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日蓮大聖人・池田大作

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創立六十周年祝賀の婦人部記念代表幹部会… 境涯の開花が信仰の目的

1990.4.12 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  広布の労作業に無量の福運
 きょうは、日ごろお世話になっている「聖教新聞」の配達員の方々をはじめ、婦人部の代表が参加しての幹部会である。創立六十周年を祝賀する晴れやかな集いに、心から「おめでとう」と申し上げたい(拍手)。また、「白ゆり合唱団」の祝福のハーモニーも、とてもさわやかで、すばらしかった。感謝を込めて盛大な拍手を送りたい。(拍手)
 さらに本日は、ここ広宣会館のほかに、各地で記念の集いが開かれているとうかがっている。あわせて祝福申し上げたい。(拍手)
2  先ほど、坂口婦人部長が、配達員の方々の活躍の模様を「雨の日も風の日も笑顔で……」と紹介していた。皆さまの努力は並大抵ではない。生身の人間である。いつもいつも笑顔というわけにはいかない(笑い)。「ああ、たいへんだな」とか、「もう、やめようか」とか(笑い)、いろいろ思いたくなるのが現実であろう。皆さまがそうした日々の苦闘に打ち勝ちながら、懸命に使命の道を走っておられることを、私はよく知っているつもりである。
 しかし、「聖教新聞」の配達は、広宣流布を推進するための一つの労作業である。また、みずからの心身を鍛えることにもなる。この尊い使命に走りぬいた人の福運は計り知れないと、私は確信している。(拍手)
3  大聖人は御自身のことを「一閻浮提第一の聖人なり」と述べられている。
 鎌倉の門下のなかには、大聖人が、どんなにか幕府から重んじられ、世間の人々から尊敬されることかと思い描く人もいたであろう。しかし、大聖人の歩まれた道は、正法弘通ゆえの大難の連続であられた。門下も、大聖人の仏法を信受しているというだけで、周囲の人々の嘲笑の的となり、迫害された。
 このようななかで、大聖人は厳然と宣言される。「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」と。そして死罪に等しかった佐渡流罪から生きて帰られ、三災七難のうち残されていた他国の侵攻の予言も的中。さらに、末法万年にわたる一切衆生の成仏の大道を開くために、正法流布への壮大なる御生涯を貫かれたのである。
 何が人生の本当の勝利なのか、幸福なのか。本当に偉大な人とはだれなのか。名声や地位や財産などの外面の姿ではない。内面の心の問題である。生命そのものが勝利で輝いているか、幸福に満ちているかどうかである。私どもは、このことを正しく見きわめていかなくてはならない。
4  純一な信心で間断なく前進
 大聖人は駿河(現在の静岡県)の門下である西山殿に与えられたお手紙に、こう仰せである。
 「夫れ雪至つて白ければむるにそめられず・漆至つてくろければしろくなる事なし、此れよりうつりやすきは人の心なり、善悪にそめられ候」と。
 ――雪はきわめて白いものであるから、染めようにも染めることができない。漆はきわめて黒いものであるから白くなることはない。雪や漆と違って移り変わりやすいものは人間の心である。善にも悪にも染められるのである――。
 人の心は縁にふれてさまざまに変わっていく。
 「真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必ず地獄にをつ」――真言宗・禅宗・念仏宗等の邪悪の者に染められてしまうならば、必ず地獄に堕ちる――と仰せのように、悪法に染まってしまうと必ず不幸の人生となる。ゆえに、悪知識に紛動され、心を奪われてはならない。
 これに対して「法華経にそめられ奉れば必ず仏になる」――法華経(御本尊)に染められるならば、必ず仏になることができる――と。
 そして、「いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候」――ご信心を純白な雪のように、また、まじり気のない黒漆のように純一堅固に持つべきである――と結論づけられている。
5  学会は、この大聖人の御指南のままに悪しき勢力と戦い、休みなく純一な信心で進んできた。
