Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三十三回本部幹部会 信仰の青春の炎を永遠に

1990.9.18 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

前後
1  実り豊かな対話を活発に
 さわやかな秋を迎えた。しかし本日は、沖縄、奄美諸島、九州、さらに四国、中国等では台風19号による被害が心配されており、各方面の皆さまに対して、心からお見舞い申し上げたい。
 天候にも、澄みきった青空もあれば、雨雲が低くたれこめる日もある。会合にも、聞いて元気が出る話と、反対に疲れてしまう話がある。(笑い)
 同じ話であっても、上から下へと押しつけるような話し方は、聞き手も心を開かない。軍隊調に、ただ勇ましく″怒鳴っているだけ″では、お互いが疲れる(爆笑)。懇談的な淡々とした語り口のほうが、皆の心に安心と納得を広げるものである。
 各地では支部総会がたけなわであり、また座談会や友好の語らいも活発に進んでいる。どうか「聞いて元気が出た」「天空に舞いゆくようにさわやかになった」と言われるような、実り豊かな対話をお願いしたい。
 また、いわゆる″夏バテ″が出る時節でもある。今年はとくに猛暑が続いたことでもあり、よく栄養と睡眠をとって体力の回復をはかっていただきたい。
 先日の婦人部幹部会でも申し上げたが、「健康」にも「幸福」にも、知恵が必要である。自分の健康は、ある意味で自分自身が″医者″となり″患者″となって、賢く守っていかねばならない。
 結論していえば、「以信代慧」の信心で磨かれた「知恵」と、「仏法は勝負」との強き「一念」で進んでいくところに、人生の勝利へのリズムが生まれていくのである。
2  本日は、各地でも記念の集いが行われている。
 また、この本部幹部会には海外八カ国のメンバーも参加されており、それぞれの歓喜あふれる集いを心から祝福したい。(拍手)
3  『三国志』の五虎将軍のごとき活躍を
 さて、先日の第九回文化親善家族祭の終了後のことであった。秋谷会長、森田理事長ら学会首脳と懇談した折、談たまたま、かつて戸田先生のもとでともに学んだ『三国志』の「五虎の将軍」(五虎大将)が話題となった。
 現在の学会の首脳は、つねに戸田先生の指導を語り合い、そして学会の未来を論じつつ、緻密にして見事な広布の指揮をとってきた。その名リーダーぶり、名参謀ぶりは、日蓮大聖人が『史記』の故事を引かれて「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」と仰せられた、古代中国・周の大公望、漢の張良のごとくであると、私は称えたい。
 結局、いかなる時代、いかなる組織や団体においても、中心となるリーダーたちが心を一つに合わせて団結していくとき、皆が持てる力を存分に発揮し、個性や能力を伸ばしながら、勝利へと進んでいけるのである。
 懇談のなかで話題となった五虎の将とは、蜀の劉備玄徳が漢中王に即位した折に、軍師・諸葛孔明の総督のもと、同志の結合の中核として定めた五人の大将のことである。
 すなわち次の五人をいう。簡潔に申し上げれば――
 (1)関羽=劉備の挙兵以来の臣下であり同志。劉備、関羽、張飛の三人は義兄弟の契りを交わした仲であった。中国では「義の人」として人気を集めている。
 (2)張飛=優れた武勇によって「関羽、張飛は兵一万に相当する」と言われた。性格は怒りっぽく、粗暴なところがあり、警戒心が足りないことから、数々の失敗もあった。
 (3)馬超=孔明は馬超を張飛と肩を並べるほどの勇将とたたえた。劉備が攻めた成都城の人々は、馬超が劉備軍についたと聞いただけで、彼の勇猛を恐れて城を明け渡した。
 (4)黄忠=忠義にあつい「老将」として、劉備軍の重鎮の存在。老いてますます盛んな人の代表格とされている。
 (5)趙雲=劉備をして「一身すべてたんなり」と言わしめた人物。それでいて忠誠心は強く、人柄が良く、判断は正しく、戦いが正確であった。
