儀」をもって接することである。かりにも、婦人を叱ったり、いばったりすることがあってはならない。どうも、家で奥さんに頭が上がらない男性ほど、他の婦人にいばる傾向があるようだ。(笑い)
 また、ふざけた、軽視の心があってはならない。紳士として、婦人を最大に尊敬し、どこまでも優しく、礼儀正しくあっていただきたい。
 さらに、未来を託す男子部には、絶対の「信頼」をもって接することである。信頼の心が伝われば、人材は伸びていく。そして女子部は潔癖が身上であり、いいかげんなことはいちばん嫌われる。「約束は必ず守る」など、裏表なく誠実に接していくべきである。
 これらの点を、各部に対する一つの原則として、言い残しておきたい。
3  希望は常に出発、永遠の始まり
 さて昨日、八王子市の東京富士美術館で開催中の「ビエーブル・フランス写真博物館展」の関係者一行が京都を訪問され、私もしばし歓談の時をもった。同展は、私とファージュ館長との友情の結晶である。懐かしい館長夫妻らと再会でき、私はうれしかった。またペルシャ下院議員らとも種々、意見を交換した。
 フランスは、優雅な文化の国、人権宣言の国として有名である。そうした栄光のフランスの″魂″は何か。
 フランスの大歴史家ミシュレは、自国への愛情をこめて、「不敗の希望の国」と呼んだ。いかなる苦しみの時期も、絶対に「希望」を失うことがなかった国、「希望」の一念が不敗であった国――それがフランスだというのである。
 ミシュレによれば、古のフランスの民衆は、巨大なローマの支配と戦った。一時は独立に成功し、自分たちの国、ゴール(ガリア)の帝国をつくった。彼らは自分たちの貨幣を作り、そこに自分たちの″最初にして最後の言葉″、すなわち永遠に生き続けている魂の言葉を刻んだ。それは「希望」という文字であった。
4  彼は書いている。
 「フランスと共にあれば、何ものも終りはしない。常にまた始まるのだ」(『民衆』大野一道訳、みすず書房)
 すべてを失ったとしても、希望さえ残れば、そこから一切がふたたび始まる。「希望」はつねに出発であり、永遠の始まりである。
 仏法は「一念三千」と説く。「希望」の不屈の一念がある限り、一念は三千(世間、如是)へと展開し、新しい常勝の歴史が広がっていく。
 フランスにも、さまざまな苦難があった。敗北の時も、屈辱の日もあった。しかし、絶対に負けなかった。「おれはフランス人だ。おれは戦う」と、皆、繰り返し立ち上がり、戦い、勝利をもぎ取っていった。
 「不敗の希望の国」――その不屈の民族の血は、今もフランス人の体に生き生きと脈打っている。私がお会いしたフランスのどの方も、まことに誇り高い方々であった。
 次元は異なるが、学会もまた「不敗の希望の国」でなければならない。この尊き正法の世界を、だれ人にも侵されてはならない。何があろうと、一切をはね返して、つねに新しき希望をつくり、つねに新しき戦野を開き、つねに新しき広宣流布への栄光のスタートを切っていくのが、学会精神である。(拍手)
5  不屈の挑戦、そこにユゴーの魂
 ところで、フランスは、民衆芸術の華「写真文化」が生まれた地でもある。「写真」の誕生(一八三九年)と発展は、文豪ヴィクトル・ユゴー(一八〇二年〜八五年)の生きた時代と重なる。ユゴー自身、写真愛好家の一人であった。今回の写真博物館展では、ユゴーの肖像写真も展示されている。臨終の横顔をとらえた、たいへんに貴重な作品もある。
 ご承知のように、ビエーブルの「ロシュの館」に、「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」を開設する運びになっている(=一九九一年六月に開設)。この館は、ユゴーが家族とともに過ごした由緒ある建物であり、いくつかの作品の構想・執筆の場ともなった。ここに、ユゴーの亡命時代の写真などを数多く集め、展示する予定である。
 記念館開設については、これまでもフランスの各界の方々から期待の言葉を寄せていただいた。日仏友好の象徴として、また人類の貴重な精神遺産を後世に伝え残していくうえから、世界的な記念館にしていきたいと考えている。
6  さて、ユゴーは一八五一年から十九年にもおよぶ亡命時代に、なぜ、あれほど多く、自分の写真を撮らせたのか。
 それは、ユゴーを亡命に追いやった権力者ナポレオン三世に対する挑戦であったともいわれる。すなわち、ユゴーは″われは健在なり″との姿を堂々と示すために、自分の写真を、亡命地からフランス本国へ送ったのだ、と。
