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日蓮大聖人・池田大作

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創立六十周年祝賀の関西記念総会 「五月の太陽」よわが胸に昇れ

1990.5.3 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  アルゼンチン独立の淵源「五月革命」
 お祝いの日ではあるが、少々、語っておきたい。「指導者」は、時代相応の指導をしていくのが本分だからだ。花屋に花がないのは、おかしい。酒屋やラーメン屋に、酒やラーメンがないのでは(笑い)、看板にいつわりあり、になってしまう。
 知水――知恵の水が、川の流れのように、たっぷりと流れていれば、そこから知恵をくみ出し、指導力、説得力、確信を深めていける。信心と精神の滋養としていける。
 その意味で、御書を根本に、さまざまな角度から、私はスピーチを続けている。また、これは、本当の意味での「言論の自由」の行使であるとも思っている。(拍手)
 本日は、アルゼンチンの独立の淵源、五月革命にふれておきたい。
 時まさに五月であるし、そこに込められたアルゼンチン民衆の誇り高き歴史のドラマに、私は常勝関西の魂に響き合うものを感じるからである。
 関西は、私が生命をそそいで手作りで築き上げた、全国の、世界の模範である。関西には団結がある。私とともに戦う精神がある。これからも、他の範となっていく宿命的立場ともいえる。(拍手)
 なお、先日、アルゼンチンからいただいた「大十字五月勲章」(=初着用の写真は「聖教新聞」五月三日付一面に掲載)の「五月」とは、この五月革命にちなんでいる。
 この数ヶ月の間に、コロンビア(コロンビア共和国功労大十字勲章)、ブラジル(南十字国家勲章)からと、続けて三ヶ国から勲章を頂戴した。先日、申し上げたように、全部、皆さまの喜びのために、皆さまとともに、皆さまの代表として、私が受けたと考えている。その意味で、皆さまも「自分の勲章」(笑い)と思っていただきたい。(拍手)
 ところで、なぜ「五月」の勲章なのか。「五月」は、アルゼンチンの歴史にあって、「独立」と「自由」の原点であり、民衆勝利の象徴の月なのである。つまり、今から百八十年前の、一八一〇年五月のことである。
 ちなみにこの年は、ここ大阪に適塾を開き、三千人の人材を育成した緒方洪庵が生まれた年でもある。
 この年の五月、アルゼンチンのブエノスアイレス市(現在の首都)では、三百年の長きにわたったスペインの支配に対抗、傲りたかぶる権力者(シスネロス副王)を、民衆の手で退位させ、新しい自治を打ち立てたのである。
 これが、アルゼンチンの独立へと進む「五月革命」であった。この革命に立ち上がった先駆者たちを、アルゼンチンでは、最高の敬意を込めて「五月の人々」と呼びたたえている。
 この誉れある「五月の人々」の理想とも一致する功績のあった人々に贈られるのが「大十字五月勲章」なのである。
3  この「五月革命」は、一面から見れば、精神闘争の勝利であり、思想戦の勝利であった。つまり暴力を用いず、平和的に、民主的に、旧体制を転換したのである。
 「五月革命」の中心となったリーダーたちは、新しい「自由」の思想を訴え、人々の心を呼び覚ましていった。「五月構想」と呼ばれたスケールの大きな展望のもと、人権、平等、そして出版・思想の自由、奴隷解放、一般大衆の教育などの旗を掲げ戦った。
 そうした理想へ、目覚めた民衆の力を結集していった。それが流血の悲劇を招くことなく、圧政を倒す原動力となったのである。その思想的リーダーシップ(指導力)は、高く評価されるところである。
4  思えば、戸田先生は、日本の戦後の状況をふまえて、病気や貧困をはじめとする一切の「悲惨」を、この世からなくしていこう、とよく言われていた。
 わが関西の友は、この恩師の心を受けて、懸命に戦った。私とともに――。そして勝った。私とともに――。みずからの宿命と戦いながら、民衆の大海の中で慈悲の法戦を展開し、一歩また一歩と、幸福の花園を広げていったのである。
 そして、皆さま方は、いかなる権力にも屈しない連戦連勝の常勝の歴史を堂々と築いてこられた。権力がどのような手段を使って脅そうとも、信念を同じくする民衆の連帯は強い。また、いやまして強くしていかねばならない。その民衆のつながりの強固さ、たくましさが、常勝関西の強さである。
