Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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苫小牧での記念勤行会 人間勝利の金字塔を

1990.7.9 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  原野に花咲くハスカップのごとく
 いつの日か、訪れたいと思っていた苫小牧。その夢が叶い、本当にうれしい。私は、本日の皆さまとの出会いを、生涯忘れることはないでしょう。本当にありがとう。(拍手)
 苫小牧といえば、″紙の街″として有名である。また、豊かな海の幸でも名高い。とともに、市のシンボルともいえるハスカップでも知られている。可憐に群れ咲き、美味な実をつけるハスカップ。苫小牧を擁する勇払原野は、その全国有数の群生地と聞いている。
 黄色をおびた白い花。甘酸っぱい実は、「野生の味覚の王者」ともいわれ、古くから「不老長寿の秘薬」とされてきた。今はちょうど実のなる時期。甘いものが少なかった時代の少年少女たちにとっては、ハスカップが実をつける季節が待ち遠しかったことだろう。
 勇払原野は、決して肥沃な土地ではない。樽前山の火山灰が混じった、痩せた土地である。植物が育ちにくいなかで、ハスカップはたくましく育ってきた。美しい花を咲かせ、豊かな実を結んできた。可憐ななかにも力強い生命力を秘めたハスカップ。そのハスカップに飾られた苫小牧の地に生きる皆さま方である。どこよりも心美しく、心強き一人一人であっていただきたい。(拍手)
 さて、北海道婦人部の「白ゆり大学校」の第二期が、昨日(八日)スタートした。婦人部の皆さまのご活躍を願い、今朝、お祝いの言葉を贈らせていただいた。
 「幸福者とは 智恵のある人 聡明な人 常識ゆたかな人 そのすべてが 含まれているのが 仏法即生活の 法理である」と。
 幸福になるための知恵は、すべて仏法に含まれている。また″仏法即社会″″信心即生活″である。信心に徹していくならば、現実の生活のなかで、幸福生活の花を咲かせるための知恵が限りなく開かれていくのである。
2  北海道といえば、日本人だけでなく外国人にとっても、いわば″憧れの天地″である。
 ご存じのとおり、たくさんの外国のお客さまがみえる。その多くの方々から「北海道に行ってみたい」との願望を聞く。どれほど北海道は魅力があるかという表れである。住んでいる皆さま方は、案外わからないかもしれない。しかし客観的に見れば、すばらしい″憧れの天地″となっていることを誇りとしていただきたい。
 また、未来性に富み、二十一世紀に向けて、さまざまな意味で注目を集めてもいる。今後、ますます大きく発展することは絶対に間違いない、と私は思う。
 広布の歴史においても、北海道のもつ意義は重い。初代会長牧口先生は、青春時代をこの大地で学ばれた。第二代会長戸田先生の故郷でもある。私も若き日に夏季の地方指導等で幾度となく訪れ、自身の歴史をつづってきた。北海道は、歴代会長と縁深き、学会の一つの″原点の地″といえよう。
 今日、北海広布の先駆けとして活躍されている皆さまの功徳はいかばかりか。御本仏日蓮大聖人も、必ずや称讃されているにちがいない。(拍手)
3  友には心豊かに、心あたたかく
 真剣に信心している人を、ほめたたえることのできない人は不幸である。
 一般にも、人をほめたたえることは、あたたかな人間性の発露である。たとえば、夫が妻に対して「ずいぶん若々しいね」(笑い)、「きょうのヘアスタイルはすてき」(笑い)と、お世辞でもよい(笑い)、ほめてあげれば、どれほどか、ほのぼのとした心の通うふれあいが生まれることか。これが、実際生活での人間の世界である。
 お世辞も言えない人はわびしい。心の狭い人たちである。それでは人間をつつむことができない。大いにほめたたえあったほうが、美しい交流ができる。
 お世辞は、おべっかとはちがう。へつらいともちがう。ウイットやユーモアと同じように、そよ風みたいなものであり、生きていくうえでの一つの潤滑油でもある。人をほめたたえたり、お世辞も言えないような心の狭さは、まるで刑務所か昔の軍隊のなかにいるようなものである。(笑い)
 おかしなお世辞や、いや味のあるほめ言葉はよくない。しかし、自然に心から出るお世辞は、とてもさわやかである。それは、凡夫である庶民の人間性の一つの表れであると思う。決して、偉い人や幹部にお世辞を使えと言っているわけではない。おたがいの励ましあいのなかでのお世辞はあってもいいのではないかと思う。人間は人間らしく、自分は自分らしく生きていけばよいのである。
