Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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SGI各部合同研修会 「生命の長者」が勝利者の証

1990.2.18 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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10  妙法のニュー″アメリカン・ドリーム″を
 大聖人は、「実相の大地」すなわち「仏界の大地」に住する仏子は、行住座臥(歩き、止まり、坐り、横になる)すべてが「仏の振る舞い」であるとされている。
 仏の振る舞いであるとすれば、一切が最高の「知恵」と「福徳」に満ちた行動、生活である。
 「我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ」――われわれ凡夫の振る舞い、それ自体が仏の振る舞いである。この振る舞いこそが「長者」である――。
 すなわち、真実の長者、「観心の長者」の証は、決して「世間の長者」の豪華な住宅でもなければ、「出世間の長者」の特別な力でもない。妙法を信受し、広宣流布へと進みゆく、私ども仏子の毎日の「振る舞い」が、そのままもっとも幸福な大長者の日々なのである。
 自分自身に「法財」「物財」の福運を開きつつ、人々に「仏」の種子をまき、世界に根本的な平和と繁栄のリズムをつくっていく。ありのままの、この生命、人生が、最高に豊かで価値ある、尊貴なる、黄金の一日一日になっている。それが「観心の長者」なのである。
 大聖人は「此の人を称して仏と為す、あに観心の長者と名けざらんや」――この人(法華経の行者)を称して「仏」とする。どうして「観心の長者」と名づけないことがあろうか――と。
 「此の人」とは、別しては日蓮大聖人であられるが、総じては御本尊を受持している人である。つまり仏道修行に励み、広宣流布のために戦っている人こそが仏であり、「観心の長者」であると、仰せなのである。
 そして、結論して「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや」と。
 ――日蓮(大聖人)門下の、南無妙法蓮華経と唱える者は″これ以上は無いという「宝の集まり」を、求めることなく、自ずから得た″長者なのである――。
 ゆえに、この大法を持った皆さま方は、すでにどんな大富豪よりも豊かな「生命の大長者」なのである。
 この世のいかなる富も死後まで持っていくことはできない。しかし「生命の大長者」は、宇宙大の財宝を自由に使いながら、永遠に「幸」の旅行をしていける。それが人生の勝利者の証なのである。
 福運を積むために、労苦の仏道修行はある。しかし福運は、ひとたび積まれると、あふれるように出てくるものである。それは、いったん宝の箱を開けることができれば、そこから無量の宝物を取り出せることにも似ている。
 ゆえに、絶対に退転してはならない。魔に負けてはならない。それは「仏種」という″福徳のなる木の種″を失い、みずから破壊することになるからである。
 ともあれ、妙法を持ちきって、このアメリカの大地に、一人一人が新しい「成功物語」、新しい「アメリカン・ドリーム」の虹をかけてほしい。そして、真の「サクセス・ストーリー(成功物語)は、正法を信受した私どもの人生にある、妙法の世界にあると確信していただきたいと申し上げ、本日のスピーチを終えたい。
 (創価大学ロサンゼルス分校)

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