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日蓮大聖人・池田大作

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第一回男子青年部幹部会 自らの栄光の記念碑築け

1990.6.26 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  世間の無認識との戦いは先覚者の試練
 第一回の男子青年部幹部会、まことにおめでとう。本日は、結成三十三周年を記念する学生部総会の意義も込められているとうかがっている。全国各地でお集まりの諸君に、本当にご苦労さまと申し上げたい。
 先ほど、ショパンのエチュード(練習曲)『革命』が演奏された。これは、ショパンが祖国ポーランドヘの思いを託した作品である。
 列強に分割され、圧政に苦しんでいた十九世紀のポーランド。一八三一年、そのポーランドに、独立をめざす民衆革命の炎が燃えた。だが、反革命の強大な銃火によって、革命は鎮圧されてしまう。祖国のために生命を賭して戦った多くの同胞。――エチュード『革命』は、そうした祖国の姿に、万感の思いを馳せつつ、ショパンがつづった名曲である。
2  さて、ご存じのようにこの四月(二十五日)、私はブラジルの「南十字国家勲章」をお受けした。先日、ブラジル出身のグルグリーノ=デ=ソゥザ国連大学学長から、丁重な祝福のお手紙をいただいた。また私は、これまでに国連から、「国連平和賞」「国連栄誉表彰」「人道賞」「平和貢献・事務総長表彰」の四賞をいただいている。
 国連を支援するのは、私の一貫した信念である。その意味からも本日は、国連大学について少々、語らせていただく。
 国連大学、といっても、日本ではその存在があまり理解されていないかもしれない。地球的、人類的視野に立った先駆的存在である国連大学が広く認識されるには、それ相応の″時″が必要かもしれない。先駆的、先覚的であればあるほど、その真価が理解されるには時間がかかる。″試練″がともなうものだからである。
3  グルグリーノ=デ=ソウザ学長の祖国ブラジルにも、先駆者のそうした″試練″を物語るエピソードがある。それは、今世紀の初めに伝染病から庶民を守った細菌学者オズワルド・クルス(一八七二年〜一九一七年)の戦いである。
 ――十九世紀の終わりごろのこと。パリ留学を終えて祖国に帰ったクルスを待ち受けていたのは、黄熱病などの伝染病であった。当時、黄熱病は、港や海岸沿いの街に多く発生しており、十九世紀最後の十年間でブラジルにおける死者は、一説によると二万七百八十九人。今世紀初頭の一九〇二年には、リオデジャネイロだけで九百八十四人が死亡という猛威をふるっていた。
 当時、黄熱病の犠牲者をなくすために、さまざまな試みがなされたが、すべて失敗に終わっていた。そこで、青年クルスが立ち上がる。医学的見地から、病気の媒体である蚊の駆除に全力を尽くす。蚊が発生する水たまりを街からなくし、家々を消毒していった。
 いつの時代であれ、困難を前に敢然と立ち上がるのは、青年の使命である。学会にあっても、戸田先生のもと、私たち青年が立ち、一歩も退かずに広布の戦野を切り開いていった。その意味で、あらゆる困難を乗り越えながら、広布の戦いをさらに進めていく使命と責任は、若き諸君こそが担っていることを、深く銘記していただきたい。
4  しかし、人々は無理解と無知から、彼のこうした努力を家庭へのなどと受け取り、反対行動を起こす。裁判に訴え、印刷物で批判するなど、彼を激しく妨害する。そのため、一時は減少していた犠牲者も、いつしか元に一戻ってしまった。
 だが、彼は決して屈しなかった。その結果、ついに黄熱病は三年間で撲滅されたのである。
 また、後に天然痘が流行したさいに、彼が行ったワクチンの接種についても、反対運動は暴動にまで発展した、という。
 こうした彼の戦いは、病気そのものよりも、世間の無知との戦いであったともいわれる。そのなかを彼は戦いぬいた。やがて広く人々の認めるところとなり、数々の賞も授与された。(クルスについては、『私たちの歴史の偉人』ノーバ・クルトゥラール刊による)
 このエピソードが示すように、先駆者とは、つねに無認識、無理解との戦いの連続といってよい。目的が偉大であればあるほど、意義が深ければ深いほど、戦いは激烈となる。無認識、無理解の厚い壁をどう克服し、人々を啓発し、理解を得ていくか。それには、情熱と努力と忍耐が必要である。
 国連大学は、世界的視野で人類のかかえる問題群に取り組んでいる機関である。発展のための課題は多いかもしれない。しかし、その先駆の労苦が、やがて人類の感謝と称讃の的となるだろうことを、私は確信してやまない。
5  全地球的課題に取り組む国連大学
 私はこれまで、国連大学の発展を一貫して願い、期待してきた。それは、今後の人類と世界の歩みを考える時に、教育の重要性を痛感してならないからである。
 世界を、そして未来を導くものは、人間である。その人間の無限の可能性を開き、育んでいくものは、教育である。牧口先生、戸田先生も、教育者であられた。私も教育を″人生の総仕上げの事業″と決めて力を入れてきたし、これからも同じである。