 この五人の大将が劉備の軍勢の中核となって働き、蜀の国を守り立てる原動力となっていったのである。
 そこで、次元は異なるが、現在の学会本部にあっても、「五虎の将軍」のように活躍が期待される優秀なリーダーが陸続と育っている。広布の名将として、いちだんの精進と活躍を期待してやまない。
4  亡命時代の文豪ユゴーの不屈の信念
 話は変わるが、先日、ヤマザキ欧州議長が、明年パリ近郊にオープンする「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」の準備のために、ユゴーゆかりのガーンジー島をフランスのメンバーとともに訪れた。その模様を伝えてくれたので、ここで紹介したい。
 ご存じのように十九世紀フランスの大文豪ユゴーは、ルイ・ナポレオンによって国外追放となり、十九年もの長きにわたり亡命生活を送っている。今回、ヤマザキ議長は、ユゴーが一八五六年から七〇年までの十四年間を過ごしたガーンジー島の住居を訪れた。
 フランスの北西、イギリス海峡に浮かぶこの島はイギリス領であるが、ユゴーが住んでいた建物(オートヴィル・ハウス)は、パリ市に寄贈され、パリ市の管轄になっているという。ユゴーは、この島に亡命中、一生のうちに祖国フランスに戻ることはできないと考えていたらしく、自身の住居をきれいに内装し、庭園も手入れしていたようである。また彼は、追放の迫害に加え、愛妻と別れ、さらにわが子を次々と失うという家庭的な不幸に見舞われ続けた。
 しかし、こうした不遇と不幸の連続も、彼にペンを折らせることはできなかった。否、逆境こそが彼に創作への意欲をわきたたせ、ベンによって立ち上がる力を与えたにちがいない。海峡を眼前に望む館の一角で、彼は毎朝六時から昼まで、立ち続けで著述に没頭したと伝えられる。
 ちょうど、ユゴーが五十四歳から六十八歳までの期間である。その後もユゴーは、八十三歳で生涯を終える寸前まで活躍を続けている。
 これでは、現在大きな社会問題となっている″ボケ″の暇もない(笑い)。医学的にも、使命感、責任感をもって目標に取り組み、神経を使っている人は″ボケ″にくいといわれる。私どもが″忙しく″広布の活動に励めることは、その意味からもありがたいことといえまいか。(笑い、拍手)
 じつに、ユゴーは、この島において、詩作の最高傑作『静観詩集』(一八五六年)、フランス最大の叙事詩とされる『諸世紀の伝説』の第一集(一八五九年)、不朽の長編小説『レ・ミゼラブル』(一八六二年)、三部作をなす『海に働く人びと』(一八六六年)など、多くの代表作を完成させている。また、戸田先生が私どもに何回も読むことを勧められた革命小説の傑作『九十三年』も、この島で着想したものである。
 ″不屈の信念″ほど偉大なものはない。″挑戦の魂″ほど高貴なものはない。ユゴーの信念と行動は、後世の歴史に人間の偉大な輝きを放っている。
 いわんや私どもは、広宣流布という、人類の最高の偉業に、最高の信念をもって進んでいるのである。ゆえに、臆病であってはならない。ユゴー以上の″不屈の精神″で、広布とわが人生を切り開いていかねばならない。(拍手)
5  わが子を亡くしたユゴーは、この島の館に貧しい子どもたちを招待し、大切にもてなしたとも伝えられている。
 また、庭の一角には樫の木が植えてあり、彼は″この木が大きくなるころには、「ヨーロッパ合衆国」も実現しているだろう″と、まるで百年以上先の、今日のEC(ヨーロッパ共同体)統合を見とおすかのように、未来を展望していたという。
 ヤマザキ議長は、こうした数々のエピソードを述べつつ、最後に次のような感想を寄せてきた。
 「亡命の地におけるユゴーの″獅子奮迅″ともいうべき信念と行動に触れ、彼がいかに偉大な人間であったかとの感を深くいたしました。ガーンジー島の館は、池田先生が引かれた″海よりも壮大なものがある。それは天空である。天空よりも壮大なものがある。それは人の心である″とのユゴーの言葉が、強く胸に迫る場所でありました」と。
