Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI各部合同研修会 妙法こそ幸福追求の軌道

1990.2.19 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  御書(567㌻)には、次のように記されている。
 わが生命が小宇宙であることを、身体の面でいうと、頭の丸いのは、天の丸さになぞらえ、両眼は太陽と月になぞらえる。開いたり閉じたりで昼夜をあらわす。髪は輝く星になぞらえる。頭のはげた人は、ほとんど流れ星になっている。(笑い)
 眉は北斗七星になぞらえる。女の人が化粧で描いた眉は人工衛星。(笑い)
 息は風を意味し、鼻の静かな息は渓谷の風、谷間の穏やかな風をあらわす。大きな声でどなるリーダーの息は、台風かもしれない(笑い)。皆、避難するほかない。(笑い)
 体の節、曲がるところは、全部で約三百六十節。これは一年を意味する。大きく曲がるところは十二節で、十二ヶ月をあらわす。
 温かな腹部の側は春、夏を、冷たく硬い背の側は秋、冬を意味する。血管は小河、大河になぞらえる。堤が切れて洪水になったら、われわれでいえば脳溢血である。骨は石などに、皮や肉は大地になぞらえ、体毛は森林である。そのほか内臓について等々、身体が一個の小天地であることを、仏典ではくわしく説いている。
 天空には雲がある。風が吹く。星がまたたく。地には海がある。川が走る。火山が火を噴く。また金、銀、銅などの多くの鉱物、カリウム、カルシウム、その他の元素が蔵されている。それらの働き、要素が等しくわが身にも包含されている。
 宇宙にある無数の原子、陽子・電子・中性子・中間子などの素粒子、細菌などの微生物、さらに重力の法則、エネルギー保存の法則、その他ありとあらゆる法則、また善悪の作用も、一個の小宇宙に、ほぼ同様にかかわっている。
 体の働きをみても、われわれの生命は一個の″大製薬工場″ともいえる。必要な薬をみずから作って健康を守る力がある。また食物を摂り入れて、自分の栄養、千不ルギーにしていく。
 また脳は大きなコンピューターのような能力を持っている。その力を、なかなか発揮できないだけである(笑い)。六十兆個ともいわれる細胞が、整然と秩序正しく運動し、「生」のリズムをきざんでいく。これが人間生命の理想である。
3  生命と宇宙貫く根源の大法
 生命即宇宙。このように、その運行は絶妙である。太陽の熱量が少しでも変化すれば、地球をはじめとする惑星は大変動をこうむる。地球の自転が一瞬でも止まれば、否、地軸が少し傾いただけでも、一切の生物は死の危機を迎える。
 それほど微妙である。しかも厳然として、大宇宙の「法」が実在する。小宇宙も同じである。
 この、日に見えないが実在する法則を探究したのが科学であり、その成果を応用して機械などを作ったのが科学技術である。
 そして、物心のあらゆる部分的「法」の根本にある「生命の大法」の覚知を「南無妙法蓮華経」として人類に示されたのが、日蓮大聖人であられる。決してあとから、だれかが考えだしたようなものではない。この「妙法」は、大宇宙も、一切の小宇宙も、等しく貫いている。宇宙と人間は「妙法」において一体なのである。
4  ″目に見えない法″は、時に″目に見える存在″となって顕れる。人間の生命という一個の「法」も、宇宙に溶け込んでいる状態から、受胎を縁として、この世界に顕現してくる。
 また端的にいえば、船は、見えない″浮力の法則″が、見える形に結晶したものともいえる。飛行機は″揚力の法則″、ラジオ・テレビは″電波という法則″等を、それぞれ形として表したものともいえまいか。
 それと、もとより次元は異なるが、宇宙と生命の根源の「一法」も、肉眼には見えない。この妙法の功力を凡夫にも味わえるように、大聖人が御自身の御境界として図顕されたのが、御本尊である。法華経をはじめとする他の経文は、御本尊の説明書となる。
 戸田先生は、御本尊を「もったいないことであるが、幸福製造機にたとえられる」と、わかりやすく教えてくださった。この御本尊に勤行・唱題することによって、わが生命が大宇宙と完全に調和する。
 宇宙もわが生命も、等しく南無妙法蓮華経の当体である。御本尊も南無妙法蓮華経の御当体であられる。ゆえに勤行・唱題するとき、御本尊を根本にして、わが生命と宇宙がきちっとギアをかみ合わせ、うなりをあげて回転を始める。
 小宇宙の「一念」は即、大宇宙の「三千(如是・世間)」と一体となって、大いなる価値を創造しはじめる。これが一念三千の法理の具体的実践である。
 春夏秋冬、三百六十五日、大宇宙のリズムに合致して、何ものをも乗り越える生命力と、知恵と、福運を発揮し、爆発させながら、永遠の幸福、「常楽我浄」の軌道に入っていけるのである。
5  永遠の幸福へ一生成仏の修行
 いわば勤行は「小宇宙」の本来もつ無限の力を引き出し、回転させる実践である。宿命が転換され、行き計まりが打開され、苦悩が幸福に変わるという「小宇宙」の変化、革命。これは、わが生命の中の広宣流布の一つの縮図と言えよう。
 私どものめざす「広宣流布」は、この大宇宙、地球の天地も、人類社会をも、妙法のリズムにのっとった平和と安穏の調和の世界へと変えていく運動である。