 五十歳になろうとするユゴーを追放した権力者たちは、″もう病気にでもなったはずだ″″そろそろ、まいっただろう″″まだ死なないか″と思い、願っていたことであろう。
 しかし、送られてくる肖像写真を見た人は驚く。″まだ、こんなに元気なのか″″少しも屈してはいないではないか″――。写真は写真ではなかった。ユゴーの挑戦状であり、武器であった。燃え上がる″戦う魂″の象徴であった。
 十九年にわたる精神の闘争。驕り高ぶる権力に対して、ユゴーは徹底抗戦した。決して沈黙しなかった。独裁者への怒りと、不幸を嘆く祖国の人々への思いを、熱きペンに託した。
 亡命地でつづられた詩(「結語」)には、次のような一節がある。
7   かずかずの裏切りや、おもねり従う者たちを目の前に見ても、
  私は腕組みをし、憤りながらも、泰然自若としてたたずんでいるだろう
   (「懲罰詩集」、『ユゴー詩集』辻昶。稲垣直樹訳、潮出版社)
 この詩の中でユゴーは、金に目がくらみ、権力におもねる、当時の政治家や聖職者を、厳しく糾弾する。そしてだれが裏切ろうが、だれが権力者に追従しようが、たとえ一人になっても戦いぬくと叫んでいる。
 ″つまらぬ権威に負けてたまるか!″″そんなものに、だれが頭を下げるものか!″――。写真のユゴーは、腕組みをしていることが多いが、この詩にこめられた大闘争心が、そうした一枚一枚の写真にも凝縮しているかのようだ。
8  ユゴーは、亡命のさなかでも、傲然と頭を上げていた。浅はかな世の波騒を、高みから見おろしていた。「われ、王者なり」――いずこにあろうとも、他のだれ人が吠えようとも、彼のこのプライドは厳然と揺るがなかった。
 天を相手に、独り歩み、独り生きる。世が挙げて彼に敵しようとも、彼は己の正義を疑わない。誤れる世間に従う必要が、どこにあるか。おれは″真実″に生きる。このわが真実に、世が従う日がきっとくる――。
 権力者はユゴーの自由を奪った。しかし、彼の誇りを奪うことはできなかった。魂の自由を奪うこともできなかった。
 彼は止まらない。彼は黙らない。牢獄に入れられたなら、牢獄を背負ったまま歩く。口をふさがれたら、手で、足で訴える。ユゴーという炎を消せるのは、彼以外のだれにも不可能であった。
 動物には誇りはもてない。動物には信念ももてない。誇りは、人間の証である。信念も人間の人間たるべき核心である。
 そして信仰とは、信念の極致であり、″最高の誇り″に生きることである。ゆえに皆さまは、だれよりも誇り高く、だれよりも胸を張って、堂々と、価値ある、そして痛快なる人生を生きぬいていただきたい。(拍手)
9  ″心の国籍″は世界市民
 十九世紀の人、ユゴーは、きたるべき二十世紀に大いなる希望をいだいていた。
 すなわち、民衆と民衆が、国家や民族の壁を超えて自由に交流し、理解と友情を深めあう世紀。そして戦争のない「世界共和国」が誕生する世紀を、はるかに夢見ていたのである。
 ユゴーは、その壮大なる夢を、「大空」と題する詩のなかで、「飛行船」に託して謳いあげている。
10  「飛行船は運ぶ、人間を他の人間のところへ、諸国の民の心と心を通わせて」
 「大空を使って人間のために、未来の世界共和国の首都を作り、
  広大無辺な空間を使って思想をつくりながら、
      船は廃止する、古い世界の掟を。
  船は山々を低くし、塔や城壁を無用にする。
  このすばらしい船は、地上をのろのろと歩く諸国の民を参加させる、
      天翔ける鷲たちの集いに」――。(「諸世紀の伝説」、前掲書所収)
11  当時のフランスでは、飛行船の実験飛行が、活発に行われていた。
 ――地上をはるかに見おろす″大空の船″に、人々の争いの声は響かない。見わたせば、どこまでも続く大地。そこには、地図で見るような国境線もない。民族の相違もない。人間同士を隔てる差別の壁もない。
 天空に悠然と浮かぶ飛行船から見れば、争いあう人間の頑なな姿は、いかに小さいことか。
 ゆえに人々よ、その内なる大空に、「人間主義」の飛行船を飛ばそう。そして固く閉じられていた平和の扉を開こう。世界のために、未来のために――この詩には、そうした願いがこめられているように思われてならない。
