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日蓮大聖人・池田大作

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学生部夏季講習会 諸君こそ「人間世紀」の旗手

1990.7.21 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  祖国の「独立」と「自由」叫んだフィヒテ
 本日から、総本山での学会伝統の夏季講習会が始まった。今年も学生部の諸君が先駆を切っての開催である。全国から集われた諸君に、心からご苦労さまと申し上げ、求道の青春を最大にたたえたい。(拍手)
 昨年の学生部夏季講習会では、スイスの教育家ペスタロッチをとおしてスピーチをさせていただいた(=本全集第73巻収録)。彼が活躍していた当時のヨーロッパは、ナポレオン軍による戦争と占領という、大きな激動の時代であった。
 また三年前(昭和六十二年)の学生部夏季講習会では、トルストイの『戦争と平和』に描かれた、ロシアのクトゥーゾフ将軍とナポレオンの戦いをとおして語らせていただいた(=本全集第68巻収録)。そこで本日は、ナポレオンによって占領された時代のドイツを舞台に、話を始めたい。
2  一八〇七年、プロイセン(ドイツの前身)はティルジットの和約を結び、ナポレオンによつて国土を半減されてしまう。そのうえ、国内にナポレオン軍が駐留し、ドイツは完全にフランスに屈する形となってしまった。そうした外患に加え、国王の悪政によって財政は破綻。また、ナポレオンに内通して国を売ろうとする輩も、蠢動していた。
 ――この時、祖国に加えられた屈辱と危機に対し、敢然と一人立ち上がり、民族の誇りと団結を訴えて反撃を開始した哲学者がいた。その名は、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(一七六二年〜一八一四年)。
 フィヒテは、カントやヘーグルとともに、ドイツ観念論を代表する哲学者である。また、ベルリン大学が開設された折には哲学部長の任を受け、さらに総長となった教育者でもある。
 彼はペスタロッチとも友情を結び、ドイツにペスタロッチの教育学を紹介したといわれる。真実の友情は、人間として最高の宝である。
 ちなみに、私のドイツにおける親しい友人の一人、N・A・カーン博士は、このベルリン大学の流れをくむベルリン自由大学の教授である。同博士とは、ドイツで、また日本で、お会いするたびに真摯な対話を続けている。
3  祖国の危機を救うために立ち上がったフィヒテ――。彼の″戦い″は、スピーチ(講演)であった。
 彼は、フランス軍に占領されていた首都ベルリンにおいて、有名な「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講演を行う。時に四十五歳。講演は一八〇七年十二月十三日から翌年三月二十日まで、日曜日ごとに十四回にわたって続けられた。
 フランス軍の戒厳下で、ドイツ人の「団結」と「独立」を訴えた講演である。当然、暴力による威嚇や妨害はやむことがなかった。ある時は、フランス兵の鳴らす軍鼓の音で、講演を中断されてしまったこともあった。
 しかし、彼は少しもたじろがない。そこに彼の偉大さがある。高貴な魂をもった人は、何ものにも恐れたり臆したりすることはない。
 当時、彼は知人への手紙の中で、このように述べている。
 ″今、自分がいかに危険なことをやっているかは、よく知っている。銃で狙われていることも知っている。しかし、私は何も恐れない。みずからの目的のためには、喜んで死んでいこう″と。
 彼がどれほどの決意でこの講演に臨んだか。まさに死を賭しての叫びであった。
 私も現在、あらゆる機会に、連続して渾身のスピーチを続けている。広宣流布の勝利のために、後世の盤石な軌道を築くために、毎回、真剣勝負の思いで語りぬいている。いかに非難や迫害を受けようと、この大目的のために喜んで命をなげうとうとの決心である。(拍手)
 語らなければ楽かもしれない。戦わなければ安穏かもしれない。しかし、それでは広布の勝利はない。広宣流布は壮大な精神闘争であり、知性の戦であるからだ。
4  高貴なる魂は何ものにも屈せず
