Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九回九州総会 われらは「幸福の大船」の仲間

1990.9.25 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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2  さきほど、婦人部の九州つくしの合唱団、北九州春風合唱団、弥生合唱団の皆さまが、「エーデルワイス」「荒城の月」、そして九州の歌「火の国の歌」を披露してくださった。私もそっと聴かせていただいたが、まことにすばらしい歌声であった(拍手)。見事なハーモニーに、感動の思いで聴き入っていた。本当にありがとう(拍手)。また、指揮者の方の名指揮にも、魅せられる思いであった。(拍手)
 一切法は即仏法である。森羅万象を、また人々の行動、振る舞いを、深く″仏法の眼″で見ていくのが信心である。一曲の調べにも、指揮棒の一振りにも、深き信仰による昇華のハーモニーを感じ取ることができる。
 私は指揮者にすぐ歌を詠んで贈った。
  名指揮に
    エーデルワイスは
      天に咲き
    荒城の月
      天に舞う
  
 ――真心あふれる名指揮、そして婦人部の皆さまの名合唱に、重ねて感謝申し上げたい。(拍手)
 ところで、曲目の一つにあった「エーデルワイス」――。これは、ご存じのように、ヨーロッパのアルプス一帯に咲く花の名である。スイスの国花で、夏になると、白く小さな可憐な花を咲かせる。
 私も昨年、スイスを訪問したが、合唱団の皆さまの歌声を聴きながら、スイスの美しい景観を懐かしく思い起こしていた。また、″火の国・九州″で、このように優雅な名曲の調べに出あえるとは「時代も変わったなあ」と(爆笑)、感銘を深くしたしだいである(笑い、拍手)。ともあれ、心美しき調べにつつまれての本日の総会を、心からお祝い申し上げたい。(拍手)
3  仏法の証は断じて勝ちゆく中に
 さて、建治四年(一二七八年)一月、日蓮大聖人は四条金吾にあてたお手紙の中で、次のように述べられている。
 「なによりも承りて・すずしく候事は・いくばくの御にくまれの人の御出仕に人かずに・せられさせ給いて、一日・二日ならず御ひまもなきよし・うれしさ申すばかりなし
 ――何よりもお聞きして爽快であることは、ずいぶんと主君に憎まれていたあなた(四条金吾)が、その主君の出仕のお供の人数の中に加えられ、しかも一日、二日だけではなく、毎日、暇もないほどのご様子、私(大聖人)はうれしさを言い表せないほどです――。
 「えもん右衛門たいう大夫をやに立ちあひて上の御一言にてかへりてりたると殿のすねん数年が間のにくまれ・去年のふゆはかうとききしに・かへりて日日の御出仕の御とも・いかなる事ぞ、ひとへに天の御計い法華経の御力にあらずや
 ――右衛門大夫(池上兄弟の兄二不仲)が、信仰のために親に背いたが、主君の一言で勘当が許されたことと、あなた(金吾)がこの数年の間、憎まれ、去年の冬はとくにたいへんだと聞いていましたが、今では逆に、毎日、主君の出仕にお供しておられるのは、どうしたことでしょうか。ひとえに諸天のお計らいであり、法華経のお力ではないでしょうか――と。
 正しき信仰と正しき行動のゆえに憎まれ、数々の迫害を受けてきた池上兄弟と四条金吾――。しかし、彼らが師の教えを少しも違えることなく実践した結果、堂々と天下に示した″勝利の実証″を、大聖人はわがことのように喜ばれ、称讃されている。
 ″あなたの勝利の姿は何よりもうれしい″″主君から憎まれていた金吾殿が、今は休む暇もないほどご活躍と聞いて、本当に爽快です、さわやかです″と、あたたかくつつんでくださっているのである。
4  仏法は″勝負″である。信心は障魔との″戦い″である。広布の途上には、繰り返し、卑劣な中傷や迫害があることは必然である。