 人をあたたかく包容し、守っていける人は、人間として幸福者である。すぐに人を叱ったり、命令的になったり、排他的になれば、冷たい、闇のような人間世界となってしまう。
 かつて衣の権威をカサに着て、一部の悪侶が、まじめに信心し、弘教に励んでいる、尊い仏の使いを軽んじ、いじめ、見さげてきた。その心は仏法の心ではない。僧としてよりも、人間として許されることではない。
 御書でも法華経でも、正しき信仰者を最大に讃嘆されている。ただお世辞を言ってはいけないとか、ほめるなという人がいれば、それは御書の心、法華経の心に反する心である。
 先ほど、幹部の方があいさつしていたが、元気なのはよいが、怒鳴っているように聞こえた(爆笑)。学会草創期のようで、時代遅れもはなはだしい。(爆笑)
 どうか、友が元気なときは、月光のごとく静かに、友に元気のないときは、太陽のごとくあたたかく。また、あるときはそよ風のごとく、またあるときは暖流のごとく、たがいにたたえあい、励ましあって進んでいただきたい。
4  人を権威や策で動かそうとする人は、心卑しき人である。最後は、みずからが策に倒れ、みすぼらしい人生の姿となっていくにちがいない。
 また、権威や権力で、傲慢に人々を見くだすような人には、絶対になってはならない。
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」(「学問のすゝめ」、『福沢諭吉全集』第三巻所収、岩波書店)とは福沢諭吉の言葉であるが、仏法は平等大慧の大法であり、すべての人々は、御本尊のもとに平等である。たがいに尊敬しあっていくべきである。
 それを″自分は偉い、他の人は自分より劣っている″と思って、人々を見くだそうとするのは、魔性の心である。この心は多くの権力者に備わる心である。私たちは、絶対にだまされてはならない。
 先日(=六月二十六日、第一回男子青年部幹部会)、「魔の十軍」の話をしたが、″我ひとり高し″とするのは、魔(「自高蔑人」すなわちみずからを高しとし、人を蔑視する魔)の心なのである。
5  真の信仰者は朗らかに堂々と
 私どもは、第一にも、第二にも、日蓮大聖人の仰せを根本軌道として、広宣流布に進んでいけばよい。それがもっとも正しく、尊い人生の生き方である。
 広宣流布の聖業からみれば、利害にとらわれた世間の評判など、大海に対するさざ波のようなものである。さざ波にとらわれてしまえば、結局、さざ波のような浅はかな人生で終わってしまう。深海のごとき深い心、大きな心を知らなければ、真実の偉大な人生を生きることはできない。
 人生は朗らかに生きぬくべきである。その人はたくましい。負けることを知らない。
 人生には、さまざまなことがある。思いどおりにいかない場合も多い。しかし、それにくじけてはならない。心の持ち方一つで、どうにでも生きることができる。
 たとえば隣の家では大きなテレビを買った。子どもたちも、それがほしいとねだる。だが、わが家には余裕はない。さてどうするか。そこで、親の知恵を発揮して″大きいテレビだと、見すぎて、目を大きく痛める″(爆笑)とでも、上手に言えば、子どもたちは心から納得しなくても聞きわけてくれるだろう(笑い)。人生には、こういう朗らかさ、たくましさが必要である。
 勇敢な人、朗らかな人――いかなる苦難の嵐があっても、その人には勝てない。自分自身の境涯で、どのようにも人生は開いていけるのである。
 ともあれ、何ものも恐れることはない。何ものにも卑屈になることはない。何ものにも妥協する必要はない。正々堂々と″信仰王者″として進んでいけばよい。
 だれが偉いのでもない。信心の強い人が、もっとも偉く、もっとも強い人なのである。どうか、みずからの使命の場所で、偉大なる信仰と、偉大なる自分自身に生きぬき、″私は勝った。大満足だ″と言える、偉大なる勝利の人生を飾っていただきたい。
6  三世の歴史を「勝利の実証」で
 仏法も人生も、大切なのは「事実」である。現実の「証拠」である。
 仏法では道理(理証)と証文(文証)が大切である。そのうえで、「道理証文よりも現証にはすぎず」――道理や証文よりも現証が第一である――と、大聖人は仰せである。
 どんなに立派なことを言っても、またすばらしい話を聞いたとしても、自分自身が現実に「満足」と「勝利」の実証を示さねば、意味がない。観念論、抽象論になってしまう。それでは、仏法ではない。実像の人生でもない。