 その意味で、私は、教育の重要性を訴え続けてきたし、さまざまな提言もさせていただいている。十年前にお会いした国連大学のヘスター初代学長、また第三代にあたるグルグリーノ=デ=ソウザ現学長とも、さまざまに語りあった。
 本年のl・26「SGI(創価学会インタナショナル)の日」記念提言でも、私は教育が担うべき役割について「二十一世紀にそなえ、地球全体の力の底上げを図るには、民衆による″下からの内在的発展″を強力に推し進める必要がある」等と言及した。
 そして具体的には「第一回国連教育特別総会」の開催。軍事費の削減分の一部を、国連が″第三世界″への「教育発展基金」として活用すること。また「国連教育協力隊」の設置構想などを提案した。
 さらに三年前の「SGIの日」記念提言でも、一九九一年から二十一世紀までの十年間を、「国連世界市民教育の十年」とすることを提言するとともに、″人類の大学″として発足した国連大学に、「世界市民」を育成するための英知の結集を、と訴えてきた。
6  では、国連大学とはどういう大学なのか。ここで紹介しておきたい。
 国連大学は一般の大学のように、校舎を持ち、学生が学んでいるわけではない。世界中の研究機関、学者、科学者を結ぶネットワークを通じて、研究活動を行う学術機関である。その成果は、主に出版物として発表されており、一九七五年の創設以来、現在までに刊行された研究書は、百数十冊にのぼっている。
 と同時に世界各国で、現代世界のかかえる課題について、シンポジウム(討論会)を開催しているほか、数多くのプロジェクト(計画)に精力的に取り組んでいる。
 開発途上国への学術、技術の援助という点においても、これまで国連大学の研修生となった開発途上国の研究者の数は、すでに千人を超えている。
 国連大学の″英知のネットワーク″は、平和、環境、人権など地球的課題に対して、国家の壁を超えた、より大きな立場から、解決の糸口を探っている。人類の未来を開く大切な担い手として、今後、ますますその存在意義は大きくなっていくにちがいない。
 グルグリーノ=デ=ソゥザ学長は、国連大学の理念と活動について語っている。
 まず、国連大学の「任務」について――「国連大学の主要任務とは『人類の存続、開発、及び福祉という地球的問題群の研究に専念する』ことです。研究機関のネットワークを通して、国連大学は現代世界が直面する数々の地球的問題群の研究に、その力を傾注してまいりました」と。
 そして、国連大学が掲げる「開発」のテーマに関して、「まず第一に、開発は生態学的に健全でなければならない。さもなければ、人類と環境の相互の存続にはつながらないからです。第二には、平和と開発は、同時に実現していかなくてはならない。第三には、人類の総合的存続は、すべての文化を認めなければ可能とならない。つまり、自分たちのみならず、他人の発展をも容認し、各自が持つ文化的価値と能力に応じた発展・開発を認めるという、″多元的普遍主義″を前提にするべきです」と語る。
 さらに国連大学が進める研究課題のうち「平和とグローバルな変革」については、次のように述べている。
 「この研究では紛争や緊張の根底にある原因にも焦点をあててきました。(中略)それは単なる経済成長や近代化の問題、あるいは政治的発展の問題にとどまるものではない」「求められるべきは人間開発を目指しながらの社会変革なのです」と。
 国連大学の理念と活動の一端を知るために紹介させていただいた。
 また、国連大学では、一九九〇年からの六年間の活動を第二次中期展望と位置づけ、次の五つのポイントを基本路線に掲げている。
 (1)「普遍的な人間の価値と責任」――多様化する現代の価値観が、国際化の進展とともにいちだんと衝突しやすくなってきた。そして大きな緊張と対立を引き起こしている。それらによって、社会がその構成員の直面する問題に取り組むのをいかに妨げられているかを考察し、解決の方途を探る。
 (2)「世界経済の新たな方向」――経済の発達レベルが拡大し、分裂と混迷が広がり、世界経済に関して新たな懸念すべきことを生みだしている。地球の生物学的・地球物理学的システムが、近代経済を推し進める力のなかで、重要な部分を占めるようになってきた。
 (3)「地球の生命維持システムの保護」――環境破壊の問題が、地域的な問題を超えて、全地球的な規模に拡大している。これは長期的で最終的破局さえ招きかねないものとなっている。環境を保護しながらの開発、資源管理などを考えていく。
 (4)「科学・技術の進歩」――ロボットエ学、情報工学、新素材技術など知識の最前線における技術変革がもたらす影響が、情報ネットワークなどをとおして地球上の社会を再編成している。
 (5)「人口動態と福祉」――都市をコントロール不可能なまで肥大化させている人口動態学的力学を、とくに栄養および保健衛生での問題を重点に考察する。
 これらの地球的規模の問題群にそって具体的なプログラムを推進し、解決にあたっていくというのである。
7  ″真の平和″とは、心と精神の文化的状態
 私は、こうした世界の重要課題について、幾人かの世界的な学者と意見を交換してきた。
 もう十七、八年前になるが、高名な歴史学者であるアーノルド・トインビー博士と、環境汚染、貧困など地球的な問題群について縦横に語りあったことがある
