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日蓮大聖人・池田大作

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第三十二回本部幹部会・第三回全国壮年部… 信仰は最高に″強く″生きぬく道

1990.8.24 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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1  「信」は幸福を、「知」は力を
 東北各県から遠いところ、また暑いなかを、たいへんにご苦労さまです。
 すばらしい記念墓地公園(宮城県白石市)の完成、本当におめでとう(拍手)。また、このように立派な講堂もでき、心から祝福申し上げたい。蔵王の美しい山々にいだかれたこの地を見て、「生き残っている人よりも、亡くなって、この地に眠る人のほうが幸せではないか」(爆笑)と言う人さえいたようである。
 また、今年は記録的な猛暑が続いて各地ともたいへんななか、この地の涼しく快適な気候に「もう帰りたくない」(爆笑、拍手)と皆が言っていた。
 ともあれ、これからも各地で厳しい残暑が続く見込みである。どうか健康に気をつけ、暑さや寝苦しさをしのぐ工夫をそれぞれにこらしながら、勤行・唱題に、教学の研鎖に、同志の激励や友人との対話に、元気で励める日々であっていただきたい。
 そこで本日は、暑い時にむずかしい話をするのは気の毒でもあり(爆笑)、懇談的に話を進めたい。「聖教新聞」には、むずかしい″人間主義″や″宇宙″をテーマにした対談が掲載された直後なので、「きょうはどんなテーマかな」と身構えていらした方もおられるかもしれないが(笑い)、これでご安心いただけると思う。(笑い)
2  本日の第三十二回本部幹部会には、全国で二十数万という同志が参加されている。会合の模様が衛星中継によって同時に各会場に伝えられるようになってから、本日でまる一年。この間、毎回多くのスタッフが放映の作業を陰で黙々と支えてくださった。
 私は、先ほどこの会場の外で、会合の映像を電波に乗せて天空の通信衛星へと送っている中継車を訪れた。そこでは七人のスタッフが最先端の機器に囲まれ、狭いところで汗だくになって作業をされていた。
 全国の会場に最高の映像を届けようと、まことに懸命の姿である。私はせめてもと、冷たいジュースを差し上げて、その労をねぎらった。私はいつもこうした陰の人を大切にし、細かいところに気をつかってきたつもりである。
 そして本日は、全国に皆さまの姿がたいへんよく映っているとの報告も受けた。ともかく、おめでとう。(笑い、拍手)
 また本日は、各地で、それぞれ記念の集いが開かれており、心から祝福申し上げる。
 なお本日を記念し、仙台の婦人部から揮豪の希望があり、次の言葉を揮豪させていただいた。
 「信は幸 知は力 学は光」
 毎日毎日、揮豪の要請だけでも、たいへんなものである。(笑い)
 「信心」こそ「幸福」への正しき道である。そして「知性」は、新たな未来を開く「力」であり、「学び」の人には人生を照らす「光明」がある。皆さまは、何があっても、まず信心を貫きとおすことだ。そして、とくに若い時代に、徹底して学びぬいていくことが大切である。
3  「不忘」の名刻む地に、生死不二の都
 蔵王連峰の山々は、その名のごとく、王者の気品をたたえている。この地、南蔵王の一角にそびえる不忘山は標高一、七〇五メートルの名峰。私もそのすばらしい姿に感動した。
 この景勝のふもとに、私どもの墓地公園は完成した。仏使すなわち仏の使いとして、広宣流布に走りぬいた尊い方々が休む″仏の使いの城″であり″生死不二の都″である。
 「不忘」(忘れず)の山――まことに詩情豊かな、ロマン薫る名前である。この近くの「長老湖」から仰ぐ山の姿は、どこか富士山に似ているとも言われ、忘れがたい美しさがある。
 私も先ほど、この湖のほとりで、美しい自然とほんのしばしの語らいをもった。帰りぎわには、地元の学会員の方々にお会いでき、うれしかった。
