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日蓮大聖人・池田大作

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創立六十周年祝賀の青年部記念幹部会 青年よ真実の雄弁の力を

1990.4.20 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  これからは諸君の時代、堂々たる先駆の前進を
 めざす二十一世紀は近い。いよいよ、青年部の諸君が広布の前面に立ち、みずからの手で本格的な成長と拡大の歴史を築く時である。
 恩師戸田先生はかつて、次の和歌を詠まれた。
   旗もちて
     先がけせよと
       教えしを
   事ある秋に
       夢な忘れそ
 ″広宣流布の先駆の使命を絶対に忘れてはならない″との恩師の思いは、これまで一時たりとも私の心から離れたことはない。青年時代から今日まで、弟子としてひとたび誓ったことは、必ず実現し、すべてに先駆を切ってきたつもりである。
 これからは諸君の時代である。今夜は全国で二十万人の若きリーダーが集った。この記念幹部会を出発として、堂々たる先駆の前進を期待してやまない。(拍手)
 また先ほど、見事な演奏と独唱を披露してくださった女子部のピアノ部長、バイオリン部長、声楽部長の皆さま、本当にありがとう(拍手)。一つの道を志す人間として、″真剣勝負″の思いで唱題に励み、練習を重ねてこられた努力の結晶が、本日の演奏に光っている。″魂″の輝きがある。
 また青年部の記念の集いにさいして、ピアノ部長らの代表の皆さまにすばらしい演奏をお願いしたいと思う。(拍手)
2  「対話」のなかにこそ広布の脈動
 日蓮大聖人が、早くから門下であった富木常忍に与えられた御抄は数多い。そのなかで、現在まで残っているうちもっとも古いとされるお手紙には、次のように仰せである。
 「よるまゐり候はんと存候。ゆうさりとりのときばかりに給ふべく候。又御はたり候て法門をも御だんぎあるべく候」(『昭和新定日蓮大聖人御書』)――富木常忍のところへ夜にうかがいたいと思います。迎えに来てくださる方は夕方の酉の刻(ほぼ午後五時から七時)ぐらいに、お願いしたいと思います。また、あなたも、こちら(大聖人の所)においでくださって、法門を御談義いたしましょう――と。
 このお手紙は、建長五年(一二五三年)すなわち立教開宗の年の十二月にしたためられたと推測される。この年、大聖人は御年三十二歳であられた。建長六年ごろの帰依といわれる富木常忍が、この時すでに大聖人の門下となっていたかどうかは明らかではない。
 しかし、御文の内容から拝されるように、大聖人は、御自ら相手の所へ足を運ばれ、また相手をご自身の所へ招かれながら、法門の談義、対話を呼びかけておられる。この、労をいとわぬ大慈大悲の御振る舞いこそ、末法万年にわたる広宣流布の活動の″源″ともなるものであり、私どもの進める対話運動の″原点″として深く拝してまいりたい。
 また、訪問の時間などについても、具体的にしておられる。富木常忍の所では、何人かが法門を聞くために寄り集まったのであろうか。現在、私どもが座談会等に集いあっている時間帯とも重なるかもしれない。
 いずれにせよ、広布の現場とは、″一人の人″のために足を運び、膝と膝をつきあわせての真摯な対話を行うなかにあることを忘れてはならない。人を会合に集め、上からの″伝達″や″押し付け″でこと足れりとするのは、錯覚である。
 諸君はそうした権威や形式の幹部になってはならない。あくまでも大聖人の門下として、御本仏の御振る舞いを″鑑″と拝しながらの日々の実践でありたい。
