Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI青年研修会 青年は教学を、青年は行動を

1990.2.20 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  「本尊」には「根本尊敬」の意義がある。人生、生命の根本として尊敬し、帰依していく対象が本尊である。ゆえに、何を本尊とするかで、人生が根底的に決定されることは当然である。
 従来の仏教の本尊は、ほとんどが仏像である。また仏画の場合もある。初期の仏教には仏像はなかったが、後世、西方のギリシャ文化の影響のもと、西北インド(ガンダーラ地方)で仏像が誕生した。いわばシルクロード交流の一産物である。こうした仏像・仏画をとおして、「仏」のイメージを民衆は受け取り、渇仰と信仰の心を起こしてきたわけである。
 しかし日蓮大聖人の仏法の「本尊」は、文字の御本尊であられる。その意味では、イメージ・映像の結晶というよりも、あえていえば、英知の世界、御本仏の偉大なる智慧の、最高にして尊極の表現と拝される。
 この点からも、大聖人の仏法の「本尊」は、従来の仏法の本尊と根本的に異なる。
 「文字」は不思議である。文字の力は偉大である。たとえば、人の名前がある。サインをする。その文字には、一応、その人の人格、立場、力、心身、歴史、因果、そうしたすべてが含まれている。
 「日本」という、漢字では二文字のなかに、その国土、人々、動植物、その他一切が含まれていく。実際には人も国も刻々と変化し、一瞬もとどまることはない。そうした動作、作用をいったん全部つつみこんで、一言で表現した場合、その人や国の名前になるといえよう。
 それと同様に、南無妙法蓮華経の題目には、宇宙の森羅万象がすべて含まれている。「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」といわれるように、一切の現象は妙法の表れである。
3  善も悪もすべてを生かす妙法
 御本尊には、変転する大宇宙(諸法)の実相、ありのままの姿が完璧に示されている。この宇宙の実相とは、私ども小宇宙の場合もまったく同じである。これらは御書に仰せのとおりである。また御本尊は「人法一箇」であられ、御本仏の御境界を示されたものであることは言うまでもない。
 この意味で、大聖人の御本尊こそ、文字どおり、全人類が「尊敬」すべき宇宙の「根本」であり、真実の「本尊」であられる。
 また文字で御本尊をお認めの理由の一つについて、日淳上人は、法華経の仏菩薩の絵像では、しょせん文上教相にとらわれた色相荘厳の仏であって、末法の正しき本尊とはならない。十界互具また事の一念三千即自受用身という御本仏の御境界はとうてい表せないからと拝される、と教えられた。(『日淳上人全集』下巻)
 宇宙には、善の力も悪の作用もある。
 御本尊には、仏界の代表である釈迦如来、多宝如来から、地獄界の代表である提婆達多まで、十界の代表がすべてお認めである。
 そして、こうした宇宙の「善」の力・作用の代表も、「悪」の力・作用の代表も、少しももれなく南無妙法蓮華経の光明に照らされて、「本有の尊形」すなわち、本来ありのままの尊い姿となって働くと説かれている。「本有の尊形」となるゆえに「本尊」というのである。(御書1243㌻)
 すなわち、御本尊に勤行・唱題する時、私どもの生命の善悪の力も、すべて「本有の尊形」としての働きを始める。
 「地獄界」の苦しみの生命も、「餓鬼界」のつねにハングリーで悩んでいる生命も、「修羅界」のゆがんだ怒りの生命も、すべて自分自身の幸福と価値を創る方向に働いていく。不幸へと引きずる生命が、妙法を根本にすると、反対の善の方向へ力を向けていくのである。
 それは苦しみという薪を燃料として、歓喜と知恵と慈悲の炎が燃え上がっていくようなものである。その火をつけるのが妙法であり、信心である。
4  まして仏界・菩薩界・梵天・帝釈等の「善」の生命は、唱題によってその輝きを増し、どんどん威光勢力を広げていく。
 わが小宇宙の中の大日天も大月天も、燦然と大光を放って、生命の闇を晴らす。
