Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回長野県総会 わが生命の「幸福の官殿」開け

1990.8.12 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  さて健康であること、丈夫であることは、人生の舞台で悠々と活躍していくための大切な要件である。
 戸田先生は、戦時中、当時小学四年生であったご子息に宛てて、獄中から手紙を送られている。(以下、『小説人間革命』第一巻参照)
 ――先生は、正法流布の戦いのために獄に入られた。そして、出獄されて後もまた広布の戦に立たれた。まさに連続闘争の生涯であられた。なんと偉大な、なんとすばらしい人生であったことか。人生は、すべてが戦いである。戦って戦いぬく勇者こそ、人生における真の勝利者なのである。
 手紙には、こう書かれている。
 「一切の修養の大本は『丈夫』になること、強い男らしい身体をもつことだ。丈夫になるのは、一心に『丈夫』に俺はなるとまずきめて、さてどうするかは、後は自分の工夫だ」と。
 健康になるためには、長寿であるためには、どうすればよいのか。当然、御本尊に真剣に祈っていくことが根本である。とともに、まず、健康になるための具体的な工夫と努力を重ねることが肝要である。
 何事も、向上と成長を図るためには、どのような具体的な方途をとるかを明快にしていかねばならない。お母さんが子どもに「唱題しなさい」「勉強しなさい」とばかり言っても、子どもはなかなか言うことをきかないものだ。そういう″原則論″を言うことで、自分が安心していられるのかもしれないが(笑い)、子どもにとっては、どうしたら唱題ができ、勉強ができるようになるかという″具体論″が必要なのである。
 信心指導においても同じである。信心も、生活も、現実であり、そこでは、原則論のうえに、現実に問題や悩みを解決していくための具体論が要求される。ゆえに的確にして具体的な指導ができてこそ、信心の名指導者といえよう。
 戸田先生は、こうした手紙で健康の基本を教えられながら、獄中でご子息の丈夫で健やかな成長を祈り続けられた。父と子が同じ時間に唱題するという、「父子同盟」を結ばれてもいた。
3  私も、病弱な体をなんとか丈夫にしたいと思い、努力してきた。戸田先生も私の身を案じ、さまざまな方法を教えてくださった。まことに慈愛深き、ありがたき師であった。
 少年時代、丈夫な体をつくりたいとも思い、私は小学六年生の時から新聞配達を始めた。朝のいい空気を吸いながら、足腰を鍛えた。その二年間の新聞配達が、後に広布の戦いで、日本国中、世界中を回る体力の基礎をつくったと思っている。
 また、家業の海苔製造業を手伝った。海苔づくりは、厳寒の季節での仕事である。時には、午前三時、四時に起床しなければならない。また、水が冷たければ冷たいほど、質のいい海苔ができる。思えば厳しい仕事であった。
 夜明け前のこごえるような寒さのなかを起き出して家業の手伝い、そして新聞配達。学校から帰ってふたたび夕刊の配達と――この繰り返しのなかで培った体力が、後にどれほど役立ったことか。
 さらに、青年時代、私は胸を病み、体は極度の虚弱状態にあった。朝起きると自分の寝汗に驚くほどであった。痩せた胸は、肋骨が浮き出てしまい、医者は″もって二十数歳まででしょう″と言っていた。戸田先生も、″三十までしか生きられない体だ″と心配されていた。
 しかし私は生きた。広布に駆ける青春のなかで、病魔を克服していった。戦いに戦ったその生命力で、健康を勝ち得てきた。
 生命の力は無限である。かのハマー博士も、九十二歳にしてなお、世界を舞台に活躍しておられる。人間の可能性は、計り知れない。働けば働くほど、力がわく――これが体験のうえから得た、私の確信である。
 まして、信心に徹した人生を貫いていくならば、限りない生命力がみなぎっていくことは間違いない。そこでは、積み重ねてきた努力が、すべて生かされていくのである。
 どうか皆さま方も、信心を根本に具体的に工夫を重ねながら、「健康」と「長寿」の人生を生きぬいていただきたい。
4  「自身の官殿」に入るには