 戸田先生は、折伏を実践する意義と、その功徳について「凡夫が大聖人のお使いとなるのであるから、吾人(われわれ)は凡夫だが、その生命には大聖人の生命が脈々とうってきて、いいしれない偉大な生命力が涌出する」と言われていた。
 弘教を行ずる人には、無限の力と情熱と知恵がわかないはずがないのである。これ以上の歓喜はない。
3  ところで、「対話」を重視した哲学者の一人にアメリカのデューイ(一八五九年〜一九五二年)がいる。彼の哲学を「話し合いの哲学」という人もおり、アメリカの「プラグマティズム」を代表する哲学者であった。
4  対話を重視したデューイの哲学
 「プラグマ」とは行動・実務を意味するギリシャ語を語源とする。つまり、プラグマティズムは「行動の哲学」また「生活の哲学」「経験の哲学」等の意義をもっている。
 彼は約半世紀にわたってアメリカの哲学・教育をリードしてきた人物である。初代会長の牧口先生は『創価教育学体系』で、このデューイの教育哲学にも注目されていた。
 また恩師戸田先生もよく述懐されていた。″太平洋戦争において、アメリカはデューイの哲学を基礎とし、日本は国家神道をよりどころとしていた。勝負は物量だけの問題ではなく、すでにこのことによって戦う前に決まっていた″と。
 ちなみに牧口先生の著『創価教育学体系』が英訳され、昨年、アメリカのアイオワ州立大学から出版されたが、アメリカの教育界に大きな反響を広げている。(=一九九六年七月現在、英語版に加えて、ポルトガル語版、ベトナム語版、フランス語版が発刊されている)
 私たちは、本当にすばらしい初代会長を持ったことに誇りをおぼえる。
 ハーバード大学の教育哲学研究所長のバーノン・ハワード博士は同書を読んで、″牧口先生の教育学説の根底には、経験とヒューマニズムに根ざした知恵が脈打つ″と深い共感を寄せていた。そのなかで、同所長は、牧口先生が戦前の一九二〇年代の日本で、すでにアメリカのデューイの哲学・人物に注目していた先見性を、高く評価している。
5  デューイは″デモクラシー(民主主義)は「対話」から始まる″と述べている。そして″デモクラシーはたんなる政治の形態ではない。自由で豊かな「対話」に満ちた生活のあり方である″と主張した。
 命令や強制や独善ではない。「対話」こそ民主主義の根幹をなすものである。「対話」「座談会」を活動の基本としてきた学会の先見性が、ここにもある。
 デューイは、その「対話」のなかでも、地域に根ざした話し言葉による知性の交流を重視していた。これは、このほど発足した青年部の大学校のめざしているものの一つといえよう。
 彼はまた「伝達もされず、共有もされず、表現において再生もされない思想は独白どくはくにすぎない。そして、独白は半端で不完全な思考にすぎない」(『現代政治の基礎――公衆とその諸問題』阿部斎訳、みすず書房)と、社会に波動をおよぼさない思想の偏頗さ、無力さを喝破した。
6  ところで、こうした″対話の力″を重視するデューイの思想には、ある大きな支えがあった。それは、デューイにとっては妻の祖父にあたる人で、学問もなく、字も読めない一開拓者の、何気ない一言である。彼は、少数民族の失われゆく権利を守り、戦争に反対し、正義と平和の行動を続けてきた、勇敢な人間であった。
 ある時、彼は会話のなかでこう語っていたという。
 「こいつぁおれがおもいついたばっかしじゃしょうがねえ。いつかはひとさまにしらせなくっちゃあ」(鶴見和子『デューイ・こらいどすこおぷ』未来社)と。
 いかにすばらしい思想であっても、自分の胸の内にあるだけでは、実証できないし、多くの人々の精神を高めていく力ともならない。
 一見、何の変哲もないような言葉から、若きデューイは″対話の力″を尊ぶ思想への大きな示唆を得た。彼はこの無名の開拓者の、生きた″行動の哲学″を、大切に胸にあたため、やがて自身の哲学を開花させ、体系化していった。
7  生き生きと自在に仏法を語れ
