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日蓮大聖人・池田大作

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第十二回全国婦人部幹部会 広宣に生きぬく楽しき人生を

1990.6.8 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  献身のリーダーには歓喜と進歩
 全国各地で、にぎやかに開催されている第二十回婦人部総会、本当におめでとう(拍手)。皆さまのけなげな献身と活躍の姿ほど、美しく尊いものはない――。いずこの世界においても、″人々に尽くそう。人々のために働こう″との献身の一念の人は強い。
 中国の″人民の母″と慕われる鄧頴超とうえいちょう女史(周恩来総理夫人)は、あの「長征」の一万二千五百キロにわたる大行軍に臨んだ折、肺を病んでいた。当時、十人中九人は死ぬといわれた結核である。
 いつ倒れるかわからないほどの衰弱。薬もない。栄養も取れない。敵と戦いながらの強行軍であり、静養することもかなわない。しかし、その苦難の真っただ中で、鄧女史は″生きぬこう″と心を決めていた。なぜか――。
 その心境を、女史は語る。
 「ある確固とした信念が私を勇気づけていました――革命の前途は明るい、私の病気もきっと治る。治らなければならない、党と革命のためにもっと働くために」(郭晨『女たちの長征』田口佐紀子訳、徳間書店)
 そして女史は、その強い信念のとおり、大自然の新鮮な空気を滋養としつつ、革命の戦いのなかで結核を治してしまった。その後も、周総理とともに、人民のために身を粉にして働きに働いてこられた。今年で八十七歳。今もなお、お元気で、″人々に尽くそう″と心を砕いておられる。まことに尊くも気高い献身の姿である。
 まして私どもは、最高の妙法を持ち、法のため、人類のため、平和のための活動に日夜励んでいるのである。自身の安穏という我欲を超えて、人々のために尽くしていく――これほど尊いことはない。また自身の安穏も幸福も、この広布の行動のなかにすべて含まれ、成就していくのである。
 これほどすばらしいことはない。
 鄧女史は、中国人民のために生きぬいた。皆さまは、広布のため、人類のために生きて生きぬいていただきたい。これが私の念願であり、その決心をもった人が″信心強き人″なのである。
2  ここ数日、東京でも暑い日が続くなか、多くの方々が婦人部総会の招待状をたずさえて、わざわざ信濃町の学会本部に足を運んでくださった。この席を借りて、皆さまの真心に心から感謝し、お礼申し上げたい。
 私は、いずれの地域の婦人部総会も「すべて朗らかに、大成功であるよう」、そして皆さまの「幸福」と「安穏」を、いつも御本尊に真剣に祈念している。
 どうか、にぎやかに、楽しく、その地域ごとの特色のある総会を、活発に開催していただきたい。決して人数の多さに功徳があるのではない。広宣流布への信心の喜びに満ちた会合は、たとえ少人数であっても功徳は大きい。むしろ、たいへんななかで頑張っている所ほど、福徳に満ちていくことは間違いない。
 また本日は「女子大学会」の第九回総会のほか、北海道、青森、新潟の中越圏および佐渡本部、東京・中野区で、各地の「婦人部の日」「県の日」等を記念する集いが行われており、「婦人部白ゆり大学校」第二期も首都圏で発足の運びとなった。それぞれの記念の集いを心から祝福申し上げる。(拍手)
 さらに、この幹部会には海外十二カ国からも代表が参加されており、「ようこそ、本当にご苦労さま」と歓迎したい。(拍手)
3  リーダーシップが変化した時代
 さて、現代は「女性の時代」といわれる。女性が元気な時代である。各分野での女性リーダーの活躍もめざましい。
 その分、男性はどうもさえない(笑い)。なかには「住宅から″大黒柱″が無くなったのと並行して、男性が頼りなくなった」(笑い)と論じる人もいる。なるほど現在の建売住宅には昔風の大黒柱はない。それは男性が″柱″でなくなったことを象徴しているかのようだというのである。
 それが当たっているかどうかは別にして、これまでの男性中心の社会のあり方が、大きく変化していることは間違いない。そうした変化に対応できず、多くの男性が戸惑い、また自信を失っているのが現実である。自分が″時代錯誤″におちいっているのに気づかず、周囲の顰蹙を買っている人も多い。男性のほうが、時代に遅れてしまっている面がある。