 さて、多くの人々が求めてやまない「幸福の宮殿」、永遠不滅の「幸福城」は、どこにあるのか。どうすれば自分のものとすることができるのか――。
 日蓮大聖人は「御義口伝」で次のように仰せである。
 「南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」――南無妙法蓮華経と唱えることは、自分自身の生命の官殿に入ることである――と。
 どのような人の生命にも、仏界という金剛不壊の生命の境界がある。それは、いわば、まばゆいばかりの無量の″財宝″で飾られた、永遠不滅の幸福の「宮殿」である。信心をし、題目を唱えることによって、その生命の官殿に入っていくことができる。つまり、自分自身の生命の宮殿を、燦然と輝かせていくことができると教えられているのである。
5  世間には、人それぞれの「宮殿」がある。財産や社会的地位を求める人もいる。また、名声や人気や流行などに憧れることもある。しかし、それらは、確固不動の大山のように永遠性のあるものではない。移ろいゆく人生のなかで、ホタル火のごとく、美しく点滅しては、いつしか消え去ってしまうものである。
 はかなく消えゆく世間の栄えを求める人生も、またむなしい。いつかは無常に帰す虚像の幸福に、あれこれと心を動かすことも、またわびしい。
 大聖人の仰せのごとく、自身の生命の最高の境涯――それこそが、永遠にして不滅の「宮殿」であり、「幸福城」なのである。
 どんなに立派な家に住み、多くの富に恵まれていても、心が卑しく、境涯が低ければ、決して幸福とはいえない。それでは、「不幸城」に住む人となってしまう。
 たとえ今は、どのような環境にあっても、心美しく豊かで、境涯の高い人は、必ず物心ともの幸福を開き、築いていくことができる。
 これは、依正不二の原理として説かれているとおりである。依正不二とは簡潔にいえば、依報である環境と正報である主体、自分自身とが一体不二の関係性にあることである。
 また、自分自身の生命の官殿を開いていくことが、やがて他の人々の幸福の宮殿、社会の繁栄の宮殿を開いていくのである。自身の生命の官殿を開きながら、それが他の人の生命の官殿を開いていくという連動性――ここに、仏法のすばらしき方程式がある。
6  現代のように複雑で、ともすれば悪の蠢動に巻き込まれがちな社会では、人生を聡明に生きていく知性が大事である。一方、信心は幸福への境涯を開くものである。この信心と知性の両者を磨き深めた人こそ″人間王者″の姿であり、人生の王道を歩みゆく生命の勝利者なのである。
 ともあれ、信心によって、自分自身の生命の官殿を三世永遠に輝かせていく。その人こそ最高の幸福者である。
 皆さま方は、広布の活動によって、日々、みずからの生命の中に幸福の「宮殿」を築き、開いておられる。ゆえに、一生成仏は間違いないし、必ずや宇宙大の生命の官殿に住む″幸福の王者″となっていけるにちがいない。どうか、その強い確信と誇りをもって、明るく、堂々と信心の大道を進んでいただきたい。(拍手)
7  妙法は「自由」「平等」「尊厳」を説く
 日淳上人は、ここ長野のご出身であった。中央アルプスの峰を仰ぐ、天竜川の清流のほとり、伊那の地にご誕生になり、育っておられる。ここ長野を訪れるたびに、私には日淳上人のご遺徳がしのばれてならない。
 上人は、戸田先生とまことに懇意にされていた。また皆さまもご存じのとおり、私の入信の時、現在の昭倫寺で御授戒していただいたのが上人であり、このことからも、私をたいへんにかわいがってくださった。そのお人柄には、たしかに″信州人″のよき気骨が貫かれているように感じられた。
 日淳上人は、学会の総会などの折、よく「民主主義」について言及され、私どもの運動に深い意義づけをしてくださった。そして、大きな励ましと張り合いをいつもあたえてくださったのである。(以下、引用は『日淳上人全集』下巻による)
 たとえば、昭和二十六年(一九五一年)七月二十二日、「創価学会常住」の御本尊奉戴式の意義を込めた臨時総会の折には、このように述べられている。
