Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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SGI親善代表者会 信念の闘争に屈服はない

1990.3.30 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  ミッテラン総裁の″青春の原点″
 遠いところ、はるばる研修のために来日された、尊き仏子の皆さま方を、私は最大の敬意と讃嘆をもって歓迎申し上げる。(拍手)
 美しき桜の季節を満喫しながら、楽しく、有意義な毎日を過ごしていただきたい。
 私の願いは、ただ皆さまの幸福である。体を大切にし、長寿であっていただきたい。これ以上はないという所願満足のすばらしい人生を飾っていただきたい。
 広宣流布に生きぬく一日一日こそ、無上の価値の日々である。体も健康になっていく。
 日蓮大聖人は、病弱であった門下の一人(最蓮坊)にあててヽ「御病も平癒して便宜も吉候はば身命を捨て弘通せしめ給ふべし」――ご病気もなおって、状況もよければ、身命を捨てて妙法を弘通していかれるべきである――と、厳愛の御指導をされている。
 正法流布への捨て身の行動のなかに、偉大な生命力がわく。妙法は無上の″良薬″なのである。
 皆さま方は、この厳然たる法力・仏力を証明する一生であっていただきたい。
2  人生は「闘争」である。闘争である以上、勝たねばならない。
 昨日、フランス・リベルテ財団のダニエル・ミッテラン総裁(メッテラン仏大統領夫人)を、この創価大学にお迎えした。約一時間半、さまざまなことを語りあった。
 同総裁については、先日も紹介したが(=三月九日、第二十回全国青年部幹部会)、若き日よリレジスタンス(対ナチス抵抗運動)の闘士であった。
 昨日も、その青春の苦闘が話題になった。総裁は語った。
 「私がレジスタンスに身を捧げる決意をしたのは、ある人物の決定的影響によるのです」
 その人物とは、一人の婦人であった。ベルティ・アルブレヒト女史――。
 ダニエル女史の家では、父親がドイツ軍の″ユダヤ人狩り″に協力せず、中学校の校長を免職になった。そのため、一家で別荘に移り、間貸しをして生計を立てていた。その間借り人のなかに、″レジスタンスの英雄″アンリ・フルネー(解放直後の政府で閣僚にもなる)や、そのベルティ女史らがいたのである。
 ミッテラン総裁は回想された。
 ――当時、私は十八歳。ベルティ女史は、ずいぶんお年寄りに見えましたが、たぶん五十五歳ぐらいだったでしょう。十五日間で白髪になるなど、苦労が顔にきざまれてしまっていたのです。
 彼女はナテスの罠にかかって逮捕され、拷問をうけました。やがて、精神病ということにして、牢獄から病院に移送される途中、友人に助けられて脱走し、レジスタンス活動に入ったのです。私の家が、レジスタンスの連絡事務所のようになっており、彼女をかくまうことになりました。
 ベルティさんは、私をとてもかわいがってくれました。多くのことを教えてもらいました。私も彼女を心より尊敬していました。
 彼女の娘さんが、私に言ったことがあります。「私は、あなたに嫉妬している」と。なぜなら「私のママは、子どもが生まれるなら、ダニエル(ミィアラン総裁)のような子どもをと願っていた」と言うのです。
 その娘さんは、私のいちばんの親友ですが、ベルティ女史の家族は大ブルジョア(金持ち)でした。しかしベルティさんは、民衆・労働者の権利を、どのように守ればよいかを、つねに考えていました。そして労働者の真実の姿を学ぶために、家を捨てて町工場に働きに行ったのです。とくに女性の解放に貢献し、すばらしい歴史をつくった女性です。
3  レジスタンス運動貫いた勇気の女性
 ミッテラン総裁の話は続いた。淡々とした声のなかに、激しい思いが秘められていることが、はっきりとわかった。
 ――その日の朝、忘れもしない一九四三年五月二十八日、彼女は、私の両親と朝食をとるために階下におりてきました。彼女は「昨夜、悪い夢を見たの」と。「ホテルの廊下に人が、たくさん倒れていた。廊下の奥には明かりが見えた。そこで目が覚めた」と、夢の内容を話しました。