 古より、蔵王の山々は遠く都の人々の憧れをも誘ったようである。はるか千年前の平安時代の和歌(古今和歌六帖)に「人わすれずの山」と歌われ、また清少納言の『枕草子』にも「わすれずの山」と記されている(「枕草子紫式部日記」補注、『日本古典文学大系』19所収、岩波書店)。″わすれずの山″とは、現在の不忘山に限らず、もともと蔵王全体に対する印象から詠まれたとされる。
 ともあれ、この地に墓地公園ができたことは、私どもが、忘れ得ぬ同志のあの友、この友を偲ぶ天地として、不思議な符合のようにも思われてならない。
 また、「蔵王」の名は、地名の起源は別として、蔵の王すなわち″福運の大尽″(富裕な人)を象徴するとも言えまいか(拍手)。「宮城」は宮城(王の住む城)に通じ、″生命の王者の官殿″を表すようにも思われる。
 どうか、この地こそ広布の誉れの舞台であり、妙法につつまれて三世にわたる生命の福徳を築いていくところである、との確信で進んでいただきたい。(拍手)
4  ここで、不忘山について記した清少納言に触れたい。
 清少納言は、歌人として有名な清原元輔の娘である。元輔は、第四十代天武天皇の後裔と言われる。母は不明だが、曾祖父も『古今和歌集』に多くの歌を残した歌人であった。
 清少納言は二十九歳のころ、第六十六代一条天皇の皇后・藤原定子のもとに出仕するが、本名は不明である。「清少納言」とは、宮仕えの侍女としての呼び名であり、「清」は清原氏を意味し、「少納言」は父、兄いずれかの官職に由来するという。
 清少納言は機知に富み、皇后からもたいへんにかわいがられていた。本人も宮仕えに生きがいを感じ、宮廷社交の花形として活躍した。そのころ、皇后の勧めで執筆を始めたのが『枕草子』である。
 『枕草子』の題名については、諸説があって定かではない。一説に「枕草子」とは、″大切な事柄を書きとめるために手もとに置くノート″という意味とも言われている。それがいつしか読み写されるうち、宮廷社会の話題を呼んだという。深い教養をそなえた定子の姿をはじめ、当時の王朝文化のありさまを詳細に伝える名作である。
 清少納言は、十年ほどの宮仕えの後、各地に移り住む生活を続けながら、寂しい晩年を送ったと言われている。ただ、華美な宮廷生活を退いた彼女の心には、平凡ではあつても人間らしい生活を送りたいとの思いが去来していたかもしれない。
 何が幸福な人生かは、なかなかわからない。名声や地位、経済的な豊かさを追ううちに、いつしかそのはかなさに気づく人も少なくないようだ。
5  さて、ここ東北池田記念墓地公園は、蔵王連峰のふもとにある。
 連峰の一つ、不忘山が眼前に迫り、見渡せば、自然林の森々しんしんとした緑が美しく広がっている。春にはツツジが満開とのこと。今朝、私も見て回らせていただいたが、すばらしき大自然にいだかれた、夢のごとき天地である。
 近くには、清冽な水がこんこんと湧き出ており、不忘地域に住む方々の飲料水になっているという。消毒などしなくともそのまま飲める、たいへんにきれいな水であるとうかがった。また、温泉も湧いている。
 ミズバショウをはじめ、四季折々の花も美しい。墓園内の友舞庭園の「父子の池」にも、今、スイレンの白い花が凛と咲き香っている。約七十種もの野鳥がさえずり遊ぶほか、多くの動物が生息している。
 さらに、蔵王の冬の「樹氷」は、あまりにも有名である。三十年ほど前になるだろうか、私も会合出席の途次に、一度目にしたことがあり、その美しさに、本当に心うたれた。
 ともあれ、こうした豊かな自然に恵まれた蔵王連峰のふもとに広がる、すばらしき東北墓園の完成を、重ねて心から祝福したい。(拍手)
6  ″攻め″の挑戦に連続勝利の歴史
 また、墓園がある白石市には、自石城の跡が残っている。別名を益岡(桝岡)城とも呼ばれるこの城は、「後三年の役」(一〇八三年―八七年)のあと、刈田経元が居城としたことに始まるという。
 その後、南北朝の動乱、さらには戦国期のさまざまな変遷を経ながら、一六〇〇年に伊達政宗の所領となる。一六〇二年には政宗の家臣・片倉景綱が城主となり、以後、明治維新までの約二百六十年間、片倉氏の居城であった。
 江戸幕府は「一国一城」制(=諸大名の統制のために、防衛の拠占をある城を、一国につき一城と制限した)を原則とした。しかし仙台藩だけは、仙台城と白石城の二城を持つことが認められていた。このことは、″東北の雄″としての仙台藩の強さを象徴していたともいえよう。
