Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

ドクター部、自樺会、自樺グループ合同研… 弱者を守りゆく「人格」の名医に

1990.8.17 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

前後
2  仏法では「十界互具」と説く。そこには不可思議なる人生、生命への深遠な洞察がある。
 それはそれとして、医者といえば、本来は菩薩界の働きをする立場である。しかし白衣を着、形は菩薩界でも、心は餓鬼界の場合がある。政治家にしても、バッジをつけ、形は梵天・帝釈等の天上界でも、心は修羅界、畜生界等の場合がある。そうした例はいくらでもある。つまり、姿形と心が一致していない。偽りがある。
 この矛盾とウソをどうするのか。悪の仕組みに対して、あきらめる以外にないのか。体制を変えたとしても、「人間」が変わらない以上、また同じ悲劇が繰り返されるだけであろう。
 この人類の苦悩の流転をとどめ、打破するために立ち上がったのが、釈尊である。また根本的には日蓮大聖人であられる。
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)、四悪趣(三悪道と修羅界)の、醜い悪や闘争の世界を、真実の天上界、菩薩界、仏界の社会へと転換しゆくのが「正法」であり、その実践が「広宣流布」なのである。
 その根本的な変革なくしては、人類史は永遠に闇の世界である。人間社会は、″弱肉強食″の動物の世界と何ら変わりがないことになる。
 一般的にも、立派な人物であるならば、決して人を見くだしたり、いばったりはしない。むしろ、多くの人が心で思っていても言えない権威的な人に対しても、言うべきことを厳然と言っていく。これが本当に立派な人である。
 また、これこそ仏法の精神であり、真実のヒューマニズムである。弱い立場の人であっても、不正に対して、だれよりも強くなっていく。それが信心の一つの証である。
 私は、弱い立場の人を決していじめてはならないと、つねに叫んできた。みずから、その信念で生きてきたつもりである。むしろ弱い立場の人を厳然と守るために権威をふりかざす人間と、毅然として戦ってきた。それが本当の信心であるし、戸田先生の指導だからだ。
 弱者を守り、大切にしていく人が正義の勇者である。弱者をいじめ、苦しめるのはもっとも下劣な弱者である。弱き人々は、いたわってあげねばならない。大事にしてあげねばならない。しかし人間の世界は、往々にして本末転倒する。そこに根本的な不幸があることを知らねばならない。
3  真実の勝者とは、敗者とは
 「仏法は勝負」である。ゆえに、勝たなければ幸福はない。そして真の勝利とは、人間としての勝利である。弱い者が泣き寝入りをし、強い者がのさばる。社会の、そうした動物性を百八十度ひっくり返していく勇者こそ、真の勝利者であり、菩薩である。「人間」の名にふさわしい文化と平和の戦士である。また本当の「名医」である。
 権力や権威をカサにきて弱者をいじめる傲慢な心は、じつは自分自身の人間性を踏みにじっているのである。それはもはや、人間としての敗者の証となっていることを知らねばならない。
 絶対に人を見くだしたり、あなどったり、感情的に叱ったりしてはならない。いかなる人もすべて平等であり、最大に尊重していく心を持つべきである。それが、本当の「人格」であると私は思う。まして、妙法という生命変革の根源の法を持った皆さま方は、こうした″人類の進歩″の先頭に立つ方々である。真の「人間」と「人格」の世界を開いていく使命の人々である。この残酷な社会にあって、まことに稀有の、ありがたき存在なのである。
 その自覚がどれだけ深いか。その自覚にふさわしい「人格」の広がりと鍛えが、どこまであるか。いよいよ、各人の、そうした差が、はっきりしてくる時代になったことを知っていただきたい。
 さて、あるマスコミ関係者が語っていた。
 ――世間には、自前の大病院を有している宗教団体もある。しかし学会はもっていない。私はその点を評価し、尊敬する。
 本来、宗教の使命とは、どこまでも内なる″精神″の次元から、人間を救っていくところにあるはずだ。人間が希望を持って生きぬいていくための″精神闘争″″生命闘争″を教えるべきである。
 それが、精神的な教えを説く一方で、病院を建て、金儲けをし、人々を内面から救っていけない自分たちの無力さをごまかしている。これは人間への欺瞞であり、宗教者としての根本の使命を忘れた、堕落の姿といってよい。その点、創価学会は、いわゆる病院というものをもっていない。さまざまに批判されているが、私は学会こそ、宗教者のいき方としてもつとも正しいと思う――と。