 ここに私は、もっとも学会らしい、信仰に培われた一つの勝利の証があると思っている。
 これまで、各宗教がたどってきた歴史を概観してみると、大きく分けて、権力の弾圧に対して玉砕するか、権力に迎合して信仰も組織も骨抜きにされるかの、ほぼいずれかであると言ってよい。極端な言い方かもしれないが、それが歴史の現実である。
 権力者の傘の下で、批判らしい批判も受けず、安穏を貪って、世間を泳いでいくような宗教・宗派が、いかに多いことか。また、権威・権力の力の前に潰されてしまった宗教も数知れない。
 学会は、そのいずれでもない。権力に迎合せず、あらゆる権威、権力と戦いつつ、″第三の道″ともいうべき大発展の道を、戸田先生と私とで開いてきたのである。それが、いかに知恵と信念に貫かれた、正しき歩みであったか。私はつねに、戸田先生をしのび、そのことを思う。
5  「民衆の団結」が歴史を変える
 ところで、アルゼンチンの「五月革命」は、民衆の団結の勝利であった。
 本来、民衆ほど強い存在はない。また民衆を守り、民衆とともに戦う人間ほど、尊く、偉大な存在もない。
 だが権力者はしたたかである。みずからの保身のために、民衆による変革の動きに対して、執拗に、巧妙に策略をめぐらせ、巻き返しを図る。
 傲然と居座り続けようとする支配者のシスネロス副王と、辞任を迫る市民代表の間で、息づまるやりとりが続く。しかし、市の参事会(議会)の建物を、民衆が続々と包囲する。そして、理不尽な支配を糾弾する怒りの叫び。さすがの副王も、ついに辞任せざるをえなかった。無名の庶民の連帯に、権力者がついに屈したのである。
 民衆の団結が勝つか、権力の策謀が勝つか――歴史の趨勢を決するのは、最後はこの熾烈な戦いであると言っても過言ではない。
6  「民衆の団結」の勝利と言えば、二重写しとなって思い起こす光景がある。
 昭和三十二年(一九五七年)七月、私は無実の罪で捕らわれの身となった。私を案じて、多くのわが同志が駆けつけてくださった。
 また出所の折には、数百人の方が迎えに来てくださった。
 その日、七月十七日。中之島の大阪市中央公会堂(中之島公会堂)で、大阪大会が開催された。雷雨であった。それにもかかわらず、二万もの同志が集ってくださった。意気盛んな大会であった。
 その日は早くから、音楽隊があらんかぎりの音を出して、学会歌を演奏してくださっていた。拘置中の私に届けとばかり――。それはまた、不当な拘置への怒り、即時釈放の叫びを込めた響きであった。
 こうした同志の真心を、私は生涯、忘れることができない。(拍手)
 わが同志は強かった。その叫びは、圧倒的な迫力であった。全生命力をふりしぼっての音楽隊の演奏は、通りかかった人々にしてみれば「いったい、何ごとが起こったのか」(爆笑)と驚くほどであったという。また、学会員の信念の強さは、当時、関係者の間でも、ひとしきり話題になったと聞いている。
 ともあれ、あの大阪大会は、庶民の連帯、民衆の団結の「勝利の集い」となった(拍手)。その後、裁判で私の無実が厳然と証明されたことは、皆さまもご存じのとおりである。(拍手)
7  アルゼンチンの「五月革命」で、民衆の先頭に立ったのは、ほかでもない青年であった。「革命」の高まりとともに、青年が真っ先に権力者の眼前に乗り込んで、「民衆の意志を即座に尊重せよ」と訴えたのである。
 ――それ以前にも、こんなことがあった。民衆の強い要望で、公開の参事会が開催されることになった。ところが当局は、参事会の招待状が、市民の代表の手元には届かないよう画策する。自分たちに有利に審議を進めるためであった。
 しかし、革命家たちは、すぐさま、それを見破った。その招待状を作成する印刷工場で働く一人の青年によって、招待状は市民に届けられたのである。じつに機敏な、電光石火の働きであった。
 「五月革命」――それは青年の「知恵」と「勇気」の勝利であったとも言ってよい。
 アルゼンチンの革命だけではない。フランス革命など革命の先頭には、つねに青年の雄姿があった。
 私もまた、学会青年の一人として、戸田先生のもとで、戦いに戦った。広宣流布という未聞の大偉業に向かって、若き生命を燃やしぬいた(拍手)。昭和三十一年(一九五六年)、あの関西の大法戦の指揮をとった時、私は二十八歳であった。