 しかし、信心で断じて勝っていかねばならない。断じて、一つ一つの勝負を勝ちぬいていかなければ、まことの信心とは言えないのである。
 また一面、信心のゆえに競い起こってくる苦難は、すべて私どもを成仏へと導いてくれる。宿命を転換し、幸福の人生を開いていく″縁″ともなる。そうしていってこそ、強盛な「信心」である。
 仏法では「変毒為薬(毒を変じて薬と為す)」と説く。苦しみの″毒″を、喜びの″薬″に変える力が、生命には本来ある。その生命の力を限りなく引き出し、証明しゆくのが、信仰者の人生ドラマなのである。
 この自覚に立てば、何ものも恐れる必要はない。嘆く必要もない。一切を安穏と前進、健康と建設への追い風に変えていけるのである。(拍手)
5  悪の本質見極める賢さと強さを
 変毒為薬のためには、「毒」を「毒」と見破ることが第一である。「悪」を「悪」と見極めなければ、いつしか自分も悪しく染まってしまう。一念が、そちらに引き寄せられてしまう。幸福の軌道に狂いが生じる。
 大聖人が仰せのように、もっとも用心すべきは、悪知識なのである。
 「悪」の本質に対して、鋭く、賢明に見抜いていくこと、強くあること。それが「善」をなす条件である。弱者、愚者では、大善を行う勇者とはなりえない。
 そして「大悪」と戦い、勝ってこそ「大善」である。「極悪」と戦い、勝てば「極善」である。これが御書に説かれた″成仏への王道″である。
 善良な人間は、その善意ゆえにつけこまれ、悪に苦しめられる。悪人は、そのずる賢さゆえに、人々を利用し、甘い汁を吸う。これが、現実の社会の一断面であり、これまでの歴史の暗黒の側面である。学会は、こうした歴史を転換するべく立ち上がった庶民の集いであり、「大善」の団体である。ゆえに、だれよりも強く、賢くなければ、使命は果たせない。
 まして、計り知れない恩を受けた同志を見くだし、裏切り、自分の野望の手段にしていくような人間に、いささかたりとも紛動され、心をわずらわされては、師子王であられる大聖人の門下とはいえないと私は思う。
 そうした卑しき策動など、歯牙にもかけず、御本仏の仰せのままの広宣流布の正道を、まっすぐに進んでいけばよいのである。その威風堂々たる信心の″大風″に、こざかしい障魔の塵は吹き飛ばされていくにちがいない。(拍手)
6  わが九州の同志は、これまで、広宣流布の「勝利」の話を完璧に示してこられた。見事なる陣列で、学会創立六十周年を荘厳してくださった。(拍手)
 私は、その皆さまの雄姿を、心からたたえたい。韓国からまっすぐに九州を訪れたのも、この思いからである(=九月二十二日、韓国。ソウルで開催された「西洋絵画名品展」〈東京富士美術館所蔵〉のオープニングに参列の帰路、九州へ)。ともあれ、皆さまの栄光と凱歌の笑顔を、大聖人も必ずや「天晴あっぱれ」と喜び、称讃してくださっていると確信する。(拍手)
 本日の総会を記念して、祝福の和歌を三首、詠ませていただいた。
  遂にまた
    遂に勝ちたり
      九州に
    かちどき送らむ
      諸天と共にと
  
  大九州
    幸の王者と
      なりゆきて
    魔塵をけちらし
      この世楽しめ
  
  偉大なる
    連続勝利の
      九州は
    先駆の道をば
      師子の如くに
  
 大九州のいっそうの発展を祈り、謹んで贈らせていただく。(拍手)
7  大聖人は、四条金吾をたたえられたうえで、「今度はことに身をつつしませ給うべし」――今度はとくに自重していきなさい――と誠められている。
 勝った時こそ、油断してはならない。金吾を快く思わない者が、いつ、どのように狙ってくるか、わからない。今こそ心を引き締め、慎重に行動していかなければならない、とのお心であろう。そのほか大聖人は、まことにこまごまと、具体的なアドバイスをしておられる。