12  ともあれ、ユゴーの没後、約百年を経た今日、彼が思い描いていた「ヨーロッパ合衆国」の構想は、一歩一歩、現実のものとなりつつある。その道はまた、より大きな「世界共和国」の理想へと通じていくことだろう。
 新しき時代の朝は来た。二十世紀は、ようやくユゴーの夢に応えようとしている。
 「飛行船は運ぶ、人間を他の人間のところへ、諸国の民の心と心を通わせて」――ユゴーの夢はまた、私どもがめざす夢でもある。その実現のため、私どもは今まで以上に、文化交流のネットワークで、人類の心と心を結んでいきたい。「人間主義」という名の飛行船に乗り、見はるかす平和の空へ、晴ればれと旅していきたい。
 低い次元での争いを超えるには、人類の心を、大空のごとく、高く、また広々と開いていくことが根本となるからだ。
 十九世紀のユゴーの夢が今世紀に形をとり始めたように、私どもの先駆の理想も、二十一世紀には新しき″常識″となり、絢爛たる開花の時を迎えるにちがいない。(拍手)
13  「文学記念館」がオープンするビエーブル市は、エッソンヌ県にある。同県は、レーニン、アンドレ・マルロー氏をはじめ多くの識者、芸術家が住み、「知性」と「文化」の果実を豊かに実らせてきた、美しき天地である。
 たしかに京都も、歴史と文化のすばらしい町ではあるが、なにぶん、どこへ行っても人の波(爆笑)。なにも狭い日本ばかりではなく(笑い)、世界は広い。視野を大きく開いて、いつの日か、「ユゴー文学記念館」も訪れていただきたいし、世界に友をつくっていただきたい。
 また、学会は世界を舞台に運動を進めている。各国に貢献するための、さまざまな将来構想も検討されている。皆さまも、国籍は日本でも、″心の国籍″は世界市民というような、広々とした境涯で生きていただきたい。(拍手)
14  皆の「安穏」がリーダーの使命
 さて、リーダーは、さまざまな判断をしなければならない。時には決断がむずかしい局面もある。価値判断の根本の基準はどこにあるのか――。
 弘安二年(一二七九年)九月二十一日、熱原の農民信徒二十人が、無実の罪で不当に逮捕された。いわゆる「熱原法難」である。
 日蓮大聖人が身延に入山されたあと、日興上人は駿河(今の静岡県)方面に弘法の戦いを進められる。なかでも熱原の地にあった天台宗・滝泉寺の僧や、在家の人々への弘法には力を入れられた。そのため日秀師(後に日興上人の本弟子六人のうちの一人となる)をはじめ、帰依する僧や農民らが相次いだ。
 それに驚いた滝泉寺の院主代(院主の代理)であった行智は、代官らと結託して迫害を始める。そして、この年の秋、日秀らの田の稲刈りを行っていた農民信徒を襲って捕らえた。そればかりか、実情とは正反対の「院主の田から稲を盗んだ」との告訴状をつけて、農民たちを鎌倉へ引っ立てていった。
 日興上人は、ただちに陣頭指揮で、救援の戦いを開始された。当時、御年三十四歳の若き法将であられた。滝泉寺側の、でっち上げの告訴に反撃するため、即座に、幕府に対する抗議の申状を準備されたのである。
 ――罪なき農民たちをいじめ、苦しめる滝泉寺の行智こそ、いかに腐敗、堕落しきっているか。その僧としてあるまじき仏法破壊の悪行を、日興上人は、火を吐くような気迫で、一つ一つ具体的に取り上げられながら追及していかれた。
 悪人たちがみずからの悪行から世間の目をそらすために、権威・権力をたくみに利用して、逆に正義の人に罪をなすりつけ、おとしいれようとする――そうした、つねに変わらぬ″からくり″を、日興上人は冷徹に喝破されていた。
 日興上人は、この「申状」の草案を身延の大聖人の元へお届けしてご指示を仰がれた。これに応えられて大聖人は、その草稿に大きく筆を加えられる。ご自身の法門と行動の正義を堂々と主張された内容とされたのである。
 こうして現在まで残されている、この「滝泉寺申状」は、前半三分の二が大聖人の直筆、後半三分の一が日興上人の直筆となっている。まことに師弟一体のお姿であり、お二人して、どこまでも門下を、農民たちを守り、正義のために戦っていこうとされるお姿が拝されてならない。
15  大聖人は、この御自ら書き加えられた申状を日興上人に返送なされる際、一通のお手紙を添えられる。それが「伯者殿等御返事」(伯者殿とは日興上人のこと)である。これは、弘安二年十月十二日――まさに「一閻浮提総与の大御本尊」を建立されたその日に、おしたためになられたお手紙である。
 その冒頭、大聖人は日興上人に、こう仰せである。
