Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI青年研修会 生命の哲学者、人間の指導者に

1990.2.25 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  社会には、さまざまな職業、立場の人がいる。また各分野のリーダーがいる。それぞれ意義があることは当然として、仏法を持った私どもの根本的立場は、人類に永遠の価値をあたえゆく「生命の哲学者」であり、「人間の哲学者」である。「幸福へのリーダー」であり、「平和の創造者」なのである。他の立場とは根底的に異なる。
 その自覚をいちだんと深め、学びに学んでいただきたい。鋭い英知と、あたたかい人間味をあわせもった、新しい時代のリーダーに成長してほしい。(拍手)
 皆さんは若い。長い人生であるから、あせる必要はない。大事なことは一生涯、御本尊を抱きしめきっていくことである。
 ともかく、少しでも題目をあげていこう、何でも御本尊に祈っていこうと、挑戦し続けていくことである。その信心があるかぎり、生命に植えた″仏の種子″は育っていく。
 たまに、どうしても勤行(正行の唱題、助行の方便・寿量品の読誦)ができなかったり、方便品・自我偶だけ、唱題だけしかできない場合もあるかもしれない。だからといって、信心があるかぎり、決して罰などは出ない(笑い)。いいことを聞いた(爆笑)と思って、悪用してはよくないが(笑い)、極端に窮屈な考え方をする必要はない。
 仏法は人間を自由にするものであって、縛るものではない。勤行も権利であって、義務ではない。修行であるから努力は必要であるが、すべては自分のためである。たくさん功徳がほしい(笑い)、大きく境涯を開きたいと思う人が、その分、真剣に頑張ればよいのである。(拍手)
 美しい女性が通ると、男性は振り返る(笑い)。ハンサムな男性がいると、女性が世話をやきたがる(笑い)。それに似て、勤行で生命を美しく磨いた人がいると、十方の仏菩薩・諸天善神が群がるように、その人をたたえつつ、守ろうと働いていくのである。
 その意味で、勤行は、生命の″お化粧″(笑い)ともいえるかもしれない。
 また勤行は、生命の″食事″である。唱題は主食、方便・寿量品の読誦は副食、両方がたがいに補い合って、味をよくしていく。この食事を朝夕とり、栄養をつけることによって、仏界の生命力を増加させていく。成仏していくことができる。他に、どんなに厚いビーフ・ステーキを食べても、仏界の生命力は得られない。(爆笑)
3  ロス分校の美しいキャンパスには、野生の鹿も憩っている。先日、七頭の鹿を見かけた。せっかくお友達になったので(笑い)、皆が名前をつけようと相談した。男性は(笑い)、「学」「ビクター」、女性は「園子」「リサ」「アニー」「サリー」「ティフアニー」と決まった。もちろん、次にお会いしても(笑い)、どなたがどの鹿なのか、だれにもわからない。(爆笑)
 ともあれ、鹿も白鳥も、虫も花も、生命あるものはすべて友達であるという、豊かな気持ちで進んでいただきたい。(拍手)
4  社会の人々に、安らぎと充実の家を
 皆さんはアメリカSGIの真実の後継者であり、世界の広宣流布のリーダーになつていく方々である。そこで、仏法の世界の基本を確認する意味で、少々語っておきたい。(拍手)
 それは、私どもは、妙法で結ばれた″家族の集い″であるということである。広布の組織は、生命の安らぎと充実のホーム(家庭)なのである。
 御本尊に照らされて、だれもが「ああ、ホッとするなあ、うれしいなあ、元気が出てくる」と、安心できる集いであっていただきたい。
 たとえば、仕事や勉強で疲れて、やっとうちに帰ったとたん、「遅いじゃないか― 今まで何をやってたのか!」(笑い)とどなられたのでは、だれだっていやになる。家に寄りつかなくなってしまう。それと同じで、会合にどうしても遅れたり、出られない場合もある。その人を叱る資格はだれにもない。
 反対に、苦労して、やっと駆けつけたのだから、「ああ、よく来たね、よく帰ったね」と、あたたかく出迎え、ほめたたえるのが、本当の″家族″であり、″ホーム″である。