 信心の世界は心の世界であり、幸・不幸を決定する根本にかかわるものである。
 ゆえに心に空白やスキをつくってはならない。そのために、絶えざる精進を忘れてはならない。
 「御義口伝」には「所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」と述べられている。
 また日寛上人は「依義判文抄」(富要三巻)で「勇猛精進」とは題目である、とされ、まじり気のないことが「精」、絶え間のないことが「進」である、と示されている。すなわち、自行化他にわたる題目を根本に、純一に、間断なく前へ進め、との言である。
 心に空白があれば、いつしか魔が入り込み、悪に染められてしまう。しかし、「勇猛精進」の人には、魔も入り込むスキがないし、悪縁に紛動されることもない。
6  永遠の幸福、永遠の自由のために
 また大聖人は、妙法を持った人が必ず幸福になっていく法理を、婦人門下の妙法尼御前への御返事の中で、次のように明かされている。
 「悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候」――法華経提婆達多品では提婆達多と竜女の成仏が示されている。そこでは悪人も女人も、畜生界・地獄界の衆生も含めて、十界のすべての衆生が法華経によって即身成仏できることが説かれているのである――と。
 さらに、続けてこのことを「水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」――水底に沈んでいる石でも、こすり合わせれば、火を発する。また百千万年の間、闇に閉ざされていた所でも、灯を中に入れれば明るくなるようなものである――と譬えられている。
 そして「世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり、何にいわんや仏法の妙なる御法の御力をや」――世間のかりそめのことでさえ、なお、このような不思議があるのだから、ましてや妙法の力においては、なおさらである――と。
 すなわち、大聖人の顕された三大秘法の御本尊へひたぶるな信を起こし、唱題・弘教に励むならば、御本尊の仏力・法力が現れて、どんな宿命をも転換でき、いかなる人も成仏することができると断言なされている。
7  さて、大聖人は文永五年(一二六八年)十月十一日のお手紙で、門下一同にこう指導されている。
 「権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」――権威を恐れてはならない。このたび生死の迷苦の束縛を断ち切って、成仏を遂げなさい――。
 信心は厳しい。権威を恐れ、心が臆病で染まってしまえば、「生死の縛」を断ち切り、成仏することはできない。
 大聖人は「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」――千ばいの漆に、わずかカニの足を一本入れて、すべてをダメにしてしまうようなものである――とも仰せである。
 いかに信心を積み重ねようとも、ひとたび悪縁に紛動され、心が揺らいでしまえば、それまでの信心の功徳も意味のないものとなってしまう。ゆえに状況がどうあろうとも、恐れてはならないし、退いてはならないのである。
 ともあれ、「生老病死」にわたる、人生の根源的苦悩を打開し、生命を永遠に「自由」にして「幸福」な大境涯へと解放していく根本の力――それが信心である。
 「永遠の自由」と「永遠の幸福」。これこそ、いわば大聖人の仏法の″主題″であり、私どもの、信心と人生の目的である。
 二度とないこの一生である。人生を勝利の花で飾るためには、臆病であってはならない。何があろうと、そのたびごとに勇気を奮い起こして、一生成仏の大道を進んでいただきたい。
8  「信教の自由」法の成立に尽力したジェファソン
 ここで一点、リーダーのあり方について申し上げておきたい。
 学会員の皆さまは、尊き仏の使いであり、広布の同志である。その大切な同志が、どうすれば勇気をもち、安心して活動できるか――何につけても、活動しやすいよう、成長できるように尽くしていくことが、リーダーの責務である。
 人々に勇気も希望もあたえられない、逆に神経ばかりつかわせ、成長を妨げてしまうような幹部であってはならないことを、くれぐれも申し上げておきたい。