 それはそれとして、いかなる世界においても、「強さ」なくしては大いなる発展と前進はない。
 主義主張がいかに正しく、純粋であろうとも、強くなければ「悪」に愚弄され、つけこまれ、破られてしまう。そして、敗者はいつの場合もみじめである。
 正しき者が、正しき道を堂々と歩みぬくための「強さ」――それを教え、自分のものとしていけるのが信心である。信心こそ、境涯を限りなく開き、強く生きぬくための根源の力である。
 私どもは、この「強さ」があるゆえに、いかなる「悪」にも屈することなく、前進を続けてきた。大聖人の御遺命である広宣流布達成のために、一歩も退くことなく戦い、勝利の証を示してきた。どうか皆さま方は、どこまでも信心を根幹に、″強き心″″強き自分″で、人生勝利の大道を歩みぬいていただきたい。(拍手)
7  さて白石城は、小高い丘陵上に位置する、典型的な平山城であり、″守備のため″というより″攻撃のため″の拠点であった。
 戦いにおいては、守ることよりも、攻撃することが勝利の要件である。学会がこれまで、なぜ連続勝利の歴史をつづり残してこられたのか。それは一つに、弘法にせよ、何にせよ、つねに前進、すなわち「攻め」の精神に徹してきたからである。広宣流布のために、悪には断じて負けないという積極的な″攻撃戦″を展開してきたからである。
 いかなる戦いにおいても「守り」、受け身に回ってしまえば弱い。道も開けない。「攻撃は最大の防御」とも言うが、広布の歩みにあっても、一人一人の人生にあっても、積極的に勇気をもって挑戦してこそ道は開かれ、勝利の栄光が築かれていくことを忘れてはならない。
 白石城はまた、本丸、二の丸を多くの施設で囲み、西は自然の沼、南は空壕、東は二重の堀で守られた、小さいながらも堅牢な要塞であった。仙台藩の南の守りとして重視されていたが、明治に入って民間に払い下げられ、解体された。現在は白石市の公園となり、城の石垣の一部などが残っている。
8  ″先人の恩″知る心が自身を飾る
 ところで、ソ連から来日されていた、作家のチンギス・アイトマートフ氏が、今朝、帰国された。氏とは来日中、三度にわたり会談したが、氏は、創価大学や聖教文化講演会で講演をしてくださったり、日ソの友好交流に心から尽くされていた。
 そのお礼の意味もこめて、氏の作品をとおして、少々お話しさせていただきたい。
 帰国されたあとも、氏についてお話しするのは、人間、何事も、何かしたあとが大事と思うからである。
 「アイトマートフ氏が帰国されたのか。ではもう何も言うことはない」(笑い)というのでは、あまりにつれない心である。
 また、愛し合う二人が結婚した。もう、それでよい(笑い)、というわけにはいかない。結婚したあとどうするか、それが二人にとっては大事なのである。家族の触れ合いにおいても、たとえば、ご主人が帰宅されたとき、「帰ってきたよ」「あっ、そう」(笑い)で終わってしまえばそれまでである。帰宅のあと、どう一家団繁のひとときをつくるかである。
 私どもの活動においても、「友人を入会させることができた。もう、あとはよい」ではいけない。入会した友人をどう立派に育てていくか、それが大事なのである。
 アイトマートフ氏の作品の中で、一人の少年が、おじいちゃんから教わった、こんな言葉を大切にしている場面がある。
 「人間は、祖先のことを忘れたらダメになる」と。
 それはなぜか。祖先のことを忘れるようになると、人々は、自分のことも、どうせ子どもたちや孫たちは覚えてはいないだろうと思うようになる。そうすると、悪いことをしてもだれも恥ずかしく思わなくなるし、いいことをしようという張り合いもなくなってしまう、というのである。これは、一面の真理をついた話であろう。
 そうした意味からも、私どもは、草創の功労者を絶対に忘れてはならない。恩ある人を絶対に忘れてはならない、と申し上げておきたい。
 いわば、墓園は、崇高なる仏の使いとして生きぬいた、無名の庶民の大功(大功績)を、永遠に顕彰していく場でもある。
 この墓園のある「不忘」の地にあっても、地元の方々は、たいへんな労苦の歴史をつづってこられたとうかがった。ここ不忘の地は、戦後、入植が始まった開拓の地である。厳しい冬、やせた火山灰土――開拓のご苦労は、いかにたいへんなものであったか、察するにあまりある。
