Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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牙城会大学校五期生大会 「偉大な人格」が新世界をつくる

1990.8.2 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  「民主」の目的は民主的人格に
 ホイットマンの言う「民主主義」も、本当の″人間としての偉さ″を築くことを意味していた。
 「高位高官の人びとに伍しても、自分の本領を発揮して平然と構え」との言葉が示すような「何ものにも隷属せぬ自由な個人」を生みだすこと。人間を、ただ、そうした偉大な人格を生みだすこと。それ以外に「民主主義の目的」はないのだ、と彼は訴えた。(同前)
 制度はできた(″民主″の第一段階)。経済的基礎もできた(第二段階)。次は「魂」をつくる番(第三段階)だ――と。
 「『新世界』の仕事は始まったばかりだ!」と謳った彼にとって、当時、″民主″は芽吹いたばかりだった。その結実は、遠い将来に見ていた。
 彼が待ち望んでいたのは、偉大な魂をもった「民主的人間」「民主的人格」の登場と、その完全なる定着であった。
 「民主」といい、「平和」といっても、一気に実現できるものではない。近くから遠くへ、一人から万人へと、精神の炎をあかあかと点じていくなかで、初めてもたらされていくものだ。
 その「一人」はだれなのか。だれが、その「一人」になるのか。私どもが「一人の人間における偉大な人間革命」を提唱してきた意義がここにもある。
 どうか皆さま方は、「人格の時代」、そして真の「民主の時代」を築きゆく、「確固たる人格の一人」へと自身を鍛え、つくりあげていただきたい。(拍手)
3  ホイットマンにとっては、「人間」こそが神聖であった。「人間」を離れた、いかなる権威も、彼は認めなかった。そして「第一級の人間」をつくりあげること、それこそ宇宙の目的であるとさえ彼は説いた。
 「何よりもまず偉大な『人物』を産み出すこと、あとのことはそれで確実」(「青いオンタリオの岸辺で」、前掲『草の葉』所収)――これが彼の信念であった。
 民主主義とは、人間が、真に人間らしく成長するための「生命の修練道場」であるとした。
 なるほど、「自由」がなければ、偉大な人間群は表舞台に登場できない。要は、その自由を、自身の堕落のために使うのか、自身の″修練″のために使うのかである。
 今、世界には、民主の潮が流れ始めている。この歴史の方向は、多少の逆流はあったとしても、大筋では変わらないであろう。
 「人間」が根本である、「人間」を第一義とすべきである、と、人類はやっと目覚め始めた。大事なことは、そうした「民主」と「改革」の最終的な成功のカギが、どこにあるのかである。
 それは、どこまで「民主的人格」を、「民主的人間群」を生みだせるかどうかにかかっていると私は思う。広布の未来も、また同様である。
4  民主的人間像の形成。この点で、民主主義は、つまるところ「文化」の問題に帰着していく。
 「民主」という文化伝統が弱いところでは、自由は、″無秩序″の混乱か、または古い体制への形を変えた″復古″か、多くは、そのいずれかに傾いていってしまう。
 たとえば、「改革(ペレストロイカ)」が進むソ連も、文化的・社会的な″民主の受け皿″ができるか否かが、その成否を決するであろう。その点、ゴルバチョフ大統領が、「文化」を最重要視されていることは正しく的を射ている。
 中国もまた同様である。魯迅は書いた。「中国には二つの歴史しかない」と。「民衆が奴隷であった時」すなわち平和の時代と、「民衆が奴隷にすらなれなかった時」すなわち戦乱の時代とである。(「灯下漫筆」松枝茂夫訳、『魯迅選集』第五巻所収、岩波書店参照)
 この反「民主」の伝統を、たたき破って、民衆が主役の国をつくろうと生涯を捧げたのが、周恩来総理をはじめとする現中国の礎の人々であった。