 一流の人物は、いわば″眼のつけどころ″が違うものだ。平凡な日常のなかからも、″真実の声″を聴き取る、鋭敏な耳をそなえている。若き広布のリーダーである諸君も、こうした聡明さを身につけていただきたい。
 いかに高邁な哲学、思想も、社会に広く開いていかなければ、それをつくりだした人の、たんなる「観念」にすぎなくなってしまう。たとえばプラトンやヘーグルなどの世界的な思想も、そのままでは一般的には理解されにくい面がある。そして、ともすれば、限られた一部の人の″自己満足″に終わりがちである。
 ともあれ、思想を行動に移した人がいて初めて、プラトンやヘーゲルの思想も、真に開花したといえる。人間にとって、思想とは本来、そういうものでなくてはならない。
 心の中で″これはすばらしい思想だ″と思いながら、他人に語らない人は、いわば″自分の言葉に責任を持ちたくない″独りよがりの人である。本当の意味で、思想に確信を持っていない人といえよう。
 自分が良いと思うものは、他人にも語っていく。相手が理解できなければ、知恵をしぼり、表現を変え、少しずつでも導いていく。その対話のなかでこそ、理解と確信は深まり、思想は輝きを放っていくのである。
8  広布の活動にあっても同様である。「仏法は偉大である」「信心はすばらしい」――と思っても、それを私たちが語ることも、教えていくこともしなければ、周囲の人々はなかなか理解できるものではない。また、人々の機根がさまざまであることを思えば、納得性にあふれた対話を重ねていかなければならない。
 当然、勇気がいるし、知恵がいる。それは決して平坦な道ではない。しかし、そうした真摯な、粘り強い対話にこそ、自身の成長もあり、正法の流布と発展があったことを、忘れてはならない。
 また、時代の変化は速い。これまでの常識が、たちまち通用しなくなっていく。当然、広布の推進のうえでも、従来にもまして、新たな創造への「知恵」が不可欠となる。
 その意味で諸君は、決して一定の″型″のみにとらわれたリーダーであってはいけない。深遠なる仏法を研鑽し、自分のものとしていく。表現にも新たな生命を吹き込み、生活のうえに、現実のうえに、社会のうえに″再生″させていく「知恵」を持っていかねばならない場合があるだろう。
 では、そうした「知恵」はどこに生まれるのか。――それは、真剣なる求道と、布教の実践のなかにあらわれる。
 草創の同志の方々も、そうであった。当時、有名な学者と堂々の確信で対話し、折伏した、無名の一婦人のことを思い起こす。彼女は学者に匹敵するだけの知力を持っていたわけではない。しかし、妙法流布へのひたぶるな情熱と、仏法への確信から生まれた「知恵」の光が、相手の無明の闇を明るく照らしだしたのである。
 若き時代の今こそ、広宣流布を成し遂げゆかんとする責任をもって、必ず人をして「納得」させ、みずからの「勝利」へと進むところに、磨きに磨きぬかれた知恵の涌現があることを自覚されたい。
 そして、どうか多くの友の心に染み入る表現力、説得性とともに、複雑な社会のなかに、現実の生活のなかに、みずみずしき知恵の波を起こしていただきたい。
9  弘教のなかで個性磨いた十大弟子
 次に私は、諸君に「何らかの道で″第一″の人をめざせ」と申し上げたい。
 ″広布の人材″は″広布の武器″を持たなくてはならない。自己を鍛え、何らかの分野で「第一人者」といわれるような実力を研ぎすませていくことである。あえていえば、そうした力ある「一人」の存在こそ、広布発展への″武器″となる。
 よく知られているように、釈尊には「十大弟子」がいた。彼らは、師・釈尊のもと、修行で培った個性と、類まれなる資質を弘法の″武器″として、正法流布のために捨て身で戦ったのである。
 十大弟子とは――