 戸田先生(創価学会第二代会長)は「学会は、絶対に病院をつくってはならない」と厳しく戒められていた。学会はあくまでも「信心」で進んでいくのだと――。このことは、宗教人としての自覚と自負がこめられた重要な原則である。
4  それはそれとして、医療が人間の幸福に重要な役割を果たすことはいうまでもない。医師、看護婦をはじめ、医療にたずさわる方々は、専門的知識や技術、経験のうえから病める人を助け、励まし、その回復を大きく支えておられる。私たちが健康で長寿の人生をエンジョイしていくために、かけがえのない存在である。薬王菩薩等の尊貴なる働きでもある。
 ましてやドクター部、白樺会、白樺グループの皆さま方は、信心を根本として、日々、慈悲の医療の実践に取り組んでおられる。いかに尊い存在であることか。
 また、治療で健康を取り戻した人が社会に貢献し、さらに広宣流布に進んでいくならば、その善根、功徳は、治療した人の身にも還ってくるにちがいない。どうか、その誇りを胸に、いっそうの成長と活躍をお願いしたい。
5  友人こそ人生の大きな誇り
 先日、この長野研修道場で、ソ連の作家であり大統領会議員であるチンギス・アイトマートフ氏とお会いした。現在、氏とは「対談集」発刊の準備も進められており(=『大いなる魂の詩』上。下、読売新聞社。本全集第15巻収録)、その打ち合わせの意味もこめて懇談のひとときをもった。
 そのアイトマートフ氏が、京都で伝統行事を見ながら、そばにいる人と懇談されたときの様子と会話が私のもとに伝えられた。そこで氏は、次のように語っておられた。
 「今回、(=対談集の)池田先生への回答を全部もってこようと頑張りましたが、間に合いませんでした。しかし、先生の質問はすぐに古くなるというようなテーマではない。読み返すたびに新しいテーマがびっしり詰まっています。それをみても、池田先生が″偉大なる人物″だということがわかります。大事な質問ですので、私も真剣に答えたい。この対談集は、今日も明日も、そして将来にわたって、大事な本になると思います」と。
 さらに、アイトマートフ氏は、対談集の「前書き」を、すでに書き終えられたことに触れつつ、その内容を次のように紹介されていた。
 「前書きのテーマは『池田先生のたき火のそば』ということになるでしょうか。私は、よりよき人生を求めて道を行く旅人です。その私が、ほのぼのとした明かりを発見する。
 明かりは、じつは、たき火だった。そのたき火のそばに、だれかが座っている。私は、彼に近づいていく。その人が池田先生だったのです」
 そして、氏は「たき火のそばに私が座ることに、池田先生が賛成するかどうか心配だが」(笑い)、と述べられながら「私は池田先生にあいさつをします。すると先生は『あなたはいったい、どこをそんなに長くさまよっていたのですか』と、問いかけます。
 私は『道は長くて、険しいものでした。途中で、いろいろな事件、事故にもあいました。人生の苦しみを味わいました。今、私はあなたに会えた。私はようやく、探していた人に会えた』と語り、さらに、池田先生に近づくのです」と。(=同席していたプログレス出版社のフスキン極東部長は、アイトマートフ氏の心情について「文殊〈仏典に説かれた菩薩で、すぐれた知恵を表している〉に出会えたかのような気持ちだったのでしょう」と述べている)
 求道の″旅人″であるアイトマートフ氏から、このような言葉を贈られ、まことに光栄に思っている。私は世界に多くの友人を持っている。なかでも、氏のような獅子のごとき友人を持ったことは、私の人生の大いなる誇りである。
6  訪ソの折にお会いした、児童音楽劇場のナターリヤ・サーツ女史も「皆さまは、偉大な方と巡り会われて、本当に幸せだと思います」と、私とともにソ連を訪問したメンバーに語っておられた。
 アイトマートフ氏も、サーツ女史も、私にとって、かけがえのない友人である。友人であるからこそ、友愛の心をこめて、こうした言葉を寄せてくださったのだと思う。
 「友情」は、まことにぁりがたく、すばらしい。同志愛は、固き信念と主義主張で結ばれた心の絆である。とともに、「友情」ほど、それぞれの信条を超えて、心の底から理解しあい、あたたかく、深く結びあう生命の絆はないというのが、私の心情である。
 どうか、その意味で、深い友情を結びあい、また友情をどこまでも大切にしていく皆さま方であっていただきたい。皆さま方の、ますますのご健勝とご活躍を、心からお祈りしたい。
 (長野研修道場)

1
2