 その折、トインビー博士は、一つの結論としてこう言われた。
 「人類の生存に対する現代の脅威は、人間一人一人の心の中の革命的な変革によってのみ、取り除くことができるものです」(『二十一世紀への対話』本全集第3巻所収)と。
 そしてさらに「この心の変革も、困難な新しい理想を実践に移すに必要な意志の力を生み出すためには、どうしても宗教によって啓発されたものでなければならないのです」(同前)と語られたのである。
 これはまさに、私どもが人間革命をとおして社会変革をめざすのと同じ方途である。ここからも、学会の運動がどれだけ先駆的な運動であるかを知ることができる。
 また、この言葉には、トインビー博士が、仏法を基調とした私どもの運動に寄せられた絶大な期待がうかがえるのである。
 さらに、「ローマクラブ」の創設者であるアウレリオ・ペッチェイ博士とも地球的問題群をめぐって語りあった。
 ある時は、フィレンツェにいる私を訪ねて、ローマから一人で車をとばして来てくださった。またある時は、わざわざパリまでいらっしゃった。博士は、私と意見を交わすことを、光栄にも楽しみにしてくださっていた。謙虚な方であった。
 そのペッチェイ博士もまた″地球的問題群の解決にあたって大切なことは、人間を最大限に開発することであり、現代のあらゆる改革の頂上に立つ人間の変革を成し遂げることである″との信念をもっておられた。
 またペッチェイ博士は、私との「国連」と「平和」をめぐる対話のなかで、「軍縮即平和ではない」ことを述べられた。それは為政者の心一つで、いとも簡単に覆されてしまうからである。
 そして「″真の平和″とは『心と精神の文化的な状態』のことである。軍縮を第一歩として、民衆と民衆との相互理解・連帯によって、その『心と精神の文化的な状態』へと人類社会をさらに前進させねばならない」(『二十一世紀への警鐘』読売新聞社)と論じられていた。
 いよいよ「ボーダーレス(国境のない時代)」を迎えた。民衆と民衆の間に「平和」と「文化」と「教育」のネットワークを、どれだけ広範に、どれだけ強靭に張りめぐらしていくか。これが人類の最大の課題なのである。学会の活動は、まさにこの運動に先駆するものとの誇りをもっていただきたい。
 トインビー博士、ペッチェイ博士ら、今は亡き二十世紀の知性から、私どもは人類の未来の運命を開く事業を託されている。「″希望の道″はあなたです」と、私を信じ期待して発せられた言葉は、耳柔から離れない。私はこの言葉をかみしめながら、いちだんと対話と行動の渦を、世界に巻き起こしていきたい。(拍手)
8  ゴルバチョフ大統領のリーダー像
 さて、先日、SGI公認通訳の方たちと、少々、懇談する機会があった。
 そこで話題になったのは、今、ソ連(=一九九一年、歴史的に消滅した社会主義国家の旧ソ連、以下、同じ)のゴルバチョフ大統領の人気は世界でもナンバー・ワンであろうということだった。多くの人がそう認めるのではないかと思う。
 ゴルバチョフ大統領の″武器″は何か――それは軍隊ではなく、彼自身の人柄、人格であり、またビジョンである、としばしば語られる。しかし、どちらかというと日本では、政治的な活躍は有名だが、その人となりについては意外と知られていないようだ。
 そこできょうは、大統領の人柄や経歴について、少し語っておきたい。これは、通訳の方たちとの懇談での内容なので、少々、不十分な点や飛躍があるかもしれないが、ご了承願いたい。
9  ゴルバチョフ大統領は、少年時代(十一歳のころ)、ドイツ軍による占領を経験している。十一歳といえば多感な年代である。その時に、占領地となった戦争の悲惨さを体験したこと。これが、平和の実現を粘り強く推進させる原動力になっているように思える。
 私にも、少年時代に戦争の体験がある。また、日本軍が中国大陸でどれほど残虐な行為を重ねたかを、戦場から帰ってきた兄に聞かされたこともある。その時、鮮烈に心にきざまれた戦争への怒り、権力者への憤りが、平和への強い思いとなって、今の私の一つの支えとなっている。
 ゴルバチョフ大統領自身、指導者のあり方について、次のように語っている。
 「どんなポストにいる人であろうと、もし人びとの必要、痛みを理解するというこの特質を失い、人びとがどのように生活しているかを理解しなくなるならば、偶然そのポストに就いたこの人物を即座に交代させなければならない。そのような者は、われわれには必要でない」(’87・7・14のマスメディア会合での演説、『ゴルバチョフはこう語った』中澤孝之編訳、潮出版社)と。
 ゴルバチョフ大統領は、一九三一年三月二日、南ロシアのスタブロポリ地方、プリボリノエ村に生まれた。現在五十九歳。ライサ夫人は五十八歳。一人娘は医師で、外科医と結婚。孫娘が二人おられる。
 大統領は、農家の出身である。故郷の村はコサックの流れをくみ、独立心の強い自由農民の風土をもっていた。宗教活動に寛容な姿勢をとっているとされるが、それは、信仰心の厚い家族の姿を見て育ったからだともいわれる。
 とくに母は、非常に積極的で強い女性であったようだ。第二次世界大戦中、夫や村の男たちが出兵した時は、村の婦人たちのリーダーとして、先頭に立って働いたという。