 善も悪も、十界三千のすべての働きが、一体となってフル回転し、「幸福」へ、「常楽我浄」の人生へと、私どもの生命を運んでいくのである。
 人生、当然、病気になる場合もある。しかし、その病気は、妙法の法理によって「本有の病」と見つめられるようになる。すなわち病気に左右されて、人生を苦しみ懊悩していくようなことは決してない。三世永遠の生命から見たならば、根本的に、絶対的幸福という″大我″は、厳然と確立されていくのである。
 そして人生・生活のうえの行き詰まりも、必ず打開し、次のより広々とした境涯への飛躍台となる。「生」も楽しい。また「死」も安らかで、次の楽しき「生」への荘厳な旅立ちとなっていく。
 冬になれば、樹木が花も葉も落とした姿に、いったんはなる。しかし春とともに若葉を芽ぐみ、伸ばす生命力をもっている。そうした様子にも似て、またそれ以上に、苦痛もなく、すぐに始まる次の使命の人生への″生命の勢い″をもっての死である。
 反対に、根も枯れ、種まで壊れてしまうと、新しい生命は芽吹かない。これは一つの次元から言えば、″地の獄″につながれ、埋没した生命となってしまったわけである。もはや青々とした葉、美しい花、香り高い果実をつけることはない。決してそのような生命となってはならない。
5  仏法は宇宙大の境涯を開く
 次に、「意味がわからない経文を読み、題目を唱えて、どんな価値があるのか」という疑問に答えておきたい。
 もちろん、意義がわかったほうがよいことは当然である。ただし、それは法への確信を強めるためである。わかっても実践しなければ何にもならないし、その深義のすべてを論理的に理解するというわけにはいかない。
 しかし、たとえば犬が鳴き、鳥がさえずる。大には犬の、鳥には鳥の世界の声があり、言葉・信号がある。人間が聞いてもまったくわからないが、大同士、鳥同士には通じあっているにちがいない。また暗号や略語、外国語も他の人にはわからなくても、その世界の人には立派に通じる。夫婦の間なら「あれよ、あれ!」だけで通じる場合もある。(笑い)
 勤行・唱題の声は、たとえ人間に意味がわからなくとも、御本尊に通じ、三世十方の仏・菩薩の世界には、きちんと通じている。いわば仏・菩薩の世界の言語ともいえよう。
 ゆえに、御本尊への勤行・唱題の声は、一切の仏・菩薩・諸天善神のもとに届き、「善哉、善哉」「エクセラント(すばらしい)!」「ベリー・ナイスー」等と、喜び、たたえ、全宇宙が私どもを福光でつつむのである。
6  大聖人は、勤行・唱題によって、私どもは毎日、いながらにして大宇宙を旅行するような大境涯を得るという意味のことを、教えてくださっている。
 たとえば「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し」と。
 ――大聖人の出家・在家の門下となる人は、一歩も動くことなく、法華経の会座がもたれたインドの霊鷲山に行き、宇宙にもともとある寂光土(仏の世界)へ、毎日、昼夜に往復されることは、うれしいとも何とも言いつくせない――。
 御本尊を拝すれば、わが小宇宙の扉は、その場、その時に、大宇宙へと全開し、全宇宙を見おろすような悠々たる大幸福感を味わうことができる。大充実感と、大歓喜、一切をたなごころに収めたような大確信を実感することができる。宇宙につつまれていた小宇宙が、宇宙をつつみかえしていく。
 日本とロサンゼルスを往復するだけでも疲れるのだから、宇宙のすばらしき仏界へと毎日、往復するのに、少々、足がしびれるくらいは仕方がないのではないだろうか。(笑い)
 また「南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられ・まいらせて(中略)実相真如の虚空にかけるべし」と。
 ――南無妙法蓮華経と唱える声が無明の卵を温める母となって、やがて仏という鳥となり実相真如の虚空(仏界の大宇宙)へと必ず飛翔していく――。
 さらに「我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし」と。
 ――あなたもわが身は藤のようであるが、御本尊という松にかかって、「妙覚の山」に登るであろう、一乗(妙法)の羽の力で「寂光(仏界)の空」にも翔けていくであろう――。
