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日蓮大聖人・池田大作

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第三回SGI世界青年研修会修了式 世界は「生死の哲学」を待望

1990.10.14 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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2  また、研修会に当たってはSGI(創価学会インタナショナル)本部事務局のスタッフ、通訳の方々、役員の方々に、ひとかたならないお世話になった。この席をお借りして、御礼申し上げたい。(拍手)
 本日は、英語のわかる方々がほとんどなので(笑い)、英語の通訳を中心に話を進めさせていただいているが、日本の幹部も、英語ひとつできないで世界広布のリーダーであると威張っているのでは、しかたがない。(笑い)
 今世はもう無理なら(笑い)、来世は英語圏かスペイン語圏、フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語圏等に生まれて、勉強してはどうかと提案する(笑い)。反対に、英語圏の人は、いつも英語ばかりしゃべっていて、あきたかもしれない(爆笑)。そこで来世は日本語圏で活躍してはどうだろうか。(笑い、拍手)
 ともあれ、私どもは皆、久遠の兄弟である。同志である。国や言葉の表面的な違いはあるが、生涯、そして三世にわたって、仲良く励ましあいながら、使命の道を進んでまいりたい。(拍手)
 本日は、大切な若きリーダーの「研修会」の一環として、記念のスピーチを残しておきたい。少々、むずかしい点もあるかもしれないが、リーダーは他の人よりも勉強し、他の人よりも行動する――これが創価学会の伝統の精神である。
3  自在に知恵を発揮し価値の日々を
 日蓮大聖人は南条時光に、次のように仰せになり、父親の信心を立派に受け継いでいる姿をたたえておられる。
 「あいよりもあをく・水よりもつめたきこおりかなと・ありがたし・ありがたし」と。
 ――青は藍からとり出すが、その青さは藍よりも青い。氷は水からできるがその冷たさは水よりも冷たい。と同じように、あなた(時光)が父を超えるほど立派に成長されていることは、ありがたいことである。ありがたいことである――。
 いまや皆さま方も各国にあって、草創の先輩方に続き、縦横に活躍されている。じつにたのもしい姿である。
 また、この御文は、仏法において、先人を乗り越えて成長し、発展、進歩していくことが、いかに大切かということを教えておられるとも拝される。
 子が親と同じことをしている。後輩が先輩と同じことを言っている。それは一面では、すばらしい後継の姿かもしれない。また、仏法と信心の根本精神は、永遠に不変であることはいうまでもない。
 そのうえで、時代は刻々と動いている。社会は激動を続けている。また世界は限りなく多様であり、現実の人間は限りなくデリケートである。その心をつかむことは並大抵ではない。
 そうした人類の多様さと時代の変化に即して、成仏のため、広宣流布のために、自在に知恵を発揮していかねばならない。その知恵こそ慈悲の表れでもある。
 どんな深遠な理論を説いても、実際に人々がわからなければ何にもならない。また、これまでの習慣や表現、言葉を、ただ押しつけるだけでは、かえって仏法の偉大さを誤解させてしまう場合も少なくないであろう。それでは無慈悲に通じるし、厳しくいえば、全人類を救わんとされた御本仏のお心に、そわなくなってしまうことを注意せねばならないだろう。
 また仏教用語は、長い仏教史の間に形成され、定まってきたものであるが、それをそのまま、仏教の伝統の浅い社会に伝えても、真意はわからない。真意と深義をもっとも的確に伝えられる表現が必要となってくる。
 ここに「世界広宣流布」への苦心がある。また、「従藍而青」という″進歩の原則″を教えられた大聖人のお心にかなう道があると確信する。
4  仏法では随方毘尼ずいほうびに(仏教の本義にたがわない限り、各地域の風俗・習慣に従ってよいこと)、随時昆尼(仏教の本義にたがわない限り、各時代の習慣等に従ってよいこと)等と説く。また、四悉檀(仏法の説き方を四つに分けたもの)のなかにも、一般社会の願いに従って法を説く「世界悉檀」、各人の性質や能力などに応じて法を説く「為人悉檀」などがある。
 もっとも根源の真理を説いたがゆえに、もっとも自在に価値を創造していける――それが日蓮大聖人の仏法なのである。そして、もっとも根本の道理を示したがゆえに、だれ人にも納得のできる実践をしていける。それが、この正法なのである。