 「感情面では母に、知性面では父に影響を受けた」と、大統領自身は語っている。
 大統領は十三歳から、コルホーズ(集団農場)で働いた。当時のことを回想して、あるインタビューで次のように述べている。
 「農家の子の例にもれず、私も早くから畑で働くことを覚えました。十三歳で集団農場の手伝いをするようになり、十五歳でコンバインの助手になりました」「五年間、畑仕事と勉学を両立させて頑張りました。農業を営むわが家の雰囲気、環境、そして少年時代から大人にまじって一緒に働いたこと。それらすべてが、当然、私の性格を形成し、人生観をつくる土壌となったことは言うまでもありません」と。
 そして、十八歳の時には、集団農場での働きと実績が認められ、労働赤旗勲章を受章している。
10  自己の可能性開いた学びの姿勢
 また、モスクワ大学の法学部に学び、大学二年の時に、ソ連共産党に入党。この学生時代のことを「私は、母校モスクフ大学に限りなく感謝しています。教授・先生方、党やコムソモール(共産主義青年同盟)の仲間たち、多くの学友たちにです。一緒に学び、友情を温めた学友たちの多くとは、今も連絡をとりあい、付き合いを続けています。この学生時代こそ、私の人格形成を促し、今日の自分たらしめた、かけがえのない五年間でありました」と述懐している。
 最終学年の時、哲学部の学生であった今のライサ夫人と結婚。二人は、その当初から″対等のパートナー″としての生き方を示してきている。
 たとえば、ライサ夫人はしばしば、彼を本屋、美術館、劇場へ伴い、チェーホフやゴーリキーにふれさせようとしたという。同窓生たちには、ライサ夫人が、ゴルバチョフ大統領にとっての教養面での教師とも映ったようだ。
 さらに彼は、出会ったあらゆる人に心を開いて、学ぶ姿勢を貫いてきた。ユダヤ人、ペルシャ人、ポーランド人、チェコスロバキア人等、外国からの留学生とも積極的に友情を結び、彼らからヨーロッパのことなどを吸収した。
 何でも聞こう、学ぼう。だれとでも友達になろう――こういう姿勢の人は、自身の可能性を大きく伸ばすことができる。反対に、伸ばせない人というのは、慢心の生命が強く、進歩しよう、改革していこうという謙虚な心のなくなった、わびしい人といってよい。
 ″我れ以外皆我が師″とは吉川英治氏の言葉だが、そういう姿勢に徹するなかに、人間的な深みも力も培われていくのである。
11  ところで、ゴルバチョフ大統領は、党書記長や大統領になるべくして、若い時から出世街道を順調に突き進んできたかというと、決してそうではない。じつに、二十三年間にわたる雌伏の時代があった。
 モスクフ大学を卒業したものの、縁故がないため、モスクフでの活躍の道は閉ざされていた。そこで、ライサ夫人とともに帰郷する。故郷の地は「暖かいシベリア」と呼ばれ、政治の中枢からはほど遠かった。しかし、この地方の党で地道に働きながら、この間、通信教育で農業経済学を学び学位を取っている。
 ちょうど創価大学の通信教育部にも、全国の多くの方々が学ばれている。そのメンバーの集いである「光友会」の友の健闘も、忘れられない。
 たゆみない求道と向上の精神さえあれば、どこにいても、いかなる立場にあっても、どんどん力を蓄えていける。自分が今、おかれている状況を打開する原動力ともなる。
 また、大統領が通信教育で学んだのは、何より″現場″を大切にしようとしたからだともいえる。
 法学部を卒業しながら、法律とはあまり関係があるとはいえない農業地帯にいた。農業問題を多く取り扱う仕事であった。どうしたらよい作物が、多く取れるか。農業が発展するか――。そうした現場の切実な課題を解決しようとして、勉強し努力した。
 もし、法律の知識のみに満足し、それ以上学ぼうとしなかったならば、″現場″の感覚のわからない、ただの一地方官僚で終わっていたかもしれない。
 そして日常においても車を使わず、仕事場まで歩いて通っていた。気さくに人々と対話しながら、その暮らしぶりを肌で感じていたといわれる大統領は、まさに″現場に徹する人″であった。
12  ゴルバチョフ大統領の農業の勉強は、ただの″勉強のための勉強″ではなかった。自由な発想で、大胆な実験を試みる。そして成功を収めた。見事に結果を出したわけである。
 この実績によって、当時の党中央としても認めざるをえなくなった。三十九歳で州の第一書記(州の最高のポスト)に任命された。
 結果として、モスクフから列車で二十四時間という遠く離れた地にいたことが、幸いしたといわれている。というのも、モスクフに残ったエリートたちは、権力闘争のなかで共倒れとなったり、お世辞を使って生き残るしか道はなく、信念はくだけ、必然的に堕落し、腐敗していった、とあるジャーナリストは述べている。
13  深き人格と力を青年期に
 その一方で、ゴルバチョフ大統領は地方にいたことで、自由な発想や実験が可能となり、その成果が中央に認められ、異例の抜櫂につながったのである。
 四十七歳で、党中央委員会の農業担当書記に任命され、二十三年ぶりにモスクワの地≦戻った。
 都から遠く離れた片田舎での仕事は、人目をひかない地味な職務であった。しかし、そこで全力を挙げた。そしてみずからの飛翔への道を開いたのである。