 また、広布の開拓にあっても、この地の同志には、ひとかたならぬご苦労があった。所属する石巻に通うには、五、六時間の山道を歩いて、白石まで出なければならない。それから列車で仙台へ、仙台から石巻へと向かった。帰りは仙台駅に出て、駅のホームで一泊。翌朝一番で白石に行き、不忘に戻るというものであった。そうしたなか、ともに学会歌を口ずさみ、励ましあいながら、求道の歩みを、広宣流布の旅路を、続けてこられたのである。
 また、石巻の友も、弘法のために、この地に何度となく足を運んでおられる。仏の使いである皆さま方の、こうした不屈の活動があったからこそ、今日のすばらしい広布の大道が開かれてきたことを、私は一生涯忘れない。(拍手)
 現在、この不忘の地区の一般世帯は三十七世帯。そのうち八世帯が学会員である。また、一般の全世帯が「聖教新聞」を購読されていた。墓園の建設に際しても、全世帯の方々が賛同し、協力してくださった。まさに広宣流布の一つの縮図ともいってよい地である。(拍手)
 この地に広布の城を築き、広げてくださった妙法の同志の方々のことは、「不忘」の地の名のごとく、永遠に忘れてはならない。また、忘れることもできない。大功労の皆さま方の福徳は、三世永遠に輝いていくにちがいないし、私も皆さま方のことは、日々、御本尊にご祈念させていただいている。(拍手)
9  新しき「建設的人間」の時代
 さて、アイトマートフ氏からは、出発前に伝言が届いた。そのなかに、こうあった。
 「現代は、建設的思想をもつ時代であると思います。時代は新しい建設的な人間を求めています。″反対″と″紛争″の時代から、新しい建設と創造の時代へと全世界が向かっています」と。
 そして氏は「建設的人間」「創造的人間」への期待を、私に寄せてくださっていた。
 そこには、平和的な無血革命、「ペレストロイカ(改革)」という″建設″にかける氏の情熱がこめられてもいよう。
 その際、氏が私とともに、「世界で、あえて、もう一人、挙げるならば」と、名前を挙げられたのは、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ氏(=一九九一年にアフリカ民族会議〈ANC〉議長、九四年に大統領就任)である。
 いうまでもなく、マンデラ氏は、同国の黒人解放運動の象徴的存在である。
 一九六二年の逮捕以来、反逆罪などで終身刑を言い渡され(六四年)、過酷な獄中にあった。今年(九〇年一一月十一日)、二十八年ぶりに釈放された氏は七十一歳。一九一八年(大正七年)生まれである。若き日から一貫して、「人種隔離(アパルトヘイト)」と戦い続けてきた不退転の闘士である。
 氏の反人道主義との闘争は、世界的な評価と支持を得るとともに、同様の戦いを繰り広げている各国の人々に、大きな勇気を与えている。(九三年十二月、ノーベル平和賞を受賞)
 何十年、牢に入れられようとも、屈しない。出獄すれば、ただちに活発な活動を始める。その鋼のごとき信念には、深い敬意をはらうべきであろう。
 ともあれ、アイトマートフ氏が言うように、世界は、何も価値を生みださない「反対のための反対」や、不毛な「対立」の時代を終え、「現実に何ができるか」「どの点で協力し、価値創造できるか」が問われる″建設の時代″に入った。その先駆が、私どもの「創価(価値創造)」の実践なのである。(拍手)
10  在家の信者への大聖人の大慈悲
 さて、日蓮大聖人は、四条金吾に、このように仰せである。
 「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・かなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん
 ――返す返す今も忘れないことは、文永八年(一二七一年)九月十二日、竜の日の刑場で、私が頸を切られようとした時、殿(四条金五)が私の供をして、馬の口に取り付き、大聖人とともに死にますと泣き悲しまれたことである。これは、いかなる世にも永遠に忘れることはない――。
 あまりにも有名な御文であり、崇高な劇のごとき師弟の光景である。
