Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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杉並区記念総会 「原点」求道が大法流布の原動力

1990.3.18 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  昨日、秋谷会長をはじめ、東京の首脳らと懇談したさい、「東京はこれまでの基盤のうえに、もう一歩、大きく飛躍すべき段階に入った。新たな堂々たる構築を始めたい」との話があった。私も同感である。
 その東京の新出発を、どこから始めるか。私は、きょうの集いを起点として、この名門・杉並から先駆を切っていただきたいと願望する。(拍手)
3  信心の実践で、もっとも大切なことは何か。それは「勇気」である。
 勇気には「正義」も「幸福」も「同志愛」も「功徳」も含まれる。
 「仏法は勝負」と説かれる。一生成仏できるかどうか、広宣流布できるかどうか、全部、勝負である。その本質は、御書に仰せのとおり、魔との戦いである。
 戦いは、勇気なくして勝てない。勝たなければ「正義」は証明できない。
 当然、最後の勝利への途上には、さまざまな局面がある。それらに一喜一憂する必要は絶対にない。また一喜一憂してはならない。それは臆病の一つになってしまう場合があるからだ。
 何があろうとも恐れない、動かされない、心が変わらない。否、状況が厳しく見える時ほど、より以上の大きな勇気をもって、朗らかに、また賢明に、次の勝利への道を切り開いていく。それが勝利者の態度である。それが人生においても、広布の遠征においても、最終の真実の勝利を得ていくカギである。
 信仰とは、この″何があっても楽しんでいける″大境涯を開くものである。苦も楽も、ともに″遊楽″の人生への味わいにしていけるのが、唱題の力である。そして「一念三千」の法理であるゆえに、そうした仏法の力を無限に引き出すには、「勇気」の一念こそが必要なのである。
 勇気のある人は、幸福である。良い意味での楽観主義で、人生を強く生きぬいていける。
 日蓮大聖人は「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と仰せである。
 「一つ」言われたら「五」とか「十」とかの力をもって反撃する。絶対に退かない。攻めていく。正義を叫びに叫んでいく。きちっと納得させていく。そうした「勇気」の人にこそ、御本尊の偉大な功徳も顕れていく。
 臆病は、それ自体、すでに敗北の姿である。一念が弱ければ、御本尊との真の感応もない。祈りも叶わない。同志を守ることもできない。
 仏法では「声仏事を為す」と説く。一般にも「声の力」「言葉の力」は偉大である。
 一人の勇者の声が、全体を鼓舞し、全員を救っていく力をもっている。堂々と正義の声を発した分だけ、広布の空間も広がっていく。その意味では、ただ臆病の沈黙は悪となる。
 ゆえにリーダーの要件も、勇気なのである。頼りない、臆病なリーダーのもとで、勇将が育つわけがない。皆の力が結集できない。安心して行動することができない。
 いわば勇気は、リーダーにとって″魂″である。その魂を失えば、自分も心身ともに敗北してしまう場合がある。生命の法則は厳しい。決して、できあがった組織の上に安住して号令し、なんとなく動いていればよいという安易なものではない。
 一人の勇者が本気になって師子吼し、動き始める時、一切は霧が晴れるように、すがすがしく、正法の大光が輝きわたる。
 皆さまは、人々に、人生と広布への限りない勇気をあたえゆく名指導者であっていただきたい。その意味で、これからは「勇気の杉並」をスローガンに進んでほしいと提案する(拍手)。そして、「常勝の杉並」の新たな歴史を、さらに描いていっていただきたい。(拍手)
4  抜苦与楽の信心の指導を
 また、リーダーは「信心の指導」をしていくべきである。たんなる情報の伝達や、観念的な話に終始していては、仏法の指導者とはいえない。
 相手に絶対の幸福をつかんでもらうために、指導者がいる。この人に今、何が必要なのか。何をあたえ、また何に気づかせてあげれば、「信心」が向上するのか。そのホシを見ぬき、的確に語ってあげられる力を養っていただきたい。
 それが抜苦(苦悩の原因を取り除く)与楽(幸福の原因をあたえていく)を内容とする「慈悲」の実践に通ずる。
 「信心の指導」をするためには、自分の信心の「心」がつねに磨かれ、成長していなければならないのはいうまでもない。
