Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東京記念総会・第二十八回本部幹部会 「冬は必ず春となる」

1990.4.29 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  さて、日蓮大聖人は仰せである。「冬は必ず春となる」――法華経を信ずる人は冬のようであるが、冬は必ず春となるものである――と。
 このお言葉を支えに、どれほど多くの友が、蘇生の春、人生の春への道を歩んだことか。私どもにとって、永遠の指針である。また、これから幾億、幾十億の、真実の幸福を求める世界の民衆も、ここから限りない希望を得ていくにちがいない。
 その意味で、本日は新しい出発にあたり、この御金言に込められた御本仏の大慈悲の一端を拝しておきたい。
 これは、未亡人であった門下の妙一尼への励ましのお言葉である。彼女の夫は、強き信仰の人であった。大聖人の竜の国の法難のあと、法華経信仰のために所領を没収されたようだ。
 正しいがゆえに迫害される。これが悪しき人間社会の法則である。いずれの時代、いずこの国でも、この実相は不変である。
 妙一尼の夫は、信念を貫いたまま、大聖人の佐渡御流罪中に亡くなった。あとに残ったのは、老いた妙一尼と子どもたち――。なかには病弱な子や女の子もいる。尼自身も丈夫なほうではなかった。
 大聖人は、そうした状況を、よくご存じであられた。
 「亡くなったご主人は、どんなにか、あなた方家族のことが心配であっただろう」と深く思いを寄せられている。そして「ご主人は、私(大聖人)のことも、さぞかし心配されていたことでしょう」と思いやっておられる。
 極寒に見舞われる佐渡、生きて帰れぬといわれる佐渡に、師匠は流されてしまった。その大難の最中に自分は死んでいく。まことに無念である。このような心でもあったろうか。
 大聖人は、苦難のなかに亡くなった勇敢な門下をしのばれて、こう述べられている。
 「此の御房はいかなる事もありて・いみじくならせ給うべしとおぼしつらんに、いうかいなく・ながし失しかばいかにや・いかにや法華経十羅刹はとこそ・をもはれけんに、いままでだにも・ながらえ存生給いたりしかば日蓮がゆりて候いし時いかに悦ばせ給はん」――ご主人は「法華経が広まるにつれてこの御房(大聖人)はいろいろとすばらしいことがあって、立派に敬われる立場になられるにちがいない」と期待されていたことでしょう。ところが、(大聖人は)はかなくも佐渡に流されてしまった。「これは、どうしたことか、いったい法華経や諸天善神である十羅刹女の守護は、どうしたのか」と思われたでしょう。せめて今まで生きておられたなら、日蓮が佐渡から赦免になった時、どれほど喜ばれたことでしょう――。
 他の御書からもうかがえるように、多くの門下は、大聖人が「大師号」(朝廷から高僧に与えられる尊称)などを受けるような、赫々たる栄誉の立場になられると期待していた面があったようだ。
 ところが実際には、難また難の連続である。日本中からの悪口と嘲笑、圧迫が息つぐひまもなく襲ってくる。
 自分も偉くなれると思った目算がはずれて、退転・反逆の徒となる者も現れる。彼らは権力者の手先となって、かつての師匠と同志をいじめるために暗躍する。
 そうしたなか、妙一尼の夫は最後まで信念に忠実であり、誠実であった。それだけに、どんなにか大聖人の凱旋のお姿を夢見ていたことであろう。また、裏切りの徒の卑しい心根を、どんなにか、悔しく思っていたことであろう。
 大聖人は、そうした門下の心を、すべてくみとっておられた。一切を知っておられた。そのうえで、いささかも悪と妥協することなく、あえて大難のなかへと進まれたのである。
 ゆえに、亡くなった妙一尼の夫が、大聖人の佐渡からの御帰還という、当時だれも思いもよらなかった事実を知ったなら、どんなに喜んだろうか、うれしかったろうか、と仰せなのである。
 苦労してついてきた門下に、御自身の勝利の姿を見せたい、だれよりも喜んでもらいたい――そうした大聖人のお心が強く伝わってくる。