 いずれの立場、分野にも自身の力を発揮するチャンスは必ずある。また地道な努力の姿を、見る人は見ているものだ。人生というものは、どこでどう開けていくかわからない。
 いわんや強盛な信心を根本とした努力には、妙法の因果の理法は厳然である。倶生神(人の行為の善悪を記し、閻魔王に報告する神)が、そして何よりも御本仏が、すべてを御照覧くださっていることは間違いないのである。(拍手)
14  ところで、ゴルバチョフ大統領は、学生時代からレーニンを尊敬し、原点としている。
 私がソ連のある高官と会見した折に語られたエピソードであるが、政治局員らが十時間近く討議しても結論に達しないことが時々ある。そうした時、ゴルバチョフ大統領は、出席者に「レーニンに相談して、また集まろう」と言って、次の機会での実りを期待するという。
 「全人類の価値を最優先」という「新思考」も、レーニンの「社会発展の利益は階級的利益に優先する」という考え方を、現代に適合させたものといわれている。
 また彼は現在、「人間の顔をした社会主義」との主張を行っている。私も二十五年ほど前に「人間性社会主義」の実現を提唱したが、「国家」から「人類」「人間」への価値観の転換は、今や時代の趨勢となりつつある。
 ともあれ、ゴルバチョフ大統領の思想と行動の″原点″はレーニンにある。
 確かな″原点″をもつ人は強い。″原点″なき人生は寂しく、根なし草のように弱い。
15  また、ゴルバチョフ大統領は無類の努力家である。本当に立派な人物は、必ず他人の何倍も何十倍も努力をしているものだ。
 十三歳から五年間、農作業と勉学を両立させてモスクワ大学に入学している。
 十八歳の時に下宿した家の女主人は、「ゴルバチョフは毎晩遅くまで、ランプの油が燃え尽きるまで本を読んでいました」と証言している。
 学生時代から哲学的思索を好み、文学にも造詣が深い。ドストエフスキー、トルストイ、プーシキン、レールモントフ……。こうした文豪、詩人の作品をよく読み、なかでもプーシキンはいちばん好きで、多くの詩を暗誦しているという。
 大学の旧友も「皆が遊んでいる時も、ゴルバチョフはいつも深夜まで勉強していた。彼はだれよりも勉強家だった」と語っている。
 チェコスロバキアの「プラハの春」のリーダーの一人であるムリナシ氏は、モスクフ大学に留学中、ゴルバチョフ大統領と仲が良かった。彼は当時を振り返り、こう語る。
 「素晴らしい資質を備えていた、心の開かれた人間であった。優れたインテリだが、尊大ぶらず、知性豊か。誠実かつ正直で、生まれながらの威厳があった。聞き上手でもあった」(中澤孝之『大統領ゴルバチョフ大研究』新芸術社)と――。
 尊大に振る舞い、自分を偉く見せようとする人間は、決して本物ではない。誠実で正直だからこそ、ゴルバチョフ大統領には威厳があった。反対に、いつも小才を働かせてばかりいる人間は、威厳どころか、どこか卑屈で、″畜生″にも似た姿になりがちである。
 さらに、ゴルバチョフ大統領の、勇気と雄弁を物語る少年時代のエピソードを紹介したい。
 中学生の時、生徒に愛国心を教えるため来校した軍人に、堂々と間違いを指摘した。しかも言い争うのではなく、制度を改善すべきだと、″改革者″としての意見を整然と述べたのである。その説得力ある主張に、相手の軍人も納得し、二百人の聴衆も大拍手を送ったという。
 先のムリナシ氏も、「自分自身であらゆることに取り組み、間違っていると思ったことには、はっきりと反対する勇気を備えた男だけがもつ静かな自信があった。誇りが高かった。冷笑的な立場とは無縁だった。生来の改革者であった」と回想している。
16  庶民の″痛み″を知る人が真の指導者
 ソ連の友人が、ゴルバチョフ大統領の人柄をほうぶつとさせる逸話を語ってくださった。やはりモスクフ大学で同窓生だった方である。
 同窓生たちは毎年一回、クレムリン宮殿の横の「無名戦士の墓」に集まり、同窓会を開くのが恒例となっていた。
 ゴルバチョフ大統領が書記長に就任した翌年のこと。大統領は同窓会に欠席した。同窓生たちも″ゴルバチョフは書記長になったから、きっと来ないだろう″と、初めから期待もしていなかったようだ。
 そこへ、黒いコートに帽子をかぶった初老の男性がやってきた。手には花束と手紙を持っており、ゴルバチョフ書記長に頼まれた者だと名乗った。
 その手紙には「今日、私が行けないのは、共産党書記長になったからではありません。どうしても用事で行けませんが、心ではみんなと一緒に集まっています。みんなのミーシャより」と書かれていたという。ミーシャとはゴルバチョフ大統領の愛称である。
 いかなる立場になっても「友情」と「信義」を重んじる、大統領のあたたかい人柄をしのばせる話であり、私も深い感銘をおぼえた。
17  一九八八年、ソ連のアルメニア地方で大地震が発生した。この時、ゴルバチョフ大統領はニューヨークの国連本部で演説をしていた。次の外交日程も、キューバ、イギリスとすでに決まっていた。
 しかし、大地震の報を聞くと、次の予定をすべてキャンセルし、すぐにアルメニアに直行した。
 この敏速な行動には、西欧の政治指導者もたいへんに驚いたという。政治的直観と決断力の速さ――これには定評がある。
 またゴルバチョフ大統領は、食糧の自給が国家のもっとも重要な課題であることを熟知していた。