 次に、アメリカ合衆国第三代大統領のジェファソン(一七四三年〜一八二六年)について少々、述べておきたい。本年二月、ロサンゼルスでの第十一回SGI総会の折にもお話ししたが、彼は三十三歳の若さで、かのアメリカ「独立宣言」を起草している。
 そして、同じく彼が起草し、成立に尽力した「バージニア信教自由法」は、アメリカにおいて初めて、政教分離(国家権力と宗教の分離)を定めた法律である。それは、信仰の自由を万人の平等の権利としてうたいあげるなど、画期的な意義をもっていた。
 一八〇一年、すなわち十九世紀の開幕の年、ジェファソンは大統領に就任する。五十八歳の年であった。
 大統領としての最大の功績は、外交の手腕を発揮して、それまでフランスの領土であった「ルイジアナ」(現在のアメリカ西南部)を購入。アメリカの領土をいっきょに三倍に拡大したことだといわれる。アメリカはこれによって、太平洋岸までの発展の道を開いた。
 大統領引退後は、悠々と書を読み、人々と文通を続けながら、青年時代から志してきたアメリカ独立の″仕上げ″に心をくだいた。また、教育にも情熱をそそぎ、バージニア大学を創立している。
 また彼は、生涯で五万通の手紙を残したという。ちなみに、創価大学の重宝にも、彼の直筆書簡が収められている。
 ジェファソンは三十九歳で妻に先立たれている。妻の死後、当時十二歳の長女にあてて、身だしなみについてこまごまと注意した手紙も残っている。晩年は、その長女や多くの孫たちに囲まれて幸せであった、という。
 ″アメリカ民主主義の父″として、立派に人生の最終章を飾ったその姿は、住んでいた地域の名をとり、多くの人々から「モンティセロの賢人」と尊敬された。
 そして、「独立宣言」採択(一七七六年七月四日)から五十周年にあたるその日――一八二六年七月四日に、八十三歳で亡くなっている。
9  いかなる世界にあっても、草創期は、いうにいわれぬ苦労の連続であるものだ。
 ジェファソンは、六十九歳の時、同志とともに戦ってきた、困難や危険に満ちたアメリカ建国の草創期を振り返って、こう語っている。
 「目前にはいつも高波がわれわれを呑みこまんと押し寄せたが、気付いてみると、その波はわれわれの船の下を無害に通りぬけていっていた。われわれは心から勇んで嵐を切り抜け、幸福の港に入港したのであった」(ラルフ・ケッチャム『アメリカ建国の思想』佳知晃子訳監修、時事通信社)
 そして、これからもそのように戦い続けていくだろう、と。
 何の波風もない、苦労のない平凡な生涯で、本当に幸福な人生が築かれていくのだろうか。決してそうだとは思えない。さまざまな苦難と戦い、波また波を越えていくなかで、自身が鍛えられ、境涯を深めていくことができる。そして、波風のない平凡な人生より、千倍も価値ある人生を生きていける。
 仏法では、煩悩即菩提であり、難即功徳である。信心さえあれば、悩みや苦しみをバネとして、必ずや幸福な境涯が開かれていく。また、さまざまな難にあうたびに、功徳は馥郁と薫っていくものである。
 ともあれ、年齢を重ねていくとともに、ますますにぎやかに、軽やかに、朗らかになっていくのが、信心の力である。
 若い時に懸命に、法のため、人のため、社会のために、戦い行動した分だけ、福徳を積み、生命力を増していく。それは、いわば生命の″ゼンマイ″をしっかり巻いていることであり、巻いた″ゼンマイ″の力も加わって、晩年の人生を、楽しく、朗らかに生きていけるのである。
 つまり、凡夫のわが身に、仏界の生命を涌現し、確立していけば、その力で、悠々と自由自在の境涯で今世を飾っていけるし、永遠に幸福な境地に遊戯することができる。そのための現在の信心であり、仏道修行なのである。
 ちなみに、日本において「信教の自由」が実現したのは、アメリカのGHQ(連合国総司令部)の指令によるものである。一九四五年(昭和二十年)十月、戸田先生が学会再建の戦いを開始されて間もなくのことであった。ここに、日本に初めて「信教の自由」の時代が到来したのである。
 このことを、戸田先生は仏法の眼から「梵天・帝釈等の御計」と受けとめておられた。世界、宇宙の諸天善神が妙法広布の前進を守りゆく、との深き信心の眼であった。そして、″この尊い自由は、いかなる権力者によっても絶対に奪われてはならない″。これが、戸田先生の心情であった。それはそのまま、現在の私の信念でもある。
10  自分らしく生涯、最前線で