 「この(=民主主義の)思想が何を基本としているかと云へば人類の平等、自由、尊厳であります。この事を考へて見るに妙法蓮華経は完全に説き尽して居り何も目新しい事ではありません。即ち述門では諸法実相は人類のみならず生命全体の平等を説き尽しており、本門ではこの宇宙に自由に闊歩する事の妙法の根本を示しております」と――。
 妙法の説く「平等」は深く、広い。深遠にして、偏頗なき、永遠の生命観に裏づけられているからである。妙法の説く「自由」は大きく、豊かである。何ものにもとらわれない、「宇宙を闊歩」するような大境涯を開いていけるからである。
 妙法の説く「慈悲」は深く、強い。いかなる苦悩をも抜き、永遠なる幸せをあたえてくれるからである。その意味で仏法は、もっとも優れた「民主主義」の思想をもつ大法なのである。(拍手)
8  なお日淳上人は「平等」に関して、若き日の論文で「慈悲の上にこそ平等不二の世界がある」とされている。とくに「主・師・親の三徳」を挙げ、「慈悲」の精神こそ、利己的な個人主義による現代の不幸を救う道であると強調されている。
 それは、リーダーに「慈悲」があり、人々が「尊敬」と「信頼」の心で応える――という「指導者」と「民衆」のうるわしい関係性に通じるであろう。
 そして日淳上人は、「そこ(=仏法の士心向する『平等の世界』)には支配する支配される関係はなく、権利義務の関係もない、犠牲とか手段とかの念もあり得ない。此考へ方を拡充してゆくところにのみ真実の世界が現はれてくるのである」と述べられている。
 この論文は″現代社会の文化″の状況をめぐって論じられたものであるが、組織の人間関係のあり方や広布の歩みにとって、非常に大切な道理を教えられている。
 学会は尊い″庶民の連帯″の世界である。″全員が皆、仏子″の妙法の世界である。そこには支配する、支配されるという関係はありえない。まただれ人も、威張る権利はない。屈従する義務もない。そして、だれ人たりとも仏子を犠牲にしてはならない、との深き意義を、上人は述べておられるにちがいない。(拍手)
9  時代に合致した学会の行き方
 さらに日淳上人は、昭和三十年(一九五五年)五月三日、学会の第十二回総会の講演で、次のように話されている。
 「迷信的なこと、不合理なことをテキパキと排除して明朗に真実なものに進むということが民主主義の行き方と考えます。この時代の要求とわれわれの布教活動とを照合しますと、よくピッタリと合致するものであると思います」と――。
 時代遅れなことや道理に合わないこと。また横柄な権威や不必要な形式――。こうした点を、どんどん刷新し、真実の道に進んでいくのが、弘法の一つの側面である。日淳上人は、この広宣流布の実践のあり方に徹している学会の行き方こそ、まさに時代の流れに合致した、正しき道である、とたたえてくださっているのである。(拍手)
 日淳上人は、「民主主義」は「宗教」を基盤とするが、不合理な宗教は民主主義の″敵″であると見ぬいておられた。そして、民衆を手段とし、犠牲としていくような、悪しき権威の宗教を厳しく戒めていくよう教えられていた。
 ともあれ、″信州人″には、一人一人に確固たる人格の″芯″がある。ひとたび深く心が通じ合えば、決して友情を裏切らない。外国でいえば、確固たる自分をもったイギリス人の気質に相通ずるようにも思われる。
 少し″強情″な面があるかもしれないが(爆笑)、人柄に味わい深い″魅力″があり、人間として信頼できる人が多い(拍手)。長野、そして新潟の皆さまにお会いすると、私には心からの親しみと、深い安らぎが感じられてならない。(拍手)
10  時代へと仏法基調の大文化運動
 日淳上人は、仏法を基調とした「文化運動」の意義についても語ってくださったことがある。それは、昭和三十一年の男子青年部の総会での講演である。
 日淳上人は、聖徳太子や伝教大師の足跡を「仏教による文化運動」と位置づけられている。すなわち、日本の歴史を概観され、仏教なかんずく法華経による文化運動が支柱となって、日本文化が形成されてきたことを論じられた。
 しかし、これらの過去の文化運動はもはや魅力を失ってしまって久しい。では、今日の時代の光明はどこに見いだせるのか。それは″大聖人の仏法以外にない″と、上人は強調されている。
 そして学会青年部に、こう呼びかけられたのである。