 (1)舎利弗。智慧第一といわれた。外道の弟子であったが、目連とともに釈尊に帰依した。釈尊の代わりに説法ができるほどの優れた弟子であったが、釈尊よりも早く亡くなっている。
 (2)迦葉。頭陀第一。彼は地味で人気はない。しかし、頭陀(厳格な戒律の修行)に優れ、重厚な人格者であったと想像される。この地味な人が、釈尊入滅後の教団維持の要となる。
 (3)阿難。多聞第一。釈尊に常随給仕した弟子で、仏の説法をもっとも多く聞いていた。温和で優しい好青年であり、女性の出家の希望を釈尊に取り次いだ。
 (4)須菩提。解空第一。よく空を悟ったことから、この名で呼ばれる。穏やかな気性で、だれとでも仲がよく、いわば″人格円満″なタイプであったようだ。
 (5)富楼那。説法第一。後にもくわしく述べるが、雄弁の人であった。
 (6)目連。神通第一。神通には、一つには神足じんそく通の意味もあり、十方に往来できる能力をさす。コンビの舎利弗が″思考派″であったのに対し、彼はいわば直観力とパッション(情熱)に富んだ″行動派″であった。
 (7)迦旃延かせんねん。論議第一。緻密な″理論派″で、他宗教との論争、釈尊の教えの解説などで活躍した。
 (8)阿那律。天眼第一。釈尊の説法中に居眠りをし、釈尊に叱責される。反省した彼は以後、眠らない修行を続け、無理が高じて盲目になった。肉体の眼を失ったが、人よりはるかに深い洞察力や判断力をそなえた天眼を得た。
 (9)優波離。持律第一。当時のインドの下層階級の出身で、特別な力量はなかったが、釈尊の教えを篤実に持ち守った。いわば″庶民派″の代表である。
 (10)羅睺羅らごら。密行第一。密行とは、綿密な修行、正確な修行の意である。彼は釈尊の出家前の実の子どもで、十五歳で修行を始める。釈尊の子ということで苦労もするが、その分、こまかな点まで気がつき、だれもが認めざるをえない存在となった。
 十人についてはさまざまな経典があるが、それらを総合すると、ほぼこうした人間像が浮かんでくる。このように釈尊は、まったく違った十人の弟子の″個性″を見事に開花させていった。
 青年・釈尊を中心に出発した新興の「仏教教団」――。組織も、建物も、信用も、何一つ、まともなものはない。あるのは釈尊との″師弟の絆″だけであった。これが仏教の原点の、現実の姿であった。
10  こうしたなか、釈尊の心をうけて、弟子たちは弘教に励んだ。
 釈尊は入門させるやいなや、すぐに弘教を命じた。
 「一人で行って、法を説いて来なさい」――。ただちに「遊歴教化せよ」と。
 弘教には、一切の修行が含まれている。これ以上の人間修行はない。ゆえに、この根本の実践を忘れては、人間の錬磨はない。「人間」が成長しなければ、組織の力のみに頼るようになる。そこから、さまざまな組織悪が生まれる。
 徹底した弘教の実践こそ、仏法の生命である。それが釈尊の教えであり、なかんずく御本仏日蓮大聖人が、身命を賭して門下に示された成仏への直道なのである。
 十大弟子は、初めから「自分はこれだけをやればよい」と考えていたのではない。全身全霊で仏道修行に励み、教団の建設に苦労するなかで、おのずから個性が磨かれ、それぞれの″得意技″″武器″が定まっていったと考えられる。
 その実践は、五体にきざまれた師の教えを、どう″表現″するかという苦闘の連続であった。師の教えに応えようとする弟子たちにとって、一瞬一瞬が真剣勝負であり、一歩も退けない法戦であったにちがいない。
 また師の側からみれば、弟子たちを行動させることによって、その可能性、適性というものも、すべてわかる。外見だけでは、なかなか判断できない。
 自己を鍛えに鍛えぬいて、はじめて自体顕照がある。生命の奥底から″個性のダイヤモンド″が輝きを放っていく。こうした″人間性の開花″は、政治や経済の次元では決して得ることはできない。また、教育にも限界がある。生命そのものを錬磨しゆく信心修行の深い意義が、ここにある。