 私の母は「悪い夢を見たのだから、外に出ないほうがいい」と止めましたが、彼女は「同志との約束を破るわけにはいかない」と言って、出かけたのです。
 その日、彼女はナテスに襲われました。ホテルの廊下を逃げたものの、外の広場で逮捕されてしまった。ひどい拷問にかけられたようで、見分けもつかないような、すごい顔になっていたとのことです。
 そして、牢獄で彼女は亡くなりました。どのように死んだのかも、わかりません。首つり自殺かもしれないし、首を切られて殺されたのかもしれない。ともかく、すべての残酷な苦しみを見たのではないでしょうか。どんなに苦しみから逃れたかったことでしょう。本来なら、どんな苦しみにも負けない人でしたが……。
4  ベルティ女史は、ナテスの拷問にも決して同志を裏切らず、口を割らなかった。
 ダニエル女史は、ベルティさんの死というニュースに、悲嘆と憤激の涙を流した。その手には、ベルティさんからもらった金のブローチを、しっかり握りしめていた。
 そして彼女は、当時、続けていた上級学校への試験勉強をやめ、レジスタンス運動に身を投じていった。ナチスとの戦いで負傷したレジスタンスの兵士たちの看護の道を選んだのである。
 ミッテラン総裁の話に、私は感動した。深く心を揺さぶられた。真の人間と革命精神を見る思いがした。
 人生は戦いである。「仏法は勝負」である。個人においても、団体や国家においても、すべて、真剣勝負の闘争でないものはない。「戦い」こそが、生命と宇宙の永遠の実相なのである。
 ゆえに負けてはならない。生活のうえでも、広布の前進のうえでも、自分のため、後輩のために、徹底して戦い、断じて勝利せねばならない。その人が真実の″信仰者″であり″仏法の実践者″である。(拍手)
5  「自由」の侵害に対する戦いを
 ところで、ミッテラン総裁は、今なお″青春の情熱″をもって、世界を舞台に行動している。
 総裁は私財を投じて「フランス・リベルテ財団」を創設、人権擁護等のために、積極的に活動している。このリベルテ財団は、一九八六年三月に発足。モットーは「自由な人間とは、他人が自由になることに手を差しのべる者である」。
 そして自由への侵害に対する戦いとして(1)人権の擁護(2)教育(3)厚生、健康問題(エイズなど)(4)農業、食糧問題(5)自然災害や戦争の場合の緊急援助などがある。
6  今回の来日で総裁は、創価大学や東京大学など各地で青年たちを前に、「第三世界と私」とのタイトルで講演を行った。そのなかで、この財団の活動について、次のように語っている。
 ――第三世界には、何万人もの苦しんでいる子どもがいる。泥まみれで、着るものもなく、盗んできたものを食べているという悲惨な状況である。私はこれを見て、この世界には不正がありすぎると思った。
 財団は、この不正に対する怒りと、何かしなければならないとの思いで、若い人たちとともに始まったわけである。つまり、「自由」の高揚と強化、「人権」の高揚、強化のための戦いに、財団の意義がある。
 いちばん基本の人権は「生きる」という権利である。健康で、教育された人たちが、やがて国を発展させ、アイデアを表現し、社会に貢献する自立した人間となるのである。人権擁護は、「説」とか「論」とか「学」ではなく、行動に移していかなくてはいけない――。
7  総裁は「人権のための戦い」は特別なことではなく、社会に生きる者にとっての当然の行為と考えておられる。
 あるインタビューで「闘士」という言葉はあまり好きではない、と総裁は答えている。それは「闘士」には「戦争に行く人」のようなイメージがあるから、とし、「私は″社会参加の行動する証人″でありたい」と述べている。
 また「ある国で、たった一人でさえ、その基本的諸権利を奪われているとしたら、私にとっては大問題です」「だれかが、その信念や思想を理由に、自由を取りあげられたら、そのときから私は、その人の関係者になる」と語っている。
 人権問題に対しては、国境など関係ない、どこの地であろうと、行動を起こさずにはおれない、というのが夫人の心情なのである。
 さらに夫人は「人間を人間にする大事な価値観のために行動するかぎり、自分にはどんな制限もない」「どうせ何をするにしても、絶対に批判されるだろう。ゆえに私は、私の信念、私の良心に従ってしか行動しない」と。
 すばらしい信念であり、じつに強い生き方である。