5  ともあれ皆さまは、信行の題目という仏道修行の基本のうえに、どこまでも伸び伸びと、価値的に、賢明に、信仰即生活を送っていただきたい。
 そして納得のできないことがあったら、何でも遠慮なく相談し、解決して、すっきりとした気持ちで広宣流布に進んでいただきたい。また、みずからも、友に希望と勇気を与えゆく、明快な″納得の指導″をお願いしたい。
 信心は本来、もっとも楽しいものである。親友と腕を組んで旅するような、胸はずむ日々となるのが、″歓喜の仏法″である。窮屈な圧迫感に苦しんだり、いたずらに形式にとらわれて悩んだりする必要はない。
 いつも言うことであるが、五座三座の勤行が、かりに完璧にできない場合があったとしても、御本尊を一生涯信じ、求めゆく「信心」があれば、福運は消えない。粘り強く、信仰の実践を持続し、年ごとに向上していく事実の姿が大事なのである。
 どうか身近なところから、自分の生活を″満足″できるものへと建設し、社会の大勝利者へと一歩一歩、着実に成長していっていただきたい。(拍手)
6  宇宙を貫く生死の二法
 さて、二十一世紀を前に、世界は確固たる「哲学」をもった若きリーダーを待望している。その意味で、各国からこれほど多くの優秀な青年が一堂に会し、友情を深めながら、最極の生命哲理を研鑽している姿に、世界の人々は瞠目し、新しき世紀への大いなる希望を見いだしていくにちがいない。その意味で、若き生命哲理の探究者である皆さまに、現在の所感を何点かお話ししたい。
 現在、私は、イギリスの著名な天文学者であるウィックラマシング博士と『西暦二〇〇〇年の観点』(仮題)というタイトルで対談集の準備を進めている。(=この対談集は『「宇宙」と「人間」のロマンを語る』と題して、平成四年十一月に毎日新聞社から出版された)
 はるかなる西暦三〇〇〇年へのスタートであるこの時を、どう迎え、どう出発するか――。そうした問題意識のうえから、「宇宙」と「人間」、「科学」と「宗教」などをめぐって真摯な対話を続けている。そのなかで、「生命の永遠性」に関しても語り合った。
 「生死の問題」こそ、死を免れることのできない人間存在にとっての最重要の課題である。とともに、この「生死の問題」を解き明かした正しき生命観に立脚してはじめて、正しき人生観、社会観、世界観をもつことができる。
 人間だけではない。宇宙では、星の誕生と死の壮大なドラマも繰り返されている。ウィックラマシンゲ博士は、天文学者として、星の「生死」を考察してきた人である。そうした研究をとおして、博士が「実証科学の立場からは、じつは『死後の生命』を否定する根拠はまったくない。今のところ証明することもできないが、自分の直観としては、仏法の『生命の永遠』の教えには多くの真理が含まれていると思う」と語られていたことが印象深い。
7  仏法では「天地(宇宙空間、大地)、日月(太陽と月)、五星(水星、金星、火星、本星、土星)など、生死の二法でないものはない」と説く。
 そして「生死の二法は一心の妙用」(生と死の二つの法は一つの心、生命の不可思議の働きである)、また「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」(起〈生〉は法性〈妙法〉の顕現であり、滅〈死〉は法性の冥伏である)等と説く。生死の二法を貫く根源の法理を解明したのが仏法である。
 時間の関係でくわしくは略させていただくが、わが生命の内奥に、「宇宙」と「人間」を貫く不滅の「法」を自覚し、その「法」にのっとって生きぬいていく。そこに、暗きから暗きへと煩悶していく、人間の宿命的な「生死の流転」を、根本的に打開する方途がある。
 また、妙法への信仰の「一念」によって、一切を希望と、価値と、調和の方向へと回転させていく。そして、最高に福徳に満ちた「生命の軌道」を永遠に歩んでいくことができる。それが仏法の実践なのである。
8  またウィックラマシング博士は、これまでの人生でもっとも印象的な時はいつだったかについて、しみじみと語っておられた。
 「それは十九歳の時、ケンブリツジ大学に留学して師事したホイル博士(世界的天文学者)とともに、詩人ワーズワースのうたったイギリスの湖水地方を歩いたことです。至福のひとときでした」と。
 師との思い出をもつ人生は美しい。豊かである。博士は私との対談のなかで繰り返し、師匠であるホイル博士を宣揚されていた。
 また博士は「師(=ホイル博士)の信念はユダヤ、キリスト教的ではなく、まさに仏教の教えるところと一致している」とも語っていた。
 ともあれ、師との思い出を大切にあたため、師を誇りとし、師の理想を実現していく――そこに幸福な、人間としての「道」があろう。
9  法華経に説く民衆の指導者像
