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日蓮大聖人・池田大作

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SGI各部合同研修会 「生命の長者」が勝利者の証

1990.2.18 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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2  「およそ、この地上にあるもので、大学ほど美しいものはない」
 これは、イギリスの詩人ジョン・メイスフィールドの言葉である。
 彼は大学の建物や景観をたたえたのではない。彼が言う大学の美しさとは「無知を憎む人々が知識を求め、真理をつかんでいる人々が、他の人々の目を開こうと努力する場所」だからという点にある。
 すなわち、こうも言えようか。大学とは「無知の″闇″から、知の″光″の世界へ」「精神の眠りと盲目から、覚醒と開目ヘ」「野蛮な混沌・混乱の状態から、文明的な秩序と法則性へ」「魂の隷属から自立へ」と、限りなく人類を「解放」しゆく場所である――と。
 大学とは、理性の「光」に導かれて進む″人間精神の進歩・向上の砦″である。野蛮と戦う″文明の出城″である。そして、その城塞の基礎は「真理への愛」である。地上から「無知」と、無知による「悲惨」を一掃するための先兵――。それが大学なのである。
 まさに「これほど美しい場所はない」といえよう。印象的な言葉であり、かつてケネディ大統領も講演で引用している。
 ハーバード大学で教えた二十世紀を代表する哲学者ホワイトヘッドは「大学の使命は『未来の創造』である」と語った。
 理性と文明の名において、いかなる「未来」を人類に提供するのか――。将来の歴史が大学で創られるのだと。その意味で、「大学」を創立したことは、一つの「未来」を創出したことでもある。
 ″現在の大学″は″未来の社会″の一縮図だからである。ゆえに″大学の勝利″が″未来の勝利″に通じることを確信していただきたい。(拍手)
3  太平洋は″超大陸″の内海
 SULA(創価大学ロサンゼルス分校)のモットーの一つは「太平洋文明構築の電源地たれ」である。すなわち″環太平洋文明″への先駆をうたっている。
 この夏には「環太平洋文明シンポジウム」が開催される。これには国連大学の代表も参加される予定になっている。この″環太平洋文明″については、さまざまな角度から、二十一世紀が「環太平洋諸国の時代」になると論じられている。
 その内容等については、大学で研究していただきたいが、一つだけ発想のヒントとしてふれておきたい。
4  ソビエトのある人類学者は言っている。
 「太平洋は″アメロトララシア(=アメリカ両大陸とオセアニア・アジアを一括した造語)の内海″と呼んでも大げさではない。この″超大陸″にとって太平洋は中心的な役割を果たした」「当然、スケールは異なるが、アフロユーラシア(=アフリカとユーラシア大陸を一括した造語)という運命共同体における地中,海の役割にたとえられよう」(アルティフノフ「太平洋流域の歴史・文化的関係の諸問題」)
 最近、多くの学者が指摘しはじめたように、海は人と文明を分かつ″分断の淵″ではなく、反対に、それらを結ぶ″結合の帯″であり、″連結の環″なのである。
 北アフリカと南欧とは、地中海という″結合の環″で結ばれていた。そのことはエジプト文明とギリシャ・ローマ文明との深い関係を見ただけでも理解できよう。
 地中海は、周辺諸国の文明の母であった。文化と人と情報を交流させ、文明の発展に刺激をあたえ続けた。それと同じく、太平洋は南北アメリカ大陸、オセアニア(大洋州)、アジアの広大な地域を結んで、それぞれの文明を刺激し続けたというのである。
 その証明は今後の課題であろうが、「太平洋も一つの内海にすぎない」というアイデアは、スケールが大きく、まさに″地球文明″時代にふさわしいと思い、紹介させていただいた。
5  ともあれ、この内海の″東の首都″はいうまでもなく、このロサンゼルスであろう。大きく見れば、カリフォルニア州全体が″東の都″といえるかもしれない。
 この″東都″にあるロス分校はいまだ小さい。しかし種子の時から大きな木はない。だれでも、生まれた時は小さな赤ん坊である。