 リーダーとは「責任者」である。「責任」を感じ、「責任」を果たしてこそリーダーである。これは社会でも同様である。いわんや仏法のリーダーの責任は厳しい。その分、すばらしい境涯の拡大がある。
 無責任なリーダーや、責任の所在のあいまいな幹部が増えると、組織のブレーキとなる。それは悪に通ずる。本人の信心即生活も空転してしまう。
 一人一人が、自分の使命は何か、自分の責任は何かと、明確に自覚して、全体が無駄なく価値的に回転していけるよう、適材適所の配慮と工夫をお願いしたい。
5  正しき「原点」こそ信仰の魂
 時を超え、国を越えて、大仏法を伝え、広げていく″原動力″となるものは何か。
 それは、正しき「原点」への「求道」である、と申し上げておきたい。
 正しき法、正しき師を謙虚に求め、絶えず「原点」から自己を見つめ直していくことが大切である。「原点」を失えば、必ずや信心に重大な狂いが生じる。
 何かを成す人は、多かれ少なかれ、帰るべき″精神の故郷″を持っているものである。
 わが関西の同志は、昭和三十一年(一九五六年)の共戦を、一つの「原点」と定めて、今日まで懸命に戦ってこられた。ここにこそ、輝かしい「常勝」の歴史の最大の原因があり、源流があると思えてならない。
6  人の心はもちろん、森羅万象は、一切が絶えず変化し、限りなく変転していく。そのなかで、つねに変わらぬ「原点」を持ち続けることは、たやすいことではない。
 正法を求める機根がととのった釈尊の時代でさえ、正しい教えを守ることは容易ではなかった。
 日蓮大聖人は、御書の「十法界明因果抄」で、次のような故事を紹介されている。
 「仏の滅後四十年の此阿難尊者・一の竹林の中に至るに一りの比丘有り
 阿難は、釈尊の十大弟子の一人で、「多聞第一」と言われた。若いころから釈尊に常随給仕し、その教えをだれよりも多く聞き、記憶していたことで知られる。青年期から正法を持ち、薫陶を受けてきた。今でいえば、青年部出身のリーダーといえよう。
 その阿難も、釈尊入滅の四十年後といえば、もうかなりの高齢であった。阿難がある日、竹林の中に入ると、そこに一人の比丘(僧)がいた。
 「一の法句の偈を誦して云く「若し人生じて百歳なりとも水の潦涸ろうかくを見ずんば生じて一日にして之を覩見とけんすることを得るに如かず
 その比丘は――ある韻文の法句(経文の一節)を唱えていた。「もし人間に生まれて百歳まで長生きしたとしても、水がたまったり涸れたりするのを見なかったならば、生まれてわずか一日で、これを見ることにはかなわない」――と。
 つまり、ただ長生きすることよりも、水がたまったり涸れたりするのを見るほうが大事だという″仏説″なのである。
 「阿難此の偈を聞き比丘に語つて云く此れ仏説に非ず汝修行す可らず
 ――それを聞いた阿難は、比丘に語った。「それは仏の教えとは違う。そのような修行をしてはならない」と。
 「爾時そのときに比丘阿難に問うて云く仏説は如何
 ――すると比丘は阿難に質問する。「では、仏の教えとはどのようなものか」と。
 「阿難答えて云く若人生じて百歳なりとも生滅の法を解せずんば生じて一日にして之を解了げりょうすることを得んには如かず已上此の文仏説なり、汝が唱うる所の偈は此の文をあやまりたるなり
 ――阿難は答える。「もし人間に生まれて百歳まで長生きしたとしても、生滅の法(生死の実相)を理解できなければ、生まれてわずか一日にして、この法を体得することにはかなわない』。これが正しい仏の教えである。あなた(比丘)が唱えていた経文は、この文を間違って伝えている」。
 「爾の時に比丘此の偈を得て本師の比丘に語る、本師の云く我汝に教うる所の偈は真の仏説なり阿難が唱うる所の偈は仏説に非ず阿難よわい老衰してことば錯謬あやまり多し信ず可らず、此の比丘亦阿難の偈を捨てて本のあやまりたる偈を唱う
 ――そうして、比丘は、正しい経文を知って、それを自分の師匠に語る。ところが師匠は言う。「私が教えた経文が真の仏説である。阿難が唱える経文は仏説ではない。阿難は年老いて、その発言には誤りが多い。信じてはならない」と。そこで、この比丘は、阿難が教えた正しい経文を捨てて、もとの間違った文を唱え始めた。
 「阿難又竹林に入りて之を聞くに我が教うる所の偈に非ず重ねて之を語るに比丘信用せざりき等云云
 ――阿難はふたたび竹林に入って、それを聞いた。そこで「それは私が教えた正しい経文ではない」と重ねて戒めたが、比丘はもう信用しなかった、というのである。
 そして大聖人は「仏の滅後四十年にさえ既にあやま出来しゅったいせり」――釈尊の入滅後わずか四十年にさえ、こうした誤りが生じたのである――と、正法を後代に正しく伝えゆくことの至難さを示されている。