4  それでは、この「変化」の本質は何なのか。当然、さまざまな要素があるし、多次元から論じなければならない。そのうち、本日は一点のみふれておきたい。
 それは、家庭、職場、諸団体など、あらゆる組織での「リーダーシップの変化」である。求められる″指導者像″が、かつてとは大きく変わっているのである。
 すなわち、それは、まず「命令する人(命令者)」から、全体の「調和をつくる人(調整者)」への変化である。
 「上意下達」(上の者の意思を下の者に通すこと)という″命令″調の時代は、とうに終わっている。「下意上達」(下の者の意思、意見が上の者に達すること)、あるいは「上下のコミュニケーション」(意思の疎通)を図ることが、中心者の使命になっている。上下一体の協力であり、前進である。
 それは、″統制″や″強制″を行う「管理者」ではなく、メンバーの自発性、すなわち″やる気″を引き出す、真の「リーダー」への期待でもある。
 「管理者」とは、発展の原因、すなわち人々の″やる気″を起こさせる努力もしないで、結果の報告ばかリチェックする指導者である。これでは官僚主義になってしまう。また、みずからが原因もつくらず、結果だけ得ようとすることは、仏法の因果の理法のうえからも、道理のうえからも、まことにおかしなことである。愚かなことである。
 これに対し、「リーダー」とは、一人一人の胸に希望と勇気をわかせ、発心を引き出しながら、結果については自分が責任をとるという人である。
 この違いは大きい。ますます大きく、鮮明になる時がきた。人々は命令や管理には、いわば本能的に反発する。″下から″″第一線から″の時代なのである。
5  権威から献身ヘ
 こうした指導者像の変化は、一言でいえば「権威」から「献身」へ――と要約できるかもしれない。冒頭に鄧女史の話を申し上げたが、上の立場にあるほど、人々のために、現実にどれだけ尽くしたか、それが問われているのである。
 組織のあり方も、命令を中心にした″軍隊的組織″から、人間同士のつながりを基軸にした″家族的組織″に変化せざるをえない。一方通行の″直流型″から、話し合い、コミュニケーションの″交流型″への切り替えである。その先駆の実践をしているのが創価学会である。(拍手)
6  ともあれ、時代の流れ――トレンド(流れ)は急速に変化、変化を続けている。これにすばやく対応したところが、企業等でも伸びている。このことは、アメリカの社会学者、未来学者らが、声をそろえて強調している。
 そして、どちらかといえば女性のほうが、この変化にうまくフイットし、適応しているようだ。
 ここに「女性の時代」といわれる一つの背景がある。
 反対に、男性は過去の″命令調″にとらわれ、時代遅れになっている側面が強い。
 皆が、何でも言うことを聞き、いわゆる素直だった″古き良き時代″を(笑い)懐かしがってばかりいる。自分こそ成長が止まり、遅れてしまったことを自覚しないで、皆が悪いように錯覚し、現状を嘆いている。これでは進展がない。喜びがない。功徳も少ないし、境涯が開かない。周囲の成長をも止めてしまう。
 多くの壮年が、こうした″時代とのギャップ″に悩んでいる。
 会社でも、まして自由な学会の組織では、たんなる命令では、もはやだれも動かない。
 また、かつては情報が″長″に集中していた。しかし知識産業、情報産業の発達で、現在は、企業等でも、第一線の人のほうが、よほど多くのことを知っている場合がある。
 学会においても、同時中継の体制が定着し、また学会指導の学習が進んで、第一線の友のほうが、幹部よりもよほどしっかりしている場合が増えてきた。(笑い)
 さらに、転職が増えているが、今や人々は、自分の力をより生かせる職場へと、どんどん替わっていく。アメリカ等では、とくにこの傾向が強い。日本でも、昔のように、一つの会社に無条件に忠誠を誓うという考え方は、減ってきた。善し悪しは別にして、これが現実である。
 今はむしろ、メンバーが幹部を吟味し、選んでいる時代であろう。
 「あの人なら信頼できる」「あの人となら、一緒に進んでいける」「あの人の話は、どうも調子がいい」(笑い)「口ばっかりだ」(笑い)等々――そのように厳しく見ている。