 さて、ゴルバチョフ大統領の推進するペレストロイカの一つの成果として、ソ連でも信教の自由が、最近になって認められるようになった。
 仏法とは縁が薄いと思われているソ連であるが、興味深いことに、今から十三年前、ソ連科学アカデミーから法華経ペトロフスキー本をいただいたことがある。(=ロシアのペトロフスキー〈中国に赴任していた総領事〉が一九〇三年、西域で入手した法華経の写本。七〜八世紀ごろの書写でサンスクリット語で書かれている)
 法華経には、現代の闇をも照らすヒューマニズムの精髄が脈打っている。それは、生命の本源的「自由」、人間の「尊厳」、苦悩をいやし幸福へと導く「慈悲」である。そして、男女の平等をはじめ、一切衆生の「平等」を説く。世界のいかなる国々の人も、いかなる職業の人であったとしても、人間として、すべて平等である。
10  ところで、この法華経に一人のリーダー像が描かれている。それは、いわば希望のヒューマニズムの道を切り開く指導者である。
 そのリーダーは、大勢の人を連れて険難の前人未到の道を旅していく。はるかな宝処(珍宝に満ちた理想郷)をめざして。行く手にはどんな危険や困難が待ち受けていても、リーダーは聡明な知恵と決定した強い心で、前へ進んでいく。
 ところが、それに従う人々は「自分たちは疲れはて、おそれおののいている。もう進むことはできない。ここで引き返そうと思う」と言いだした。そのとき、リーダーは「ここで引き返してしまえば、すばらしい珍宝を手にすることはできない。それでは皆がかわいそうだ」と思い、神通力で大きな城をつくりだして、そこで人々を休ませ、憩わせた。
 人々が十分にくつろぎ、活力を取り戻したのを見ると、リーダーは「さあ、前進しよう。これは化城(仮の城)にすぎない。本当の宝処にさらに進んでいこう」と呼びかける。
 こうして新しい希望の前進がふたたび開始された――。
 家庭生活や仕事でも、人生でも、疲れてしまうことがある。そのとき、もう進むことはできないとあきらめてしまえば負けである。幸福はつかめない。また、広宣流布の活動でも、弘法の実践でも、疲れを感じる場合がある。そのときにこそ、聡明なリーダーの励ましが大事なのである。
 人々の疲れをいやしながら「もう少しだよ。この山を越えれば幸福の平野があるのだよ」と、つねに希望を与えながら、リードしていく。それが聡明なリーダーなのである。私も四十年間、この心を忘れずに広宣流布の指揮をとってきた。ゆえに、今日の世界的な妙法流布の流れを開くことができたと確信している。
 いずこの世界でも、新しい改革の道が、どんなに困難と苦渋に満ちていることか。
 しかし、偉大なるリーダーの存在がある限り、前進は止まらない。どんな行き詰まりに直面しても、人間の生命の限りなき可能性を信じ、人々に希望を送り、勇気を送っていく。諸君もそういうリーダーになっていただきたい。(拍手)
11  あの、ゴルバチョフ大統領は私との会見の際に「ペレストロイカの第一の成果は″自由″を与えたことです。しかし、その自由をどう使うかは、これからの課題です」と語っていた。
 外的な抑圧、束縛からの自由も大事である。とともに、さらに内なる精神の自由へ、魂の自由ヘと進んでいかねばならない。「魂の自由」こそ、何ものにもかえがたい「宝処」だからである。
 生死の鉄鎖、宿命の鉄鎖から解放し、生命の「宝処」に入っていくことをも可能にする、仏法の意義はまことに大きい。
 さらに、仏法では化城を即宝処と開いていくと説く。すなわち、苦悩の現実を意味している「化城」を離れたどこか遠くに、「宝処」である理想郷を求めていくのではない。自身の内なる生命の境涯を広々と開きながら、この現実の一つ一つの課題に全力で挑戦していく。そして、現実の苦悩のなかに、幸福と安穏の世界を築いていく。そこに仏法のいき方がある。
12  仏法は「人間性」と「平和」の光
 さて、七百十一年前、富士の地では、大聖人、日興上人のもと、若き南条時光、そして熱原の農民信徒たちが、偉大なる民衆凱歌の歴史を刻んだ。強大なる幕府の権力に屈することなく、二人の無名の農民が、正法への信仰に殉じた。この二烈士の殉教は、世界の民衆による広宣流布の運動のうえからも刮目すべき歴史といえよう。
 そして、その折、大聖人と日興上人が農民信徒を徹底して守り、かばい、励まし、たたえてくださったお振る舞いをよくよく拝してまいりたい。(拍手)
 なお、熱原といえば、先日、静岡青年部の皆さまが開創七百年慶祝の文化祭で聴かせてくれた「熱原の三烈士」の歌声が忘れられない。
 大聖人は、熱原法難の渦中、陣頭指揮をとられる日興上人等にこう仰せである。