 次に、″生涯、広布の舞台で戦う″姿勢の大切さについて、述べておきたい。
 日蓮大聖人は、門下の最蓮房に与えられたお手紙の中で、次のように記されている。
 「仮使山谷に籠居候とも御病も平癒して便宜も吉候はば身命を捨て弘通せしめ給ふべし」――たとえ、山谷にこもっておられても、ご病気も治って、状況もよければ、身命を捨てて妙法を弘通していかれるべきである――。
 これは最蓮房が、山の中にこもりたいとの希望を大聖人に申し上げたことに対する御返事である。現実社会から離れて山にこもろうとしたことは、今でいえば第一線からの″引退″や″隠居″″にも通ずるといえよう。
 一説によれば、最蓮房は五十代から六十歳前後とも推測され、当時としては高齢期を迎えていた。
 大聖人はまず、最蓮房が病身であることを深く思いやられている。また災厄の続く社会でありながら、国主にいかに諫暁しても聞き入れられない状況では、大聖人御自身でさえ、こもっていようと思うことがある、と率直に語られてもいる。しかし、そのうえで大聖人は″大法弘通の歩みは決して止めてはならない。自分らしく法戦に打って出よ″と、厳愛の御指導をされているのである。
11  私どもの広布の前進にあっても、年配者をはじめ、さまざまな個人的状況を尊重することは当然である。しかしそのうえで、皆さま方は″生涯、広布の最前線に勇んで躍り出よう″との姿勢をどこまでも貫く″妙法の勇者″であっていただきたい。
 日々、信心の実践に励めることこそ、最高に充実した人生であり、永遠の幸福境涯を開く直道である。どうか聡明な婦人部の皆さまは、真実の″幸の花園″をめざし、どこまでも広布のために勇気を持って進んでいただきたい。(拍手)
 また幹部の方々も、年配者の方々が張り合いをもって広布の活動に参加できるよう、十分に心を配っていくことが大切である。すべての人が福運と功徳の人生を歩んでいけるよう、確信ある激励をお願いしたい。
12  戸田先生は、昭和三十一年(一九五六年)八月、本部幹部会において、次のように語っておられる。(『戸田城聖全集』第四巻)
 「人のつくった地盤で地区部長になり、地区部長のイスにでんと座った形が多い。自分が一人から地区を育ててきた人は少ない」と。
 さらに、先生は、こう続けられている。
 「あなた方も幹部になった以上は、もう肚を決めて、ほんとうの修行を組座談会でしてください。そして、ほんとうに苦労した地区部長、ほんとうに磨きあげた幹部、そういうものに、一人ひとりがなってください」と。
 組座談会とは、当時の最前線の会合である。
 幹部みずからが第一線へ。そしてみずからの手で、広布の組織を築き、拡大していく――。ここに、広布発展の要諦があることを、明快に示された指導である。
 広宣流布への深い決意と行動があるところ、知恵と勇気は限りなくわいてくる。それを、口先ばかりになり、折伏精神を失って、第一線に飛び込まなくなってしまっては、生命の″ゼンマイ″が途中でさびついてしまう。
 戸田先生の指導どおり、草創の先輩は第一線で徹底して戦い、徹底して自分を磨きぬいた。そして、今日の学会発展の盤石な基盤を築いてきた。
 これからの世界広布の伸展にとって、″黄金の柱″ともいうべき本格派の人材が、さらにさらに数多く必要になってくることは間違いない。その意味で、私は「第一線で鍛えぬかれた本物の人材に」と、重ねて訴えておきたい。
13  ホイットマンの宗教的民主主義
 さて次に、アメリカの詩人ホイットマンをとおして、「民主の時代」の一つの核心にふれておきたい。
 少しむずかしいかもしれないが、一切法は即仏法である。仏法を信じ行じないで、形式的にただ持っているだけでは意味がない。信心だけしていれば、それでよいというわけではない。それでは、大聖人が教えられた「広宣流布」という広がりはない。
 つねに社会とかかわり、人生の現実とかかわるなかに、信心と仏法の生きた脈動もある。そのかかわりの接点となる勉学をしていかなければ、真実の仏法の行動者とはいえない。社会のさまざまな分野にも関心をもち、自分の心の世界を広げていくことが、信心を深め固めていく契機にもなっていく。
 一次元からいえば、仏法は境涯、教育は知性、その両者が相まってはじめて、人間としての幸福、社会の進歩の源泉となっていくのである。
 その意味で、皆さまは、日々向上しゆくために、できうるかぎり、大いに″学び″に挑戦していただきたい。