 次の勝利への因は、現在の姿のなかに含まれている。勝ちに傲ることなく、油断することなく、次の戦いへの歩みを進めていく――。そのたゆまぬ精進の行動のなかにこそ、連続勝利の道がさらに開かれていくことを銘記していただきたい。
8  未来の希望あふれる天地・佐賀
 昨日、十三年ぶりに佐賀を訪問させていただいた。本日も代表が参加されているが、佐賀の皆さまにはたいへんお世話になった。ここであらためて、心から御礼申し上げるとともに、佐賀県について少々、話しておきたい。
 総人口は約九十万人。総面積は約二千四百三十平方キロで、全国の四十七都道府県中、四十二番目の大きさである。
 東京までの距離は約九百キロ、大阪までの距離は約五百キロ。これに対して韓・朝鮮半島までは、わずかに約二百キロ。古来、半島との間に、どれほど広く、盛んな交流が行われていたことか。まさに文明と文化の先端を行く地域であったといってよい。
 また、九州横断自動車道と、九州縦断自動車道とが佐賀県内で合流。将来、流通の一大中心となる可能性を秘めている。そのほか佐賀空港の開港、各種水源開発、農業基盤整備等のプロジェクト(計画)が、今世紀中に完成する見とおしという。さらには、佐賀のきたるべき二十一世紀像を展望した「佐賀県長期構想」が打ち出されており、発展性と未来への希望にあふれた地域である。
 また佐賀は、歴史のロマン薫る、かの「吉野ケ里遺跡」で、今や全国的に、また外国からも注目を集めている。
 遺跡は幅広い時代にわたるが、そのなかでもとくに関心がもたれているのは、弥生時代の中期から後期――紀元前一世紀から三世紀にかけての遺構・遺物である。その発掘は、いわゆる″邪馬台国″九州説を裏付ける、有力な手がかりといわれる。
 つまり、中国の史書にある「魏志倭人伝」の″邪馬台国″に関する記述と、吉野ケ里遺跡のありさまが、よく合致しているという。――「魏志倭人伝」といえば、戸田先生からよく話をうかがい、勉強したことを思い起こす。
 遺跡は佐賀文化会館から車で約二十分のところにある。私が先日、訪問した際には、文化会館に遺跡の様子を再現した設営もあり、皆さま方の真心に感謝の思いでいっぱいであった。
 ともあれ、発見以来、約三百万人が訪れているという吉野ケ里遺跡。古代史ブームの高まりを呼んだことも事実だが、私にはそうした古代文化の華が、佐賀の、そして九州の、未来における繁栄の姿をも象徴しているように思われてならない。(拍手)
9  ″人生の大満足″の航海を共々に
 さて日蓮大聖人は、日妙聖人と乙御前という母娘に、法華経のすばらしさを、わかりやすく教えてくださっている。母娘は、はるばる佐渡まで大聖人を訪ねたことで有名である。
 まず「小乗経と申す経は世間の小船のごとく・わづかに人の二人・三人等は乗すれども百千人は乗せず、設ひ二人・三人等は乗すれども此岸にけて彼岸へは行きがたし、又すこしの物をば入るれども大なる物をば入れがたし」と。
 ――小乗経という経は、世間の小船のように、わずかに人を二人、三人等は乗せられるが、百人、千人という多人数になると乗せられない。たとえ二人、三人等は乗せたとしても、こちらの岸に船をつけて浮かべるだけで、向こう岸には行くことがむずかしい。また少しの物を入れることはできても、多くの物を入れることはむずかしい――。
 このように、「船」の力にたとえて、教えの高低浅深を、まことにわかりやすく説いてくださっている。
 ″わかりやすい″――ここに慈悲の表れがある。智慧の証明がある。あたたかい人間性の光がある。相手の胸に入らないような、ただ難解なだけの話では、自己満足といわれてもしかたがない。それは正しい仏法の精神ではない。
 さらに大聖人は「大乗と申すは大船なり人も十・二十人も乗る上・大なる物をも・つみ・鎌倉より・つくし筑紫みち陸奥の国へもいたる。実経と申すは又彼の大船の大乗経には・にるべくもなし、大なる珍宝をも・つみ百千人のりて・かうらい高麗なんどへも・わたりぬべし、一乗法華経と申す経も又是くの如し」と仰せである。