 権威・権力をもって人々を支配しようとする者の画策の構造は、今も昔も変わらない。フィヒテは、その卑劣な謀略の本質を見破っていた。
 彼は連続講演の第一回において、″古代でも近代でも変わらない支配の手段″を、次のように喝破している。
 「征服者は根もないことを捏造し、或ひは色々な概念や言葉をわざと紛糾させて、被征服国の君主を国民に誹謗し、国民を君主に中傷し、このやうにして離間された君主と国民とを危げなく支配しようと試みた。征服者はまた奸策を用ひて虚栄心や私慾などのあらゆる衝動を煽り立て、その羽を伸ばさせて征服者を侮蔑すべき存在に堕落させ、自らは疚しさを感じないでこれを蹂躙しようと試みたのである」(『ドイツ国民に告ぐ』小野浩訳、角川文庫)と。
 ″根もないことを捏造し、紛糾させ、人々の間を裂く″″虚栄心や私欲をあおり立て、人間を堕落させ、蹂躙する″――これこそ、腹黒い策謀家たちの常套手段である。これまで、広布の前進を阻み、学会のうるわしい団結の世界をかき乱そうとしてきた悪の勢力の狙いも、まったく同じであった。
 しかし、私はすべての策動を見破り、矢面に立って敢然と打ち返してきた。私と同志の皆さまの絆は破られなかった。
 どうか諸君も、そうした謀略にだまされてはならない。悪の本質を鋭く見ぬく英知の眼を培っていただきたい。不正と戦いぬく勇気と根性をもった一人一人であっていただきたい、と強く念願する。(拍手)
 この連続講演において、フィヒテは″祖国を救うもの――それは「新しい教育」である″と論ずる。そして″新しい教育″とは、一部の人間のためではなく、全国民を教育することであり、人間の意識を全面的に変革し、人間そのものを陶冶するものである、という。
 これは、とりもなおさず、私どもが主張してきた「人間革命」の実践に通じる。
5  新たな時代を開くためには、新しい教育で、新しい人材を育てなければならない。伝統も大事であるが、古く、悪しき伝統は、人間の精神を硬直化させ、ゆがめてしまう。そこには、新しき人材も育たないし、希望の時代を開くこともできない。
 ゆえに私は、一貫教育の学舎を創立して、新たな「人間教育」の道を開いてきたし、諸君の人間的成長の一助にでもなればと、数々のスピーチを行っている。
 フィヒテは、次のようにも述べる。
 「私たちは精神を屈服させてはならない。さればこそ私たちはとりわけ精神を、しかも堅実な精神を養はなければならないのだ」「私たちはあらゆる思惟や行動の揺がぬ準備となるべき確固不動の原則を作らなければならない」(同前)と。
 ″何ものにも屈しない精神″――それこそ、まさに正しき信仰である。そして、不屈の学会精神と、正しき弘法の活動によって、今、私どもは、万代にわたる広布の行動の″揺るがぬ基準″″確固不動の原則″を、つくり残しているのである。
 フィヒテの講演から六年後となる一八一三年、ナポレオン軍に対し、解放戦争が開始された。プロイセン、イギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデンが、フランスに宣戦を布告した。このとき、フィヒテは五十歳。みずから解放の戦いに志願する。結局、従軍は許されなかったが、祖国のために、わが一身をなげうとうとした。
 そして、彼の教え子であるベルリン大学の学生たちは、師の心を受け継ぎ、今こそ戦おうではないかと、祖国の「自由」と「独立」のために立ち上がったのである。
 フィヒテは、祖国の勝利を目のあたりにすることはできなかった。病気が彼の命を奪ったのである。しかし、たとえ死の病床にあっても、最後まで″自分は勝利の戦いに参加している″との思いをいだき続けていたという。
 彼の死からニヶ月後、ナポレオン軍の占領から七年後、プロイセンをはじめとする同盟軍は、パリを陥落させ、大勝利を飾るのである。
 先日(十七日、創価学園栄光祭)も申し上げたが、「一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり」というのが、私の十六歳からのモットーである。
 最後の勝利を信じ、「ドイツ国民に告ぐ」のスピーチで、国民を勇気づけてきたフィヒテ。そこに、私は″真の勇者″の姿を見るのである。
6  滔々たる仏法の世界流布の潮
 本年は大石寺開創七百年。私どもはこの大佳節を、かつてない仏法興隆の歴史のなかで迎えた。