8  私どもは、仏法による各人の「人間革命」を基本としながら、世界の平和と人類の幸福をめざしている。これほど、価値ある、尊い生き方はないと、私は確信している。
 どうか、皆さま方も、人類のための尊い聖業である広布の行動に、強い信念と誇りをもって、堂々と進んでいただきたい。
9  グラスゴー大学と交流
 きょう、英国・グラスゴー大学学長のフレイザー卿ご一行が、創価大学を訪問された。
 グラスゴー大学は、イギリス・スコットランドにあり、一四五一年に創立された歴史と伝統を誇る大学である。二十一世紀の開幕となる二〇〇一年に、創立五百五十年を迎える予定で、記念祭の準備委員会もすでに発足している。
 現在のグラスゴー大学は、学生数約一万四千人、教員数約千三百人。注目すべき点は、アジア・アフリカ地域を中心として、約二千人もの留学生を受け入れていることである。とくに、フレイザ―学長とシャープ国際部長が中心となり、国際交流の拡大を推進しておられる。
 創価大学からも、昭和六十二年(一九八七年)八月に二人の学生が短期留学して以来、合計十六人の学生が留学し、現在も四人の学生(男性三人、女性一人)が学んでいる。
10  一方、グラスゴー大学からも、これまでモスバッハ教授(心理学)、シャープ教授が来学され、一昨年(一九八八年)には、通信教育部生の「学光祭」の折に、私もお会いしている。
 またフレイザー学長からは、昨年春、招聘状をいただいた。その直後にヨーロッパを訪れたが、サッチャー首相との会見など諸行事のため、訪問することができなかった。そこで、ちょうど首相との会見の日に、創価大学の学長らが訪問させていただいた。
 そのときフレイザー学長から「池田先生には、ぜひとも来学していただきたいのですが、首相会見が大事ですし、私どもからも心からお喜び申し上げます」「いつの日か、ぜひとも日本に行き、創価大学を訪問したい。そして池田先生にお目にかかりたい」と、真心からの言葉をいただいたことをうかがった。
 グラスゴー大学と創価大学の協定は、このような交流のなかであたためられ、昨年十一月に両大学の学長による協定書の署名が終わり、正式にまとまったものである。
11  平等主義、開かれた教育、実学重視
 グラスゴーは、かつて大英帝国時代に″機械の都″といわれた。なかでもグラスゴー大学は、その学術・実学研究の中心的機関としての役割を果たした。
 現在で言う「エンジニア」も、当初は社会的評価の低い職業とされていた。そのエンジニアこそ、社会の発展に必要な、誇るべき専門職であるという「エンジニア思想」は、このスコットランド地方で育てられたのである。
 グラスゴーで育まれた、こうした実学主義・エンジニア思想は、十八世紀後半からの産業革命に大きな影響をおよぼしていった。その要因としては、次のようなことが考えられる。
 十七世紀当時のイングランドでは、神に関する学問(神学)が尊ばれ、「学問は神学の下僕」として、いわゆる″実学教育″を軽視する傾向があった。つまり、職人を育成することや、職人にとって必要な技術の教育などは軽んじられていたわけである。
 また、大学教育そのものも、権威的で広く民衆に開かれたものではなかった。
 そうしたなか、グラスゴーを含むスコットランドでは、中心地ロンドンから離れているため、多くの人々には、華やかで尊いとされた牧師、医師、法律家になる道は閉ざされていた。いきおい、″手を汚して働く″技師や商人として、身を立てるほかなかった。そうした状況に加えて、スコットランドには、能力主義に基づく″開かれた教育″の伝統があったのである。
12  スコットランドの平等主義、開かれた教育、そして実学重視を象徴するものとして、アダム・スミスとジェームズ・ワットの友情物語がある。
 当時、封建的な徒弟制度のなかに取り込まれ、みずからの実力を開きゆく可能性の芽をつみとられていた一職人のワット。スミスはじめグラスゴー大学の教授たちは、その彼の実力を見ぬき、大学の構内に仕事場をあたえて庇護した。スミス教授はしばしばワットの仕事場を訪れ、激励を惜しまなかったという。それがやがて、ワットの蒸気機関の発明となり、産業革命の端緒となったのである。社会的身分の違いを超えて、真理探究のためにつながりあった二人の友情は、見事に結実し花を開かせた――。