 「大体此の趣を以て書き上ぐ可きか、但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか
 ――幕府への申状はだいたい、この趣旨で書き上げるべきであろう(大聖人が筆を加えられたものを清書して幕府に提出しなさい、との意)。ただし、熱原の農民等が安心できるようになれば、日秀等は別に訴訟する必要はないであろう――と。
 すなわち、今、こうした裁判の準備を進めているが、熱原の農民信徒を無事助け、守ることさえできればよい。それができれば、わざわざ裁判で戦う必要はない、とのお言葉であると拝される。
 戦いの勝利のために、細かく具体的なご指示をなされているが、なかでも「熱原の百姓等安堵せしめば」との一文にこめられた大聖人のお心に、深く胸を打たれる。
 ″熱原の農民等が安心できるようになれば、それでいいのだ″――純粋無垢に仏法を求めている名もなき農民たちをこそ、ご心配され、守りぬこうとしてくださっている。まことにありがたい大慈大悲であられる。
 この大聖人の深きお心を拝するとき、私どもも、広布の指揮をとるリーダーとして、何をもっとも心がけなければいけないか。何を判断の基準としなければならないかを、しみじみと思う。
 それは、何よりも、仏子である会員が「安堵できるかどうか」「安心できるかどうか」「安穏であるかどうか」である。何事を行う場合でも、それを第一義にしていくべきである。また、それを基準としていけば、根本的には誤りはない。
 皆が、何の憂いもなく、安心して、喜びの前進ができるように、頭を使い、心を砕き、体を動かしていく。それが、リーダーの根本の役目であることを、心に刻んでいただきたい。(拍手)
16  熱原の法難の際、南条時光は日興上人と心を合わせ、弾圧された門下の人々を守りぬくために力を尽くした。この時光に対しては、後々までさまざまな圧迫が続いた。
 地頭という幕府に仕える立場にあるため、時光の行動は権力者側からつねに監視され、風当たりも強かったのである。しかも、まだ年若かった。
 大聖人は、その時光の立場を深く思いやられ、不利にならないように、細々と心を砕かれている。
 たとえば、時光は、大聖人門下となった熱原の神主たちをかくまっていた。これに対しても大聖人は、幕府の詮索等のため状況が厳しいようであれば、決して無理をせず、神主たちを身延の大聖人の元へよこすようにと仰せくださっている。
 時光が安心して信心に励み、地頭の役目を果たすことができるように配慮の手を打たれたのである。
 ″仏子を守る″といっても、決して観念ではできない。言葉のみでもない。社会の現実を見極め、生活の場に即した具体的な「知恵」と「行動」が必要となる。その根底は、何よりも仏子への愛情があるか、ないかである。
 また、長い人生においては不遇の時代もあれば、苦境に立たされる時もある。その時に、信心をしているからといって無理をしてはいけない。あせる必要もない。じっくりと″時を待つ″ことも必要な場合がある。
 その意味で、神主の件でも、大聖人は、幕府からの迫害の口実を除き、時光が身を軽くして、力を蓄え、盤石な基盤を築くことができるように、配慮してくださったものと拝される。
 そして時光は、この大聖人のお心のままに、熱原の法難より約十年、着実に力をつけ、満を持して外護の大任を果たしていくのである。(拍手)
17  時をつくり、力を増し、価値のある前進
 さらに大聖人は、四条金吾に対しても、ある年の正月、次のように述べられている。この時、金吾は五十歳前のころであろうと推定される。いわば人生の円熟期、きょうお集まりの壮年部の方々と同じ年代である。
 「今年かしこくして物を御らんぜよ、山海・空市まぬかるところあらば・ゆきて今年はすぎぬべし、阿私陀仙人が仏の生れ給いしを見て、いのちををしみしがごとし・をしみしがごとし
 ――今年は深い思慮をもって物事を見極めなさい。山、海、空、街に難を免れる所があれば、どこへでも行って今年は過ごしなさい。阿私陀仙人が釈尊の誕生されたのを見て、自分の寿命を惜しんだようなものである。惜しんだようなものである――。
 このお手紙をいただいた当時、金吾は同僚の議言による主君からの圧迫、領地替えという、大きな苦難の山を越えつつあった。現代風にいえば、職場で出世の足を引っ張られ、減俸処分や左遷の命を受けながらも、何とかそれが打開できつつあるような状況といえようか。主君の力が大きかった当時は、もっとたいへんだったかもしれない。