 ある政治局員会議の時、モスクフの″名物″になっている「行列」について、「毎日、食べるものを確保するために並ばなくてはいけない――。この屈辱感、この痛みがわからない人間は、この場を立ち去ってくれ」と言いきったほどである。
 庶民の″痛み″を深く理解し、分かち合う――。これこそリーダーの根本の条件である。
 ところで、ゴルバチョフ大統領の著作『ペレストロイカ』は、アメリカの出版社から発刊され、百力国以上で二百万部以上売れ、ベストセラーとなった。この印税は党の予算、アルメニアなどの災害被災者基金、ソ連文化基金に入り、彼個人は一切、受け取っていないと、あるインタビューで答えている。
18  ゴルバチョフ大統領は、ソ連のあるジャーナリストに、こう語った。
 「私は収穫の時には立ち会わないかもしれないが、今のうちに蒔けるだけ種を蒔いておきたい」(前掲『大統領ゴルバチョフ大研究』)と。
 これが現在、さまざまな期待と批判の声を受けながら、また試行錯誤をしながら改革を進めている、ゴルバチョフ大統領のいつわらざる心情であろう。
 その深き思いは、私には痛いほどよくわかる。なぜなら、ある意味で私もまた同じ心情で、「広宣流布」という未曾有の戦いを進めているからである。
 ″妙法の種″″人材の種″を、私は日々休むことなく、日本中、そして世界へと蒔き続けている。
 人類の平和と幸福という将来の「収穫」のために、たとえ自分はどうなろうと、一人でも多くの友に、妙法の偉大さを、信仰のすばらしさを、語り伝えておきたい――。これが私自身の率直な心情である。(拍手)
19  民衆の魂の詩人プーシキン
 さて、プーシキン(一七九九年〜一八三七年)は、「近代ロシア文学の父」といわれる。愛するロシアの歴史と人間、美しき自然と文化を、詩に結晶させ、国民詩人、ロシア詩人の唯一の教師とも称される。
 彼は、生涯、民衆とともに生きた″民衆の巨人″であった。自由を愛し、専制権力の圧政を憎んだ。権力への批判のため、何度も追放されている。決闘によって、三十八歳の若さで殺されるが、これにも政治的背景があったといわれている。
 ともあれ、民衆とともに生きぬく人が偉大である。権威や、有名ではない。一個の人間としてどう生きるか、どこまでも、民衆とともに、民衆のために、進んでいくかである。
 プーシキンが、親友の哲学者に贈った詩(「チャダーエフに」)に、次のような一節がある。(以下、詩の引用は、『世界名詩集23
 プーシキン抒情詩』稲田定雄訳、平凡社による)
   われらに 自由が燃えているあいだは
   心が 正義のために生きているあいだは
   魂の こよなくうるわしいたかぶりを
   わが友よ われらは祖国にささげよう
   同志よ 信ぜよ やがてくる
   心とろかす幸福の 星のかがやき
   ロシヤは ながき夢より覚め
   専制政治の廃墟のうえに
   われらの名前がしるされよう
 現実の歌は、あまりにも厚い。甘い夢や若き日の楽しみは、朝霧のようにはかなく消えうせてしまう。しかし、それでもなおかつ絶望しない。わが心に「自由」と「正義」の炎を、赤々と燃やし続けよう。そして、わが同志とともに、はるかな未来を信じ、どこまでも進んでいこう、との思いをうたっている。
 またプーシキンはうたう。
   またもや 黒雲がわたしの上に
   音もなく 覆いかぶさってきた
   ねたみぶかい運命が わざわいもて
   またもや わたしをおどしている……
 事実、さまざまな権力の圧迫が、プーシキンにのしかかっていた。
 しかし、彼は、こう言い放つ。
   わたしの 誇りたかき青春の
   ひるまぬ 我慢づよいこころを
   そいつに向かって 投げつけようか
 これでもか、これでもかと襲いかかってくる試練。しかし、負けはしない。ねたみ深い運命のおどしが何だ。何とでも言え。くるものならきてみろ。逆に、正義と真実を、投げつけてみせるから――これが青年の心である。
 いかなる苦難にも、どのような運命の嵐にも、屈しはしない。「誇りたかき青春のひるまぬ我慢づよいこころ」で、どこまでも、どこまでも挑戦していく。そして必ず希望の未来を開いてみせる。勝利の人生を築いてみせる。これはわが学会青年部の心でもある。(拍手)
20  プーシキンは、三十八歳の若さで、この世を去った。しかし、彼には″永遠に朽ちない人生の証を残した″との自負があった。
 彼は高らかに宣言する。
 「わたしは人の手では作れぬ自分の記念碑を建てた」と。
 そして、その自身の手づくりの記念碑は、皇帝の豪華な記念碑よりもはるかに高く、価値がある、と胸を張る。
 また、こうした誇りをもっていたがゆえに、プーシキンは、
 「侮辱をおそれるな 栄冠をもとめるな 賞讃も 中傷も 平然とうけながし」
 と、うたっている。
 さらに彼は、次のようにうたう。
   わたしは いつまでも人びとに愛されるだろう
   なぜなら 竪琴で善い感情をよびさましたからだ
   なぜなら このはげしい時代に自由をたたえ
   たおれた人びとへの同情を よびかけたからだ
 民衆の友として、民衆の心に秘められた美しき、よき人間性を呼びさましながら、魂の自由をうたいあげていく――万有流転のなかにあって、こうした人生は、永遠に消えない輝きを放っていくものだ。
