Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二回SGIパン・アメリカン諸国会議 先駆者の功徳は大海の如く

1990.2.15 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  人生の幸福は建設の汗のなかに
 本日は遠いところ、またご多忙のところ、本当によく集ってくださった。かけがえなき仏子の皆さまを最大の尊敬と最大の称讃の心をもって、お迎え申し上げたい。
 今回は南米を訪問させていただくつもりであったが、北米に力を入れるため、予定を変更させていただいた。まことに残念であり、申しわけない気持ちでいっぱいであるが、なにとぞご了承願いたい。ブラジルの世界青年平和文化祭をはじめ南米諸行事の大成功を、私は心より念願している。
2  私どもの会合は家族の集いであり、ゆっくりと懇談的に話を進めさせていただきたい。
 皆さまは各国・各地域の先駆者であられる。その功徳がいかほど大きいか。だれ人にも計り知れないほどである。
 日蓮大聖人は門下の妙密上人ならびに夫人に対し、次のように激励しておられる。
 「国中の諸人・一人・二人・乃至千万億の人・題目を唱うるならば存外に功徳身にあつまらせ給うべし、其の功徳は大海の露をあつめ須弥山の微塵をつむが如し
 ――やがて国中の人々が一人・二人ないし千万億人と題目を唱えるようになれば、考えもしなかったほどに、その功徳がすべてあなたご自身の身に集まっていくことでしょう。その功徳は、大海が露を限りなく集め、また須弥山が微塵を限りなく積んで大きくなっているようなものです――。
 ここで仰せのように、たとえ初めは少人数であっても、必ず妙法は弘まっていく。その″時″が来ているからである。あせる必要はない。何事も、最初から簡単にできあがっては、むしろ向上の充実感と喜びがないともいえる。人生の深い「幸福」は、建設の汗のなかにこそある。
 皆さま方はわが国、わが地域の、広布のパイオニア(開拓者)であられる。その功徳は大海のごとく、大山のごとく、広布の広がりとともに限りなくわが身に集まってくる。なんと偉大な、なんとありがたい妙法であろうか。
 なお、大聖人はつねに、ご主人のみならずご夫人を最大に大切にされた。一家においては夫人、組織においては婦人部を、心を込めて尊敬し、尊重していくところに盤石な建設がある。事実、そうした組織は発展している。
3  また大聖人は、まだ大聖人を信ずる人の少ないころから信心を貫いてきた池上兄弟夫妻に対し、こう仰せである。
 「設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず
 ――たとえ、これより後に信心をする男女があっても、あなた方に替えて思うことはできません――。
 ″先駆者″の存在はかけがえのないものである、との御本仏のお言葉である。
 先駆者には先駆者ゆえの苦労があることも当然である。しかし″開拓した″という事実と、その戦いをとおして開かれた境涯は厳然としている。
 経文には「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と。
 時とともに、また生まれてくるたびに、無量無辺の福徳が、皆さまの生命に満ち、あふれてくることは間違いない。
 物心ともに豊かな、すばらしい境涯となって、ある人は大指導者に、またある人は大学者、大芸術家等となって、正法広宣流布をいちだんと進めていく。これを末法万年にわたり、自在に繰り返していくのである。この大福徳を確信していただきたい。その確信がさらに境涯を開いていくのである。
4  だれにつくかで一生は決まる
 次に、青年の代表も多くおられるので、人生の何らかの参考になればとの気持ちで、何点かお話ししておきたい。
 二十二、三歳のころである。私の青春は嵐の中にあった。恩師戸田城聖先生の事業の失敗に、ただ一人、お伴したからである。そのころ、戸田先生に非常にお世話になっていた三人の人から、私も話を聞く機会があった。
 その一人は言った。
 「戸田などに使われるのはやめたまえ」「ばからしいではないか。体まで壊して」と。
 自分が先生に恩を受けながら、手のひらを返したような暴言であった。その人は後に精神状態もおかしくなり、みじめな生活となっていった。
 二人目の人は言った。
 「戸田につかないで、私についてこい」「私のほうの商売をやっていけ」
 その人は当時、裕福であったが、後に下り坂の寂しい人生となっている。