14  ホイットマンは「民主主義の詩人」と呼ばれた。彼は生涯、アメリカの大地に誕生した″デモクラシー(民主主義)の可能性のすばらしさをうたい、論じた。
 くわしいことは時間の関係上、省略させていただくが、彼の「民主主義」観の最終結論は何であったか。真実の「民主主義」の発展には、何が必要であると彼は考えたのか。
 ホイットマンは言う。
 「民主主義の真髄には、宗教的要素がある」(『民主主義の展望』佐渡谷重信訳、講談社学術文庫)と。
 彼にとって、″民主″はたんなる政治制度やスローガンではなかった。それは何より、人間の生き方であった。またあらゆる文化、あらゆる組織にも浸透すべきものであった。″民主″こそ、生命と自然本来の″法則″とさえ見ていた。
 そこで彼は「人格主義」を主張した。その人の「人格」がどうであるか。それを一切の基準の根本とした。身分や地位など関係ない、文字どおり″人間としての格″のみを問題にしたのである。それが彼の″民主″の思想であった。
 そして彼は「人格主義の背骨は『宗教性』である」と断言している。こうした考えから、彼は「宗教的民主主義」を提唱した。
 彼の言う「宗教」とは、何であったか。それは、一人の個人が平等に小宇宙であり、自由にして尊極の存在である、という信念を意味した。
 その意味で、彼は当時の既成宗教を厳しく批判した。彼の民主的宗教観から見れば、権威によって平凡な市民を見くだす宗教は、真実の宗教とは正反対の位置にあった。その平凡人こそが主役なのだ、もっとも尊いのだというのが、彼の訴え続けたことだったからである。
 「私が手を変え品を変えして、あなたにわからせたいと願っているのは」「たとえ神でさえ『あなた自身』以上に神聖ではないということ」なのだ、と彼はうたった。
 民主主義――それは「″一人″の神聖さ」という、「宇宙の法則」が基本なのだと、ホイットマンは言うのである。
 平凡な「あなた自身」以上に神聖なものはない。彼のこうした考え方は、西洋の宗教というよりも、きわめて仏教的であり、日蓮大聖人の教えにも通じる内容をもっているといえよう。
 彼の″東洋への憧れ″は、多くの学者が論じているとおりである。ある意味で、仏法の序分となり、流通分ともなる生き方を志向していた。
 「魂」以上の権威が、どこにあるというのか――ホイットマンは、この信念のもとに戦った。アメリカの同胞と人類に向かって、″頭を上げよ―胸を張って進もう―″と呼びかけ続けた。
 彼は「仕事をする人間」にこう語った。
   いったいあなたは自分のことをどんなふうに思っていたのか、
   自分自身を劣ったやつだとそれではあなたが思っていたのか、
   自分より大統領のほうがえらく、金持ちのほうが裕福だと、
   あるいは教育のあるほうが聡明だと、思っていたのはあなたなのか
     「仕事を賛える歌」、『草の葉』鍋島能弘・酒本雅之訳、岩波文庫)
 政治家よりも、富豪よりも、学者よりも、額に汗して働く人間のほうが尊い。どんな地位よりも、″偉大な魂″こそが上位にある。
 政治家等に仕えるのではない。彼らに利用されてもならない。だまされてもならない。むしろ彼らのほうが″偉大な魂″に仕え、教えを乞うべきである。ホイットマンはこう言うのである。
 私どもの立場でいえば、「信心」の心こそが″偉大な魂″にあたるといえよう。
 また、こういう詩もある。
   内面に坐して揺るがず、分析の刃も届かぬ魂の持主たちに、
   あらゆるものが吟味を求める、
   伝統も外的な権威も判定者ではなく、
   彼らこそが外的な権威といっさいの伝統の判定者
        (「吟味」、同前)
 つまり、あれこれと分析し批評する浅薄な声など、まったく届かない、深い境涯に堂々と住している。そうした魂の持ち主、「精神の王国」の王者こそが、すべての基準になるべきだというのである。
15  ″無冠の誇り″輝く境涯の女王に
 私は若き日より、こうした詩編にふれるたびに、日蓮大聖人の御生涯をしのんできた。
 当時、人々は伝統や権威、権力をカサに、大聖人を批判し、迫害した。しかし、そうした一切の刃は、御本仏の御境界を、いささかも侵すことはできなかった。
 彼らは伝統や権威で大聖人を判定し、裁断しようとした。しかし反対に、大聖人こそが、彼らの判定者であられた。そのことは歴史が厳然と証明している。今、広宣流布に進む私どもの立場も、その方程式は同じであるかもしれない。(拍手)