 示唆に富む内容であると思い、皆さまに紹介させていただいた。
6  充実した青春時代を生きよ
 さて、私は昨日、カナダ・トロント都市圏(メトロポリタン・トロント=トロント市をはじめ六市からなる合同行政体)のアラン・トンクス議長と会談した。
 トンクス議長は、二十代から三十代の十年間、教師を務められている。またメトロ・トロントで働く公務員の青年たちのために「青年に対する感謝の日」を設けるなど、青年たちを心から大切にし、育てようと尽力されている。
 未来を担う青年を守り、育み、自分以上に立派な社会の指導者に育てていきたい――。この心情と行動において、トンクス議長と私とは、初対面ではあったが深く心が通い合ったのである。青年とともに進む若きリーダーである議長の、ますますのご活躍を祈りたい。(拍手)
 ところで、カナダの著名な作家モンゴメリー。彼女の不朽の名作『赤毛のアン』は今、日本であらためて人気を呼んでいるようだ。そのモンゴメリーの言葉に、次のようにある。
 「青春とは、消えてなくなるものではない。心の中に永遠に生き続けていくものである」――と。
 まことに味わい深い一言である。青春とは、年齢とともに消え去っていくものではない。真に充実した青春を生きた人は、生涯、心の中に若々しい「希望」と「情熱」を燃やしていけるのである。
 だからこそ、青年部の諸君は、青春時代を広布の舞台で思う存分に戦いきっていただきたい。若く健康な時に全力で働くべきである。因果の理法によって、永遠に消えざる福徳をわが生命に薫らせていけるからである。「若き諸君よ、信仰の青春の炎を永遠に燃やしゆけ」と、私は強く訴えたい。(拍手)
7  一切の功徳は自身の「一念」に
 「総勘文抄」には、次のように述べられている。
 「十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き
 ――十方の浄土(清らかな国土)の依報(環境)と正報(主体)との、功徳で飾られ彩られた姿は、わが心の中に収まって瞬時も離れることがない――と。
 この御文は、全宇宙の一切の功徳が、つねに自身の中にある――という広大無辺の仏の境界を示された一節である。
 御本尊を持つ私どもの実践においても、自分自身が、つねに限りない福徳につつまれ、無上の幸福境涯を開いていくことができる。
 国土も環境も、私どもをつつむ一切のものが、妙法の功徳の表れである。万物をはぐくみ赫々と昇りゆく太陽も、きらめく星々も、風のそよめきも、小川のせせらぎも、すべてが妙法の功徳となる。そして、こうした宇宙に遍満する功徳を、瞬時も離れることなく、自身の「一念」に収めていけるのが妙法であり、信心なのである。
 もちろん、人生にはさまざまな苦悩がある。経済的な苦しみ、病苦、家庭内の悩み、人間関係の苦悩といろいろである。また、信心の活動にあっても、弘法がなかなか進まないとか、ブロック員が活動しないとか、両親や兄弟が信心をしないとか、さまざまあるであろう。
 しかし、悩みがあるからこそ、題目を唱え、信心に励むことができる。そして、宿命転換をし、幸福の人生を築いていくことができる。つまり、信心の眼からみれば、苦しみ、悩みも即、幸福であり、功徳なのである。功徳も、信心も、決して遠くにあるものではない。苦楽織りなす身近な現実の人生の中にあることを知っていただきたい。
8  日蓮大聖人の御本尊は、「観心の本尊」であられる。その本義・目的からいえば、全民衆の成仏のための御本尊であられる。自分自身の幸福のための御本尊である。
 この尊い妙法を持った私どもは、自分のいるところを、「平和の風」「文化の薫り」「幸福の花」に満ちみちた、理想郷に変えていけるのである。
 さらに言えば、妙法を信受した瞬間から、環境はすでにそのような寂光の国土に変わっているのである。疑いの眼で見たり、低い境涯から見ているがゆえに、そのことを理解できずにいるにすぎない。ちょうど、家でも一階からは上のほうがよく見えず、三階からは下がよく見えるようなものである。(笑い)どうか皆さま方は、悠然たる境涯で一切を見下ろし、妙法の功徳を満喫しながら、この人生を、楽しく、晴ればれと歩んでいっていただきたい。(拍手)