 さらに大聖人は「かねてから言っていたとおり、蒙古襲来が現実となっている世相を見たら、ご主人は『見よ、わが師匠の予言どおりではないか』と、どんなに喜ばれたであろう。国を思えば、襲来は悲しむべきことだが、凡夫であるから」とも、尼に語られている。
 苦も楽も、すべて私たちは一体ですよ、との御本仏のお声が、彼女には聞こえるような思いがしたのではないだろうか。
3  後輩に勝利の姿と歴史を示せ
 「冬は必ず春となる」とのお言葉には、要約すれば、こうした背景があった。
 ――ご主人は″冬″のうちに亡くなった。しかし″春″が来た。冬は必ず春となるのです。あなたも生きぬきなさい。信念を貫く人は必ず仏になります。幸福にならないはずがありません。ご主人も必ず、あなた方一家を見守っておられますよ、と。
 さらに大聖人は「いざとなったら、幼い子どもたちの世話も、私がいたしましょう」とまで、深き慈愛をそそがれている。この、限りなき優しさ、あたたかな人間性にこそ、大慈大悲の大聖人の仏法は脈動している。いわゆる権威のかけらすら見られない。すばらしいことである。
 このように、「必ず春となる」との御断言には、佐渡での絶望ともいうべき状況から″勝利の春″を迎えられた、大聖人御自身の御確信と実証が込められていると拝される。
 大難に次ぐ大難。もったいないことであるが、普通ならば、病に倒れるか、神経をむしばまれるか、殺されるか、自殺するか、仏の力なくしては、とうてい乗り越えられるものではない。
 しかし大聖人は、一切に勝たれた。生きて、生きぬかれた。全人類のため、三大秘法の大仏法を末法万年尽未来際(未来際を尽くす=未来永遠)に伝え、残していかれるために。この大慈大悲を、私どもは深く拝さねばならない。
 この″冬から春″への勝利を、門下よ、よく見ておきなさい、あとに続いて、あなたも生きぬきなさい、との大聖人のお心に、妙一尼はどれほど感動したことであろうか。
4  もとより次元は異なるが、私どもも、長年ともに戦ってきた同志のためにも、自分自身が″幸福の春″を勝ち取らねばならない。後輩の人が、その姿を見て、ああよかった、信心を続けた人はあんなに立派になり、幸福になるのだと、喜んでいかれるだけの歴史を示してあげねばならない。
 私も、この十年でだれ人も想像しなかった″勝利の春″を勝ち取った(拍手)。全部、広布のため、同志のためとの一念であった。
 また私が、さまざまなかたちで海外等の顕彰を受ける場合も、何より「同志が喜ぶだろう」との心情からである。自分のみの栄誉など、微塵も考えたことはない。
 その意味で、名誉博士号にせよ、勲章や他の賞にせよ、受ける場合は全部、私は皆さまと一緒に、皆さまの代表として、せめてもの皆さまの喜びと誇りのために、との心でいただいている。皆さまの喜び、それこそが私の喜びなのである。(拍手)
 ゆえに形は私への顕彰であっても、すべて皆さま方自身の栄誉と福徳に通じると受けとめていただきたい(拍手)。また現在は、社会に開いた「広宣流布」を進めているゆえに、社会とのそうした接点と証明が必要となる面もあることをご理解願いたい。
 ともあれ、苦労してきた友のためにも、先輩は、断じて勝利の姿を示していく責任がある。
 もちろん、勝利とは世間的な外見とか、表面的な名誉ではない。一人の人間として、信仰者として、わが人生の使命を晴ればれと、堂々と総仕上げしていった、その無冠にして偉大なる境涯の実像こそ、真実の勝利なのである。
5  余談ではあるが、日本人は嫉妬深く、人間の深い思いがわからない、とよく言われる。いわゆる島国根性である。
 たとえば、作家の長谷川伸氏は、日本人を長く見てきたあるハワイの人の次のような言葉を、強い共感を込めつつ紹介している。
 「日本人はバケツの中の蟹だな。一つの蟹がバケツの内側をヤットコサとはいあがりかけていると、ほかの蟹がそいつをすぐ引きずりおろしてしまうからな。日本人は本当にバケツの中の蟹だな」(『生きている小説』光文社)
 仲間の一人が″バケツ″から出て、広い世界、広い大海へ歩んでいくことを嫌い、ことあるごとに足を引っ張る、というのである。――日本人の精神の″後進性″が指摘されるゆえんである。