 いざという時に――その時にこそ″本物″は光を放つ。その姿は、ひとたび見れば、絶対に忘れることはできない。口先ではない。行動である。何をしたか、どう生きたかである。
 この、在家の信者である金吾の至誠に対し、大聖人は「設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみなぐるが如くこそ候はんずれ」と、大慈大悲で応えておられる。
 ――もしも殿(金吾)の罪が深くて地獄に堕ちられるようなことがあれば、日蓮を「仏になれ」と、釈迦仏がどんなに誘われようとも、従うことはないであろう。あなたと同じく、私も必ず地獄に入ろう。
 日蓮と殿とが、ともに地獄に入ったならば、釈迦仏も法華経も、地獄にこそおられるにちがいない。たとえば、闇の中に月が入ってあたりを照らすようなものであり、湯に水を入れて冷ますようなものであり、水を火にたいて溶かしてしまうようなものであり、太陽に闇を投げても闇が消え去るようなものである。同様に、地獄も即寂光土となるのである――。
 なんという深き、また深き大聖人の信者に対する御慈愛であろうか。御確信であろうか。
 金吾は、大聖人の大難の極限にあって、「同じく」死を選ぼうとした。それに対して、大聖人は、金吾が地獄に行くなら「同じく地獄なるべし」と仰せなのである。
 たとえ、そこがどこであろうとも、師が行くところに自分も行く。これが金吾の信心であった。大聖人との師弟の絆であった。それは形式でも、理屈でもない。人間として、門下としての至情である。何があっても変わらないという、高貴なる人間性である。
 そして、この″ともに死地までも″との金吾の行動に対し、大聖人は、これ以上は考えられない最大の称讃を与えておられるのである。釈尊の「仏になれ」との誘いよりも、在家の一信者である金吾とともに、地獄に行くほうを選びますよ、と。
 そこには、人を見くだすような″権威″の一かけらもない。あるのは、真心には真心で、真剣には真剣で応えようという最高の人間性である。仏法は、人間性の真髄と完全に一致するのである。
 そして、大聖人と金吾と、師弟がともに地獄に入れば、そこはもはや地獄ではない、寂光土である、仏界である、と。御本仏としての大境界であり、大確信であられる。
 大聖人を求め、大聖人の仰せのままに、大聖人とともに生きて生きぬいていこう――この「信心」が、即、私どもを仏界へ、成仏へと導いていく幸福の翼となる。否、その強盛なる無二の「信心」が、そのまま「仏界」の顕現なのである。その人が幸福にならないはずがない。
 この一点を知り、確信すれば、何ものも恐れることはない。だれ人にも抑圧される必要もない。堂々と、また心は広々と、御本仏とともに進む喜びに燃えて、この人生を楽しんでいけるのである。(拍手)
11  永遠の同志の誓い忘るな
 きょうは私の入信記念日(=昭型二十二年〈一九五八年〉八月二十四日)であるが、御授戒をしてくださったのは、のちの第六十五世日淳上人であった。
 日淳上人は、戸田先生の亡くなられた直後、昭和三十三年(一九五八年)五月三日の創価学会第十八回総会の席上、講演され、次のように述べておられる。もっとも深く戸田先生を理解されていた同上人の、戸田先生を偲ばれてのお言葉であった。
 「先程来大幹部の方、役員の方々、又皆様方が相い応じて心も一つにし明日への誓を新たにされましたことは、全く霊山一会儼然未散と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば真の霊山で浄土、仏の一大集りであると私は深く敬意を表する次第であります」(『日淳上人全集』、以下引用は同書から)と。
 同講演の中で日淳上人はまた「法華経の霊山会において上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。その方々を会長先生(=戸田第二代会長)が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」と述べられている。
 「霊山一会儼然として未だ散らず」とは、天台大師の有名な言葉である。その深い意義は、本日は略させていただくが、日淳上人は、戸田先生亡きあと、心を一つにした私どもの姿を、霊鷲山における仏の一大結集と、称えてくださったのである。