 「妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか。伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐ可し、平金吾に申す可き様は文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其のわざわい未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ
 ――「妙」の法門が虚事そらごと(ウソ)でないならば、必ずたちまちに賞罰があるであろう。伯者房(日興上人)等は深くこの旨を心得て問注(弾圧に抗議する訴訟)を遂げなさい。平左衛門尉に対して「文永八年の迫害(竜の口の法難)の時、聖人(日蓮大聖人)の言われたことを忘れられたのか。そのための災いもいまだ畢っていないのに、重ねて十羅刹女の罰を招き取ろうとするのか」と最後に申しつけなさい――と。
 事実、迫害の権力をふるったこの平左衛門一族は、のちに無残な末路をたどっていく。仏法の賞罰はあまりにも厳しい。
 そして大聖人と日興上人が、どれほど熱原の農民門下のために心を砕かれ、戦っておられたか。大法を守り、仏子を守るため、強い敵に対しては徹底して強く戦っていく。これが宗祖日蓮大聖人、第二祖日興上人の貫かれたお振る舞いである。
 なお、日亨上人は、熱原法難当時を振り返って、鎌倉在住の信徒のなかに、幕府に働きかけて動かせるだけの力ある人がなかったことを嘆かれていた。この意味からも「外護」の存在がどれほど大切かがわかる。
13  大聖人はあるお手紙のなかで、こう仰せになっている。
 「あはれ平の左衛門殿さがみ相模殿の日蓮をだに用いられて候いしかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびは・よも切せまいらせ候はじ、くやしくおはすらなん
 ――平左衛門殿や相模守殿(北条時宗)が、もし日蓮のいうことを用いられてさえいたならば、先年の蒙古からの使者の首を、よもふびんにも斬らせることはなかったであろう。今になって後悔しているであろう――。
 すなわち建治元年(一二七五年)九月、幕府は理不尽にも蒙古からの使者五人を竜の口で斬首した。この使者は皆三十代で、元人(モンゴル人)、漢人(中国人)、高麗人、トルコ人たちであった。処刑に際して彼らが残した、痛ましい辞世の詩が今日にも伝わっている。
 大聖人はこの処刑についてかねてより「科なき蒙古の使の頸を刎られ候ける事こそ不便に候へ」――罪のない蒙古の使者が首をはねられたことこそ哀れである――と述べられていた。
 また、外交上も、罪もない使者たちの命を奪うというこの暴挙が、ふたたびの「蒙古襲来」に拍車をかけてしまったことはいうまでもない。
 大聖人は、もし幕府がご自身の諫言を素直に用いていたら、そんな愚かな、また残酷なことはしないですんだのだが、と仰せなのである。
 権力は時として暴走する。強大であればあるほど傲慢となり、人間らしいあたたかみや、物事を冷静に判断する力を失い、自分の考えを有無をいわさず押しとおしてしまいがちである。その果てに、やがては民衆をとりかえしのつかない不幸へとおとしいれ、みずからも破滅への道をたどっていくのが、歴史の通例である。
 そうした権力の魔性に挑戦し、蛮性を「人間性」へ、また、戦争への傾斜を「平和」「文化」の方向へと回転せしめていく――それが、仏法の「人間主義」「平和・文化主義」の光なのである。(拍手)
14  仏法とは最高の「道理」である。この道理を根底にして一切の社会活動を推進していく。そこに、社会に脈動する、生きた仏法の展開がなされる。SGIの運動は、その方軌にのっとったものなのである。
 また、今、うれしいことに、私どもの進める「平和」と「文化」の交流は、かつての蒙古の使者たちの故郷である「中国」「韓国」「トルコ」などとも深まっている。ともあれ、権力の暴挙を憤られ、使者たちを思いやられた大聖人のお姿を、私は忘れることができない。
 とともに先日もフランスのある文化人と語り合ったことだが、″文化の交流は、人類の「心の碧空あおぞら」を広げる″ことになる、と銘記したい。
 また、教育・文化交流を軸にして、世界に友情を結んでいかないと、日本はいよいよ国際社会で孤立してしまうであろう。文化交流が、日本の将来にとっていかに大切か。これは、心ある識者がこぞって強調するところである。
15  「立正安国」の精神を時代へ、社会ヘ
 さて日達上人は、私の『立正安国論講義』に寄せてくださった「序」のなかで、安国論の御文を拝されながら、「仏法」と「国家」の関係について、一般世間の人々の考えと、日蓮大聖人のお心の違いを明快に述べられている。
 まず「所詮しょせん天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり、(中略)先ず国家を祈りてすべからく仏法を立つべし」――天下の泰平、国土の安穏は、君臣、万民の願うところである。(中略)まず、国家の安穏を祈って、しかるのちに、仏法を立てるべきである――と。
