Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三回未来部総会 心の大地に希望の若木を

1990.8.6 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  先ほど、この会場に来る前に、諸君の先輩で、未来部出身のメンバーと「未来部時代に大切なことは何か」について語り合った。
 ある人いわく「″忍耐″がなければ道は開けない。どこまでも″挑戦″していかねば立派な人間になれない」と。
 またある人は「親に心配をかける人であってはいけない。親に心配をかければ、今度は自分が親になったときに、それ以上に子どものことで心配しなければならなくなる。親に心配をかけない人は、将来、自分が、より大きく子どもから守られていくものだ。それが、妙法の因果の理法でもある」と語っていた。
 釈尊も、日蓮大聖人も、親孝行の大切さを説いておられる。御書にも「釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり」――釈尊は、孝行の人を世尊と名づけられた――と仰せである。親を大切にすることは、人間として崇高な行いなのである。
 また、中等部長を経験したある副会長は、こう述べていた。
 「これならば人に負けない、というものを、何か一つもつことである。英語なら英語、数学なら数学、あるいは水泳でも何でもよい。その″一つ″に自信をもったとき、他のこともできるようになるものだ」と。
 本日の総会には、全国で約三十万人の後継の友が参加されているとうかがった。未来部躍進月間の今月、五十万人が記念の会合に集いあうことになっており、世界七十二カ国・地域でも十七万五千人の未来っ子が、妙法の信仰を根本に、はつらつと成長の節をきざんでいる。
 これだけの鳳雛たちが、英知の翼を鍛えて世界へと飛び立っていくことを思えば、二十一世紀は盤石であり、私には何の心配もない。その前途輝く諸君の″人生の勝利″のために、こうした先輩たちの言葉を、一つの参考にしていただければと思う。(拍手)
3  友情につつまれた第五次訪ソ
 さて、皆さんもご存じのとおり、私は先日、五度目のソ連訪問を果たした。第一次訪ソ(一九七四年)から十六年。一段一段、積み上げるように、着実に、誠実に道を開いてきた。
 どんな仕事も地味な労苦なくして、小手先で完成できるものではない。そんな安直な気持ちは微塵もあってはならない。
 私はつねに、最低「十年単位」で物事を見、手を打っている。また、じっくりと″時″を見、″時″をつくりながら、もっとも価値的に動いている。その心が皆、なかなかわからない――。
 今回の訪ソは、かねてよリソ連の多くの友人から、再三にわたって招待を受けており、その真心の友情に応える旅であった。
 この人生、「友情」こそが尊い。真の「友人」こそが信頼できる。それが、多くの体験を経てきた私の″結論″ともいうべき心境である。
 「走れメロス」の真実――。立場はどうあれ、本物の「人間」との魂の絆は強い。形式ではない。
 最後は、やはり、その人の人間性である。人物である。
 私は世界各国に本当の友をもっている。だから強い。それが大きな誇りでもある。
4  今回の訪ソでも、たくさんの友人と再会を喜び合った。その一人に、チンギス・アイトマートフ氏がいる。
 氏は、現代のソ連を代表する世界的作家であり、多くの名作を残している。『処刑台』『一世紀より長い一日』『ジャミリャ』などは、日本でもかなり知られている。
 また大統領会議のメンバーでもあり、ゴルバチョフ大統領と一体になって活躍しておられる。大統領も、私に「彼は親友です」と紹介されていた。お二人もまた友情で結ばれているのである。
 氏は、信ずる正義と友情のためなら、どこまでもまっすぐに戦っていく人物である。みずから、民衆の中へ、人間の中へと飛び込んで、複雑な民族問題などの解決のために奔走されている。