 ともあれ、「民主」の進行過程においては、放縦な″無秩序″と、権威に従順な″復古″との間を、不安定に揺れ動く傾向が強い。そして、この二つは、自立し、自律することができない弱さという点で裏腹である。つまり、「自由」が真の人間を立ち上がらせる大地となっていないのである。
 諸君は、この歴史の教訓を、よくよく胸にきざんでいただきたい。そして日本と世界の将来を、広宣流布の明日を、誤たず見すえ、リードしていっていただきたい。(拍手)
5  「民主的人格」の具体像
 「民主的人格」については、時間の関係上、詳論を避けるが、私が折々のスピーチで論じてきたリーダー論も、この言葉に集約できる点が多い。具体例を一つだけ挙げると、″人の意見をよく聞く″という徳である。
 人の意見に耳をかたむけないのは独善であり、独裁となる。「民主的人間」ではなく、「権威的人間」である。とくに、あらゆる指導者は、この傲慢を克服していくよう心していかねばならない。
 ホイットマンが「民主主義の船」の「船長」と仰いだリンカーン。彼は人民の要望を聞くため、ホワイトハウスを開放し、押し寄せる人々の話を超人的忍耐で聞き続けたという。
 時代や状況の変化もあり、こうしたやり方を、すべてに適用することは無理かもしれない。また価値的でない場合もあろう。しかし、この″人々の話を聞く″精神だけは、永遠に失ってはならない。
6  また「民主的人格」とは、信仰者の立場に即していえば、尊き仏子を心から尊敬し、大切にしていける境涯である。
 正法を持った人は、かぎりなく高貴な存在である。本日は、くわしくは省かせていただくが、大聖人は、たとえば法華経法師品の文(「清信士女を遣わして云云」開結三九七㌻)を引かれて、こう仰せである。
 「法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざま様様に供養してたすくべしと云う経文なり
 ――法華経の行者を、諸天善神等が、ある時は、在家の男(信士)となり、ある時は在家の女(信女)となり、形を変え、さまざまに供養して助けるであろうという経文である――。
 大聖人を助ける人、すなわち御本尊を供養し、広宣流布を進める人は、一次元から見れば、それぞれ「諸天善神」の働きをしていると説かれているのである。
 その他にも、在家の門下に与えられた同趣旨の御文は数多い。
 しかも、その力の根本は、「釈迦仏・凡夫の身にいりかはらせ給いて法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候」――法師品には釈尊が凡夫の身に入り、その身にかわって法華経の行者を供養すると説かれている――とあるように、いわば釈尊の「入其身(その身に入る)」であり、仏の力用であると明かされている。
 宇宙には仏界から地獄界までの十界がある。わが生命にも十界がある。その人の一念、境涯によって、ある時は「釈尊」すなわち仏界と感応し、その力用の一分の働きをなす。また、ある時は「悪鬼」のような三悪道と感応し、知らずしらずのうちに、その使いの働きをする場合もある(悪鬼入其身)。
 そして、広宣流布を進める人は、それぞれ仏菩薩、善神の働きをしていると、大聖人は仰せなのである。
 さらに、「当体義抄」には「本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」――法華経本門寿量品の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等の中のことである――と断言され、「敢て之を疑う可からず之を疑う可からず」――決して、これを疑ってはならない。これを疑ってはならない――と強調しておられる。
 御本仏の御指南は絶対である。正法流布に行動する信仰者が、学会員が、どれほど尊貴な存在であることか。決して軽々しく考えてはならない。
7  仏法は現実の行動のなかに
 ともあれ、経文に説かれる仏菩薩、諸天善神といっても、決して遠いところにのみ、あるのではない。現実の存在である。この現実を離れて、仏法はないのである。
 このことは、じつは、なかなか「確信」できない。どうしても、経文、御書の教えを、遠いところに見てしまう。ここから信仰の精髄、実相をとらえられない不幸が生ずる。