 魂の自由と独立。獅子のごとき威風堂々の確信。感傷なき前進。それは信仰と仏法の真髄でもある。
 人によく思ってもらおうとか、同情してもらおうとか、そうしたセンチメンタルな、卑屈な精神は、仏法にはない。何があっても強く、朗らかに、わが境涯の深みには嵐も届かない。悩みをも悠々と見おろしながら、晴れやかな笑顔で進んでいける。明るく広々とした内面の花の野原に遊ぶ――そうした「境涯の女王」のあなた自身であっていただきたい。(拍手)
 御本尊は、「権威を恐るること莫れ」と叫ばれた御本仏の御生命の当体であられる。ゆえに私どもが、一切の権威を恐れることなく、無冠の「信心の勇者」として広布に生きぬいていく時、御本尊との真の感応もある。
 権威を恐れていては、成仏はできない。成仏の境界を開かなければ、仏道修行の意味はない。
16  民主主義の根本は「一人の尊厳」にある。
 それは具体的には、第一に、こうした独立自尊の「魂の誇り」であり、「魂の権威」の確立である。それを真に実現するものこそ、仏法なのである。
 第二には、自分らしい「個性の開花」、自由奔放たる「境涯の開花」である。
 第一が内面の確立の問題であるとしたら、第二は内面の表現という課題である。
 今は時、四月。百花繚乱の季節である。春の園。春の街。道ゆく人にも春らしい華やぎと解放感がある。万物がいっせいに、自己を存分に花開かせ、表現している。
 「民主の時代」とは、このような″自己表現の春″の時代である。たまりにたまった人間のエネルギー、生命のパワー(力)を、建設へ、価値創造へと解き放つ季節である。
 ホイットマンは、民衆の「個性の開花」こそが「民主主義の目的」であるとした。
 ――物質的繁栄だけでは十分ではない。民主主義は、芽を出したばかりだ。その開花は未来にある。偉大な人物と文学よ、生まれよ。「民主的人格」「民主的人間群」よ、続々と誕生せよ。彼らこそがデモクラシーの無上の結実であり、私はその基礎をつくっているにすぎない、と。(前掲『民主主義の展望』参照)
17  壮大な「表現の時代」「創造化の時代」ヘ
 「個性の解放」「境涯の開花」。妙法こそ、それらをもたらす根源である。
 大聖人は「妙と申す事は開と云う事なり」――妙法蓮華経の妙というのは「開く」ということである――と仰せである。
 また「開とは信心の異名なり」――開仏知見(仏界を開く)の開とは信心の別名である――と。
 これらには、もちろん甚深の意義がある。そのうえで、一次元からいえば、「妙法」への「信心」こそは、自己の生命を無限に「開き」、自在に表出しゆく根本ともなる、との意義と拝される。
 「表現」は、英語では「エクスプレス(express)」。「外に(エクス)押し出す(プレス)」意味である。押し出すためには、内面に″何か″がなければならない。押し出す″強さ″もなければならない。
 「自分解放」への挑戦――外へと力を出していくことによって、内面もさらに開拓されていく。
 「表現」には″自由″がある。″平等″がある。″尊厳″の実りがある。″友愛″への間を開く。″進歩″と″新鮮さ″をもたらしていく。強び表現こそ、″民主″の精髄であり、実質なのである。
 そして今や、壮大な「表現の時代」を迎えた。創価学会が進める「仏法を基調とした平和・文化・教育の推進」の運動は、一面からいえばその先取りであり、世界の知性が注目する一つの理由でもある。(拍手)
 いのちの表現は無数である。そして、いのちの真髄は「妙」の一字にある。
 大聖人は「妙の文字は月なり日なり星なりかがみなり衣なり食なり花なり大地なり大海なり」――妙法蓮華経の妙の字は「月」である。「太陽」である。「星」である。「鏡」である。「衣」である。「食物」である。「花」である。「大地」である。「大海」である――と、自在に、そして多彩に、妙法の功徳を表現しておられる。また根本的には、宇宙の森羅万象すべてが、妙法の″表現″なのである。
18  「表現の時代」は「創造性の時代」である。魂の自由に基づいた独創性を発揮すべき時である。
 現在の「情報化時代」の次は、「創造化時代」であるといわれる。社会が「農業化」から「工業化」へ、さらに「情報化」へと進んできた。次は、その経済力と情報をもとに、何を創造するかが問われる時代に入っていくとの予測である。
 あまり図式的に言うことはできないが、これまで以上に、人間の独創性、創造力が決め手となる時代に入っていることは、間違いない。