 問題は、その種子の中に、何が入っているかである。健康であるかどうかである。ロス分校は発足したばかりであるが、あらゆる意味で、大きな使命と意義をもっている。この種子、若芽を、皆の力で大切に育て伸ばしていただきたい。(拍手)
6  仏法で説く「三種の長者」
 さて、本日は合同の研修会であり、ここで仏法の話に転じておきたい。難解な学問的な話ばかりだと、茫然としてしまって(笑い)、だんだん疲れが出てくるという方もいらっしゃる。(笑い、拍手)
 アメリカは「サクセス・ストーリー(成功物語)」の国である。「『アメリカ』とは『機会』の別名である」とのエマーソンの言葉もある。
 いわゆる「アメリカン・ドリーム」すなわちアメリカで成功者になる夢を求めて、多くの人がこの国を訪れた。現在は以前より社会が固定化しつつあり、昔ほどでないにせよ、今なお″アメリカの夢″は多くの人々を引きつけている。能力と運さえあれば、この国ではいくらでも″百万ドル長者″になれるのだ――と。
 それでは、仏法では「長者」をどう説くか。大聖人は、天台の説をふまえて「三種の長者」を挙げておられる。(御書818㌻)
 これは法華経警喩品の「三車火宅の譬」に出てくる「長者」を解説されたものである。
 第一に「世間の長者」、すなわち社会での長者、成功者である。
 第二は「出世(間)の長者」、すなわち仏法上の長者。これは具体的には釈尊のことである。
 そして第三に「観心の長者」、すなわち大聖人の仏法の長者。これは妙法を持った凡夫のことである。
 いわば第一は、外面の成功者、第二、第三は、内面の成功者である。この二つは厳然と異なる。
7  第一の「世間の長者」については、仏典には「家柄がよく」「地位が高く」「金持ちであり」「威厳があり」「知恵が深く」「行いが清らかで」「礼儀が正しく」「上下の信望が厚い」などの姿が挙げられている。
 ″一切法は皆是れ仏法″であるゆえに、こうした社会的長者の徳をめざし、身につけることも当然、大いに価値がある。ゆえに信心を根本にして、裕福にもなっていただきたい。人望のある人格者にもなってもらいたい。
 さらに言えば、″世間的成功″は必ずしも″幸福″を意味しない。ここに一歩深い人生の知恵が必要になる。
 アメリカ建国の父の一人、ベンジャミン・フランクリンが言うように、「成功が多くの人間を破滅させる」のも事実である。
 お金があるから強盗にねらわれる。美人だから妬まれ、不幸になる人もいる。地位があるために悪に染まって、最後は悲惨になる人もいる。
 真の″成功者″とは、人生を自由自在に楽しみながら生きていける人のはずである。
 この意味では、「天界」の無常の栄華に頼るのは、真の成功者とはいえない。″天は五衰を受く″(御書474㌻)と言われるとおり、天界の喜び、成功は必ず衰え、秋の木の葉のようにいつしか散っていくものである。
8  第二の「出世(間)の長者」とは、仏のことである。
 「成仏」こそ、真実の成功であり、それが永遠の「長者」なのである。
 仏という長者の持つ「財」とは何か。それは「法財」である。あらゆる「善法」を身に備えている。あらゆる「福徳」を具足している。一切の障魔を倒し、一切の知恵に達し、心は大海のごとく広く、永遠に自在の境涯を楽しんでいる。
 要するに「生命の大力」に満ちた存在――それが出世間の長者、仏である。しかし、仏になるには、通常には、気の遠くなるような修行(歴劫修行)が必要である。また、だれもができる修行が、釈尊の仏法には説かれていない。ここに大きな難点がある。
9  観心の長者――自身の″無限の宝蔵″を開く
 第三の「観心の長者」とは″凡夫の仏″のこと、すなわち法華経の行者のことである。別しては日蓮大聖人、総じては広宣流布に生きる私ども門下も含まれると説かれている。
 「観心」とは、末法においては「信心」のことであり、やさしくいえば、わが心を観じて「仏界」を自覚することである。
 自分の中に「仏界」がある。宇宙の一切の宝を集めた″無限の宝蔵″がある。それを開いて、自由自在に使いながら、「大長者」のゆとりで、何ものも恐れることなく、また一喜一憂することなく、獅子王のごとく堂々たる人生を、楽しく生きぬいていく。それが「観心の長者」である。
 わが「心」自体が無上の「宝蔵」なりと観、信じ、開いた長者である。