 動きつつ考え、書きながら、また動く――まさに″行動する作家″である。小さな自己の名声等ではなく、自己の全人生をかけた信条の実現こそが、氏にとって重要なのである。
 私とアイトマートフ氏のことを名づけて、ある人いわく、「二人の獅子」と。
 私のことはともかく、氏は風貌も、まことに男性的である。年齢は、私と同じ一九二八年生まれ。信義を裏切らない人物である。
 大統領と私との会見にも、当初より日程が早まったため、故郷のキルギス共和国から、超多忙ななか、わざわざ二回も飛行機を乗り継いで駆けつけてくださった。夏休みの時期とあって、飛行機の手配もたいへんだったと聞く。クレムリンでも、心なしか、まだその疲れが顔に残っていた。
 ″何をおいても、この会見には立ち会いたい″、そう決めておられたようだ。私は、その心がうれしかった。
 会見は約一時間十分。対話は、はずんでいたが、私はころあいを見て、みずからいとまを告げた。それが多忙な大統領への礼でもあると思うからだ。
 アイトマートフ氏は、会見の最後に、スックと立ち上がり、「二人の偉大なる巨人の対話が、きょう、ついに実現しました」と祝福してくださった。一生涯、忘れ得ぬ絵のような光景であった、と。
 今、申し上げたように、アイトマートフ氏の故郷はキルギス――。あのシルクロードが走る、山と草原の国である。
 中央アジアの北東部。中国と隣り合わせの位置にある。万年の白雪を冠してそびえる天山山脈は、平均の標高が三五〇〇〜五〇〇〇メートル。つきぬけるような青空のもと、草原には緑の草の波がうねる。まことに雄大な、また広々と開けた大地である。
 こうしたおおらかな風土からは、大きな人物、偉大な文学、芸術が生まれるだろう、と私は思う。日本は、あまりにもこぢんまりとし、またこせこせしているような気がしてならない。コンピューターばかりいじっているせいか、人間よりも機械に似ているという人もいる(爆笑)。何が幸福で、何が不幸かは、一面的には決められない――。
 「キルギス」という名前の由来は、よくわからない(国名はキルギス人の族名から)。「草原(キル)」を「遊牧する(キス)」という意味ではないかという説もあるようだ。
 今回は、このキルギス共和国のドゥイシェーエフ副首相も、アイトマートフ氏の友人として、モスクワまで私に会いにきてくださった。この方も、明るく篤実な、とてもすばらしい方であった。
 「先生、ぜひわが国に来てください!」と、繰り返し招待してくださった。そして、大統領との会見記念として、キルギスの草原を駆ける一頭の栗毛の馬を、私に贈りたい、と。
 世界的な良馬の産地であり、専門家からも折り紙のついた名馬である。私に贈る日のことを思い描いて育ててこられたという。私は、その真心とロマンに感動した。
 しかし、いったい、どうやって連れて帰るのか(爆笑)。飛行機に乗せるわけにもいかない(爆笑)。かりに連れて帰っても、置くところもない(笑い)。そもそも、だれが面倒をみるのか(笑い)。ニンジン代だって、バカにならない。(爆笑)
 また、広大な草原から狭い東京に連れてきても、かえってかわいそうであるし、ひとまずキルギスで育てていただくことにした。名前は「ダイサク」君と決まった。(笑い、拍手)
 ともあれ、今回の訪ソも、こうした大きくあたたかい人間の真情につつまれた日々であった。
5  アイトマートフ氏の小説『最初の教師』
 アイトマートフ氏の若き日の小説に、『最初の教師』という作品がある。本日は、美しき心のドラマを描いたこの作品について紹介しておきたい。(以下、作品の概略は、あかぬま・ひろし訳、モスクワ・プログレス出版所刊による。=同作品はこのあと、同じく赤沼弘訳で一九九〇年十二月に『最初の教師・母なる大地』として第三文明社から発刊された)
 ――せせらぎの流れるキルギスの広い高原のふもとに、ある小さな村があった。