 「創造(価値創造)」の運動は、当初より、その先駆であり、仏法という創造性を開きゆく根本を明示してきた。ある意味では、時代が少しずつ私どもの主張に追いついてきたともいえよう。いよいよ、これからが私どもの″本番″である。(拍手)
 ともあれ、表現はタダである(笑い)。どれだけ新鮮に相手の心を揺さぶり、覚まさせる表現をするか。仏法の真実を、また自分の思いを伝えていくか。その知恵は、お金では買えないし、買う必要もない。
 そもそも、本当に大切なものの多くは、タダである。空気もタダ、愛情も知恵もタダである(爆笑)。少しも惜しむ必要がない。(爆笑)
 仏法では「信を以て慧に代え」――成仏への智慧がなくとも、正法ヘの信心によって、その智慧を得たのと同じく、成仏の果報を得る――と説く。
 「信は慧の因」――信心は智慧の因である――と明かされるように、信心の深さ、強さに応じて、必ず幸福への知恵がわいてくる。
 また太陽が昇れば、地上がすみずみまで明るく照らされるように、信心の旭日が胸中を照らして、社会・生活上の価値創造への知恵が目覚めていく。その意味で、私どもにとって、知恵は信心の表れであり、信心は必ず知恵となって表れねばならない。
 真実の宗教は、人間を″無知″と″愚かさ″の闇に閉じ込めるものではない。反対に、民衆を鋭き″知性″に目覚めさせ、強靭なる″賢者″をつくりゆくのである。
 ある意味で、信仰の延長は知性となり、知性の延長は信仰となる。両者が一体となって偉大な「人間」としての無限の向上と深化を続けていく。「社会」も健全に発展していく。これが人類が進むべき、永遠の大道であると私は思う。
19  世界一楽しい婦人部に
 一般的にも、真剣な責任感と努力があれば、何らかの知恵が出てくるものである。まして、信仰者に行き詰まりはない。「表現」についても同様である。
 ご家庭においても、聡明な言動こそが即、信心の輝きとなる。仏法の理解を広げていく。ご主人に対しても、また未入会のご家族やご親族に対しても、相手の心の奥に届くような、心情の機微をとらえた接し方をお願いしたい。そうした知恵は思いやりでもあり、豊かな人間性の表れともいえる。
 また、お子さんに対しても、感情にとらわれた言い方ではなく、よく考えてあげて、五のうち四はほめてあげる、残りの一は必要に応じて注意してあげるくらいの気持ちでよいのではないだろうか。
 洗練された表現の大切さは、組織においても、地域においても、同様である。
 とくにリーダーは友のため、同志のために、心くばりのある表現をお願いしたい。それが、信心と、教養と、人格の表れなのである。
 無神経な、また無責任な言葉は、人を傷つけるだけではない。リーダーとしてはもちろん、信仰者としても、社会人としても、自分自身をも傷つけることになる。
20  民主主義の根本は「一人の人を大切にすること」である。ゆえに民主の理想は「一人の人」の尊厳観なくしては成り立たない。
 そして「一人」の生命の探究は、やがて、大宇宙にも連なりゆく生命の壮大さへと人間を開眼させていくであろう。そこに開眼せずして、真の「人間尊厳」はない。
 ホイットマンが「民主主義の中核には宗教的要素がある」とし、「宗教的民主主義」を唱えた真意も、中心はここにあると私は思う。この一点のみでも、「民主の時代」の流れは、本格的な「宗教復興の時代」の開幕を告げているのである。
 そして「一人」の生命尊厳を完璧に説き明かしたのが仏法であり、現実に、尊厳なる自身の境涯を開きゆく方法を教えられたのが、日蓮大聖人であられる。
 ともあれ、表面はどうあれ、あらゆる意味で、これまでの思想、体制は行き詰まり、歴史の底流は、「宗教」へ、真実の「人間の哲学」へと動いている。それが世界の識者の共通の認識である。
 その最先端の実践を、日々の生活のなかで繰り返しておられるのが、皆さまなのである。
 婦人部の基盤は、盤石である。この大いなる人間の大地の上で、思う存分、歌い、乱舞しゆく、色あぎやかな″春″が来た。どうか、喜びに満ちた「新しい境涯」で、「新しい表現」の舞台を開き、「新しい人材」を育てつつ、世界一楽しい「新しい婦人部」を、皆さまの団結で築いていただきたい。(拍手)
 大切な皆さま方の、ご健康とご多幸を心よりお祈りして、本日のお祝いのスピーチを結ばせていただく。
 (創価文化会館)

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