 また、顔を見るなり、「どうしてこんなに給料が安いの!」(笑い)「どうして成績が上がらないの!」(笑い)と追及される。これでは、だれだって「家に帰らないで、 一杯飲みに行こうかな」(笑い)「ゲームセンターで遊ぼうかな」(笑い)と、″迷い″が生じるのも無理はない。
 第一、そうした状況は、自分がいちばんよく知っていることである(笑い)。それを人からも指摘されたのでは、うんざりしてしまう。
 弘教やさまざまな活動は、実践している本人が功徳を受け、幸福になるためにある。組織のためでもなければ、ましてリーダーのためでもない。一生懸命やっている人を叱るなんて、叱った人のほうが「軽善」(仏子を軽んじる)の罪をつくる。
5  弘教は、大聖人の仰せであるゆえに、行うことが修行である。しかし、その結果として、信仰するかどうかは、機根など、基本的には相手の問題である。
 「発心下種」(相手が入信した場合)も「聞法下種」(法を聞いたが、その時は入信しなかった場合)も、功徳は同じである。弘教を実践したこと自体が、仏の使いとなっているのである。その人を最高に尊敬すべきである。
 「ご苦労さま、仏の種子をまくことができた。よかったね。すばらしいね」とほめたたえ、喜び合って、兄弟のごとく、姉妹のごとく励ましあっていくことである。その楽しき家族の姿にふれてこそ、やがて、より多くの人々が正法を求めてくるようになることは間違いない。愛情と安らぎこそ″ホーム″の命なのである。
6  さらに、「信心即生活」である。「仏法即社会」である。
 信心で、フレッシュな生命となり、仕事に勉強に、人の何倍も取り組む。また、模範の家庭を築いていく。「さすがに信仰者は違う」「さすがはアメリカSGI家族のメンバ―である」と、人々が信頼を寄せる実証を示していく。
 そうした「仕事」「生活」「家庭」を大切にする人が、真の信仰者である。活動は本来、それらの余暇を利用して行うものである。
 それが反対になって、「いつも家(アメリカSGI)にいなさい!」(笑い)、「仕事(勉強)になんか行っちゃだめよ!」(爆笑)。そんな家庭はありえない。世間の「名門」と呼ばれる家も、多くの人材を輩出したからこそである。
 荒々しき現実社会においては、競争と緊張はやむをえない。また、エゴのぶつかりあいもあろう。しかし、いったんアメリカSGIという″ホーム″に戻ったら、伸び伸びとくつろぎ、笑い、生命の栄養をとって、ふたたび明日への活力が出てくるように、心をくだくのがリーダーの役目なのである。
 夜間勤務など、不規則な時間帯の人もいる。受験や仕事の都合で、しばらく集中的に忙しい人もいる。その人たちは、今はなかなか会合には出られない。けれども、信心を胸に自分の課題に立派に挑戦している。実証を示そうと戦っている。こういう人を、相手の立場に立って理解してあげられるリーダーであってほしい。
 ともかく「会うだけで楽しい」「会合に出るとくつろげる。おもしろいし、有意義である」「笑いがいつも絶えない」――全米で、各州、各地で繰り広げられる会合が、すべて、こうした集いであっていただきたい。
 その仲良き″仏子の集い″は、全宇宙の仏菩薩が見守っている。この世でもっとも尊貴なる世界である。
7  組織は「一人」の幸福のために
 「家族」は平等である。一応、お父さんの立場の壮年部、お母さんにあたる婦人部、お兄さん、お姉さんの青年部、また指導部、学生・高校生など立場の違いはある。しかし、全員が御本仏の仏子である。権利も平等である。むしろ上になるほど責任は重い。
 たとえば、お父さんだけ、おいしいご飯を食べて、子どもはおなかをすかせて泣いている。これでは″家庭″ではない。親はたとえ自分が食べなくとも、子どもには食べさせたいと思うものである。
 大聖人は、門下の婦人を、こうやさしく励まされている。
 「いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし見奉らん・山中にて共にえ死にし候はん」――どんなことでも、困ったことがあったら、私のもと(身延)へおいでなさい。お会いしますよ。この山で、一緒に、飢え死にしましょうよ――。