9  民主主義の曙光「マグナ・カルタ」
 先日、ご存じのように、東京富士美術館で、オックスフォード大学の「ボドリーアン図書館重宝展」がオープンした。同展は、本年、日本で開催されている英国祭(UK90)の正式参加行事であり、日英の文化交流に新たな歴史の一ページを開いていくにちがいない。
 また、ここには、イギリスのすばらしき「知」と「文化」の伝統、そして日本とヨーロッパの交流の歴史が展観されており、この場を借りて、少々お話をしておきたい。
 今、あたかも読書の秋である。しかし、売らんがためのその場限りのものに心を乱されて、はかなく人生を生きていくことほど、愚かなことはない、とある知識人が語っていた。
 今回、ボドリーアン図書館の重宝展に展示されているものは、幾百年という時の厳しい審判を越え、いやまして燦然と光を放ちゆく″人類の知の宝石″である。
 なかでも、マグナ・カルタ(大憲章)は、一二一五年に成立してから、じつに七百七十五年を経ている。同展に展示されているのは、現存するものとしてはもっとも古く、もっとも完全な形で残っている原本で、一二一七年に再発布されたものである。その長き歴史のなかで、初めてイギリス国外に出品されたわけである。
 先日のオープニングで、フイールド英国公使も述べておられたが、本年は日本の議会開設百年。百年前の一八九〇年(明治二十三年)に第一回帝国議会が開催されている。議会政治の大きな佳節となるこの時に、″人類の民主主義の曙光″ともいうべきマグナ・カルタが、日本で展示されることは、まさに意義深き″時の一致″といえよう。
10  ところで、マグナ・カルタといえば、近年にもこんなエピソードがある。
 昨年(一九八九年)は、フランス革命二百年。それを記念して、パリでアルシュ・サミットが開かれた。その際、イギリスのサッチャー首相が発言した。″人権の思想は、フランス革命の五百年以上も前に、すでにイギリスのマグナ・カルタにこめられています″と。
 フランス側からは反発があったが、こうした一言にも、イギリス国民がマグナ・カルタをどれほど誇りとしているかがうかがえる。
 それを今回、私どものために、初めて国外に出してくださったわけである(拍手)。快く出品を承諾してくださった関係者の方々に、心から感謝し、お礼を申し上げたい。
 なお同展には、ほかにもシェークスピアの著作、ミルトンの詩集、徳川家康の朱印状など、きらめくばかりの「知」と「文化」の至宝が出品されている。
11  権力に反抗し、市民の自由と人権を保障
 ところでマグナ・カルタとは、いったいどういうものか。なぜ作られたのか。それは、横暴な権力(国王)に対して、諸侯、商人たちが制限を加えようとしたものだった。
 一一九九年、イングランドの国王に即位したジョンは、王権の拡張のために強引に権力を振るった。国王ジョンは残忍で卑劣な支配を行った。彼は、戦争の遂行のために諸侯には重税を課し、商人の特権を侵害した。また堕落した生活を送っていたという。
 当時、国王の暴政に対して、多くのバロン(王から直接、封土を与えられている諸侯)は、都市の商人たちと協力し、国王に要求をつきつけた。″こうしてほしい″と国王に要求したのである。これこそが、「マグナ・カルタ」であった。
 一二一五年、バロンたちは、マグナ・カルタを国王に団結の力で認めさせたのである。
 いつの時代でも、いずこの世界でも、権威、権力の横暴は大なり小なりある。近年の悪侶の姿もそうであった。私どもは戦った。そして、勝った。権威、権力とはどこまでも戦う。これこそが真実の信仰者の精神である。(拍手)
12  全六十三条からなるマグナ・カルタの中には、国王の権力を制限する次のような条文がある。(以下、引用は高木八尺・末延三次。宮沢俊義編『人権宣言集』田中英夫解説・訳、岩波文庫による)