 「これにつきましては、既に皆様方が孜々として研鑽せられつつあると私は信ずるのでございまするが、いよいよ各位はこの歴史的事実と現在の文化の解剖批判ということを、はっきり把握せられまして、この時代の一大指導者として健闘せられんことを念願致します」と。
 青年部に対して、絶大な信頼と期待を寄せてくださったお言葉である。
 大聖人の仏法を受持した青年よ、新しい大文化運動を創出して、先頭をきって大指導者として働いてください、と。
 私は、このとき、青年部の室長であった。ゆえに、このお言葉が強く、深く、心に響き残っていた。
 日淳上人は、仏法の社会的実践においては、「文化」の次元が重要であることを示されていた。広宣流布の活動は、仏法を根本とした一大文化運動へと連動していくのである。
 今日まで、学会が行ってきた文化運動も、日淳上人のこのお言葉にも励まされて、推進してきたものともいえる。世界へと広がった、私どもの仏法を基調とした文化、教育、平和運動を、日淳上人はいかばかりお喜びくださっているかと確信している。(拍手)
11  人間の病・嫉妬は不幸の因
 ″正しき道″を進んでいる人は妬まれる。日蓮大聖人もそうであられた。日興上人もそうであられた。創価学会の歩みも同様である。そのほか歴史上の実例は無数にある。
 嫉妬は、いわば人間の病である。病気のようなものである。
 シェークスピアは、嫉妬の悲劇『オセロ』の中で、ジェラシー(嫉妬)のことを、「緑色の眼をした怪物」と呼んだ。この怪物に魂を奪われると、病のごとく、自分で自分をどうしようもなくなる。
 ギリシャの哲人アンティステネスは、「嫉妬は錆のごとし。錆が鉄をむしばむがごとく、嫉妬は汝自身をむしばむ」と。
 そのとおりであろう。提婆達多も、釈尊への妬心から、身を滅ぼした。これは″男の焼きもち″である。また女性の嫉妬は、悪鬼としての鬼子母神、十羅刹女の生命に通じるといえるかもしれない。
 現代の広布の前進においても、自身の嫉妬心に信心をむしばまれ、みずから堕ちていった人間がいたことは、ご承知のとおりである。
12  大聖人は、次のように明確に仰せである。
 「彼の阿闍梨等は・自科を顧みざる者にして嫉妬するの間自眼を回転して大山を眩ると観るか
 ――かの阿閣梨(大聖人を誹謗して、本末転倒の法門を唱えていた悪僧・尾張阿閣梨)らは、自分の誤りを顧みない者であり、(正法の行者であられる大聖人を)嫉妬するあまり、自分の目が回転しているのを、大山が回っていると見ているようなものである――。
 たしかに、自分の目が回っていれば、見るものすべてが回って見えるだろう(爆笑)。しかも自分では、その転倒に、まったく気づかない。こうなっては、もう正常な話し合いも不可能である。
 ――大きくうなずいておられる方は、奥さまの″焼きもち″に苦しんだ経験がおありの方かもしれない。(爆笑)
 ある人が言っていた。「まったく、焼きもち焼きの女房ほど、手に負えないものはない」(爆笑)。「ヒステリックになって(笑い)、何を言っても話が通じない」(笑い)。「私は、ほとほとこりました」(笑い)。「こうなったら、もう放っておく以外ありません」(爆笑)
 率直な体験談であって(笑い)、決して女性を批判しているのではない(爆笑)。むしろ、男性の嫉妬のほうが、被害も大きく(爆笑)、こわい場合が多い。
13  ぐるぐる目が回転している人に、どう見えようと(笑い)、大山は大山である。どっしりとして不動であり、不変である。
 富士のごとき、また浅間のごとき、大いなる山も、目が回っている人間には、ぐらついて見える。動かざる大地も、雲を浮かべた大空も、回って見えるのである。
 ゆえに、そうした人間の言うことを信ずるほうが愚かである。決してだまされてはならないということを、大聖人は教えてくださっていると拝される。
 嫉妬の人間の悪口はつねに、自分自身の″悪″と″動揺″を語っているにすぎない。
 妬み深い人間は、つねに動揺している。他の人の動向に一喜一憂しながら、いつも胸中で、あれこれ策をめぐらしている。本当の自信がなく、不安定に、ぐらついている。心の休まる暇がない。その意味で、彼らは不幸である。
 そのうえ、他人の幸福や成功を見るたびに、黒い炎に胸をこがして苦しむ。だから、彼らは二重に不幸である。