 なんという大慈悲であろうか。
 苦しい時も、喜びの時も、一切を分け合っていく。これが家族である。そうすれば、苦しみは半分に、またそれ以下に、喜びは三倍に、またそれ以上になっていく。
 「家族」を結ぶのは、命令でもない。権威でも威嚇でもない。情愛であり、和気であり、思いやりである。
8  家族には特別に人気あるヒーローなどいらない。むしろ、外の嵐から皆を守る強い父が必要である。若い嫁をいじめる姑よりも(笑い)、分けへだてない、公平な、やさしい母が必要である。
 そして、一人でも不幸な人がいれば、家庭全体も幸福ではない。ゆえに、一人ももれなく幸せになるように、一人も不幸な人、退転するかわいそうな人が出ないように、真心込めて祈り、皆で守り合っていっていただきたい。そうした人間同士の″絆″が、真の″団結″を生むのである。
 権力とか権威とか、いわゆる″軍隊調″の強制やしめつけ等は、いざという時はもろいものである。
 要は、仏法は「一人」の人の幸福のためにある。広布の組織も同じである。組織のために人間がいるのではなく、人間のために組織がある。「一人」の人を抱きかかえて、幸福へ、成仏へと守っていくための組織なのである。
9  われらは三世の幸の家族
 さてアメリカでは、″ホームレス・ピープル″(住む家のない人々)が社会問題になっている。延ベ数百万人ともいわれる。それはそれとして、私は″心のホームレス(家がない)″の人は、もっと多いのではないかと憂いている。
 安らぎの場を求めながら、帰るべき々残が家″″心のふるさと(ホーム)″を探してさすらっている。こうした人々に、根源的な安穏の場所、いわば″生命のスイートホーム″をあたえていくのが、仏法の力である。
 大聖人は、仰せである。
 「いづくも定めなし、仏になる事こそつゐすみかにては候」と。
 ――どこに行っても無常である。どうなるかわからない。仏になることこそ、最終的な″家″なのである――。
 もともとアメリカは、世界中から、さまざまな理由で故国(ホームランド)を離れた人々が、寄り集まってできた国である。″新しいホーム″を求めて、人々はこの国にやってきた。
 広宣流布の運動は、こうした″ニュー・ホーム建設″というアメリカの目標に、魂を入れる作業でもある。一人一人の生命の絶対的な「安穏」と、一人の人を守りきっていく「慈愛」があってこそ、社会は真の″ホーム″となるからである。
 大聖人は、仰せられている。
 「日蓮賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり」――日蓮はいやしい身だが、釈尊の御命令をいただいて、この国に来た――。
 大聖人の門下として、皆さんも、それぞれかけがえなき使命をもって、「この国に来た」方々である。本来、自分で決めた使命なのである。信心の眼を開けば、その尊き立場は、必ずや自覚できるはずである。
10  私どもは、今世のみの家族ではない。久遠以来の兄弟である。「今世だけの絆」と見るのは、あまりにも浅い見方である。それでは、「始成正覚」(釈尊が今世において成仏したとする)を説く爾前述門の域を出ない。
 三世の仲間と見るのが、「久遠」を説いた本門の見方である。この仲間とともに、現在から未来へ、「広宣流布」という、平和と文化と人間のための行進を、永遠に続けていくのである。
 ともあれ、周囲の人々から、「あの人たちは本当に楽しそうだ。あの家(アメリカSGI)の窓の明かりは、なんとあたたかいのか」と、うらやましがられ、慕われるアメリカSGI家族であってほしい。その笑顔と希望の光を、社会に着実に広げつつ、妙法を根本にした、永遠の「平和の家」「幸福のアメリカ」を建設していっていただきたい。
 皆さんの大成長をお祈りし、「一生涯、私は皆さんを見守っています」と申し上げ、本日のあいさつとしたい。
 (創価大学ロサンゼルス分校)

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