 たとえば、諸天善神も、当然、天地の働き、社会の人々の働きとして現れる。しかし、それのみと思うと、もっとも大切な、身近な同志の尊さ、ありがたさを軽視してしまう場合すら出てくる。
 仏菩薩も同様である。そうではならないと、大聖人は、繰り返し教えてくださったのである。
 御書の言を、そのまま心から「確信」すれば、自身の境涯も広々と開けてくる。歓喜も出る。自信も出る。感謝の思いもわく。さらに、使命感が込み上げ、自身の無上の歴史をつづる原動力となる。ここに仏法の偉大さがある。
 反対に、「確信」なく、つねに他の言葉や権威に紛動されたり、また自身の傲りにとらわれている人は、自分で自分の苦悩の因をつくっているようなものである。自分に負けているからである。
 諸君は″自分に勝つ″人であっていただきたい。
8  大聖人は「仏菩薩を信じたるも愛子・夫婦なんどをあいし父母主君なんどを・うやまうには雲泥なり、仏・菩薩等をばかろくをもえるなり」――仏菩薩を信じていても、わが子や夫・妻などを愛し、父母、主君などを尊敬するのと雲泥の違いである。仏菩薩を軽く思っている――と、当時の人々のことを嘆いておられる。
 こうした人々(僧尼男女)は、自分では、そのつもりはなくとも、みずから「地獄の因」をつくっていると仰せである。
 御本仏の御金言を軽く思うことは、大謗法である。また、折伏を行じている学会の同志は皆、御本仏の真の仏子である。少しでも見くだせば、その心が地獄の因となる。
 家族も大事。父母、会社等も当然、大事である。と同時に、それらを思う心に、仏子への思いも、いささかも劣ってはならない。仏子を、絶対に軽んじてはならない。何よりも大切にし、尊敬していくことが、大聖人の教えにかなった実践なのである。
 私は、信行学に励みゆく同志の一人一人を、精魂込めて大切にしてきたつもりである。その心で、これまで広布の指揮をとってきた。それは、牧口先生、戸田先生が生命を削って貫かれてきた一点でもある。
9  尊き広布の友を最大に大切に
 正法を持ち、行ずる人が真の大聖人の信徒であり、かつまた、真の学会員である。ゆえに、学会員は、すべて仏子である。その妙法の同志の尊さを深く理解し、最大に大切にしていくことが、学会リーダーの、もっとも正しい行き方であると私は思っている。(拍手)
 もとより、学会の組織は、広宣流布のためにある。とともに、それは「会員」のためにある。幹部も「会員の幸福」のために存在する。一切が「一人」の幸福のための手段であるといってよい。また、そこに真実の「民主」の規範がある。
 われわれの組織も日々の行動も、この一点を基準として回転していくとき、大聖人の仏法は生き生きと脈動していく。
 一閻浮提総与の大御本尊を根本としていくことを当然のこととし、歴代会長の″魂″である「会員中心」の指導をば失わない限り、創価学会は永遠に発展できると強く主張しておきたい。(拍手)
 反対に、この一点を失った場合には、組織は衰退し、滅んでいくにちがいない。これは永遠の鉄則であり、私は正法外護の責任者として、後世のために言い残しておきたい。
 会員同志を大切にする組織はあたたかい。現在、そうした″ぬくもり″がもっとも生きている地域の一つは関西である。この点、それぞれの方面も関西を手本としていただきたいと念願している。反対に、歴代会長の心を忘れ、形のみの存在となれば、組織は冷たくなってしまう。そこには悪しき″権威″がまかり通るようになる。
 広布の伸展にともない、組織が大きくなっていく。問題は、組織の発展・規模に、人間の成長が追いついていくかどうかである。もし、それができなければ、組織を″幸福のための手段″として使いこなすことができなくなる。そして逆に、組織の歯車として人間が使われていくような、会員を手段化してよしとする″組織悪″におちいってしまうであろう。
 要するに「人間」と、官僚的命令系統で組織を動かそうとする「組織力学」との競争であり、「心」と「形」との競争であるともいえよう。
10  ″輝く成長″の青春の月々を