7  要するに、今や、権威でも、命令でも、強制でも、情報量でも、人々をリードすることはできない。そうした人々を、いったい何をもってリードし、どのように団結させていくのか。どうやって、価値的に組織の目的を達成していくのか。
 すなわち企業でいえば、どうすれば皆が働きやすくなり、利潤を追求しつつ、社会に貢献できるのか。
 学会でいえば、どうすれば一人の人が信心に立ち上がり、喜び勇んで「広宣流布」と「一生成仏」の道を歩んでいくことができるのか。
 ここに、現代のあらゆる指導者が直面している課題がある。
 そこで、「権威から献身へ」――この抜本的な変化を自覚できるかどうかが、その団体の未来を占うキーポイント(カギ)となる。そして、この「献身」にこそ、仏法の精神もある。
 仏法には本来、いわゆる悪しき権威など微塵もない。日蓮大聖人も、そうした悪と徹底して戦われた。これほどまでに――とさえ思われるほどの激しさ、厳しさであられた。そして正法流布のため、人類のため、悩める人のために、わが身を捨てて「献身」され、尽くされた。
 私どもは大聖人の門下として、このご行動を深く深く拝していかねばならない。
8  「大切な広布の組織」との遺訓
 学会の組織について、恩師は「戸田の命よりも大切な広宣流布の組織」と言われた。計り知れない意義のある仏意仏勅の組織である。
 そのリーダーとなることは、これ以上の栄誉はないし、これ以上の福徳もない。また責任も大きい。そして大きな責任を自覚して、本気になって進んだ分だけ、永遠の幸福境涯へと、わが生命は広がり、輝いていく。
 仏子のための献身、経文と御書に説かれた仏敵との戦い――それらを忘れ、また避けるのは卑怯な指導者である。
 「仏法は勝負」と説かれるとおり、広布の敵と戦い、勝ってこそ、仏法のリーダーである。力士やボクサーにしても、強い相手を倒してこそ、力を証明できる。戦いを避けたのでは、存在する意義はない。その意味で、敵がいること、障害が大きいことは、むしろ、ありがたいことなのである。
 法のため、仏子のために、自分は今、何ができるか、否、何でもやっていこう――この燃え上がるような指導者の一念こそ、広宣流布の前進の原動力である。(拍手)
9  法華経の提婆達多品では、釈尊の修行をこう描いている。
 「三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、是れ菩薩にして、身命を捨てたもう処に非ざること有ること無し。衆生の為の故なり」(開結四三〇㌻)
 つまり、この宇宙のどこでも、釈尊が菩薩として、衆生のために命を捨てていない場所はない、というのである。
 釈尊は、ケシ粒ほども残さず、あらゆる場所で「献身」の実践に徹した。――ゆえに仏に成ることができ、人々から仰がれる主師親の三徳を備えることができたのである、と。
 私どもの立場でいえば、わが支部、わが地区にあって、どこまで献身し、行動しぬいたか。慈愛をそそぎ、生命力をふりしぼって励ましの歩みを続けたか。そうしていない場所は、まったくない――といえる菩薩行の実践を意味するといえよう。
 もとより、この経文とは行動の範囲こそ違うが、仏道修行の一念のあり方は同じでなければならない。大切な広布の組織を、仏子を、歩きに歩いて守りゆかねばならない。
 人々のために尽くしぬいた人。その人こそ、人間としての真実の勝利者である。一生成仏しゆく人である。
10  ″皆の幸福″を第一義に
 「組織の力で広布が進展するというのは、大なる誤りである。それは強盛な信心の″一人″の力による」とは、戸田先生の教えであった。
 リーダーシップのあり方が大きく変化しつつある今日、広布の組織にあっても、率先垂範の「人間性」でリードしていくほかはない。強く深き「信心」でリードしていく以外にない。そこには決して行き詰まりがない。
 ″人々のために尽くすこと″が、社会でも尊重されるようになってきた。そうした事実は今や、社会の趨勢が、仏法の知恵を求め、近づいてきた一つの例証ともいえよう。
 ともあれ、悩める人のためには、飛んでいって手を尽くす人。人々のため、社会のために働ききった人こそ、最終の勝者となる。その実践のなかで、生命が金剛に鍛えられていくからである。
 ゆえに、この″大満足の人生″への歩みを、途中で止めてはならない、と私は強く申し上げておきたい。(拍手)