 ともあれスコットランドは、当時、一般に冷眼視されていた教育土壌から出発し、逆に産業革命という、新時代の到来に大きく影響をおよぼしていく。――なかでもグラスゴー大学は、幾多の有能な人材を輩出。他の大学をリードする″実学教育″の牽引力であった。
13  グラスゴー大学はまた、世界で初めて工学部が設置された大学である。
 工学の分野はもとより、幅広い分野に優秀な人物を送り出している。
 『国富論』で知られ、″古典派経済学の父″と仰がれるアダム・スミスや、イギリスではニュートンに次ぐ十九世紀最大の科学者として、″近代物理学の父″とされるウィリアム・トムソン。″近代土木工学の父″とたたえられるマコーン・ランキン。さらには一九〇四年にノーベル化学賞を受賞した″近代化学の父″ウィリアム・ラムゼイ等々が、その卒業生である。
 また、私と対談を行っている世界的な生化学者ライナス・ポーリング博士も、同大学で研究をしたことがあり、そこで、″ビタミンC″研究のヒントを得た、といわれている。
14  日本の近代化に多大な貢献
 グラスゴー大学と日本の関係は深く、明治の初期にさかのぼる。当時の日本は、「東洋のイギリス」を合言葉にして近代化・工業化を進めていた。先ほども述べたように、イギリスでは、イングランドよりも辺境のスコットランドで工業化が進んでいた。
 そのスコットランドから、グラスゴー大学出身の若き技術者ヘンリー・ダイアーが来日。彼は西欧の制度を参考にしつつ、イギリスにも例をみない実験的な大学をつくった。それがわが国の工業教育の中心となる工部大学校(帝大工科大学、東京大学の副身)の誕生である。工部大学校の卒業生のなかには、さらにグラスゴー大学に留学して学問と実践を高めようとする者が続出した。
 タカジアスターゼの創製で有名な高峰譲吉は、その第一回の留学生である。その後、グラスゴー大学には、工部大学校の政府留学生や、旧幕臣出身の海軍関係者、さらに明治の指導者の子弟(福沢諭吉の三男、大久保利通の三男、岩崎弥太郎の次男)など、留学生の顔ぶれはきわめて多彩である。
 スコットランドの実学主義、エンジニア思想は、明治期の日本に導入され、日本の産業の発達に大きく影響をおよぼした。その直接の導入者がグラスゴー大学の教授たちなどであった。
 江戸時代の日本は、士・農・工・商という厳しい身分差別で社会体制を維持しており、基本的には職人たちは低い立場のものとされていた。
 ″お雇い教師″といわれたスコットランド人の教授たちは、近代科学の技術とともに、古き思想を打ち破り、新時代の夜明けを開いた思想の息吹をもたらした。その意味から、グラスゴー大学は、日本の近代化のうえで大きな恩人の存在といえる。
15  こうして、グラスゴー大学は、各国の産業発展の推進力となった。
 大学の使命――それは、権威の人を出すことではない。実力の人、知性の人、そして民衆に奉仕する信念の人を輩出することにある。
 次の時代を担う人間を育て、社会に、世界に送り出すことができるか否か。それは、時代の命運を決する″勝負″ともいえる。
 イギリスの産業革命に、また日本の工業化に貢献してきたグラスゴー大学の歴史は、一つの厳たる勝利の歩みといえよう。
16  「人権」守る青年の行動に期待
 ″知性の人をつくりたい″″力ある人を育てたい″――これが、私の切なる願いである。そのために毎日、真剣勝負の心で語っている。
 英知がなければ、権威・権力の悪も見破れない。人にも尊敬されない。自分も確かな軌道を進めない。広宣流布という勝利を得ることもできない。
 皆さまは、各国の新しい時代を開きゆく大切な方々である。その使命を果たすために、ありとあらゆる人生の課題に挑戦し、勉強しぬいていただきたい。そして率先して知性と人格を磨いていっていただきたい。(拍手)
 世間には、たくさんの名誉の勲章がある。しかし、正しき「信心」こそが、三世永劫にわたる″生命の勲章″である。
 私にとって、皆さま方ほど大切な存在はない。皆さま方に尽くしきっていくことが、私のすべてだと思っている。どうか、お体を大切に。皆さまが、すばらしき人生を、はつらつと生きぬいていかれることを心から念願し、本日のスピーチとさせていただく。
 (創価大学)

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