 ともあれ、このころ、金吾としては、ようやく主君の不興が解け、所領問題の解決へ希望の光が見えてきた思いであったろう。
 大聖人は、このお手紙の中で、だからこそ油断を戒め、慎重な行動をとっていくべきであると、金吾にこと細かに注意されている。
 現に金吾は、主君から許されたことでかえって同僚の妬みをかい、この後に命をも狙われている。こうした危険も、また短気な金吾の性格も、すべて見とおされたうえで、″迫害から賢明に逃れることを考えなさい″とご指南されたと拝される。
 当時も激しい変化の時代であった。社会の動向、周囲の状況を冷静に見極め、聡明に身を処していかなければ、一族もろとも滅んでしまうこともあった。そうなれば「信心」している意味がない。「広宣流布」といっても絵空事になってしまう。
 阿私陀仙人は、釈尊の成道を予見し、その時に出あうことのできない自身の高齢を嘆いて、何とか生き永らえたいと、寿命を惜しんだとされる。そのように命を大切にして、大法興隆の時に備えていくべきであるとの仰せである。
 またそこには、もう若いとはいえない金吾の健康を思いやられて、若い時代のような無理はせず、長寿ですばらしい人生を、ともに生きてほしいとの、大聖人の深い御慈愛が感じられてならない。
18  御書には「前三後一」という戦いの原理が示されている。
 すなわち、百獣の王である獅子(ライオン)は、強い敵に対しても、弱い敵に対しても、つねに「前三後一」の油断のない身構えで、全力を尽くして戦う。また、相手の状況を見極めることもなく、ただやみくもに前進するということはしない。
 私どもの活動においても、ただ前進、前進ばかりでは、だれもが疲れてしまう。今、その方向に進むべき状況にあるのかどうか。そのほうが価値的かどうか、を賢明に判断する必要がある。
 また、車も燃料を補給しなければ走り続けられない。列車も、線路や車体の点検・整備が必要である。同様に広布の前進のリズムにおいても、時には悠々と、力を蓄え、満を持す――。それが、次の爆発的な前進と勝利の力となっていくことを、リーダーは自覚すべきである。
 いうまでもなく「仏法は勝負」である。個人の人生も、広布の法戦も、勝たなければならない。
 だからこそ、目先の勝負をあせってはならない。「何のための戦いか」という根本の目的を見失い、尊い仏子である大勢の学会員に、いたずらに負担をかけたり、苦しめるようなことがあっては絶対にならない。それでは、大慈大悲の大聖人のお心に反する。
 どうすれば皆が心から安心し、納得し、蓄えた力を存分に発揮できるのか。その時、その状況に応じて、最善の選択を重ねていく以外にない。指導者にその億劫の辛労の一念があってこそ、「常勝」の「常勝」たる軌道が、未来へと盤石に伸び、続いていくのである。
 過去の形式やパターンにとらわれてはならない。それは保守であり、また安易である。また、体面を気にしたり、意地を張って背伸びをする必要も、まったくない。
 現実は刻々と変化している。その変化に応じて、こちらも進歩しなければ、時代に勝利することはできない。仏法は「現世二世」と説く。未来を見すえ、現実に即した、新しい思考、柔軟な発想こそが必要なのである。
 どうか皆さまは賢明なリーダーとして、「正義」と「幸福」の″ビッグ・ウエーブ(大波)をしだいしだいに広げながら、関西に「新たな常勝の大道」を築いていただきたい、と強く強く念願する。(拍手)
19  正法興隆に尽くした功徳は永遠
 日達上人は、「諫暁八幡抄」の説法の中で、次のように述べられている。
 「大聖人様の仏法は太陽の光の如く、赫々として世界のあらゆる所へ及ぶ、今正に正宗は学会の出現において、その利益は末法万年尽未来際であります。大折伏行を行じ、正法が正に世界に風靡せんとしておるこの時代に、誠に大聖人様の仏法の有り難さがわかるのでございます」(『日達上人全集』)と。
 今日の正法の興隆は、まさしく学会の出現によるものであるとされ、日夜にわたる学会員の不惜の活動をたたえてくださったのである。皆さま方は、堂々と前進していただきたい。(拍手)
 あるとき、日達上人が「これだけの折伏をしたのも学会ですよ。多くの人に勤行を教えてくれたのも学会です。これほど多くの人々に総本山参詣を推進してくれたのも学会です。数々の御供養も学会なんです。何もかも学会にやってもらっている。ありがたいことです。どうして僧侶がえばれますか。皆さんに、心からよろしくお願いします――これが僧侶の気持ちです」と、しみじみ言われたことがある。