11  結論して申し上げれば、広布の組織におけるリーダーとは、″皆がどうすれば喜ぶか、幸福になるか″を、第一義とする人である。
 ″どうすれば自分が楽になるか″(笑い)を第一に考え、人から″何かしてもらう″ことに慣れ、甘えているような指導者。また″偉くなりたい″″人からよく見られたい″と願うような指導者ではない。皆のために″何でもしてあげよう″と、心から尽くす人なのである。
 その「正法」と「仏子」への「奉仕」の心に、大いなる福徳も備わっていく。三世に壊れない「信心」の歓喜の生命が躍動してくる。
 こうした点に関して、ある学者が、宗教は「サービス(奉仕)」が″生命″である、と言っていた。いわば仏子に「サーバント(小使い)」として仕えること――それが、宗教における真のリーダーの姿なのである、と。
 ちなみに、英語の「サービス」とは、本来″神に仕える″意味の宗教用語でもあるようだ。
 いうまでもなく、「サービス」といっても、人々に″こびる″ことをいうのではない。どうすれば、この人を歓喜させ、成長させていけるのか。安心させてあげられるのか。その祈りであり、励ましである。人々を確信をもって幸福へと導く真心であり、行動のことである。
 広布のため、人々のため、そして自身のためにも、こまやかな「奉仕」に心を砕く皆さま方であっていただきたい。
12  信心の世界は、御本尊のもとに、皆、平等である。私もこれまで、スピーチ等で仏法の「民主」の精神を種々、語ってきた。
 「民主」の自覚が進むほど、幹部に対して厳しい評価が下される場合もある。
 「もっと私たちの意見を聞いてくれたら」「もっと会員を訪ねてほしい」「役職を外れたら会合に出席しなくなった。いったい何のための信心なのか」等々。事実、人々の眼はまことに鋭い。
 つまり、本物の人格と力を備えたリーダーであるかどうか。謙虚な「求道の信心」をもち、陰で戦っている人々の意見を吸収できる、広い度量をもった指導者であるかどうかが、ますます問われる時代になった、ということである。
 しかし、こうした時代であるからこそ、いよいよわが境涯を大きく開くチャンスなのである。リーダーがメンバーにとって、さらに魅力ある、希望の存在へと成長していく契機ともなっている。
 もちろん、「民主」といっても、″上″の人への感情的な批判のための批判であっては、価値がない。皆、同志である。皆、家族以上の、三世にわたる妙法の友である。
 ましてリーダーともなれば、場合によってはみずからの家庭の団欒すら犠牲にしながら、人々の面倒をみている。そうした先輩の活躍があったればこそ、皆、今日まで、安心して信心に励んでこられたのである。その感謝と同志愛、いたわりと協力は、絶対に失ってはならない。
 むしろ「民主」の時代とは、上とか下とかではなく、一人一人が賢明になる時代である。一人一人が「私こそ地域広布の主人公であり、責任者である」という″リーダーの自覚″をもって立ち上がる時代なのである。(拍手)
13  ある女性の教育部員の体験である。教育界の危機が叫ばれて久しいが、「管理教育」の″古さ″にも、ヒズミが大きく出ているようである。
 一人の女子生徒がいた。いわゆる″問題児″であった。髪は染める。遅刻、早退はする。勉強は当然、不振。周囲からはけむたがられ、冷たい日で見られていた。
 この生徒を何とか立ち直らせたいと、担任の女性教師は祈った。そして彼女に言った。「どうして、きちんと学校の勉強もしないといけないか、わかる?」。「わかりません」。「じゃ、あすまでに考えていらっしゃい」。
 翌日になって、「考えた?」とたずねると、「先生が困るからでしょ!」との返事。「それは違うわ。また、あす聞くわよ」。
 次の日。「いい学校に行けないから」(生徒)。「違います」(教師)。
 さらに次の日には、「校則を守らないと叱られるし、皆に迷惑をかけるからでしょ」。「それも違うわ」。
 そして、その翌日からも「親が喜ぶから」「子どもの義務だから」「社会のためになれっていうんでしょ!」と、生徒は思いつくかぎりの答えを――。しかし毎日「違います」と、教師の返事が続いた。
 とうとう「もう考えられない!」。それでは″正解″を、というわけで、教師は優しく語ってあげた。「それはね、あなた自身が幸せになるためなのよ」と。
 その生徒には、予想もしなかった答えであった。私のことを、こんなにも真剣に考えてくれていたのか。涙がわいてきた。