 ご家庭でも、ご主人が「明日は一緒に勤行するよ」と口先ばかりで(笑い)約束しても、空手形では、文証があって現証がないようなものである。だから奥さんに叱られる(爆笑)。やはり「結果」が大事である。所詮、人生も、生活も、どういう結果であったかが、現実の幸・不幸を決めていくからだ。
7  身近な日々の暮らしから、一生、また三世の幸福にいたるまで、すばらしい「結果」を残せる自分自身でありたい。そのための根本の「原因」をつくるのが信心であり、仏道修行なのである。
 ゆえに、だれ人が、どんなに「自分は偉い」と威張ってみても、現実に一人の人に信心を教え、面倒をみ、幸福にしていった「実証」にはかなわない。″高位の人″よりも″弘教の人″が偉いのである。
 仏法の眼から見れば、実社会のなかに、わが地域のなかに、正法流布を進めている皆さま方ほど尊い存在はない。高貴なる″仏の使い″であり、何より御本仏の御称讃は絶対と確信する。また必ずや、三世十方の諸仏の讃嘆にもつつまれていくにちがいない。
8  このように、労苦の汗を流しながら、具体的な「事実」を、一つまた一つ積み重ねていく。そこにのみ尊い「歴史」がつくられていく。
 そして広宣流布への行動は、全部、自分自身の″人生の勝利″の歴史となっていく。広布は、人のため、学会のためのように思えるかもしれないが、じつは、だれのためでもない、すべてが自分の幸福のためである。自分の″一生成仏″のためである。
 仏法は「三世永遠」の生命と説く。そのうえで「一生成仏」と仰せのごとく、今世の舞台が大事である。この舞台で、思う存分、活躍し、信心の勝利を勝ち取っていく。それが「永遠の幸福」ヘの″土台″となり、″出発″となっていく。大聖人の仏法は、どこまでも「現当二世(現在世と来世)のための仏法なのである。
9  勝ってこそ歴史は作られる
 「仏法は勝負」であり、「勝つ」ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい「歴史」はつくられる。負け戦では道は開けない。
 負けることは、みじめである。都落ちし、壇ノ浦へと転落していく平家の哀れさ、悲惨さ。清盛なく、重盛なく、一族の柱を失ったあとで、だれも″勝てる将″がいない。
 そうした状況を描いたあるドラマでは、一人の母親が、息子のふがいなさに、「おまえをこんなに勇気のない人間に育てた覚えはない」と嘆くシーンもあった。しかし嘆いても、取り返しがつかない。
 「勝つ」ことが、自分のみならず、一家、一族、周囲の幸福につながる。
 広布の前進においても、大法のため、大切な仏子のために、何としても勝ちぬいていかねばならない。
 火花を散らすような峻厳なる攻防戦を勝利せずして、どんなに活躍している格好を見せても、もはや遊戯にすぎない。″進んでいる″のではなく″踊っている″だけである。とくに青年部に、このことを強く言っておきたい。
 生まれてきた以上、何の歴史も残さないで死んでいくのでは、寂しい。どうか皆さま方は、自分としての何らかの「勝利の実証」を、この人生で、晴れやかに、誇らかに示していっていただきたい。(拍手)
 もちろん「勝利」といっても、人生には、さまざまな段階がある。また、今は、苦闘のさなかの方もいらっしゃるにちがいない。それでよいのである。大切なのは「最後に勝つ」ことである。そのために、信心を貫くことである。
 野球も九回まである。途中までは、さまざまな明暗のドラマがある。途中の回まで、どんな姿であっても、九回の裏を終わった時にどうかが、すべてである。
 学校も小学校、中学校、高校、大学とある。途中までの成績も大切かもしれないが、やはり大学を卒業した時点での実力が、学びの時代の総決算となる。
10  そして私どもにとって、「最後の勝利」とは、一生成仏であり、広宣流布である。悪世での正法流布を誓って生まれた久遠の同志、御本仏の仏子の軍勢が、どこまで進むことができるか。わが地域に、どこまで妙法の不落の砦を築くかの戦いである。
 個人も、団体も、国家の盛衰も、長い日で見なければわからない。そして私たちは、つねに最終の勝利のために、根本の「勝つ原因」を日々つくっているのである。
 ゆえに、私どもにとっては途中の一切が″幸福のこやし″になる。何一つ無駄はない。妙法は円教であり、闕減けつげん(欠けるところ)がないのである。このことを確信していくのが信心の信心たる証である。(拍手)
 最後に、苫小牧の皆さまは、この地で「幸福の金字塔」「人間勝利の金字塔」を見事に建立していただきたいと念願し、記念のあいさつとしたい。
 (苫小牧平和会館)

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