 ともあれ、人間一人一人の無限の可能性を開き、精神の″解放″をめざす仏法。そして、仏法を基調とした平和・文化・教育運動の、世界への壮大な展開。それは一面から見れば、偏狭になりがちな日本人の精神性を超克する道にも通じていることを知っていただきたい。
6  ″鍛えの冬″ありて″勝利の春″が
 さて″春″には、いっせいに花が開く。しかしその前に、花たちはいったん、冬の寒さに十分さらされなくてはならない。――もし″冬″を知らないと、どうなるか。
 春に咲く植物は、秋になると″休眠″の準備に入る。春に向けてエネルギーを蓄え始めるのである。もしも冬の休眠の途中で気温が上がり、眠りからさめると、春の到来を待っていた芽が未熟のまま開き始める。そこにふたたび寒さがもどれば、芽は枯れてしまい、死となる。
 そうならないために、植物は十二分に″冬″を経験したあとでなければ、咲かないようにできている。これが、春の開花にそなえる、植物の″知恵″である。
 先ほど、この会場に入るさい、東京の皆さまが真心を込め、″菖蒲″や″藤の花″で飾られた道(東京団結の道)を通らせていただいた。東京の新しい前進への息吹を感じた。みな本物ではなくて、造花でありましたが。(爆笑)
 花も″冬″を乗り越えて咲く。人間も広布の組織も″難″を経験し、″耐えること″を知ってこそ伸びていく。
 いわんや、東京は″広布の本陣″である。いずこの地よりも躍進し、どこよりも″勝利″していく使命がある。どうか東京の皆さま方は、いちだんと深い自覚と決意で、意気高く進んでいただきたい。
 また、私も東京の一員として、その発展にこれまでにも増して尽くしていきたいと思っている。(拍手)
7  また、ちょうど今ごろ、四、五月になると、タケノコがすごいスピードで伸び始める。時には一日に一メートル、昼間は一時間に八〜十センチという速さで伸びるという。
 これは、それまで地下の茎の中に蓄えられていたエネルギーが、この時とばかり解放されるからだ。
 竹は、夏の太陽のエネルギーも、すべて″地下茎の生長″に回している。そのことは、ちょっと見ただけではわからない。外見は秋も冬もほとんど同じである。
 しかしじつは、冬のはじめ、地下茎からタケノコの″芽″が生まれ、冬の間、ゆっくりと生長している。そして、春になると待ちかねたように、ぐんぐんと外に伸び始める。つまり、大きく開く″春″の因は、すでに″冬″にあるのである。
 人生も仏道修行も、その原理は同じといってよい。″冬″は、すばらしい″春″のための充電と鍛えの時である。その時にこそ、永遠に崩れぬ「成仏」へのエネルギーは蓄えられ、宇宙大の広がりを秘めた生命活動の力が培われていく。
 しかも、そのエネルギーは、難にあえばあうほど大きさを増す。そして、正しき法にのっとった人は、だれもが必ず″春の時″を迎えることができる。
 しかし逆に、″冬″のたいへんな時に、信心の向上のための世界から逃げたり、疑ったりして、十分に力と福運を蓄えておかなければ、すべてが中途半端となってしまう。ましてや「満足」の人生を、送ることはできない。
 ″冬″の間にこそ、どう戦い、どれほど充実した時を過ごすか。必ず来る″春″を確信し、どう深く生きるかである。時いたれば、自然界には花咲く春が間違いなく訪れる。それが生命と宇宙のリズムである。
8  しかし、現実の社会にあっては、″冬″のままで人生を終える人があまりに多い。そうならないために、″春″を呼ぶ宇宙のリズムに生命が合致しなければならない。そのための妙法の仏道修行なのである。
 その意味で、正しき信仰とは″永遠の幸福の翼″である。苦難を乗り越えるたびに福運を積み、境涯を高めていける。今世において一生成仏すれば、三世永遠に「所願満足」の生命の″大空″を悠々と羽ばたいていくことができる。これが仏法の法理であり、生命のリズムなのである。
 大聖人は、四条金吾にあてたお手紙の中で、次のように記されている。
 「所願しをの指すが如く春の野に華の開けるが如し
 ――すべての願いが叶っていくさまは、潮が満ちてくるようであり、春の野に花が咲き香るようなものである――と。