 そこでもっとも大事なことは何か。それは、組織の前途を担うリーダー自身が、月々日々に境涯を開きゆくことである。かつて述べたように″組織は、ある意味で、その中心者の器以上にはならない″ということである。
 人々の先頭に立つリーダーが、真剣に学び、懸命に戦いぬいて、「人間革命」し、境涯を開いていく以外に、組織をよくしていく道はない。まず自分自身の中に、人間的な組織の発展をもたらす「因」を築いていく。――こうした信仰の基本に絶えず立ち戻って出発する。これがまた、大聖人の「本因妙の仏法」の精神にのっとった生き方である。
 私は、いかなる広布の法戦に臨んでも、真っ先に進んで戦い、みずからの境涯を開いてきた。そして、皆が安心して進んでいけるように、舞台を切り開いてきたつもりである(拍手)。だからこそ、私は叫んでやまない。後継の将たる若き諸君は″徹して自身を磨きぬけ″と。
 リーダーにとって、自身の境涯を開く実践とは何か。
 端的にいえば、正法の信心の深化は当然のこととして、広布に励みゆく同志に、徹して奉仕することである。より謙虚に、より真剣に、同志を尊敬し、守りぬいていく。友のために知恵を尽くし、みずから率先して動くことである。
 いかにも偉そうな、″大物″ぶった偽装の振る舞いは、むしろ成長の止まった証明であり、人間的には退歩を示す以外の何ものでもない。
11  人生の土台を築く青春期に、もっとも尊い鍛えの日々を送っている諸君である。
 どうか「花の月」「太陽の月」とうたわれるような、若さ輝く″成長″の季節に乱舞していただきたい。また「革命の月」「青春の月」と名づけられるような、青年の気概あふれる″挑戦″と″前進″の月々であっていただきたい。
 「開目抄」には、末法における妙法弘通の使命をもった「地涌の菩薩」の姿を「巍巍堂堂として尊高なり」と仰せになっている。すなわち、法華経の会座に来集した他の一切の菩薩たちとはまったく比較にならないほど、気高く堂々として、尊貴な威厳のある様子であった、と。
 これは、地涌の上首・上行菩薩の再誕であられた大聖人の崇高な御境界を表されたものと拝される。そして次元は異なるが、大聖人の門下として広宣流布に励む私どもも、皆、地涌の使命に生きる一人一人なのである。
 ゆえに諸君も、この泥沼のような現実社会のただ中にあって、人々に限りない勇気をあたえゆく、気高くも堂々たる前進をお願いしたい。(拍手)
12  広布前進の大将軍の使命
 話は変わるが、昭和四十八年(一九七二年)十二月、大阪・中之島の中央公会堂で開かれた第三十六回本部総会の席上、日達上人はこのように語られた。
 「『法華経法師功徳品』には『若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん』と説かれております。
 このご文の意は、世を指導する言語も、産業を振興する才能も、法華経の諸法実相の観点から出るものであることを、示されたものでございます。
 故に『観心本尊抄』に『天晴れぬれば地明らかなり法華を識る者は世法を得可べきか』とも説かれているのであります」(『日達上人全集』第二輯第五巻)と。
 さらに続けて、次のようにも語っておられる。
 「この法華経の肝要である大聖人の仏法を、よく研鑽されている池田先生の言論が、政治、経済にわたっても、しぜんと、その実相に到達していることは、深く評価せられるべきものであると考えます。
 この英知の池田先生を会長としていただいている学会員のみなさまは、まことに幸福であり、名誉であると思うものであります。
 また、この偉大な池田先生は、我が日蓮正宗の大外護者であります。今後、ますます激しい社会情勢に対処して、我が日蓮正宗の発展のために、会長池田先生のいっそうの外護を得たくお願いする次第であります」(同前)と。(拍手)
 私のことは別として、日達上人が法華経に照らし、また御書に照らして、激動の社会・世界をリードしゆく学会を心からたたえてくださっている。
 大聖人は、四条金吾へ与えられたお手紙の中で、次のように仰せである。
 「敵は・ねらふらめども法華経の御信心強盛なれば大難も・かねて消え候か、是につけても能く能く御信心あるべし