 一個の人間として、どれだけ永遠なる戦いをしたか。人類のための戦いをしたか。それが、自分の記念碑である。
 記念碑は、他の人につくってもらうものではないし、つくつてもらう必要もない。自分自身の行動、実践で、栄光と勝利の記念碑を築いていけばよい。
 私も、他のだれにも負けない″記念碑″を、つくりあげたと自負している。
 諸君の人生はこれからである。自分自身のために、社会のために、人類のために、見事に生きぬいていただきたい。そして、それぞれが、永遠なる栄光の記念碑を残してほしい。″私は、これだけの記念碑をつくりあげた″と、胸を張って宣言できる一人一人であっていただきたいのである。(拍手)
21  「詩人」とは人類の自由の戦士
 さて、このプーシキンの志を継ぎ、立ち上がったのが、ゴルバチョフ大統領も愛読しているというレールモントフ(一八一四年〜四一年)である。彼は、プーシキンの死後、ロシアに出たもっとも優れた詩人といわれる。またプーシキンをロシアの詩の「昼の光」とするならば、レールモントフは「夜の光」であると評する人もいる。
 一八三七年、プーシキンが死んだ時、彼は二十二歳であった。偉大なる詩人の死を悲しみ、彼は「詩人の死」という一編の不朽の詩をつづった。
 「詩人は死んだ!」とうたい始めるこの詩は、プーシキンヘの追悼である以上に、彼の怒りのほとばしりであった。すなわち、プーシキンを正当に評価せず、その死をむしろひそかに喜んでいた秘密警察などの権力に対する、烈々たる魂の叫びであった。
 それはまた、多くのロシア知識人の心情を代弁するものでもあった。人から人に手写しで、この詩は広がっていった。
 しかし一方、保守的な貴族のサロンや軽薄な社交界のなかでは、プーシキンの死を契機に、ここぞとばかり、その作品を誹謗する人間が、あとを絶たなかった。そこでレールモントフは「詩人の死」に、新たな十六行を書き加え、彼らを痛烈に断罪した。
 「お前たちはどんなにその黒い血を流そうともあの詩人の正しい血潮を拭うことはできないであろう!」(「レールモントフ詩集」木村浩訳、『世界詩人全集5』所収、新潮社)
 レールモントフは、この詩を書いたために逮捕され、軍隊での降格と左遷の処罰を受けた。しかし彼は屈服せず、強いられた環境の中で、むしろ多くの力を蓄えていった。そして、人類の心に永遠に鼓動しゆく数々の名詩を生みだしていったのである。
 権力者とか権威者には、真実の人は決してだまされない。心からは信服しないものである。いわんや現代はなおさらである。時代は民衆のほうが賢明になってしまったからである。
 そして「詩人」とは、たんに書斎で詩語をつないでいるだけの人ではない。まして世に迎合し、安易な言葉を売って生きるだけの人ではない。真の「詩人」とは、何より、魂の自由のために全生命をささげて戦う革命児であろう。信念の人格をもって、民衆のため、人類のために先陣を切って走る戦士ではあるまいか。
 プーシキンを、いわば″師匠″として、多くの詩人が自由のために立ち上がった。レールモントフも、その一人――もっとも偉大な弟子の一人であった。
 ロシアの二人の詩人、師と弟子の″魂の連鎖″は、弟子レールモントフの必死の戦いによって、今も歴史に薫っている。
22  革命児ならば断じて勝ちゆけ
 最後に、「仏法は勝負」ということについて、少々、申し上げておきたい。
 戸田先生は、よく教えられた。「信心は、人間の、また人類の行き詰まりとの戦いだよ。魔と仏との闘争が信心だ。それが仏法は勝負ということだ」と。
 前進していれば、当然、行き詰まる場合がある。その時は、いちだんと題目をあげ、行動することだ。そうすれば、また必ず大きく境涯が開けてくる。ふたたび前に進んでいける。この限りなき繰り返しが信心である。
 その自分との戦い、行き詰まりとの戦い、魔との闘争に、勝つか負けるか、それが″勝負″なのである。
 相手のいない戦いはない。簡単に勝てる戦いなら成長もない。しのぎをけずるような厳しき自己との闘争、広宣流布の敵との戦いを忘れれば、もはや堕落である。遊戯である。ぬるま湯にひたっているような安逸は、もはやそれ自体、敗北の姿なのである。
23  日蓮大聖人は仰せである。
 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり
 ――そもそも仏法というのは勝負を第一とし、王法(政治、社会)というのは賞罰を根本とする。ゆえに仏を「世雄」と号し、王を「自在」と名づける――。
 賞罰にはランクがあり、相対的なものである。百点のうち十点とか六十点とか、また勲章の等級とか、″より良い″また″より悪い″と比較できるのが賞罰である。
 これに対し、勝負とは絶対的なものである。勝つか、負けるか。中間はない――。
 仏とは、この勝負に″勝った人″のことである。「世雄」とは、人間の世(世間)にあって、最強の勇者ということである。
 このほか仏典には、″仏の別称(別名)″として、次のような表現が使われている。
 「戦勝」「勝導師」「勝陣」「勝他」「勝他幢」(幢とははたはこ、王将である象徴)。また「健勝破陣」すなわち魔軍の陣を破り、勝つ健者、勇者。「十力降魔軍」すなわち十の力で魔軍を降し全滅させる強者――これが、仏なのである。
