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日蓮大聖人・池田大作

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福井支部結成三十周年開幕記念勤行会 朗らかに妙覚の山へ、寂光の空ヘ

1990.10.23 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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1  わが生命の無量の宝蔵を開け
 ただ今、皆さまと三座の勤行を行った。福井の皆さまが健康で、長寿で、裕福であられるよう、私は真剣に御本尊にご祈念申し上げた。(拍手)
 この御本尊を持ち、唱題する人、その人の位は、仏法上、どれほど尊貴であることか。無上にして無量無辺の福徳の人なのである。
 日蓮大聖人は「法華経を持つ者は必ず皆仏なり」――法華経(御本尊)を持つ者は必ず全員が仏である――と述べられている。
 仏法でいう「仏」とは、だれのことか。総じては、ほかならぬ皆さまこそ、「仏なり」と、御本仏は結論しておられる。
 また「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」――妙法を唱える人は、釈尊のような仏に、やすやすとなるのである――と。
 御本仏が、こう御断言しておられるのに、凡夫はなかなか信じられない(爆笑)。いったい、だれのことかと(笑い)、きょとんとしている(爆笑)。そんなはずはないと一生懸命、否定する人さえいる(爆笑)。しかし、どんなに抵抗しようと(笑い)、大聖人のお言葉は絶対である。
 皆さまは御本尊を信受し、自行としての唱題はもちろん、化他としての広宣流布の活動をも行っておられる。さらに、御書を拝し、仏法を学んでおられる。大聖人が仰せのとおりの、信行学の正道を歩む尊き方々である。その人が仏になれないはずがない。幸福にならないはずがない。このことを強く、また強く確信していただきたい。
2  「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり」――法華経(御本尊)を持ちたてまつるとは、「わが身が仏身である」と信じて持つのである――とも御書には明言されている。
 こうした大聖人の仰せを″確信″することは、決して慢心ではない。むしろ勝手に割り引いたり(笑い)、″そうは言っても″(笑い)などと、素直に拝さないほうが、不信になってしまう場合がある。
 仏であるならば、いつまでも不景気な(爆笑)、陰気にくよくよしている仏などいるはずがない(爆笑)。必ず大福徳に満ちた、所願満足の人生になることは間違いない。
 わが一念には、太陽も月も星々も、全宇宙の一切が「ちりも残らず」収められていると、仏法では説く(御書383㌻)。そして妙法を持った人は、宇宙中の珍宝を生命の蔵から引き出せる人である。
 皆さまは、すでに、そうした無量の宝を生命に持っておられる。ただ遠慮してか(笑い)、なかなか外に出さないだけである(爆笑)。定期預金みたいに(笑い)、しばらく貯金しっぱなしの人もいるかもしれない(爆笑)。宝の蔵を開くことである。
 「妙と申す事は開と云う事なり」――妙法の妙とは、開くという意義である――と。
 また「成は開く義なり」――成仏の成とは、開くという意義である――で、成仏とは、「仏に成る」というより、「仏なりと開く」のが本義である。
 生命の宝を「開く」ことが「妙」であり、「成仏」なのである。
 そして「開とは信心の異名なり」――「仏知見〈仏の智慧〉を開く」の開とは信心の別名である――とあるように、大聖人の仰せどおりに、信心の行動をしていくところに、わが境涯は限りなく大きく、限りなく豊かに、限りなく朗らかに開き、広がっていく。大知恵も出てくる。必ず、これ以上はないという絶対的な幸福を築くことができるのである。(拍手)
3  一切の祈りは必ず叶う
 御本尊への祈りは、絶対に叶う。因果倶時(原因と結果が同時に一念にそなわっていること)で、祈りきった時に、すでに根底では叶っているのである。
 ただ、表面的には、すぐに結果が表れない時が多々あるであろう。その場合も、必ず何らかの深い意味がある。そのことは長い目で見れば、後で必ずわかってくるものだ。
 また利益には、顕益(はっきりと顕れる利益)と冥益(知らずしらずのうちに受けている利益)があるが、末法は冥益が中心である。樹木でも、種を植えてすぐ″実″が欲しい(笑い)というのは道理に反する。大樹であるほど、育つのに時間もかかる。
 皆さまは、生命の成仏の種子を植え、育てている方々である。時きたれば、必ずや、豊饒な実りの枝を広げていくことは間違いない。想像もしなかったような大満足の秋を迎える。これが冥益である。
 そして今、皆さまが、自身の目標に向かって祈り、努力していることは、生命に、この″幸福の大樹″の根を盤石に張っているのである。インスタント的に(笑い)、簡単にできあがったものは、根が浅い。鍛えられてもいない。何かあると、すぐに倒れてしまう。また自身の充実もない。