 釈尊の仏法では、現実には特別な人しか長者になれない。遠いところにある存在である。
 これに対し、大聖人は「受持即観心」(御書246㌻)と教えられた。御本尊という仏界、十界互具、事の一念三千の御当体を信受するだけで、わが生命にも仏界を観じ、涌現することができる。と。
 この意味で、釈尊の仏法を、仏法上の貴族主義とすれば、大聖人の仏法は、仏法上のデモクラシーと言える、と言う学者もいる。(拍手)
 あえてたとえれば、釈尊の仏法では、ロッキー山脈の高峰をめざすように「仏界」の高みへ一歩一歩登っていく。特別に優れた人が仮にたどりついたとしても、それだけで人生が終わってしまい、他の人を救うこと、社会への貢献などはむずかしくなってしまう。
 大聖人の仏法は、足もとのわが身、わが生命の大地を開拓して「仏界」の宝を掘り出していく。「仏界」の″宝の蔵″を開いていく。そのカギが題目であり、信心の「一念」なのである。
 さらに、また山で言えば、ただちにヘリコプター等で山頂に到着し、そこから悠々と下界を見おろしながら、「仏界」の風を社会に送っていくのが、大聖人の仏法であるともたとえられるかもしれない。
10  妙法のニュー″アメリカン・ドリーム″を
 大聖人は、「実相の大地」すなわち「仏界の大地」に住する仏子は、行住座臥(歩き、止まり、坐り、横になる)すべてが「仏の振る舞い」であるとされている。
 仏の振る舞いであるとすれば、一切が最高の「知恵」と「福徳」に満ちた行動、生活である。
 「我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ」――われわれ凡夫の振る舞い、それ自体が仏の振る舞いである。この振る舞いこそが「長者」である――。
 すなわち、真実の長者、「観心の長者」の証は、決して「世間の長者」の豪華な住宅でもなければ、「出世間の長者」の特別な力でもない。妙法を信受し、広宣流布へと進みゆく、私ども仏子の毎日の「振る舞い」が、そのままもっとも幸福な大長者の日々なのである。
 自分自身に「法財」「物財」の福運を開きつつ、人々に「仏」の種子をまき、世界に根本的な平和と繁栄のリズムをつくっていく。ありのままの、この生命、人生が、最高に豊かで価値ある、尊貴なる、黄金の一日一日になっている。それが「観心の長者」なのである。
 大聖人は「此の人を称して仏と為す、あに観心の長者と名けざらんや」――この人(法華経の行者)を称して「仏」とする。どうして「観心の長者」と名づけないことがあろうか――と。
 「此の人」とは、別しては日蓮大聖人であられるが、総じては御本尊を受持している人である。つまり仏道修行に励み、広宣流布のために戦っている人こそが仏であり、「観心の長者」であると、仰せなのである。
 そして、結論して「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや」と。
 ――日蓮(大聖人)門下の、南無妙法蓮華経と唱える者は″これ以上は無いという「宝の集まり」を、求めることなく、自ずから得た″長者なのである――。
 ゆえに、この大法を持った皆さま方は、すでにどんな大富豪よりも豊かな「生命の大長者」なのである。
 この世のいかなる富も死後まで持っていくことはできない。しかし「生命の大長者」は、宇宙大の財宝を自由に使いながら、永遠に「幸」の旅行をしていける。それが人生の勝利者の証なのである。
 福運を積むために、労苦の仏道修行はある。しかし福運は、ひとたび積まれると、あふれるように出てくるものである。それは、いったん宝の箱を開けることができれば、そこから無量の宝物を取り出せることにも似ている。
 ゆえに、絶対に退転してはならない。魔に負けてはならない。それは「仏種」という″福徳のなる木の種″を失い、みずから破壊することになるからである。
 ともあれ、妙法を持ちきって、このアメリカの大地に、一人一人が新しい「成功物語」、新しい「アメリカン・ドリーム」の虹をかけてほしい。そして、真の「サクセス・ストーリー(成功物語)は、正法を信受した私どもの人生にある、妙法の世界にあると確信していただきたいと申し上げ、本日のスピーチを終えたい。
 (創価大学ロサンゼルス分校)

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