 すなわち、魔との勝負に「勝つリーダー」(勝導師)こそ仏だというのである。勝ってこそ仏法、勝ってこそ信心なのである。
24  魔軍との戦いについて、大聖人は、こう描写されている。
 「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土どうこえどを・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
 ――第六天の魔王が、十の軍隊をもって戦争を起こし、法華経の行者と″生死の苦しみの海″の中で、同居穢土(娑婆世界のように、六道の凡夫と四聖〈声聞・縁覚・菩薩・仏〉が同居する国土)を、「取られまい」「奪おう」と争う。日蓮は、その身にあたって、仏の大軍を起こして二十余年になる。その間一度も、退く心はない――。
 魔の十軍とは、煩悩の軍隊のことである。『大智度論』(大正三十五巻)では次の十種を挙げている。
 すなわち
 (1)欲。五欲にとらわれて、修行を怠るようになる。
 (2)憂愁。気がふさぎ、ものうくなってくる。
 (3)飢渇。うえとかわきにさいなまれる。
 (4)渇愛。愛欲や執着によって堕落していく。異性への愛着や、酒などの快楽におぼれる姿も、これに関係していよう。
 (5)睡眠。まったく眠るなということではなく、惰眠を続けるような真剣でない生活であり、態度といえよう。眠りをさくような向上への努力もせず、要領よく生きていく人生をも含むかもしれない。
 (6)怖畏。おそれに負けて臆病になる。
 (7)疑悔。修行者をそそのかせて、疑いと悔いを起こさせる。
 (8)瞋恚。怒りの心によって、修行が妨げられる。
 (9)利養虚称。名利と虚名にとらわれて、成仏への道を踏みはずす。
 (10)自高蔑人。自己を高くし、人を見くだす。
 これは、これまでの反逆者に共通する傲慢な生命であった。また彼らは、要するに、この十の魔軍にみずから敗れ、捕らわれて、向こうの陣についてしまった者たちである。
 この魔軍を打ち破る武器は何か。それはただ一つ、信心の利剣以外にはない。
 ゆえに広布のリーダーは、第一に″信心強き″勇者でなければならない。そうでなければ、どんなに優秀なリーダーに見えたとしても、根本的次元における魔との″生命の戦い″に勝利することはできない。
 「信心」が強いかどうか、それが真の強者か否かの基準なのである。
 ともあれ、この御文のとおり、宇宙という「生死の海」(苦しみの海)を舞台に、仏と魔との壮絶な戦いが繰り広げられていると、大聖人は仰せである。
 宇宙全体が″勝負の世界″なのである。創造の力と破壊の力。″調和コスモス″へのエネルギーと″混乱カオス″ヘの乱気流。″結びつける″慈愛の力と″切り離す″憎悪の力。生と死、光と闇、幸福と不幸、前進と後退、上昇と下降、開放と閉鎖、希望と絶望、″生かす″エネルギーと″殺す″衝動――。幸福になりゆく法則に従うか、反対に、黒い不幸の世界に化していく天魔に従属してしまうかである。
 絶対に私どもは、永遠に幸福になりゆく法則に従い、崩れざる常楽の世界をつくりゆかねばならない。これが仏法者の使命である。いうなれば、「光の軍隊」が仏の軍勢なのである。
25  仏の戦いを諸天は守護
 さて、そうした仏の戦いを、諸天は、将軍または強兵として必ず守る。
 「衆生身心御書」には、こう述べられている。
 「此の経文を・つよく立て退転せざるこわ物出来しなば大事出来すべし、いやしみて或はり・或は打ち・或はながし・或は命をたんほどに・梵王・帝釈・日月・四天をこりあひて此の行者のかたうど方人を・せん」云云。
 ――この経文(「已今当」の経文のこと。過去・現在・未来に説く一切の経より、法華経は優れているとの法華経法師品の経文)を強く立て、退転しない強者が出現すると、必ず大事が起こる。すなわちこの人を、いやしんで、あるいは悪口し、あるいは暴力を加え、あるいは流罪し、あるいは命を断とうとするので、大梵天王、帝釈天、日月、四天(持国天・増長天・広目天・毘沙門天の四天王)が怒って、この行者の味方をする――。
 いうまでもなく、これは大聖人御自身のお振る舞いのことである。とともに、総じて、御書のまま、経文のままに、強盛な信心を貫き、諸難を受けきっていく勇者が出る時、必ずや梵天・帝釈等も動きだして、守る働きを始めるとの原理を教えてくださっていると拝される。
 私は、諸君に、そうした勇者になっていただきたい。これこそが、成仏という永遠に崩れざる幸福の「大境涯」への軌道であるからだ。難を受けきって、境涯を開きに開いていく。ここに、人生の究極も、仏法の真髄もある。
 そして、この妙法は、世界のいかなる著名人、指導者といえども持っていない大法である。妙法受持の人の福徳と歓喜は、世間の栄誉や喜びとは比較にならないほど、深く大きい。また尊い人生となる。
 諸君は胸中深く、そのことを確信し、誇りとしていっていただきたい。そのうえで、現実の舞台で断じて″勝つ″強き男性であっていただきたい。(拍手)
 どうか、だれよりも勇気ある、また伸び伸びとした、価値ある人生を送っていただきたいと念願し、記念のスピーチを終わりたい。
 (創価文化会館)

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