12  大聖人は「三世各別あるべからず」――過去世・現在世・未来世と、おのおのが別々なのでは決してない――三世を通じて法華経との深縁がある、と仰せである。
 日淳上人のお言葉を、そのまま拝するならば、私どもは、過去にも大聖人、また日興上人とともに、霊山で妙法広宣流布を誓い、その誓いのままに現世に生を享けた地涌の戦士である。もったいないことであるが、これが日淳上人のご断言である。皆さまは、この自覚と誉れを、年ごとに、いよいよ輝かせゆく使命の一生であっていただきたい。(拍手)
 さらに日淳上人は、この時、「宗門も及ばずながら皆様方といよいよ相呼応致しまして、会長先生のあの大きな仕事に報いて一生懸命にやるつもりでおります」と語られている。まことに、謙虚な、そして「広宣流布」を心の底から願われての言葉であった。
 大聖人の御遺命である「閻浮提内広令流布」(世界広宣流布)へと、あらゆる障害を乗り越えて進んでいる創価学会の戦いを、だれよりも喜んでくださっていた。讃嘆されていた。うれしくてならないとのお心が、つねにあふれておられた。
 さて、一般的にも、その人のことを″忘れない″ということは、思いやりの深さの表れであろう。一つ一つの出会いを、また仏子である同志と触れ合う一日一日を、大切にし、心をこめていくことは、日々、人生の″宝″を積みゆく生き方であると申し上げておきたい。(拍手)
13  「大満足の道」を一人残らず
 戸田先生の「祈り」は、何であったか。それは「全創価学会員を、一人のこらず幸福にしてみせる」という祈りであった。
 また「楽土日本を築こう」という一念であり、「この地上から『悲惨』の二字をなくそう」という心であられた。
 その祈りどおり、不思議にも、日本は世界一ともいうべき楽土へと向かった。世界も変わった。先生の深く、また強き一念は、そばにいた私が、だれよりも知っているつもりである。
 私も祈った。会長就任当時(昭型三十五年)から十年間は、「豊作であるように。飢饉がないように」と、また「絶対に大地震がないように」と。どちらも学会員の友が、また国民が苦しんでしまうからである。広宣流布も遅れてしまう。さらに「全学会員が、皆、裕福になりますように」と一貫して祈ってきた。
 今も、皆さま方が、無事故で、安穏な生活であるように、全員が人生の「幸福の道」「大満足の道」を、「勝利の道」「栄光の道」を無限に開いていけるように、日夜、懸命に祈っている。「一人ものこらず裕福に。一人ものこらず幸福に」と、真剣に祈りに祈りぬいている。この祈りこそが、私自身なのである。
 戸田先生も私も、こうした祈りは指導者としての使命であり、責任であると信じてきた。また、学会の多くのリーダーも、それぞれの立場で、人々の幸福を祈念しておられるであろう。
 しかし他の世界は、そうとは限らない。むしろ、表の慈愛深げな様子とは裏腹に、自分の名誉を追い求め、自分の利害を基準に生きている指導者、宗教者があまりにも多い。悲しいことであるが、これが現実である。
 この現実を、しっかりと見つめ、決して表面の立場や位等に、だまされてはならない。だまされては自分が不幸になる。
 そして、他には絶対にありえない、このうるわしい妙法の同志の世界を、大切に守り合いながら、仲良く、そして賢明に、強く、また強く生きぬいてまいりたい。(拍手)
14  戸田先生は、次の和歌を詠んでくださった。
  もろともに
    旅路の友と
       誓いつる
    心忘れず
       君や戦え
  
 三世永遠に、一緒に広宣流布の旅路を、と誓った友ではないか。その心を忘れないで、君よ、戦ってくれ、との恩師の心である。
 私も本日で入信満四十三年を迎えた(拍手)。その間、十九歳の青春の誓いを、いっときも忘れることなく戦ってきた(拍手)。恩師の遺言も、すべて達成してきたつもりである。ゆえに、何の悔いもない。(拍手)
 私どもは久遠の同志である。永遠の同志である。三世の同志である。どうか、ともどもに、誉れある誓いの道を楽しく進んでいただきたい。
 皆さま方のご健勝とご長寿、そして、心勇ましくも朗らかな前進を、と念願し、本日のスピーチを終わりたい。
 (蔵王講堂)

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