 たった一つの短い経文であっても、読み違えては大変である。愚かで傲慢な人間によって、大切な仏法の教えが、こんなにも浅薄なものに歪められてしまう。また、仏法の深き哲理、正しき精神を、そのまま誤りなく弘めゆくことが、どれほどむずかしいか――そのことを、大聖人は厳しく教えられているのである。
7  法を語り、法を学んでいる表面の姿や形だけをまねすることは、たやすいかもしれない。しかし、それだけで、正法の精神を自分のものとすることは絶対にできない。
 「原点」への絶えざる「求道」がなければ、真実の仏法は、自分自身の生命に脈動していかない。まして、人々の心を動かすことなど、できるはずがないのである。
 仏法は、永遠にみずみずしく躍動しゆく魂の源泉である。枯渇した生命を潤し、力強い生命力をわき出してくれる。行き詰まりにも限りない希望の道を開いてくれる――これが、妙法の世界であり、信心の世界である。
 しかし、仏法がいかに正しく、すばらしいものであっても、信心の清流に生命を通わせていかなければ、その力を得ることはできない。
 ゆえに、リーダーはつねに、謙虚な姿勢で大法を求めることが大事であり、正しき信心の指導を受けていくことが必要なのである。
 「自分は長年、信心しているから……」「教学はもう十分にわかっているから……」などと言って、だれにも指導を求めず、勝手に振る舞えば、いつしか独善におちいり、正法正義の軌道から外れてしまう。それでは、たとえ信心しているような姿はあっても、真実の仏法の根本道を歩んでいることにはならないのである。
8  正邪を見ぬく確かなる信心
 また、大事なことは、悪しき権威の人間を鋭く見破っていく「知力」を養うことである。先ほどの比丘は、せっかく阿難から正しい道を教わりながら、権威の師によって、ふたたび間違った方向へと引きずられてしまった。
 どちらの教えがより深いのか、より正しいのか。それを、自分自身の確かな「知性」で判断していかねばならない。その″知性の眼″をくもらせ、覆い隠してしまうところに、古今東西を問わず″宗教の権威″の恐ろしさがあるとは、多くの学者の指摘するところである。
 素直に求めようとする心があっても、悪しき宗教、悪しき権威に従っていくならば、結果は不幸であるにちがいない。真の信仰者は、悪しき権威に絶対に開されてはいけない。口のうまい、自己正当化の論理に惑わされてはならない。
 一人一人が聡明になり、毅然としていくべきである。そうすれば、たとえ少々おかしな人間が出てきたとしても、その本質を鋭く見ぬくことができる。そして、邪見や悪見の濁流が正法の世界に入ってくることを、防ぐことができるのである。
 私が折あるごとにスピーチをさせていただいているのは、学会の将来を考え、今のうちに″知性の錬磨″の流れを完璧につくつておきたいからである。
 「知性」を磨かず、ただ純真という幼児のような心だけでは、縁に紛動されやすく、悪しき権威に利用されやすい。これも、過去の歴史が証明しているとおりである。
 自分自身できちんと正邪を見きわめていける、確かなる信仰者を一人でも多くつくっていく――これが今、もっとも正しく、もっとも大事な将来への道なのである。(拍手)
9  小樽問答の勝利は青年の叫びに
 三十五年前の昭和三十年(一九五五年)三月十一日、広布史上に輝く「小樽問答」(北海道・小樽市公会堂)は雪の中で行われた。
 この折、司会を務めた私は、身延の謗法を破折された日興上人のご精神を深く拝しつつ、創価学会の正義を、青年らしく堂々と叫びきった。当時、私は二十七歳であった。
 二十代の青春の日々にあっても、私は「いつ死んでも悔いはない」との覚悟で戦いぬいた。「一日を一年分に」とも決意して、各地の法戦で徹底して動き、語り、指揮を執ってきた。また日常の仕事もやりぬいてきた。
 学会は草創以来、文字どおり、命を削るような思いで正法正義を叫びきってきた。一歩も退かなかった。ゆえに、あらゆる苦難を乗り越え、大勝利の歴史を築くことができたのである。
 学会のリーダーが臆して戦わず、組織の立場に甘んじ、何事も人まかせであっては、広布の前途を阻む障魔を打ち破ることなど決してできない。また、未来へ、世界への大いなる発展もありえなかったことを、強く銘記していただきたい。
 のちに日達上人は「小樽問答こそ、近年に稀な、しかも堂々と身延派を破って大勝利をえたところの大問答でありました。これを契機に、身延派一派の凋落は目立ち、逆に、わが創価学会の発展と、広宣流布への一層の躍進があったのであります」(第二十六回本部総会、『日達上人全集』第一輯第三巻)
 と、たたえられた。
 また、日達上人は、司会の第一声で勝負の流れが決まったようなものだ、と述べてくださっていた。