 「常勝関西」の万年にわたる広布の基盤を、関西の同志の皆さまとともに築き上げることができた。「あとは、関西青年部の諸君、よろしく頼む」と、私はこの機会を借りて強く申し上げたい。(拍手)
8  ところで、アルゼンチンの国旗の中央に描かれた太陽は、その名も「五月の太陽」という。
 日本でも五月はすばらしい季節である。″風薫る五月″というように、同じ風でも、さわやかで、緑も青々としている。太陽の輝きにも、希望と躍動の光がいちだんと感じられる。
 アルゼンチンの国旗の太陽は、五月革命の″革命の太陽″に由来するともいわれる。
 ″革命の太陽″を、手から手へ、人から人へと伝え、権威と権力の抑圧の闇を断ち切り、「自由」と「自立」の光を、わが祖国に永遠に贈りゆこう――これが、国旗に込められたアルゼンチンの先駆者の心であったのだろう。
 ちなみに昭和三十一年、大阪支部が、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げたのも、この「五月」である。一一一一一とすべて一。関西はすべてにわたって「一番」で来たことを示すかのようだ。
 また一説によれば、大阪の古称「難波」には″太陽を迎える場所″の意義があるという。
 さらに、その昔、万葉の歌人は「おし照る難波の国に」等とうたった。
 「おし照る」とは「難波」にかかる枕詞で、″光がおしなべて照る″との意味が込められているといわれる。
 どうか、創価の「五月の太陽」をさらに力強く輝かせ、このすばらしき関西の天地、庶民の都に、寂光の舞台を、いやまして広げていただきたい。(拍手)
9  求道の人生は強く美しい
 次に、本日の「創価学会母の日」にちなんで、千日尼に与えられた御書を拝したい。
 今で言えば指導部の方々の年齢にあったと思われる千日尼に、大聖人はこう仰せである。
 「いよいよ信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり
 ――いよいよ信心を励んでいきなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を、男女僧尼が必ず憎むであろう。憎むなら憎むがよい。法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身を任すべきである。如説修行の人とはこういう人をいうのである――。
 「法華経に云く「恐畏の世に於て能く須臾も説く」云云、悪世末法の時・三毒強盛の悪人等・集りて候時・正法を暫時も信じ持ちたらん者をば天人供養あるべしと云う経文なり
 ――法華経の見宝塔品には「恐畏の世(濁悪恐怖の世)において、よくわずかの間でも説く」等とある。これは悪世末法の時、三毒強盛(貪り・瞋り・癡かの心が強く盛んなこと)の悪人たちが集まっている時に、正法をわずかの間でも信じ持つ者を、天人が供養するであろうという経文である――。
 正しき道を歩むには、「強く」なければ歩めない。大聖人は、老境にあった千日尼に対しても、何があろうとも信心に停滞があってはならない、「いよいよ」信心に励んでいきなさい、と教えられている。
 信心に休みはない。「一生成仏」の「真如の都」に到達するまで、不断に信心の歩みを貫いていく。心なき批判を受けようと、宿命の嵐があろうと、決して負けない。一歩、また一歩と進んでいく。その勇気ある不退の前進を続けてこそ、三世十方の仏菩薩、諸天善神にも守られ、境涯を大きく開いていくことができる。永遠なる″勝利″の栄冠を得ることができるのである。
10  「求道の人生」は、深く強い。そして美しい。
 なかんずく、この深遠なる大仏法を、どこまでも謙虚に求めていく――そのたゆみない行動のなかで、わが生命がどれほどすばらしく輝いていくことか。
 「コロンビア大黄金展」を彩る、世界最大級(一七五五カラット)のエメラルド結晶原石も見事である。しかし、信心によって磨かれたわが生命は、それらもおよばない、比較にならないほどの、金剛不壊の宝玉と輝いていくのである。
 どうか、仏法をどこまでも求め、不退の信心を貫き、壮大にしてすばらしい人生を築いていただきたい。そして、「私は大聖人の御聖訓のままに行動してきた。私こそ最高の幸福者である」と言える、大勝利のお一人お一人となられんことを祈り、願って、記念のスピーチとさせていただく。
 (関西戸田記念講堂)

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