 ――敵は狙っているのだろうが、あなたの法華経への信心が強盛であるので、大難も、事の起こる前に消えたのであろうか。これにつけても、よくよく信心に励んでいきなさい――と。
 いずこの世界にあっても、新しき理想を掲げゆく″先駆の人″に、非難や迫害が多いのは当然である。むしろ、こうした″敵″との戦いなくして、大事がなされたことは、歴史上、一度もなかったといってよい。
 ソ連のゴルバチョフ大統領も、会見の際、私にこのように語っておられた。(「聖教新聞」一九九〇年七月二十八日付)
 「新しいことは、最初はバカげたことのように見られがちです。改革者というものは、常に初めは少数派なのです」と。また、「私は、ほめられることに慣れていない。いつも批判されてばかりです」と、ほほえんでおられた。
 その表情には、まさに″戦人″の風格があった。そしてその奥に、先駆者としての強靱な「勇気」が脈打っていた。
 いわんや「仏法は勝負」である。つねに仏と魔との戦いである。正法を正しく行ずれば、それだけ敵も多くなる。広宣流布の前進が大きければ大きいほど、妬みの炎も盛んになる。これは、御書に照らし、経典に照らして、必然の理なのである。
 この果てしなき広布の″攻防戦″にあって、まず何よりも、強く、深き祈りで、魔の蠢動を、先手を打って打ち破っていく。そして、広布に戦っている尊い仏子を、厳然と大難から守りぬいていく――これが、広布の牙城会の大将軍の使命である、と願うような思いで申し上げておきたい。(拍手)
13  人間性の放つ「美」は、人々への最高の雄弁
 十八世紀に活躍したフランスの哲学者フォントネルは言った。
 「善は、さまざまな証拠を必要とするが、美は決してそれを求めない」
 何が善で、何が悪か。何が正義で、何が偽りなのか。一般的に、「善」には、さまざまな立場や見方がある。とらえ方が分かれる。そのため、立場が変わると、何を「善」と判定するか、決めることがむずかしくなる場合も多い。また「善」と「悪」を納得させるには、多くの証明を必要とするのである。
 まして、現代のような虚実の入りまじった情報に、人々の心が乱されがちな社会では、なおさらである。簡単には「善」と「悪」とが判別できにくくなっている。
 しかし「美」の場合は、そうではない。「なぜ美しいか」「本当に美しいか」などの議論や証明の必要が、あまりない。
 たとえば「あの人は美人だ」となれば、多くの人が一様に認める。そこには″なぜ、そうなのか″などの理由の説明は、ほとんどいらない(笑い)。「ああ、美しいな」と思う心を、理屈や議論でくつがえせるものではない。「美」は、ダイレクトに、人の心をとらえるものである。
 ゆえに、こうした乱れた社会にあっては「あの人は、すがすがしい」「あの人の心は美しい。何ともいえない輝きがある」と言われる人になることが、雄弁な「弘教」になっているのである。
 ゴルバチョフ大統領にお会いしたときも、頭の回転の速さ、明快さ、そして精神のみずみずしさを強く感じた。それが大統領のアピールの一つの力であり、多くの人々を引きつける魅力となっている。
 心の貧しい、陰険で意地の悪い人であってはならない。臆病で無気力な、未来性の輝きのない青年であってはならない。それでは多くの人々の心をとらえ、導いていくことなどできはしない。
 たくましさ、凛々しさ――ここに一つの男性美がある。清らかさ、ふくよかさ――ここに一つの女性美があろう。
 そして、″人間性の美″の光、″高貴なる魂″の光――それを輝かしていくのが、信心である。信心した私ども一人一人が「人間美」の輝きを、周囲に、地域社会に広げていく。それが、仏法への理解と納得の輪を着実につくり、広宣流布の確かな一歩一歩をきざんでいくのである。
 どうか、これからも体を大切にして、すばらしき青春、すばらしき人生を生き、勝ちぬいていただきたい。そのことを私は、日々、御本尊にご祈念している。また一生涯、その決心であると申し上げて、本日のスピーチを終わりたい。
 (総本山大石寺・常来坊)

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