14  仏道修行は慈悲の実践
 さらに、目が回って、物事の正しい姿が映らない。ゆえに、必ず道を誤る。頭に血がのぼって(笑い)、常識も礼儀も人間性も、どこかに消し飛んでしまう。自分を守ってくれている味方をも敵にし、本当の敵を見失う。
 その結果、自分で自分を傷つけ、自滅していく。また、時代と民衆の進歩にとり残される。ゆえに、ますますあせる。こうした意味で、彼らは三重に不幸である。
 そして、彼らのまわりからは、正しき人は遠ざかる。妬みの人、野心の人、策謀の人が集まってくる。悪人のみに囲まれて、本当の友情も知らない。心通う同志愛のすばらしさも味わえない。この意味でも、さらに彼らは不幸である。
15  それでは、嫉妬の反対は何であろうか?ある意味で、それは慈悲ではないかと思う。
 仏法では、「慈悲を観じて嫉妬を治す」――慈悲を観じて嫉妬を治療する――と説く。
 釈尊時代、「慈悲観」という修行によって、嫉妬、また瞋恚(いかり)を静めようとしたのである。(=「減劫御書」には「瞋恚しんにをば慈悲観をもて治し」と、嫉妬と瞋恚を相通ずるものとして扱われている)
 瞋恚は、いうまでもなく、貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろか)の三毒の一つであり、地獄界の顕れである。「慈悲」を観ずることによつて、初めて嫉妬という″地獄界の炎〔を消し静めることができるとしたのである。
 もちろん今、末法において、そうした修行は必要ないし、そんなことを教えても、火に油を注ぐように逆効果であると、大聖人は仰せである。
 末法においては、御本尊こそ大慈大悲の御本仏の生命の当体であられる。ゆえに、御本尊を持ち、妙法広宣流布へ、自行化他の行動をしている私どもは、いわば「慈悲の修行」をしているといってよい。「慈悲観」も、その実践のなかに自然に含まれているのである。
 ともあれ、私どもは、他の人の幸福を祈り、他の人の不幸に同苦しつつ、正法を弘めている。これに対し、妬みの人は、他の人の幸福に苦しみ、他の人の不幸を喜び、願って生きている。人間として、まったく正反対の生き方なのである。
16  そのうえで、十界互具(十界のそれぞれが、互いに十界を具していること。この場合は、人界にも、地獄界を含む十界が具わっていることを指す)であるゆえに、だれしも、嫉妬という地獄界の炎をもっている。だからこそ、「修行」が必要なのである。
 つねに、他の人の幸と成功を心から望み、喜んでいける――そういう強い人間を、正しい人間を、つくりあげていく。それが信仰である。仏道修行である。
 そのためには、たとえば自分のいちばん気にいらない人、自分のいちばん困っている人、その人のことを真剣に祈ってあげることである。もちろん、悪への妥協がいけないことはいうまでもない。
 また私どもは、事実、後輩のこと、同輩のこと、先輩のことまで、皆、祈っている。思いやっている。こんな慈愛の世界はない。これほど尊く、うるわしい集いもない。(拍手)
 そして、この仏道修行によって、自身の境涯、人格を押し広げ、まさに″大山″のごとき大盤石の生命、きょうの″大空″のごとき晴れやかな大歓喜の人生を、築いていけるのである。この大境涯にこそ、真の「幸福」も躍動している。
 幸福は、決して、″あれがあれば″″環境がこうなれば″手に入るというようなものではない。いずこにあっても、また何があっても、自分らしく、朗らかに、人生を楽しみきっていける自身の″境涯の開花″にこそ、幸福はある。
17  皆さまは、日々、法のため、人のため、社会のために、時には多くの人が休んでいる間も働き、進んでおられる。人類の中にあって、最高に尊い方々であられる。
 皆さまの安穏とご健康、ご長寿を、そしてご活躍を、私は懸命に祈っている。皆さまが安心し、喜びに満ちて歩んでいかれることが、私の最大の願いである。
 最後に、この長野、そして新潟の地に、世々代々にわたる信心後継のすばらしき″父子の流れ″をつくられんことを念願し、祝福のスピーチとしたい。本日は、本当にご苦労さまでした。
 (長野研修道場)

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