 つまり、一般世間の人々は、まず国家を第一と考え、仏法を次にしているのである、と。それに対して、大聖人のお心はどうかといえば、次の御文を示されている。
 「早く天下の静謐せいひつを思わばすべからく国中の謗法ほうぼうを断つべし」、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方はことごとく宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し
 ――「一刻も早く天下の泰平を願うならば、まず何よりも国中の謗法を断つべきである」「いまやあなたは、一刻も早く邪法信仰の寸心を改めて、実乗の一善に帰依しなさい。そうすれば、すなわちこの三界は皆仏国である。仏国であるならば、どうして衰微することがあろうか。十方の国土はことごとく宝土である。宝土であるならば、どうして壊れることがあろうか。国に衰微なく、国土が破壊されることがなくなれば、身は安全となり、心には何の不安もなくなるのである。この言葉は心から信ずべきであり、崇めるべきである」――と。
 つまり、仏法の真実の精神は「どこまでも正法流布に依って、国も栄え、人も栄えるとの御精神である」と。そして、この二つを対比させながら、次のように述べられている。
 「先年、会長池田大作先生が、かの英国の哲学者トインビー氏としばしば論談せられたことがあった。(中略)
 トインビー氏は此の前者(=一般世間の見方)の『先ず国家社会を立派に形成することにより、人心は安泰である』と論じ、池田先生は此の後者の、正法による人心の安泰によりて国家社会は栄えると論じたと聞いておる。此れこそ池田先生が立正安国論の精神を、常に身心に受け持っておる所以であると私は敬服しているのである」
 「立正安国論は古今を通じての本仏の心であり、資生ししょう、安国の基本の書である。それ故に時代、時代に従ってその時の人びとに解し易く、現代的に註釈されてこそ有意義であると思う。
 故に、安国論を十分にマスターせられておる池田先生に依っての註釈書の発刊せられることに、深く感謝の意を表するのである」
 過分なる称讃の言葉をいただき恐縮であるが、ともあれ、仏法の精神をいかに時代に開き、社会に脈動させゆくか。ここに「広宣流布」「立正安国」の理念を実践する、われわれの重大な使命がある。
 また、世界の平和と人類の幸福のため、今ほど仏法の哲理が希求されている時はないといえよう。どうか諸君は、この「立正安国」への大道を、私とともに闊達に歩んでいただきたい。(拍手)
16  堂々たる福徳の人生飾れ
 最後に重ねて、大聖人が南条時光(当時十七歳)に与えられた御文を拝したい。
 「亦於現世得其福報の勅宣・当於現世得現果報の鳳詔ほうしょう・南条の七郎次郎殿にかぎりて・むなしかるべしや、日は西よりづる世・月は地よりなる時なりとも・仏の言むなしからじとこそ定めさせ給いしか、これをもつて・おもうに慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給い・だんな檀那は又現世に大果報をまねかん事疑あるべからず
 ―!″現世にその福報を得る″という如来の言葉や、″必ず現世に現実の果報を得る″という法華経の経文が、南条七郎次郎(時光)殿に限って空しいはずがあろうか。日が西より昇るような世の中になり、月が大地から出るような時であっても、仏のお言葉に虚言はないと定められている。
 これをもって推し量れば、亡くなられた慈父の聖霊は、教主釈尊の御前においでになり、檀那(南条時光殿)はまた、現世に大果報を招くことは疑いない――。
 大聖人の仰せのとおり、時光が大石寺の開創を外護し、また長命で堂々たる福徳の人生を勝ち取っていったことは、皆さまもよくご存じのとおりである。
 世界各国から集い来た青年部の皆さまもまた、その若き情熱で信仰に励みゆくとき、両親を最高に幸福にしながら、無限の福徳を積み重ねていけることは間違いない。
 十年、二十年、三十年の後に皆さまが、どれほど偉大なる、どれほど福徳に満ちた「広布のリーダー」「民衆のリーダー」「社会のリーダー」に育ちゆくことか。堂々と乱舞しゆく未来の雄姿に思いをはせつつ、皆さまのご健康、ご多幸を心よりお祈り申し上げ、私のスピーチとさせていただく。
 このあと、お別れの懇親会がもたれるとうかがった。日本での最後のタベを、どうか有意義に、ごゆっくりと過ごしていただきたい。ふたたびお会いできる日を心待ちにしている。それではお元気で!
 (創価文化会館)

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