 日興上人は、正安元年(一二九九年)に著された「神天上勘文かみてんじょうかんもん」で、次のように明言されている。
 「相構えて相構えて先ず此の宗の行者は経文ならびに大聖人の御書を仰ぎ奉り、諸宗を諫責かんしゃくする者ならば、終に権門権宗の邪執を打ち破り、妙法真実の正義を成立し、天下万民諸乗一仏乗に帰伏し、日本一州を初と為し、一閻浮提一乗の機情と成るべし」(『歴代法主全書』、原文は漢文)
 ――心してまずこの宗門の行者は、法華経ならびに大聖人の御書を拝して、その仰せのままに諸宗を諌め責めていくならば、ついには権門権宗のよこしまな執着を打ち破り、妙法真実の正義を打ち立てていくことができる。そして、さまざまな教えを信じていた天下万民が、成仏の教えである妙法に帰伏し、日本一国をはじめとして一閻浮提(全世界)が、妙法を求めゆく機情(人々の心の状態)となっていくであろう――。
 「然れば世は義農の世にひとしく不祥の難を払い、国は唐虞の国に同じく長生の術を得ん云一ム」(同前)
 ――そうなれば社会は、「義農の世」「唐虞の国」(″義農″とは、中国古代の伝説的帝王である伏義と神農。″唐虞″とは同じく堯と舜をさし、ともに平和で安定した理想の時代が築かれていたといわれる)のように、災難をなくし、人々の寿命を延ばしていけるのである――と。
 これが宗祖日蓮大聖人の「如説修行」の御精神をそのまま受け継がれた、日興上人の仰せである。
 創価学会は創立以来六十年間、大聖人、日興上人の御精神のままに行動してきた。ただひたすら「大法弘通・慈折広布」の大誓願に殉じてきた。
 初代会長牧口先生は、牢獄で殉教。第二代会長戸田先生も入獄。三代の私も、これまでさまざまな難を一身に受けきってきた。そのなかで、大聖人、日興上人の誉れの門下として、一歩も退くことなく戦ってきた。
 そして今、日興上人がご教示の「妙法真実の正義」を、私どもは満天下に堂々と示している。
 御書に照らし、日興上人のお言葉に照らして、少しの狂いもない、正しき行動であったがゆえに、創価学会は大発展を遂げ、仏法大興隆の歴史を築いてきた。これは、だれ人も疑いえない事実である。(拍手)
 さらに日興上人の仰せのごとく、妙法を求めゆく「機情」は、今や一閻浮提(全世界)に広がっている。歴史上、仏法がこれほどの世界的広がりを見たことは、いまだかつてなかった。――私どもは開創七百年という大佳節を、日興上人の示された「閻浮提内広令流布(閻浮提の内に広く流布せしむ)」への大実証をもって荘厳しつつある。これほどの誉れはない。(拍手)また、「義農の世」等々と「立正安国」の法理を示された言を拝するにつけても、日興上人は、私どもの仏法を基調とした平和・文化の行動を、必ずやお喜びくださっていることと確信する。(拍手)
 この光輝に満ちた「世界への道」「平和への道」のバトンを、どうか若き英知の諸君こそが受け継いでいただきたい。(拍手)
7  「会員のために」が発展の因
 さて、日達上人は「訓諭」(昭和三十八年七月十五日付)の中で、次のように述べられている。
 「今や末法の慧日宗祖大聖人の大白法は、潮の如く沿々と四海へ流れて止まず、宗勢は頓に興隆の一途を辿りつつあり、完に為法為宗有難き極みなり。
 而してその源をたずぬるに、末法閻浮衆生の帰命依止所たる大御本尊の御威光の然からしむるところと雖も、ほその功たるや創価学会会長池田大作指揮のもと、一致団結克く化儀の折伏に挺身し、以て本仏の願業たる閻浮広布の一刻も早からんことをこいねがう創価学会ゝ員の至誠に帰するものと謂ふべし」(『日達上人全集』第一輯第一巻、句読点は編集部)と。
 大聖人の大白法の、潮のごとき世界への広がり。また宗門の大興隆。それらはひとえに、大御本尊の御威光の賜である。そのうえで日達上人は、仏法興隆の功績は、私の指揮のもと、ただひたすらに世界の広宣流布を願い、行動してきた創価学会員の「至誠」(真心)にある、と断言されているのである。(拍手)
 末法万年に薫る、学会の不滅の偉業。諸君は、父、母がしるしてきたこの輝く歴史の刻印を、決して忘れてはならない。誉れの広布の法戦に、堂々と雄々しく進んでいただきたい。(拍手)
8  さて「日本の宗教運動の歴史を見ると、どれも約三十年で衰退を始める」――と、ある学者は言っている。
 すなわち、初めは、それなりに″世直し″の情熱に燃えている。しかし、しだいに信者利用となり、形骸化していくというのである。