 その村の丘には、二本の大きなポプラの木が、まるで岬の灯台のように立っていた。二本のポプラは、風に揺れ、梢と葉をふれあわせながら、いつも優しい音色を奏でていた。それはまた、小鳥たちが群れ遊び、人々を涼しい木陰に憩わせる大樹であった。
 夏休みになると、子どもたちは一目散に丘を駆けあがり、その大樹によじ登っていく。ポプラのてっぺんからの眺め――そこには魔法の世界のように広々として、光り輝く展望があった。子どもたちは皆、それぞれが腰かけた枝で大地の偉大さに息をのみ、目を見張る。
 では、このポプラの木は、いったい、どのような人が植えたのか。そしてその人は、どのような思いをこの木に託したのだろうか。――物語は、この問いかけから始まる。
 ロシア革命から七年後の一九二四年(大正十三年)。この村に、一人の青年が帰ってくる。青年の名はジュイシェン。村に初めての学校を開いて、子どもたちを教えるという使命を託されていた。
 ところが当時の村人は、「学校」とか「勉強」という言葉をほとんど聞いたことがなかった。なにしろ、おじいちゃんも、ひいおじいちゃんも、だれ一人として読み書きのできる者がいなかった土地である。
 したがって、「学校をつくろう」「子どもたちに勉強をさせよう」という青年の呼びかけは、なかなか理解されなかった。かえって青年は侮辱された。
 彼自身、大学を出ていたわけでもない。無学な、そして平凡で貧しい青年であった。それだけに、よけい人からバカにされた。しかし彼は、自分が思うように勉強できなかったからこそ、せめて子どもたちには勉強をさせたかったのである。
 生まれた村以外、どこにも行ったことのない子どもたちも、学ぶことによって新しい、大きな世界に羽ばたいていくことができる。すばらしい未来を、自分の手で切り開いていくことができる。それはまた、祖国の発展の道である――青年は、そう確信していた。
 だれの協力も得られないなか、青年は一人で、丘の上にある荒れ放題の馬小屋を修理して、校舎をつくることから始めた。
 偉大な仕事は、簡単にできるものではない。人知れぬ労苦を、どこまで粘り強く持続できるかにかかっている。
 いったん「私はやる」と決めたら、何があっても動じない。むしろ、何かあるたびにますます闘志を燃やして挑戦していく。ここに、人間としての本当の生き方がある。また、それが学会精神である。どうか諸君は、若き生命を限りなく燃やしながら、かけがえのない青春を自分らしく、精いっぱい生きてほしい。
6  青年はまた、子どもたちに家の仕事を手伝わせ、学校へ行かせようとしない頑固な親たちを、説得しなければならなかった。そして毎朝、毎朝、家々を回って、子どもたちを集めたのである。
 ――子どもたちの将来を思って、懸命に奔走する若き″先輩″の姿。意義、事情は異なるが、私はその姿に、未来部担当者の方々のひたむきな活躍が思われてならない。
 学校のある丘に行くには、冷たい小川を渡らねばならない。小さな子どもたちである。青年は一人を肩車し、一人を抱きかかえ、何度も往復して、全員を渡らせる。
 そして、壁にあいた、いくつものすき間から、万年雪の峰が見える粗末な小屋で、青年は一生懸命に勉強を教えた。子どもたちも、その先生の思いに応えて、真剣に勉強する。ノートなども十分にないため、雪の上に小枝の先で字を書き、練習したこともあった。
 ――心をうつ情景である。ここには、人間の美しき魂の交流をほうふつとさせる詩がある。
 人間の価値を決めるのは、名誉や財産、権威・権力などではない。それらは、人間としての向上と成長を求めてやまない魂の偉大さ、美しさにくらべれば、まことにはかないものだ。ゆえに諸君は、何よりもまず、美しき魂の人、凛々しき魂の人に育ってほしい。
7  人間の価値は″向上の心″で決まる
 話は変わるが、創価学会の初代会長である牧口先生も、小学生のころから、苦労しながら、一生懸命、勉強をされていた。
 牧口先生は、新潟県の一小村・荒浜で生まれ育った。家業は回漕業(船で旅客や荷物を運ぶ仕事)で、小さいときから家計を助けるために、家の仕事を手伝った。そんな日はやむをえず、学校を休まなければならない。仕事の忙しさによっては、何日も続けて学校を休むことさえあった。