 「いっさいの楯金たてきん(=軍務のために課せられる負担)もしくは援助金は、ちん(=私)の王国の一般評議会によるのでなければ、朕の王国においてはこれを課しない」(第十二条)と。つまり、国王の気ままで、権威、権力で税金を取り立ててはいけない。
 また「代官(=地方役人)は今後、その事件に関して提出された信憑すべき証人なしに、単に代官の主張のみにもとづいて、人を裁判にかけてはならない」(第二十八条)とある。権力者の一存で裁判にかけてはいけない。人を裁くに当たっては、信頼すべき証人がなければいけない、と。
 さらに「自由人(=自由な私有地を持つ特権者か、都市の住民で相当する特権を持つ者)は、その同輩(=同身分の者)の合法的裁判によるか、または国法によるのでなければ、逮捕、監禁、差押、法外放置、もしくは追放をうけまたはその他の方法によって侵害されることはない」(第三十九条)と。合法的な裁判か、法に基づく以外は、決して自由を侵害してはいけないというわけである。
 このようにマグナ・カルタは、国王の権力の乱用を制限しようとする、初期的な試みであった。
 しかしながら、成立当時のマグナ・カルタは問題を多く含んでいた。その意義は、後に大きく変わっていったのである。
 成立の経緯からすると、マグナ・カルタは封建制度という古い体質のなかで、既成の権利の保障を図った文書である。そこには、自由、権利という概念の萌芽が見いだされるが、近代的な意味での自由、権利を確立しようとしたものではなかった。その意味で、封建制度の崩壊とともに、その重要性を失い、一時期、まったく顧みられなくなっている。
13  しかしマグナ・カルタは、成立当時の意味とは異なった近代的解釈をとおして、歴史のなかに息を吹き返した。それは、権力に対する反抗の成功の象徴として、さらには、イギリス憲法の不滅の礎として、蘇ったのである。
 十七世紀以降、スチュアート王朝時代には、専制君主として振る舞う王と近代市民の間に対立が激化する。
 当時の法律家エドワード・クックは、マグナ・カルタを注釈し、新たな意義を見いだした。すなわち、マグナ・カルタは権力に対する近代市民の基本的権利、政治的権利を保障したものである、と。古来の文書をもとにした、新たな主張の展開といえよう。
 このクックの解釈は、広く受け入れられ、やがて人々もマグナ・カルタを近代的意味での″自由″″人権″を保障するものとみなすようになった。
 ″国王といえども法の下にある″″王が国法を犯すことがあれば、人々の忠誠は義務でなくなり、人々は抵抗する権利をもつ″等々。人々は、これらの意味をマグナ・カルタから読み取ったのである。
 こうして十七世紀以降、マグナ・カルタは″イギリス人の自由の守護神″としてあがめられるようになる。また十八世紀の法学者ウイリアム・ブラックストンは″イギリス人の権利の第一の砦″と呼んだ。
 英国人はみずからが勝ち取った栄光の歴史に誇りをもっている。日本には、残念ながら世界に誇れるような、いまだ確固とした民衆の勝利の歴史がない。私どもの運動は、それを現在つくっているのである。(拍手)
 このようにして、マグナ・カルタは近代イギリス憲法の基となり、さらにはフランスの人権宣言をはじめ、各国の人権思想に計り知れない影響を与えた。
 今回の「ボドリーアン図書館重宝展」の開幕にあたり、各界の識者、文化人の方が多数、東京富士美術館を訪れた。マグナ・カルタの原本を目の当たりにした人は、皆一様に深い感銘を覚えられたようである。また恐縮にも″マグナ・カルタを日本に招いた名誉会長に、最高の敬意を表する″と語ってくださった方もいた。
 このようなマグナ・カルタが、七百有余年の歳月を経て、初めて海を越え、私どもの美術館にきたことは、私どもの民衆運動への大いなる励ましのようにも思える。またこのことは、民主の歴史をさらに回転させていく大きな節となっていくにちがいない。(拍手)
14  「魂の自由」は信仰者の生命
 大聖人の御聖誕(一二二二年)は、マグナ・カルタの成立(一二一五年)と、ほぼ同時期にあたる。