 子どもでも、小遣いを″せびる″たびに(笑い)、簡単にもらったのでは、堕落してしまうだろう(笑い)。学生も勉強もしないで、良い成績をもらったのでは、進歩がない。すべて道理である。
 仏法も、また最高の「道理」であり、すべてに意味がある。最終的には、一切の祈りが叶っていくのである。(拍手)
 このことを自覚し、確信すれば、何の憂いもない。愚痴もない。表面的にどんなさざ波があろうと、根底が歓喜の生活であり、歓喜の人生となっていく。
4  折伏・弘法についても同じである。折伏は難事中の難事と説かれているし、福井のような旧習の残る地域で、広布の活動を進めることは、たいへんな苦労があることはよくわかっているつもりである。
 しかし、そうしたなか、今や、皆さま方の尊き尽力によって、福井の地にも盤石なる広布の基盤ができた。かつて、これほどの正法の隆盛を、だれが予測したであろうか(拍手)。これもまた、妙法の不思議なるリズムであり、冥益である。
 弘法は、まず御本尊に、きちんと祈っていくことである。私も今、福井の広宣の道が広々と開けていくよう、ご祈念申し上げた。(拍手)
 皆さまは、この「祈り」を根本に、決してあせることなく、無理をすることなく、朗らかに、堂々と、″仏の使い″の使命を、自分らしく果たしていっていただきたい。
 その行動自体が、この世で最高に尊き菩薩の行である。また全部、自分自身のためである。さらに、無量の福徳を、一家一族にまでも開いているのである。(拍手)
5  三世にわたる幸福の旅路
 御本尊を拝する人は、居ながらにして大宇宙を旅するような境涯であると、大聖人は仰せである。
 御書には「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し」――日蓮大聖人の弟子檀那となった人(出家と在家)は、一歩も歩まないうちに、法華経が説かれたインドの霊鷲山を見、本有の(本来ある)寂光土(仏界の国土)へ昼夜に往復されている。そのことは、うれしさは言いようがない――と。
 御本尊を拝するところ、そこが霊山であり、寂光土なのである。
 また「妙覚の山」(仏の最高の悟りの山)に登り、「寂光の空」に飛翔して、広々と四方を見渡し、見おろしていけるとの御文もある(御書一四三〇ページ、一三八八ページ等)。なんと頼もしく、ありがたいお言葉であろうか。
6  人生には、さまざまな苦悩がある。病の時もある。また死も必ずやってくる。しかし、仏法の眼を開いて見れば、本有(生命にもともとそなわっている)の病であり、本有の死である。本有の苦悩である。何も嘆く必要はない。
 すべて、三世にわたる″幸福の大旅行″の一コマであり、妙法を持つ人は、すべての風景を悠々と楽しみきっていけるのである。
 「死」も「方便現涅槃(方便として死の姿を現す)」(法華経寿量品)と説かれるように、苦しい敗北や地獄の死ではなく、次の使命の人生への荘厳なる晴れの出発である。夜、疲れをとるために安眠し、朝、はつらつと起きるように、日覚めれば、すぐに楽しき来世である。
 そもそも、死がなければ、皆、五百歳になっても(笑い)、ずっと付き合わねばならない(爆笑)。いいかげん、あきてしまう(爆笑)。しかも体はガタガタ(爆笑)、頭ももうろく(笑い)、人が多くて住む所もない。こんな困った話はないであろう。(笑い)
 ともあれ、広布に進む妙法の友は、皆、尊貴なる仏子である。「皆仏なり」と、御書には示されている。
 そして、続けて「仏を毀りては罪を得るなり」――御本尊を信受する人は全員仏であり、その仏をそしっては罪を得る――と。皆さまを軽んじ、苦しめていくような者は、だれ人であろうと、重大な罪を得るとの仰せである。
 どうか、どこまでも誇らかに、どこまでも希望を高く、楽しき異体同心の前進をお願いしたい。(拍手)
7  先ほど発表されたように、一九九五年には福井でSGI総会が開催されることになった(=予定を繰り上げ、九三年〈平成五年〉十月に「SGI親善交歓会」として開催)。世界各地から多くの友が訪れ、皆さま方にお世話になることと思うが、くれぐれもよろしくお願い申し上げたい。また、すばらしい研修道場の建設計画も検討されている。(拍手)
 さらに、皆が楽しく、心はずむような愛唱歌を作ってはどうだろうか(=九三年に有志の作詞・作曲による「希望の空へ」が完成、県下で歌われている)。「♪福井よいとこ、一度はおいで」(笑い)と、多くの人に親しまれるような歌にしては、と提案したい。
 いずれにしても、皆さま方の力で、この福井の地を、楽しくも希望に満ちた理想郷にしていただきたい。
 最後に「福井の友に勝利あれ! 福井の友に栄光あれ!」と念願し、また、たいへんにお世話になり感謝申し上げたい。どうか、お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。福井の皆さま、本当にありがとう。
 (福井文化会館)

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