 小さい時から、勉強も親のためだと思い込んでいた。事実、勉強さえしていれば、親は喜んだし、単純に安心もしていた。何でも大目にみてくれた。
 自分の「心」の中のことなんか考えてくれなかった。「全部あなたのためよ」と言われても、親の見栄だと感じていた。いい学校に行きたくなどなかった。髪を染めたのも、そんな不満の表れだったかもしれない。皆が戸惑うのがおもしろかった。しかし、少しも「幸せ」ではなかった。
 けれども女性教師は、初めて心から自分の幸せを願ってくれた。鋭敏な少女の感覚は、本物の″真心″をキャッチしたのである。その日から、彼女は見違えるように変わっていった――。
 この話は、一つの例にすぎないが、人の心を動かすものは、命令でも、義務感でもない。「すべて自分のためなのだ」と納得すれば、大きな力を発揮するものである。
 そのために必要なのが、相手のことを本当に思った「指導」「励まし」であり、そして何より「真心の祈り」である。ただただ、相手のために――そこに「献身」の魂がある。
14  自律の日々は向上の日々
 ところで、ゲーテに次のような言葉がある。
   生活をもてあそぶものは、
   決して正しいものになれない。
   自分を命令しないものは、
   いつになっても、しもべにとゞまる。
     (「温順なクセーニェン」高橋健二訳、『ゲーテ作品集』第一巻所収、創元社)
 生活は一切の基本である。みずからを律することを知らない生活に、人生の勝利はない。
 現代の日本は、まことに自由な世界となっている。ある意味で、法を犯さないかぎり、自由奔放に何でもできる。であるからこそ、規律正しく、信心即生活で自分を律しつつ、立派な人生を築いていくことが、いかに価値あることか。
 アメリカ建国のころ、活躍したベンジヤミン・フランクリン(一七〇六年〜九〇年)。彼は、政治家、科学者、文筆家として知られている。このほかにも多彩な才能を発揮、印刷会社を経営し、新聞を発行、事業家として大成功を収め、公共事業にも力をそそいだ。
 また避雷針の発明者でもある。彼が、雷雨の中、タコをあげ、稲妻の正体が電気であることをつき止めたエピソードは、皆さまもご存じのことと思う。
 さらにアメリカ独立にさいしては、独立宣言の起草委員を務め、外交官としても活躍し、憲法制定会議では″まとめ役″となっていた。
 彼はのちに自伝を書いているが、その人生哲学を一言でいえば、″自身の道徳的完成をめざしての勤勉力行″であつた。そのために彼は、「節約」「勤勉」「誠実」など十三にわたる徳目とその内容、また一日の二十四時間をどう使うかを定めた計画を、手帳に書き込んでいた。そして日々、自分の行動がそれに適っているかをチェックしていったのである。彼は、みずからの大成の原因はここにあったことを述懐している。
 その内容を見ると、たとえば「節約」の項では、「自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ」とある。また「勤勉」では、「時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし」(『フランクリン自伝』松本慎一・西川正身訳、岩波文庫)とある。
 さらに、その時間表を見ると、朝は五時には起床。仕事を始める八時までに一日の計を立て、決意し、研究を遂行している。そして、夜は一日の反省で締めくくられ、十時からは睡眠となっている。
15  私は皆さまに、ただフランクリンのような節約や勤勉を訴えようとしているのではない。そうするかどうかは、一人一人の自由な判断による。
 ただ、自身を向上させていくためには、規律ある生活が必要であり、多くの一流の人はそうしてきた。また、自己を律する具体的な規範を打ち立て、それに挑戦し、みずからの姿勢を正していくことが大切なのである。
 私たちは、朝夕の勤行で、妙法という大宇宙のリズムに、自身の生命のリズムを合致させながら、日々の生活を送っている。
 そのなかで、朝の勤行では、一日の目標を明確にし、自他ともの成長を祈っている。また夜の勤行では、その日の行動を省み、充実した一日を送れたことに対して、感謝しながら、翌日への鋭気を養っている。そして、自利、我欲を超えて他の人々に献身していく日々の実践――この生き方こそ、理想的な人生のあり方である、と確信する。(拍手)