 しかし牧口先生は、学校を休んだ日は、必ず友達から授業の内容を聞くことを忘れなかった。
 友達のほうが家業の手伝いで忙しくなったときは、「ねえら(君)の仕事をしてやるから勉強の内容を教えてくれろ」と言って、友達の分まで仕事をして、その友達が学校から帰るのを海岸で待っていた。牧口先生とその友達は、砂浜に腰をおろし、砂浜を黒板がわりにして、夕日が海に沈むまでの間、その日の授業の内容を学び合ったという。
 牧口先生は、砂浜を黒板として勉強されていた。ノートがあっても居眠りをして何も書かない人もいる。環境に恵まれていることが、いいことなのか、悪いことなのか。自分自身の姿勢いかんで、幸福にも、不幸にもなってしまう。
 もちろん、今は時代が違うかもしれない。しかし、本気になって「学ぶ」ということが、人間としてどれほど尊いことか、また、どれほど美しいことか。それを忘れないでいただきたい。(拍手)
8  未来を信じ大樹と育て
 この青年教師の教え子に、アルティナイという名の乙女がいた。
 彼女は幼くして両親を亡くし、底意地の悪い叔父・叔母夫婦のもとで、たいへんにいじめられる。学校にも、やっとの思いで通っていた。しかも、やがて奴隷のように売られる運命が待ちかまえていたのである。
 彼女を励まそうと、かの青年教師は、青く澄んだ空のもとで、学校のある丘に二本のポプラの木を植える。
 教師は乙女に、こう語る。
 「先生と二人でこの若木を植えよう。このポプラの本が大きくなって、力をたくわえてゆくあいだに、おまえも大きくなり、いい人間になるんだよ。おまえは気だてがいいし、頭もいい、勉強もよくする。先生にはいつも、おまえが学問の人間になると思われるんだ。そしてそれを信じている。きっとそうなるよ」
 「この二本のポプラは、いつも人びとの目につく所に立っていて、善良な人たちを喜ばしてくれるようになるよ。その頃にはねアルティナイ、ぜんぜん別の生活が始まるんだよ。何もかもすばらしくなるよ」と――。
 この乙女の目の前には、いつも、つらいこと、悲しいことが多かった。しかし青年教師は彼女を励まし、はるかな未来を信じて、希望の若木を植えたのである。″必ずすばらしい日々が訪れるよ″と。
 この青年教師の思いは、私には痛いほどわかる。私もまた、皆さんの「心の大地」に、強く伸びゆく「希望の若木」を植えておきたい。(拍手)
9  人生は長い。何があろうと、決して一喜一憂する必要はない。
 青春時代は、心も体も、微妙に揺れ動く時期である。みずみずしい好奇心。鋭敏な感性。また人には言えない悲しみや苦しみもあろう。ときには家を飛び出そうとか、学校をやめたいなどと思うことさえあるかもしれない。さまざまな感情の起伏があるのは、当然である。
 しかし諸君は、唱題を根本として、そうした悩みや課題を、一歩一歩、乗り越えていっていただきたい。またどんな時にも、自分の家族、自分の学校を心から大切に思える人であってほしい。
 とくにお父さん、お母さんに対しては、いつもいつも叱られてばかりで、″うるさいな″と思うかもしれない。しかし短気になったり、感情に流されてケンカをするようであってはならない。大人たちに代わって、やがては″僕らの時代″″私たちの時代″が来るのだと、大きな心で親を包容していくくらいであっていただきたい。
 ともあれ、かけがえのない青春時代である。どうか未来部の諸君は、信心と勉学の″軌道″をまっすぐに歩み、「大樹」のごとく強く、大きく幸福の枝を広げた自分自身をつくりあげていただきたい。(拍手)
10  さて、その後、ひとたびは奴隷のような境遇におちいった乙女を、先生はみずから命をかけて助けだす。そして、彼女は大都会の学校に入学する。
 ――時はめぐり、その乙女は、今や著名な大学者(アカデミーの会員)となって、故郷を訪れる。村に新しい立派な学校ができ、その晴れやかな開校式に来賓として招かれたのである。