 理想は、せいぜい一世代――三十年しかもたない。こういう歴史の分析である。
 この観点から見る時、創立六十周年を迎えた学会は、戸田先生の「広宣流布宣言」(第二代会長就任)から約四十年。私の第三代会長就任からでも三十年。ますます興隆している。いよいよ本格的に発展しゆく活力に満ちている。その事実は、若き諸君のはつらつたるエネルギーを見るだけでも、明らかである。(拍手)
 これ自体、日本史上、かつてない姿なのである。たいへんな歴史であると、史眼を持つ人は皆、驚いている。世界の知性も同様である。
9  そうできた理由は何か。多くの人々、機関が真剣に注目し、研究もしているようだ。
 もちろん根本的には″正法″の力であり、″時″の力である。そのうえで、学会は、どこまでも「人間中心」「会員中心」を貫いてきた。ここに、みずみずしい発展の因がある。学者のなかにも、鋭く、この一点を見ている人もいる。
 会員――尊き仏子を、絶対に見くださない。絶対に手段にしない。利用しない。
 反対に、つねに「どうすれば会員の方々に喜んでいただけるだろう」「どうすれば大いなる功徳を受けてもらえるだろう」と、考え、祈り、実行してきた。
 メンバーをこよなく大事にし、″皆、平等である。皆、同志である″との精神を貫いてきた。
 幹部だから、リーダーだからといって、決して権威化することを許さない。特権階級になることを許さない。むしろ立場が上になるほど、仏子に、より奉仕することを徹底してきた。
 また、社会と遊離することなく、溶け込みながら一体で進んできた。
 ここが他の団体と異なる点である。″永遠に会員を守り、幸福にしきっていく″。この思想を、非常に強く今日までもってきた。ゆえに発展したのである。決して偶然ではないし、決して簡単なことでもなかった。
 この精神を貫くかぎり、学会は将来も伸びていくことは間違いない。後を継ぐ諸君であるゆえに、とくに、このことを強調しておきたい。
10  慈愛と知恵は一体である――。英語で、「思いやりがある」ことを「ソートフル(thoughtful)」とという。「考え(ソート)」に「満つ(フル)」意味である。
 友を「思いやる」心とは、友のために、ああしよう、こうもしてあげよう、これが必要だ――等と、つねに「考えに満ちている」ことなのである。
 広布の指導者が、友のことを片時も忘れず、新しい考え、心こまやかな考えに満ちている。その知恵によって、世界一美しく、世界一楽しい″人間性の世界″をつくってきたのである。このあたたかい「人間性」にこそ、仏法本来の精神が躍動している。
 その意味で、何も知恵が出ないのは無慈悲であり、無責任に通じる。
 ともあれ、仏子を利用するのか、奉仕するのか。その幸福を手段とするのか、目的とするのか――この一念の違いが、広布の未来を決定していくことを自覚していただきたい。
11  法華経を持つ人は皆尊き仏子
 御本仏は、こう仰せである。
 「法華経を信じたらん衆生は是れ真仏子」――法華経を信じる人(御本尊を持った人)は「真の仏子」である――と。
 仏子とは、「父子一体」なるゆえに、父たる仏と同様、あまりにも尊貴なる存在である。
 また日蓮大聖人は″わが門下は、過去、無量の仏に仕えた大菩薩であり、未来、必ず莫大な功徳を備える者である″と述べられ、続いて有名な一節に「天子の襁褓むつきまとわれ大竜の始めて生ずるが如し蔑如べつじょすること勿れ蔑如べつじょすること勿れ」と。
 ――皇帝が幼くて、おむつに包まれ、大竜が生まれたばかりのようなものである。軽んじてはならない。軽んじてはならない――。
 仏子を下に見る者は、大聖人の教えに背く者である。仏に背けば謗法となる。
 さらに「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」の一節も有名である。
 ――末法において妙法蓮華経の五字(御本尊)を弘める者は、男女の差別はない。全員が地涌の菩薩の出現でなければ、自行化他にわたって唱えることはできない題目である――。
 すなわち、現実に妙法を弘めている人は、男性であれ、女性であれ、全員、総じては地涌の菩薩の出現であるとの御断言である。この「皆」の一字に、心をとどめるべきである。この一字に込められた、大聖人の「平等」観を深く拝すべきである。(拍手)
 法華経の従地涌出品には、地涌の菩薩に、仏と同じく「三十二相」ありと説かれる。