 私どもが広布に活躍しているこの一日は、後の一年にも二年にも匹敵する黄金の輝きを放っていく。それは、この一日一日が、また一瞬一瞬が、福徳に満ちた未来の人生を決定づけているからにほかならない。
 大聖人も「開目抄」で経文を引かれて「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と仰せである。どのようなきょう一日の行動であったか。それが未来の果を鏡に映すように明らかにしていくことを、深く銘記しなければならない。
16  ″魂の試練″に勝ち三世の王者に
 また、アメリカの詩人サムエル・ウルマンは「忍耐と意志」の中で、こう謳っている。
   力強き魂への試練
   傷つけどたじろかず
   すべては大なる終曲に記され
   我がこころ舞いあがれ輝きあれ
     (『青春とは、心の若さである。――サムエル・ウルマン詩と書翰』作山宗久訳、TBSブリタニカ)
 ″魂の試練″こそが、真の試練である。どんな困難にも敢然と戦いぬいて築いた、揺るぎない自我。それが、魂の試練で勝った人の姿である。
 ましてや私どもは、大聖人の弟子である。「臆病にては叶うべからず」である。
 どのようなことが起ころうとも、平然と、いよいよ信心根本に試練に挑戦していく。そこにこそ、三世永遠の幸福境涯である仏界が、開かれるのである。また「すべては大なる終曲に記され」るという一節には、生命への深い洞察がある。
 仏法の視点からいうならば、試練の最後は、まさに死にゆく時である。そこでは、これまでの生き方のすべてが白日の下にさらされる。戦いきった人は戦ったままに、臆して逃げた人はそのままに、すべてがありのままに表れてくる。どのような死を迎えるか、そして来世はどうなるか、そこには厳しい因果の法則が横たわっている。
 このことを思うとき、まさに「我がこころ舞いあがれ、輝きあれ」と私の心は叫ぶ。″さあ、舞い上がって戦おうではないか、善のために、法のために″″広布の勇者の誇りも高く、この人生を生きて生きて、生きぬこうではないか″と呼びかけるのである。(拍手)
17  次に、「真実を見きわめる」ことの大切さについて、御書を拝して述べておきたい。
 「千日尼御前御返事」に、次のように述べられている。"
 「始めたる客人が相貌そうみょううるわしくして心も・いさぎよく・よく口もきいて候へば・いう事疑なけれども・さきも見ぬ人なれば・いまだ・あらわれたる事なければ語のみにては信じがたきぞかし、其の時語にまかせて大なる事・度度あひ候へば・さては後の事も・たのもしなんど申すぞかし
 ――初めて会う客人の姿が麗しく、心も清らかで、話し合ってみれば、言葉に疑うところがないとしても、これまで見知らない人であるから、話の内容が実際に証明されなければ、言葉だけでは信じにくい。その時、その人の言葉どおりに、大事なことがたびたび符合すれば、それで初めて後のことも信頼できるということになる――。
 この御文は″妙法によって成仏できるといっても、言葉だけでは信じ難い。しかし確かな実証によって、その人の言うことは信用できる″という道理を示されたものである。
18  「悪」に対しては賢明であれ
 一般的にも、話す人の容姿や言葉の美しさは、その人の話の「真偽」とは別問題である。言っていることが現実に証明されて初めて、″信頼″できるわけである。
 人をおとしいれ、欺くために、理に合ったような、たくみな言葉をとりつくろうものもある。ゆえに、調子のよい、たくみな言葉にだまされてはいけない。その言葉に、確かな裏付けがあるか、明白な証拠があるかどうかを、きちんと見きわめていかねばならない。
 何でも鵜呑みにして″信頼″してしまう無邪気なお人よしであっては、「悪」の勢力につけ込むスキをあたえてしまう。これは人間関係はもとより、社会活動や国家間の関係などにも通ずることである。
 このほど、スウェーデン生まれの平和学者シセラ・ボク女史が、私に、著作『平和への方策』を贈ってくださった(=同書は、大沢正道訳『戦争と平和』として法政大学出版局から邦訳・出版されている)。同女史はアメリカのブランダイス大学哲学科の教授で、彼女の父親は経済学者のグンナー・ミュルダール氏、母親は著名な平和運動家のアルバ・ミュルダール女史である。ミュルダール氏夫妻は、それぞれノーベル経済学賞、ノーベル平和賞を受賞されている。