 以前にも申し上げたことであるが、大聖人は、民衆と権力者との関係性、人間の本質的な平等について、御書の各所で示されている。
 たとえば「王は民を親とし」――国王は民を親のように大切にしていくべきものである――。「国主は理を親とし非を敵とすべき人」――国主とは道理を親として非道を敵とすべき人である――。「一人を手本として一切衆生平等」――一人を手本として一切衆生は平等である――等々。
 こうした御文に示される大聖人の仏法からみれば、マグナ・カルタの精神は、その序分、流通分ともいえまいか。仏法には、どれほど偉大な、先駆的な理念が脈打っていることか。
 大聖人は、民衆が根本だと仰せである。その教えに反して民衆を軽蔑したり、見くだしたりするなど、とんでもないことだ。それは大聖人の精神に、根本的に反する。
 だれが本当に民衆の味方となり、民衆を守りゆくのか――ここに、「永遠に民衆の側に立つ」との基本路線を掲げた創価学会の存在意義がある。私どもは、つねに大聖人のご精神を拝し、前進してきた。その誇りと使命は、これからも絶対に変わることはない。(拍手)
 また大聖人は、こうも述べられている。
 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」――権力(鎌倉幕府)が支配する地に生まれあわせた以上は、身は幕府の命に従えられているようであるかもしれない。しかし、心は決して従えられない――と。
 これは、大聖人が三度目の国主諌暁の折、時の幕府の実力者・平左衛門尉と会われ、直接、諫められたお言葉である。大聖人は、どんなに世間から悪口をあびせられ、権力者から圧迫されようとも、微動だにされなかった。道理のうえから、厳然と正邪を言いきり、戦われた。
 何ものにも左右されない、何ものにも侵されないのが信仰者の魂である。その″魂の自由″を、わが胸中に燦然と輝かせていく。自身の幸福のための″真実の自由″を堂々と宣言していく――。これが大聖人の仏法の精神である。また、学会の行き方である。
 どうか皆さまは、この強き信心の確信で、大宇宙のごとぐ広々とした″魂の自由″″真実の自由″をつかみ、満足の境涯を開いていっていただきたい。
15  最後に、戸田先生の言葉を紹介したい。
 先生は、かつてこのように語っておられた。
 「政体とか政権とかいったものは、大きくみれば、民衆の意思によって、その時代時代で変わっていくものだ。そんな移ろい易いものに眼を奪われ、民衆自身に光をあてなければ、この厄介な社会を寂光土化(=妙法を根本に平和で安穏な世界を築くこと)する広宣流布の仕事は決してできない」と。
 つねに民衆に目を向け、光を当てていかなければ、広宣流布は進まない。広布が進まなければ、人類は永遠に闇につつまれ、不幸の流転におちいってしまう。このことを、戸田先生は鋭く洞察されていた。
16  広布の偉業は必ずや歴史が証明
 広布の活動は、いわば″長期戦″である。とともに私どもは、日々、どれほど壮大な、確かなる歴史をつづりゆく偉業に、邁進していることか。ゆえに今は、たとえどんなに目立たなくとも、また人々から誤解され、正しく評価されなくとも、まったく気にすることはない。永遠の生命観、歴史観からみれば、それらは一瞬の出来事にすぎないし、とるにたらないことである。
 しかし、私どもの足跡を、十方の仏・菩薩が最大に讃嘆し、いずれ後世の人々が瞳目する時がくることは絶対に間違いない。その時になって初めて、広宣流布という未聞の偉業が、歴史のうえに厳然と証明されるのである。このことは、大聖人の仰せからも明らかであり、夜が明ければ太陽が昇るのと同じように、必然の理なのである。(拍手)
 意義ある創立六十周年。私はこれからも、皆さま方の激励のために全国を回りたいと念願している。
 どうか皆さま方は、朗らかに、どこまでも朗らかに、そして仲良く、どこまでも仲良く前進していただきたい、と申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。
 (創価文化会館)

1
1