 最高峰の山頂に立てば、下界を晴ればれと見おろせるように、私どもは「最高の知恵」(妙覚)の山に登ることができると。また大宇宙に飛びゆくように、きらめく銀河、走る流星群、とりどりの美しき星々を眺めつつ、生命の無限の広がり、奥行きを刻々に味わい、かみしめて生きる常楽の境涯となる。
 大聖人は、私どもは自身のみならず、この大福運を、七代以上もの先祖、また七代以上もの子孫にも分けあたえていけると説かれている。なんとすばらしき大功徳であろうか。
7  信心の大功徳は「冥益」に
 「松野殿御返事」に「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり」と。
 ――聖人が唱えられる題目の功徳と、われら凡夫が唱える題目の功徳には、違いがありますか、とのおたずねがあった。答えていえば、その功徳には勝劣はありません。それは、愚者の持っている金と智者の持っている金に価値の違いはなく、愚者が灯した火と聖人の灯した人に違いがないようなものです――。
 つまり、御本尊の功徳は、その人の立場や財産などには一切関係なく、平等に出てくる。どのような人も題目を唱えることによって、必ず幸福になっていける、と仰せなのである。
8  御本尊の功徳には「顕益」と「冥益」がある。
 病気とか、仕事上の困難とか、何か問題があったときに、厳然と守られ、パッと解決できる。それが「顕益」である。
 とともに、あたかも海の水が満ちゆくように、しだいに福運を積み、豊かな大境涯を築いてい
 く。その境涯さえ築きあげれば、いかなる人生の苦しみが起こっても、絶対に崩されることはな
 い。今世だけでなく、永遠に幸福な境涯に遊楽していける。これが「冥益」である。
 たとえば、ゼンマイを十分巻いておけば、いつでもはずみをつけて動く力が蓄えられている。ゆるんでいれば、いざというとき、その力が発揮できない。比喩的にいえば、生命のゼンマイを巻くのが信心の実践であり、何にでも対応できるよう十分に力を蓄えきった状態が、冥益に満ちた人生の姿ともいえよう。
 ともあれ、必ずや所願満足の人生、永遠なる幸福境涯を、自然のうちに会得していけるのが、妙法の功徳なのである。
9  しかし、その功徳も、信心いかんにかかっている。
 大聖人も「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し
 ――どのように法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちる。それは、千杯の漆にカニの足を一つ入れて、漆をだめにしてしまうようなものである――。
 どんなに真剣に、まじめに信心しているようであっても、謗法があれば、すべての功徳を消してしまう。それは、わずかの青酸カリでたちまち死んでしまうようなものである。
 御書(1382㌻)には、悪の因をつくるものとして、十四の誹謗が挙げられているが、そのなかに「軽善」「憎善」「嫉善」「恨善」がある。信心している人を「軽んじ」「憎み」「ねたみ」「恨む」ことが、それにあたる。
 懸命に、これほど信心をしているのに、功徳が感じられないという場合があるかもしれない。そのときは、この四つの誹謗がないかどうかを、自分に問うてみていただきたい。軽善、憎善、嫉善、恨善の人は、自分で自分の功徳を消してしまうからである。
 もちろん、同志に対しても、言うべきことをきちんと言っていくことは自由であるし、当然、必要なことである。しかし、相手を思って厳しく言うことと、憎しみの心や恨みの言葉は同じではない。その点はよくよく見きわめていかねばならない。
 御本尊のもとに集い、広宣流布に進んでいる私どもは、すべてが仏子であり、″妙法の家族″である。ゆえに、おたがいに尊敬しあい、信頼しあい、励ましあって、この人生を生きぬいていただきたい。その人にこそ、御本尊の功徳と、諸天の加護は、いや増していくことを確信していただきたいと申し上げ、本日のスピーチとしたい。
 (マリブ研修センター)

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