 この小樽問答も、戸田先生のもと、青年の力で勝ち取った広布の歴史である。この折、戸田先生は「この戦いが終わるまでは」と、お好きであった酒を口にされず、最後まで私どもの戦いを守ってくださったのも、今は懐かしい。
10  ″大感情″のドラマ・仏典結集
 先ほど正法伝持の阿難尊者についてお話ししたが、日蓮大聖人は、阿難尊者らが中心となった第一回の仏典結集の模様を、「諸法実相抄」に次のように記されている。
 「彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・きながら如是我聞と答え給う、余の九百九十人はくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり
 ――釈尊の弟子の千人の阿羅漢は、釈尊のことを思い出して涙を流し、涙を流しながら文殊師利菩薩が「妙法蓮華経」と唱えられると、千人の中の阿難尊者は泣きながら「如是我聞(是の如きを、我聞きき)」(このように、私は聞いた)と答えられたのである。他の九百九十人は、泣く涙を硯の水として、また「如是我聞」の上に「妙法蓮華経」と書きつけたのである――。
 なんと胸打つ光景、感動に満ちた描写であることか。まさに仏典結集は、釈尊の大慈悲に対する無上の感動につつまれて、弟子たちが師の教えを正しく伝え持とうとした、すばらしい師弟のドラマであった。
 「如是我聞」――″このように、私は聞いた!″との阿難の言葉からは、師・釈尊への尽きせぬ報恩の思いと、仏法を正しく流布することへの赤誠の熱情が響きわたってくる。
 この弟子の全生命を震わせての叫び、大感情の言動があればこそ、仏法は時を超え、国を越え、流れ通ってきたのである。
 「だれがなんと言おうと、これこそが真実の仏法の精神である」「これこそが正しき師の心である」――大感情をもって、そう叫び続ける人が「一人」いれば、正法の脈動は朽ちることがない。(拍手)
 次元は異なるかもしれないが、私は、戸田先生に全魂込めて仕え、先生の指導は、時々刻々のいかに些細なことも胸奥にきざんできた。そして、すべてそのとおりに実践に移してきたつもりである。(拍手)
11  広布の日々の活動が師恩報謝に
 今年も、広布史に不滅の「3・16」(広宣流布記念の日)を終え、間もなく「4・2」(第二代会長戸田城聖先生命日)を迎える。本年は、戸田先生の三十三回忌であり、法要が行われる。
 思えば、私は、戸田先生の七回忌の折に『報恩抄講義』を発刊した。日達上人は、序文を寄せてくださり、次のように述べられている。
 「ここに三代会長池田先生は『仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや』の御金言のごとく、故恩師に報恩の誠を尽くすため、日夜、心身を労して、折伏の陣頭に立たれているのであるが、なおかつ故恩師の発願の遺志を継いで、総本山に大客殿の建立と御書十大部講義の完成に努められたのである。
 むかし大通智勝仏が法を説かんとする時、大梵天王は天の官殿を供養したことを法華経化城喩品に説かれている。いま、池田先生は日蓮大聖人に大客殿を供養したのである。次にまた、報恩抄の講義を刊行したのである。
 これ、一は身形の上に、一は心行の上に、故恩師の志を継承して、報恩の誠を表わしたというべきである」(『日達上人全集』第一輯第五巻)と。
 まことに、ありがたいお言葉である。
 さらに、「思うに、池田先生、日夜の奮闘は通じて謗法の折伏にあるのである。そして、その帰する所は、別して日蓮大聖人の久遠下種の三大秘法を広宣流布するにある。しからば、池田先生が報恩抄を講ずるも、講ぜざるも、その生活は、実に師恩報謝の行動に他ならないと信ずるのである」(同前)と。
 広宣流布は、日蓮大聖人の御遺命である。戸田先生は、その実現のために折伏・弘教に立たれた。これが学会の使命の大道であり、根本の精神である。
 そして日達上人は、私どもの広宣流布への日夜の行動が、すべて師恩報謝になっていると明言されているわけである。
 恩師戸田先生が逝いて三十有余年。この間、私は、この報恩の大道を、まっしぐらに走りぬいてきた。だれがなんと言おうと、みずからが誓った師弟の道だからである。恩師の三十三回忌を迎える今日、胸を張って、そう断言できることが、私の最大の誇りと思っている。
 最後に、重ねて「勇気の杉並」であっていただきたいと申し上げたい。そして「団結とスクラムの杉並」「歓喜と求道の杉並」「常勝の杉並」であれ、と申し上げ、本日のスピーチとしたい。
 (東京池田記念講堂)

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