 「是の諸の菩薩は、身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」(開結四七四㌻)と。
 この経文には甚深の意義があると拝される。
 「新池御書」には「如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」――妙法を他事なく唱える人は自然に三十二相八十種好が備わり、法華経に「我がごとく等しくして異なること無からしめん」(開結一七六㌻)と説かれるように、釈尊のような仏に、やすやすとなるのである――と仰せである。
 いくら信心し、仏道修行しても、とうてい仏にはなれない、などと言う者があったとしたら、大聖人の門下ではないという文証である。
 また、それは道理にも反する。一切衆生を成仏させるために御本仏が御出現になり、あれほどの大難を忍んで御本尊を建立してくださったのである。御本尊を拝して成仏できないとなったら、大聖人の御法戦が無意味とさえなろう。断じて、そんなことはないはずである。
 こうした文証は、枚挙にいとまがない。
 ともあれ「法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」――法華経(御本尊)を持つ者は、必ず全員が仏である。仏を毀っては罪を得る――との御指南を、だれ人も深く銘記せねばならない。
 現実の社会で、妙法の広宣流布を進める学会員は、仏法上、限りなく尊貴な存在である。総じては″仏菩薩である″と御本仏が保証してくださっているのである。「蔑如」したり、「誹謗」すれば、仏敵となる。
12  「身命を捨て随力弘通」の人生を
 戸田先生は、かつて、次の歌を青年に贈ってくださった。
   妙法の
     若き将軍しょう
       悟りなば
   二六の掟に
       身をば堅めよ
 「二六の掟」とは、いうまでもなく、二十六箇条の「日興遺誠置文」のことである。
 元弘三年(一三三三年)正月十三日、八十八歳であられた日興上人は、「万年救護の為に」門下の厳守すべき戒めをとどめ残された。二月七日に御入滅なされる直前のことである。
 戸田先生は、青年部に対して、妙法の若き将軍であるならば、この「二十六箇条」の遺誠置文のままに戦いぬけと、強く言われていた。
 なかでも「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」との一条を、戸田先生はご自身の生涯をとおして貫きとおされたのである。
 弟子である私も、また同じであった。諸君も、また同じ人生であると確信したい。
 ともかく、この一文のままに、広宣流布のため「身命を捨て随力弘通」に、ひたすら生ききってきた。ゆえに私には何の悔いもないし、恐れるものもない。そして、この一点にこそ、日蓮大聖人、また日興上人の真実の門下としての証があり、誉れがあると思っている。(拍手)
 「身命を捨て随力弘通」の行動のない人は、たとえどのように立派な言葉で飾ったとしても、それは、日興上人のお心に、絶対に適うものではない。
13  ところで日達上人は、「なぜ学会員を大切にするか」ということについて、この日興上人の「遺誠置文」を拝し、次のように述べられている。(=昭和四十一年五月三日、第二十九回本部総会)
 「日興上人は『身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事』と明らかにお書きになっております。また『我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事』と明らかにお教えになっております。
 これら正宗を破壊しようとする人々は、ただ一言のことばをもって真実の日興上人の心を知らないのであります。悪い、少しばかりの知慧をもって解釈し、ほんとうの信徒の真髄を知らない、そして日興上人や大聖人の御書を解釈するということは、もっとも悪いことであります」(『日達上人全集』第一輯第三巻、御書は御書全集にあわせた)
 「身軽法重(身は軽く法は重し)の行者」、すなわち身命を賭して折伏を行じ、正法を広宣流布する人こそ、真の仏弟子である。そのような人に対しては、たとえ立場が下の人であっても、「当如敬仏(当に仏を敬うが如くすべし)」すなわち仏にまみえるごとく敬っていくべきである。これが日興上人の教えである。