 ともあれ、現代は釈尊の時代とは比較にならないほど、複雑な社会である。広宣流布の伸展も立体的、多元的になっており、「十人」程度の人材ではとうてい足りるはずもない。世界広布のためには、何万、何十万の人材が必要なのである。
 青年部の諸君は、根本の仏道修行をとおして、個性を磨き、何らかのもので「第一」とたたえられるようなリーダーに成長していただきたい。「唱題第一」でも、「弘教第一」でも「教学第一」でもよい。また、信心即生活のうえでも、それぞれ、社会にあって、さまざまな「第一」を獲得してもらいたい。
 ともかく″これだけはだれにも負けない″と言いきれるだけの偉大な結果を示していかれるよう、念願してやまない。(拍手)
11  「弁舌第一」の富楼那の実践
 十大弟子のなかで、「説法第一」とされるのは富楼那である。現在で言えば「雄弁第一」「弁舌第一」の力を持っていた。
 こういう人材が今、必要である。いかなる場、いかなる相手に対しても、堂々と語り、明快に説き、歓喜し納得させていく実力、識見、人格。法を説く声が、全身からあふれ出てくるような豊かさ、生命力。そのためには勉強である。修行である。
 どんな話にも拍手してくれる組織のあたたかさに安住して、″語る″ことは″戦い″であることを忘れてしまったなら、もはや向上はない。自身の敗北であるのみならず、広布の失速をもたらす。
 「説法第一」は、十大弟子のなかでは、「論議第一」(迦旃延)と区別されている。ここには、それなりの意味があろう。
 論議とは、どちらかと言えば、厳密な論理を組み立て、展開していく戦いである。これもきわめて重要である。これに対し、「説法」は、むしろ大衆の中で、現実にわかりやすく法を弘めていく力をさしていると考えられる。広宣流布の戦いでは、当然、どちらも欠かすことはできない。
12  富楼那の出身については諸説あり、断定できない。その一つに、豪商出身説がある。
 それによると、彼はインドの海岸部の出身である。他の多くの弟子が、釈尊の教化活動の中心であつたインド中央部の出身であるのと異なっている。″地方″から優れた人材が出る例ともいえるかもしれない。
 インドの西海岸、今のボンベイの北方に大きな貿易港があった。ボンベイには私も行ったことがある(一九六四年五月二十日〜二十二日)。釈尊の当時、インド洋、アラビア海を舞台に、西アジア、中東方面まで、海洋貿易は盛んであった。富楼那の父も、裕福な海商だったようだ。しかし父の死後、遺産は兄たちが全部取ってしまった。富楼那は一から始めねばならなかった。
 彼は苦労を重ね、やがて商売で大成功する。今でいえば″貿易会社の社長さん″(笑い)であろうか。その名声は舎衛国の商人をも引きつけるほどになった。
 舎衛国は「舎衛の三億」(釈尊が二十五年間、教化した同国で、三分の一の人は現に仏を見、三分の一は存在を聞いただけ、残りは見もせず聞きもしなかったと『大智度論』に説く)といわれるように、仏法がもっとも広まっていた都市である。
 富楼那社長の(笑い)船に乗ってきた舎衛国の商人たちも仏教徒であった。
 航海中、彼らは毎日、朝夕、一緒に何かを唱えていた。富楼那は聞いた。
 「それは何の歌ですか」
 「歌ではありません。これは仏の教えられた言葉です」
 ――要するに当時の勤行か、祈りをしていたのであろう。
 ここから、彼は仏教に関心を持った。何か、心にふれるものがあったのだろう。
 勤行を耳にしたことがきっかけで、仏法に心を寄せる。諸君も、そのような、すがすがしい勤行をしていただきたい。また、その商人らの態度も立派であり、印象的だったのではないだろうか。
 信仰で磨かれた生命の光は、それ自体、正義の雄弁な証明者でもある。