 ボク女史は、この著書の中で、人間社会の繁栄には、確信に満ちた信頼と、用心深い不信とのバランスが大切であるとし、「過剰な信頼は収奪と虐待を招き、それ自体いのちを脅かすこととなる」と、盲目的な″信頼″の危険性を指摘している。人間と社会の現実を見すえた正論であろう。
 要するに、民衆は自身を抑圧する「悪」に対しては、疑い深く、賢明に戦っていかなくてはならない。愚かであっては、悪の勢力に支配され、食いものにされるだけである。
 虚偽や策謀を鋭く見破っていく「知恵」と「団結」――。これこそが、真の″民衆の時代″を開く要諦であると申し上げたい。(拍手)
 悪の虚偽を鋭く見ぬく″眼″――。熱原法難の渦中、大聖人は窪尼御前に与えられたお手紙で、こう明かされている。
 「あつわら熱原の事こんど今度をもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり」――熱原のことは、今度のことからもおわかりになったでしょう。以前のことも偽りだったのです――。
 そして、「すへの人人の法華経の心にはあだめども・うへそしらば・いかんがと・をもひて・事にかづけて人をあだむほどに・かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ、これはそらみげうそ虚御教書と申す事はぬさきよりすいして候、さど佐渡の国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」――守殿(北条時宗)の家臣たちが、心の中では法華経を敵と思っているけれども、あらわに迫害するのもどうかと思って、熱原の事にかこつけて大聖人門下に怨をなしたところ、かえって前の虚事が露見してしまったのです。私(日蓮大聖人)は、これが偽の御教書(幕府の執権等が出す命令書)だということは、それを見る前から推察していました。佐渡の国にいたときも、敵たちは偽の御教書を三度も作ったのです――と。
 大聖人は、熱原法難のさい、門下を迫害する根拠となった御教書がウソであることを見ぬかれていた。そして窪尼に、「そうした策謀にだまされてはいけません」と、教えられているのである。
 悪の″ウソ″を見ぬき、虚構のからくりをすべて見破っていくことが、″知恵の勝利″″信心の勝利″につながる。
 どうか婦人部の皆さまは、深き「信心の眼」で一切をとらえ、何が正で何が悪か、何が真実で何が虚偽かを、鋭く見ぬいていただきたい。そして誤りなき、信心と人生の道を進んでいかれるよう訴えておきたい。(拍手)
19  勝利と福運の道を共々に
 ところで、一昨日(六日)、私は皆さまを代表して、「トルコ・日本友好百周年記念金褒章」を受章した(拍手)。またそのさい、ぜひトルコ共和国へ、とのお話もいただいた。
 思えば、今から二十八年前の昭和三十七年(一九六二年)二月、私はトルコの地に第一歩をしるした。その折、″将来、今ここに来た青年たちを立派な日本の大指導者にして、またこの国を訪れたい″との思いで、同国を後にした。近い将来、必ず、ふたたびトルコ共和国を訪問したいと念願している。
 また、アフリカにも足を運びたい。一閻浮提といわれた全世界に歩みをしるすことになるからである。
 これからも私は、平和のため、人類の幸福のために、世界を駆けめぐっていく決意である。策謀や中傷があることは、御聖訓に照らし当然である。己の信念のままに、堂々と進みゆくのみである。それが戸田先生の弟子としての道と信ずるからである。(拍手)
 どうか、皆さま方も、私とともに、妙法広布への道を誇らかに進んでいただきたい。そして、三世永遠にわたる「勝利」と「福運」の軌道を歩んでいただきたい。(拍手)
 最後に、第二十回婦人部総会の成功を心から祈りつつ、青葉の輝く季節にお会いできた婦人部の皆さまに、次の和歌を贈り、私の記念のスピーチを終わらせていただく。
   偉大なる
     母の祈りは
       何ものも
   恐れなきかな
       日々を楽しめ
  
   にぎやかに
     また朗らかに
       婦人部は
   常楽我浄の
       行進うれしく
  
   広宣に
     生きぬく三世の
       家族なれば
   十方世界の
       諸仏も友かと
 (創価文化会館)

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