 どうか皆さまは、この大聖人のお言葉どおりに、自分らしい、美しい″心の華″″人生の華″を、大きく開いていただきたい。そして、勇んで″冬″に挑戦し、題目を唱えに唱えぬいて、「所願満足」の″満開の春″のごとき人生を総仕上げしていただきたい。(拍手)
9  妙法で結ばれた絆は永遠
 ところで大聖人は、わが子(南条時光の弟・五郎)を亡くし、悲しみの淵にあった時光の母に、次のように励まされている。
 「乞い願わくは悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて・故南条殿・故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ
 ――こいねがうところは、悲母がわが子を恋しく思われるならば、南無妙法蓮華経と唱えられて、故南条殿(すでに亡くなっている夫)、故五郎殿(亡くなった息子)と同じ所に生まれようと願っていかれなさい――。
 「一つ種は一つ種・別の種は別の種・同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし、三人面をならべさせ給はん時・御悦びいかが・うれしくおぼしめすべきや
 ――一つの種は一つの種であり、別の種は別の種である。同じ妙法蓮華経の種を心にはらまれるならば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれられることでしょう。あなた(時光の母)と、亡くなられた夫と息子さんの三人が、顔を合わせられるとき、そのお喜びはいかばかりで、どんなにうれしく思われることでしょう――と。
 妙法で結ばれた生命は、いつの世にも、必ず願うところに一緒に生まれてくることができると仰せである。仏法の深い法理である。
 日亨上人は、南条時光の母に与えられた大聖人の大慈大悲のお手紙を拝されて、このように論じられている。
 ″宗祖大聖人は、一面、鬼をもひしぐ(=くじく)剛毅の性格の反面に、児女(=女の子ども)もなづく(=なじみ親しむ)ような人情美をあわせもっておられる。この人情美、さらに厳正にいえば御本仏の大慈大悲から発現する御文を拝することは、人情味に欠けるところのある人にとって、情美を涵養(=自然に好みこむように養いつくること)するためのたいへんによい薬となり、仮死していた情感を、はつらつと蘇らせることができる″と。
 ここに拝されるように、大聖人の仏法の世界は、あたたかな、そして美しい、人間性の満開の花園である。権力・権威の冷たさとは、まったく無縁の世界なのである。大聖人の門下である私どもも、この点をよくよく心にきざんでいかねばならない。
10  ともあれ、妙法で結ばれた生命の絆は三世永遠である。ゆえに私どもは、永遠の同志としてこの世に生まれ合わせた尊い使命を自覚し、うるわしい団結で進んでまいりたい。
 恩師戸田先生は、晩年に「悪い種を撒き散らすような人間は、学会から出てもらったほうがよい。学会はよい人のまとまりで進むのだ」と、よく言われていた。
 清らかな信心の絆で結ばれた″人間共和″の世界――。他のいずこにもない、学会の″心の世界″は、だれ人にも壊されてはならない。悪しき心根の人を入れてはならない、との恩師の厳しい戒めであった。
 また、富や名声に執着し、世間の風潮に迎合して保身を図ろうとするような、人間の救済を忘れた宗教とも、私どもは無縁である。真に人類の幸福のため、世界の平和のために、大聖人の御遺命たる広宣流布の聖業に邁進しているのが、創価学会なのである。(拍手)
 その私どもを、大聖人はいかばかり御称讃くださることか。さらに、十方の仏菩薩や諸天善神も最大に讃嘆し、私どもを守護されないわけがない。
 この偉大なる使命と福徳を確信しながら、さらに無上の誇りとしながら、次の学会創立七十周年をめざし、ともどもに勇気と希望の前進を、とお願いして、記念のスピーチとさせていただく。
 (創価大学中央体育館)

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