13  富楼那は航海が終わると、さっそく舎衛国に向かった。彼は決断が速く、行動力があった。決めたことは迷わずに実行する。そうした精力的な、スケールの大きい人物像が浮かんでくる。
 こうして彼は、陸路はるばる釈尊をたずね、会うことができた。話を聞いて、ただちに弟子となった。
 巨万の富をも投げ捨てた。彼は利益を追い求めるだけの″金の亡者″ではなかった。
 ″この人生で、自分は何をなすべきか″″真実に満足できる人生とは何か″――彼の胸中には、そうした疑問と求道の渇きがあったのかもしれない。
 富豪など、何の苦悩もなさそうに見える人でも、内実は決してそうではない。人にはわからない悩み、また、むなしさに苦しんでいる場合も少なくない。
 仏弟子となった富楼那は、真剣に弘教を始めた。そのなかで、これまでの経験がすべて生きてきた。彼は若い時から、実社会でもまれ、苦労していた。商売をとおして、人心の機微も心得ていた。
14  自身の人間完成を法戦の舞台で
 相手を「納得させる力」――。いずこの世界であれ、それが人間としての実力である。仕事でも家庭でも教育でも、仏法の世界でも同様である。その一個の人間としての実力が「信心」の表れなのである。
 「説法第一」の活躍――彼が弘教した数は、九万九千人といわれる。広宣流布を願っていた釈尊は、師匠として、どれほどうれしかったであろうか。
15  さて富楼那は、やがて、自分の故国に布教しよう、と決意する。
 その西方海岸部の地方は、まだ仏教が伝わっていない。海に生きる人々が多く、気性も荒い。手も早い(笑い)。釈尊は、大切な弟子の身を心配した。
 「富楼那よ、かの国の人々は、気が荒く、ものの道理がわからず、人の悪口ばかり言うそうだ。彼らは君をあざけったり、ののしるだろう。その時は、どうするつもりか」
 弟子は答えた。何の迷いもない。にっこりと微笑みさえ浮かべていたかもしれない。
 「そうしたら、こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を手でなぐったりしないのだから』と」
 「それでは彼らが、君をなぐったら、どうする」
 「こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を棒でたたいたりしない』と」
 「棒でたたかれたら、どうするのか」
 「私を鞭で打ったりしないから、いい人たちだ』と思いましょう」
 「鞭で打たれたら」
 『刀で傷つけられないからよい』と」
 「刀で傷つけられたら」
 「殺されないから、よい人たちだ』と」
 「それでは富楼那よ、かの国の人々に殺されたら、君はどうするのか」
 覚悟の弟子は、すずやかに答えた。
 「みずから死を求める人間すらいます。私は求めずして、仏法のために、この貧しく、汚い身を捨てることができるのですから、大いに喜びます」と。
 世の中には、恋愛などの理由で自殺する人さえいる。どんな死に方をするにせよ、死は必ず訪れる。ゆえに永遠の生命からみれば、「法」のために死ぬことは、無上の誉れであり、福徳となる。
16  「殉教」は、願ってもない喜びです――弟子の答えを聞いて、釈尊は安心した。
 「善きかな、富楼那よ、その決意があれば大文夫であろう。行ってきなさい」
 こうして彼は故郷に帰り、一年目で早くも五百人を入信させたという。彼はこの地で没している。まさに「忍辱の修行」の模範の姿であった。富楼那は法華経で「法明如来」の記別を受けている。
 彼は富も捨て、安楽な生活も、名声も、生命すら捨てて、ただ「師」を求め、「法」を弘めた。
 根底に微塵も政治性や要領、かけひきなどなかった。ただ「信念」のみがあった。彼は自分の人生を、うまく栄光で飾ろうなどと、思いつきもしなかったにちがいない。状況を計算しながら綱わたりし、泳いでいくような卑しい保身は、いささかもなかった。
 十大弟子は、こうした戦いによって、万世に名を残した。