 正法興隆に尽くされた皆さま方の労苦は、すべて三世永遠の功徳となって、皆さまを、また家庭を、一族を飾っていくことは間違いない、と私は強く申し上げておきたい。(拍手)
20  大聖にほめられる名誉の一生を
 さて、大聖人は「開目抄」で次のようにご教示されている。
 「教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり
 ――教主釈尊は、一切の外道に大悪人であるとののしられた。
 また、天台大師は南三北七(天台大師が、『法華玄義』で、当時の諸師を分類・整理した南地〈江南の三師〉と北地〈江北の七師〉)の十派から怨嫉され、法相宗の僧・得一からも″拙いかな智公(天台)よ、汝はだれの弟子か。三寸に足らない舌をもって釈尊の所説を謗じるとは、五尺の仏身を断つものである″と非難された。
 さらに伝教大師は、南都(奈良の都)六宗の学僧たちに″最澄は、いまだ唐の都を見ていない。仏教の中心地を知らないくらいだから、たいしたことはない″等と悪口を言われたが、これらはすべて法華経のゆえに受けた非難であるから、いっこうに恥ではない。それよりも、愚人にほめられることが第一の恥である――と。
 初代会長牧口先生は、この一節を拝して次のように言われている。
 「御書にも『愚人にほめられたるは第一のはぢなり』とあり、仏法者たる者は物事の根本、価値観を判断するさい、あくまでも仏法で説く厳しき因果関係を基準にしなければならない。ひとの毀誉褒貶に左右されては大善人とはなれない」と。
 さらに、第二代会長戸田先生は、かつて「青年訓」の中で、青年に呼びかけられている。
 「されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、同信退転の徒の屍を踏み越えて、末法濁世の法戦に、若き花の若武者として、大聖人の御おぼえにめでたからんと願うべきである。愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(『戸田城聖全集』第一巻)と。
21  人生、だれにほめられるか。悪人にほめられるのは悪人である。愚人にほめられて喜ぶのは、その人も愚かである。まして悪人と愚人に非難されて悲しむなど、愚の極みである。彼らに敵対されるのは善人である証拠だからだ。悪口こそ″勲章″なのである。
 社会には善があれば、悪もある。平和勢力があれば、反対勢力もある。万人にほめられるわけにはいかない。
 悪は善の敵となり、善は悪に攻撃される。これは永遠に仕方のないことである。その意味で、人生は覚悟する以外ない。「愚人にほめられ、大聖に叱られる道をとるか」「愚人に迫害され、大聖にほめられる人生を選ぶか」――中間はない。
 だれにもほめられもせず、難もなく――それでは、もはや″生きている″とはいえないだろう。
 何も行動しなければ、何の障害もないかもしれない。しかし、それはもはや″死せる人生″である。また善をなす勇気がなければ、悪を助長し、結局は悪に通じよう。
 釈尊も、天台も伝教も、そして御本仏日蓮大聖人も、あれほどの攻撃を受けられた。それは″何か悪い点があったから″であろうか。断じて、そうではない。反対に、絶対に″正しいからこそ″悪に迫害されたのである。
 この道理が腹に入れば、何も恐れる必要はない。一切は霧が晴れたように、明瞭に見えてくる。
 また向かい風すら、心地よいそよ風に、そして成仏と広宣流布への追い風にと変えていけるのである。(拍手)
 「法妙なるが故に人貴し」――持つ法が妙であるゆえに、持つ人も尊貴である――と、大聖(日蓮大聖人)は御断言なされている。
 生涯をかけて正法広宣流布に進む皆さま方こそ「大聖にほむらるる」第一の資格ある方々であると確信する。
 どうか、どこまでも勇敢に、いつまでも生き生きと若々しく、スクラムとスクラムを広げながら、ともどもに最高の″名誉の一生″を飾ってゆかれんことを念願し、本日の記念のスピーチとしたい。創立七十周年を、一人残らず元気で迎えましょう!
 (京都平和講堂)

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