 あの丘の二本のポプラも、今では見事な大樹と育ち、彼女を迎えてくれた。
 しかし、あの「最初の青年教師」は、いったいどうしているのか。戦争などによって引き裂かれて、かつての青年教師と乙女は、一度も再会の機会がなかった。
 乙女のほうは、大学に学び、大学者への道を歩んでいったが、青年教師のほうは、その村にふみとどまり、立身とか出世とは、まったく無縁の人生を生きたのである。
 開校式の終わったころ、祝電を届けにきた郵便配達の老人がいた。彼は、卒業生たちからの真心の祝電が、なんとか式典に間に合うようにと、一生懸命に馬を走らせてくれたのである。まことに誠実な、心のこもる仕事であった。
 じつはその年老いた、まじめな郵便配達員こそ、かつての「最初の教師」その人だったのである。
11  この村に最初の学校をつくった真の功労者は、晴れやかな席には招かれなかった。そればかりか、村の人々はかつての恩を忘れ、今はすっかり年老いたジュイシエンを嘲り、小馬鹿にさえしていた。
 その姿に、かつての教え子である大学者は、「私たちの最初の先生」こそ一番偉い人であり、もっとも尊敬されるべき人である、と心に期したのだった。
 彼女は問いかける。「平凡な人間を心から尊敬する能力を、私たちはいつ失ってしまったのでしょうか」と――。
 すなわち、だれが真に偉いのか。だれに恩があるのか。立場や名声など、表面のことに目を奪われているうちに、本当のことがわからなくなってしまうのが、人間の浅はかな心の常である。そうであつてはならない、真実を見失ってはならないと、彼女の言葉は問いただしているといえよう。
 そして彼女は、村の新しい学校を、自分たちの恩師であり、村の隠れた恩人である「最初の先生」の名前をとって「ジュイシェンの学校」とするよう、提案する。こうして二本のポプラの本から始まった物語は、恩師をたたえる彼女の呼びかけで結ばれる。
 ――なんと胸打つ、美しい心のドラマであろうか。アイトマートフ氏の胸中にあふれてやまぬ、この平凡にして偉大な「人間」に対する深い尊敬の思いが、私には痛いほど伝わってくる。
12  六十周年を迎えた学会の歴史は、権力とも財力とも無縁の平凡な庶民たちが、清らかな信心で築いてきたものである。
 これほど崇高な使命の輝きをもった団体、美しい心の世界はない。妙法を根本に、これほどに「人間」を信じ、「人間」をつくり、「人間」を大切にし、そして「人間」を本当の意味で高貴あらしめている世界は、他のどこにもないと確信する。(拍手)
13  真実のヒューマニズムの大道を
 どうか諸君も、この「学会」という″平凡にして最高に偉大な人間の群像″に限りない誇りをもって、どこまでも生きぬいてほしい。
 そして皆さんは将来、立派になって、無名であるけれども偉大な人生の道を歩みぬいたお父さん、お母さんたちのことを、堂々と世界に宣揚していく立場にあることを、私は訴えたい。また、必ずそうなると確信している。ゆえに今は、どんなに妬まれ、悪口を言われても、私は何とも思わない。
 モスクワでの語らいの折、アイトマートフ氏は私にこう言われた。
 「私は信じています。時代が変わり、やがて″ヒューマニズム(人間主義)の世界″が実現したならば、私たちのことを人々は思い起こすでしょう」(「聖教新聞」一九九〇年八月一日付)と。
 世界中の心ある人々が注目し、熱い期待を寄せる学会の「真実のヒューマニズムの大道」――どうか、皆さんも私とともに、生涯、この大道を歩みぬいていただきたいと念願し、本日の記念のスピーチとしたい。(拍手)
 家に帰ったら、お父さん、お母さんが、信心をされていても、たとえ信心をされていなくても、どうかくれぐれもよろしくお伝えください。そして親孝行してあげてください。では、お元気で、さようなら。
 (創価文化会館)

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