 戸田先生は″霊鷲山で、釈尊の弟子方らと同座した時、「末法の青年はだらしがないな」と笑われては、地涌の菩薩の肩書が泣く″と教えられた。
 何より一人の人間として、一人の信仰者として、偉大でなければならない。そのためには苦労を求め、苦労をしきらねばならない。
17  行動こそ雄弁なり
 ところで大聖人は″法華経の敵と戦わなければ成仏はできない″と、御書の中で幾度となく言われている。
 たとえば、南条兵衛七郎(南条時光の父)に与えられた御書で、「信心ふかきものも法華経のかたきをばめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・めざれば得道ありがたし」――信心が深い者もなかなか法華経の敵と戦わない。どのように大きな善業をつくり、法華経を千回、万回と読み、書き写し、天台の一念三千の観念の修行の悟りを得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、絶対に成仏はできない――と。
 現在の私どもの場合でいえば、どんなに信心に励んできたようであっても、法華経の敵、つまり謗法の者、正法誹謗の者と戦わなければ成仏はできない、ということである。
18  富楼那の雄弁は、決して人気とりや、人当たりのよい弁舌などではなかった。それは正法の敵と戦う正義の叫びであった。民衆を、不幸な人々を、何とかしたいとの情熱と知恵の発露であった。
 師・釈尊の心を、願いを、人々の中に脈動させんとする、やむにやまれぬ弟子としての行動であった。
 まさに、正法の敵と戦うために、みずからの命をも惜しまない″声仏事を為す″の実践であったわけである。
 もちろん「雄弁」といっても、その根本は、説得力である。ただ多弁であることが雄弁ではない。
 よく社会で「訥弁とつべん(つかえつかえしゃべる話し方)のセールスマンのほうが成績がよい」といわれることがある。それは、言葉数が多いとか、うまく話をするということではなく、その人全体の信頼度の問題である。相手の信頼を得ずして、本当の説得とはならないし、雄弁とはいえない。
 また、シュークスピアの言うごとく「行動こそ雄弁なり」(「コリオーレーナス」)でもある。言葉だけで行動のない人は、信用されない。どのような行動をしたか、それがその人間を雄弁に語ってくれるのである。
 ともあれ、「法」を語り、話した分だけ、広布は進む。どう人々の心をとらえ、心に染み入るように語っていけるか。言葉の綾とか、方法、策ではない。真心の、信念の叫びこそ、相手の心を打つのである。
 青年部の諸君は、時代の先取りをして、自分たちの言葉、自分たちの表現で、富楼那のごとく「雄弁第一」の法戦を展開していくべき責任がある。そこに、いわば″精神の水ぶくれ社会″におちいりつつある現代を覚醒させる道があるからだ。後継の諸君の責任は重い。
19  天気にも、晴れの日もあれば、曇りや雨、雪の日もある。と同じように人生の空にも、希望の太陽が輝く日もあれば、苦悩の雲がかかることもある。
 ましてや悩み多き青春時代である。華やかな人生の勝利とは無縁のような失意の日々もあるだろう。社会の矛盾の雲に開ざされ、失望の嵐にさいなまれることもあるだろう。
 しかし、大切なことは、自分の″嘆きの心″に負けないということだ。不幸でないことが幸福でもあるように、″負けない″ことは″勝った″ことである。何があっても、絶対に負けない――それが信心である。
 諸君にとって大事な、大事な青春であり、人生である。決して苦悩に負けることなく、勇んで広布に生きぬき、堂々と正しき人生の大道を歩み続けていただきたいと念願し、私の記念のスピーチとしたい。
 (創価文化会館)

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