 ――それに対し、大乗という教えは大船である。人も十人、二十人も乗せるうえ、多くの物をも積み、しかも鎌倉から筑紫(九州方面)、陸奥(みちのくとされた東北方面)の国へも行くことができる。そのうえ実経(法華経)というのは、その大船の権大乗経(大乗の中でも仮の教え)とは比較にならない。
 たくさんの珍宝をも積んで、百人、千人の多くの人々が乗り、高麗(当時の韓・朝鮮半島の国)などへも渡ることができる。一切衆生を等しく成仏の彼岸に到達させる一乗法華経という経(御本尊)もまた、この大船のようなものである――。
 大海原を、たくさんの珍しい宝と、たくさんの仲間を乗せて、楽しくにぎやかに、悠々と進みゆく大船。はるかな″あこがれの国″へと、希望を満載して航海する宝の船――。大聖人は、お母さんと娘さんに対して、鮮やかに目に浮かぶように、やさしく語りかけておられる。おとぎ話を聞くような胸はずむ思いのなかに、二人はどんなにか御本尊への確信を強めたことであろうか。
 そして、私たちの「生命」もまた「宝の大船」であるというのが、法華経の教えである。世界、宇宙のあらゆる宝が、わが信心の「一念」の蔵に収まっている。それを開くかどうかである。
 福運の扉を開ければ、そこから、いくらでも「珍宝」も入ってくる。所願満足の生活が開けてくる。すべて自分の一念しだいである。この一点を確信し、限りなく境涯を開き続けるのが、私どもの信仰である。
 しかも自分のみならず、多くの人々をも乗せてあげ、楽しませてあげながら、自他ともに人生を遊戯していけるのが「信心」という偉大な「大船」なのである。(拍手)
10  なお、先日、私は韓国を初訪問した。韓国は大聖人御在世当時、ここに仰せのように高麗と呼ばれていた。宝を積んで高麗へ――御書に述べられているとおり、今回、″美の宝″とともに、文化交流の一歩をしるすことができた。
 これまで日本は、この″文化の大恩人″である隣国に、宝を持っていくどころか、宝を奪い、宝を破壊する非道を繰り返してきた。この悪の歴史を、絶対に転換しなければならない。
 高麗の民衆にも深い思いを寄せておられた大聖人――私は今回の交流を、大聖人も必ずや喜んでくださっていると信じている。(拍手)
 ともあれ、本日は「大九州号」という大船の船出の日である。明年は第十回の総会。一年ごとに船も立派にし、人材も多くしながら、福運を満載して、世界の九州らしく、堂々と仲良く二十一世紀への大海原を先駆していただきたい。(拍手)
11  人生の究極の目的を明確に
 人生の究極の目的は何か――それは、幸福になることである。
 信心の究極の目的は何か。それは、「成仏」――仏に成ることである。
 この根本の目的を明確にし、この目的のために、ひたすら努力し進んでいっていただきたい。
 この目的を忘れたときに、信心に狂いが生じる。自分の慢心にも流される。世間の風評にも心動かされる。人生の道を誤ってしまうのである。
 成仏の境界を、わかりやすく身近な言葉でいえば、宇宙のすべての珍宝で生命を飾り、永遠に崩れない幸福境涯で生命を固めていくことであろう。
 一方、世間でいう幸福は、あくまでも相対的なものであり、何かをキッカケに崩れてしまうものである。この永遠に崩れざる幸福境涯を築くための修行こそが、私どもの信心である。
 ゆえに信心だけは、みずからの決めた道を、堂々と進んでいただきたい。他の人がどうというのでもない。社会がどうというのでもない。みずからの人生は、自分らしく、確信をもって生きぬいていく以外にない。その生き方が、もっとも正しく、もっとも悔いのない人生なのである。
 九州の皆さま方のご健康、そしてすばらしい人生の一歩前進を心からお祈りして、私のスピーチを終わらせていただく。
 (九州講堂)

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