 では、大聖人の仏法を懸命に行じ、弘めているのはだれか。広宣流布にもっとも献身的に励んでいるのはだれなのか。学会員こそ、まさに「身軽法重の行者」であるというのが、日達上人のお心であった。
 その学会員を軽蔑し、苦しめる正法破壊の者は、本当の「信徒の真髄」を知らないと。
 いわんや、悪知恵を弄して御書を曲解し、権威をふりかざして、学会員を圧迫するようなことがあれば、それは日蓮大聖人、日興上人のお心に背く極悪の行為となる。このことを厳しく指摘されているのである。
 日達上人は続けて、このようにも述べられている。
 「私は、世界の人の前で、この身軽法重の行者、折伏の指導者である創価学会会長池田先生を大事にします。また、折伏の闘士として、創価学会の皆さんを大切にします」(同前)。
 私自身のことはともかく、「折伏の闘士」である学会の同志への、深い信頼と称讃のお言葉である。(拍手)
 わが身も顧みず、妙法を世界へと弘め、友から友へ、幸福と歓喜の輪を広げている厳然たる事実。だれが何と言おうと、これこそ御本仏のお心にかなった「仏の使い」の軌跡である。この一点だけは、はっきりと訴え残しておきたい。
 どうか諸君は、尊き広宣流布という目標に向かって、誉れ高く進んでいっていただきたい。これこそ自身の人生にとって、最高にして高貴なる魂の勝利の旗を勝ち取る道だからである。(拍手)
14  「生死」の根本的解決は仏教に
 大聖人は仰せである。
 「世間の学者・仏法を学問して智恵を明めて我も我もとおもひぬ、一生のうちに・むなしくなりて・ゆめのごとくに申しつれども唯一大事を知らず・よくよく心得させ給うべし
 ――世間の学者は仏法を学問して、われもわれも知恵を得たと思っている。一生を無駄にして、夢のようなことを言っているが、唯一大事の法門を知らない。このことを、あなたは、よくよく心得られるべきである――と。
 「一大事」とは、これ一つしかないという″最大″にして″最勝″の肝要事のことである。
 くわしくは略させていただくが、日寛上人が「文底秘沈抄」(富要三巻)で、一大事の「一」とは「本門の本尊」、「大」とは「本門の戒壇」、「事」とは「本門の題目」と配されているごとく、「一大事」とは、根本的には文底独一本門の三大秘法をさすのである。
 また、一般的に広く開いていえば、「生死」こそ人生の一大事である。「生命」の解決こそ″根本の大事″である。この一点を避けて、いかに多くの議論を重ね、″われ知恵者なり″と傲っても、まったくむなしい、夢のなかの言のようなものである。
 かつてトインビー博士は、私にこう語っておられた。
 「社会の指導者たちは、生死の問題を真正面から解決しようとせず、すべて避けてとおっている。ゆえに、社会と世界の未来の根本的解決法は見いだせない」「私はこの道を高等宗教、なかんずく大乗仏教に求めてきた」と。
 博士が私に「ぜひ会いたい」と望まれた背景の一つもここにあった――。
 また今回、私は″現代化学の父″といわれるポーリング博士との対談集を発刊する予定となっているが、そのタイトルは、『「生命の世紀」への探求』(仮称)を予定している。(=一九九〇年十月に同タイトルで読売新聞社から出版された)
 このように、時代の先端をいく優れた識者はみな、「人間」、そして「生命」に焦点を定めている。「人間の世紀」「生命の世紀」へと、世界は音をたてて回転を始めている。それは、私がすでに数十年前から予見し、主張し、その実現に行動してきた時代の潮流なのである。(拍手)
15  いずれにせよ、諸君は若い。人生はこれからである。まして、妙法という「最極の法」を持った尊いお一人お一人である。どうか、深き「探求」の道を真摯にまた真摯に、そして悠々と、朗らかに歩んでいただきたい。高貴にして偉大なる″魂の王者″″人生の勝利者″と輝く諸君を、私は見たい。(拍手)
 私は、諸君の健康と成長、そして活躍を、日々、真剣に御本尊にご祈念している。また一生涯、祈り続けていく決心である。安心して、それぞれの舞台で、存分に力を発揮していっていただきたい。(拍手)
 諸君の勉学の向上、そしてすばらしき青春時代の勝利を心から念願し、本日の記念のスピーチとしたい。
 (総本山大石寺・常来坊)

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