 車も、他の機械も、長く使わなければ、さびつき、順調に動かなくなってしまう。適度に運転し、油をさし、整備・調整しなければならない。人間の髪だって、ほったらかしていては、フケだらけになつてしまう。(笑い)
 わが生命も、勤行しなければ、リズムが狂い、さびついてしまうのは同様である。勤行・唱題によって、エンジンをかけ、幸福の方向へ、正義の方向へ、毎日勇んで走り続けていく。
 その繰り返しによって、しだいに、宇宙の「法」と完全に合致した生命となる。それが「仏」の生命である。いったんそうなったら、永遠に、自在にして、遊楽の生命である。三世に崩れない金剛の身となる。
 ゆえに「一生成仏」のために、絶対に退転してはならないと、大聖人は厳愛をもって仰せくださっている。
 たとえ、一時的に苦しく、わびしい日々があっても、「煩悩即菩提」の法理で、大きな悩みは、必ず大きな喜びと、進歩と、価値に変わっていく。御本尊には、その無限の仏力・法力があられるから、何も心配はない。
6  よく「強い信心」とか、「勇猛精進」「勇気ある行動」が大切であるといわれる。それは、「強い心」と「勇気の実践」がなければ、いかなる偉業も成就できない道理を言っているのである。
 人間の対話でも、明快でなければ、相手に通じない。勇気がなく、あいまいに口ごもっていれば、相手の胸に響くはずがない。まして相手の心をつかみ、揺り動かし、また感銘をあたえていくには、強い一念の波動が必要である。
 このことは恋愛でも同様ではないだろうか(笑い)。また、就職の面接試験などでも、自分の意思や考えを明快に述べないと、相手には通じない。つまり、「強い心」「勇気ある行動」が、すべての状況を変化させ、幸福をつくっていく重要な力なのである。
7  行動にこそ生命の凱歌
 飛行機が飛び上がるためには、滑走路を走る″助走″が必要である。学校で良い成績をとるためには、予習、復習をしっかりしておかなくてはならない。
 つまり、何事も、より力を発揮し、より高めていくために″助走″となるものがある。仏法では「自行」「化他」と説く。どちらが欠けても正しい修行とはならない。まして御本尊は、「広宣流布」を教えられた大聖人の御生命の御当体である。ゆえに、広布と人生と生活のための″行動″を何もなすことなく、ただ勤行・唱題しているのみでは、御本尊との真の感応はないと言えよう。
 広布を願っての″行動″があれば、その分だけ、いわば生命の一つの″助走″となって、勤行・唱題のときにも、境涯の偉大な跳躍と、飛翔を成し遂げる力となる。
 また勤行という「自行」で得たエネルギーが、広布への自身の″行動″へと、はずみをつけていくことも当然である。
 要は、勤行という行動、広宣流布に奉仕するという行動、両者が一体となって、妙法の無限の力を、この一生を生きぬく「わが身」に開いていくことができる。
 「行躰即信心」が仏法の世界である。すなわち「行動」こそが即「信心」であり、行動なくして正しき信仰はありえない。その行動とは、この自行・化他という、御書に仰せのとおりの軌道なのである。
 「行動」が即「福徳」の源泉である。たとえば弘教においても、その時、相手が発心し信仰するかどうかは、いわば相手の問題である。機根の問題もあり、また状況によって、行動の結果はさまざまである。その結果に一喜一憂する必要は決してない。
 宇宙でもっとも正しく、もっともすばらしき「生命の法則」を実践しきった誇りをもって、胸を張り堂々と進んでいけばよい。広布のために、徹して″行動″した人、その人はすでに生命の大勝利者なのである。(拍手)
8  御本尊には「若悩乱者頭破七分(もし悩乱する者は頭七分に破る)」とお認めである。みずからの、善なる法則を根本的に破壊してはならないという戒めである。退転や誹謗は、自分で自分の生命を破壊し、ばらばらにしてしまうようなものなのである。
 また「有供養者福過十号(供養する有らん者は福十号に過ぐ)」とも、認められてある。御本尊に唱題し、弘める者の功徳は、釈尊に供養する福徳よりも、はるかに大きい、との厳然たる御文である。
 宇宙にある一切の幸福という滋養を、わが小宇宙という内面に吸収し、最高に幸福な生命になっていくというお約束である。ゆえに、広布に生きる仏子は一人ももれなく、絶対に幸福になる。だれよりも幸福にならないはずがない。御本仏は絶対にいつわりを言われないからである。(拍手)
 また御本尊には「為現当二世(現当二世の為に)」ともお認めである。
 現在(現在世)と未来(当来世)と。そのための信仰である。仏法である。御本尊を拝するところ、久遠元初の生命がわく。一日一日、瞬間瞬間、久遠元初から出発するのが、私どもの信仰なのである。今日から未来へ、この瞬間から永遠の幸福へ、つねに出発であり、つねに希望である。つねに青春であり、つねに始まりなのである。
 そのことを確信し、尊い大切な人生を、悔いなく、心楽しく、心朗らかに進んでいただきたいと申し上げ、記念のあいさつとしたい。
 (創価大学ロサンゼルス分校)

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