 三人目の人は言った。
 「今こそ戸田先生に仕えるべきだ。絶対に御本尊を疑ってはいけない」
 その人は公私ともに幸福な姿で、一生を広布のために戦い、正しく光った存在として、この世を終えた。
 三人三様の言葉であり、姿であった。その生き方と、その後の人生を鏡のごとく映しだしていた。私は人間の裏表、強さと弱さを、若きまぶたの底に焼きつけることができた。これは私の青春の忘れ得ぬ″原体験″の一つである。
5  青年はだれにつくか、ある意味で一生がそれで決まる。ロケットも初めの軌道(初期軌道)によって、その後が決まってしまう。ロサンゼルスに行くのに北京行きの飛行機に乗ってしまったら、途中で降りるわけにはいかない。目的地に達しない。
 そのころ、戸田先生は、表面上は敗残者のようなお姿であった。しかし私は、戸田先生の使命を信じた――。
 四条金吾に与えられた御書に、「御ともの御ほうこう奉公にて仏にならせ給うべし」と。
 ――退転せず(大聖人に)お伴し、お仕えした功によって、必ず仏になられるであろう――。
 これは金吾が、大聖人の竜の国の法難のさい、ともに死なんとの決意でお伴した行動をたたえられたお言葉である。
 もちろん次元は異なるが、戸田先生は広宣流布の大指導者であられた。先生をお守りすることが広宣流布を守り、大白法を守ることであると、私は私なりに確信していた。事実、私はこの時期、ただ一人、先生にお伴したおかげで、だれにもまして境涯を大きく開くことができた。
 御書にはまた、「但一人残り給うてこそ仏にはならせ給いしか」と。
 ――釈尊とともに修行していた人々は、皆、途中で去ってしまったが、釈尊はただ一人残られたからこそ、仏になられたといえよう――。
 広宣流布の前進という次元においても、この原理は同様である。山を登るには苦労がある。高山を登るには、より大きな労苦がある。しかし、登りきった時は、低いところの人よりも、広々とした、雄大な境涯を味わうことができる。また、飛び立った飛行機から途中で飛び降りてしまっては墜落する以外にない。それは退転でもある。
 皆さまは、たとえ何があろうと、ひとたび決めた仏道修行の道を最後の最後まで、一人になっても貫きとおす、勇気の人であっていただきたい。その本物の一人さえいれば、そこから、広宣流布の炎は、いくらでも燃え広がっていくからである。
6  「実質主義」で価値ある一歩を
 さて戸田先生がもっとも嫌われたのは、「形式主義」であった。ゆえに弟子の私も、徹底して「実質主義」の人間である。
 「形式」が大切な場合もあるが、中身のない形式主義は悪である。形式は″死″、実質は″生″、形式は″迹(影)″、実質は″本(本体)″。形式主義は保守となり、実質主義は進歩と発展をもたらす。
 たとえば会合をする。何人来たか、きちんとできたか――そうしたことのみを気にし、形にとらわれて、実質を見失う。これでは失敗である。
 「実質」とは、たとえ少人数でもよい、来た人が、心から納得し、喜び、御本尊への確信をもって出発できたかどうかである。たった三人であっても、御本尊を拝し、御書を拝読し、感激し、信心の炎が燃え上がっていけば、仏法の眼から見て、計り知れないほど偉大な集いである。
 反対に、何千人集まり、整然と進行し、立派で盛大そうな姿を見せたとしても、皆がただ疲れ、苦しみ、心からの信心の喜びがないのであれば、結果として、虚栄の集いとなってしまう。
 リーダーのための会合でもなければ、組織のための会合でもない。一人の「人間」の発心と成長のための集いなのである。
 「人間」のために組織があり、リーダーがいる。組織やリーダーのために「人間」が従となれば、もはや仏法の生命はない。その濁りによって、「仏の力」「法の力」がせき止められ、功徳も広がらず、発展も止まってしまう。
 「一人」の人を、どこまでもあたたかく励まし、大切にしていくところに、一切の勝利の基本がある。
 組織といっても、その実質は「人間の集い」であり、人間と人間の関係である。たとえば、わが地域は、どうも低調だ、結果が出ないなどといっても、すべて、その組織のなかの人間同士の状態の反映なのである。
 人の心は微妙である。組織という形にとらわれ、上から命令や圧力をあたえて、人を動かそうとしても、動くものではない。それでは自発の、本当の力は出ない。
 だれに対しても、その人の機根、状態に応じて、真心を込め、慈愛を込めて、対等の人間同士として語りあい、満足をあたえていく。その積み重ねのなかに、必ずや大きな発展がある。
 要は「一人」の友に、心からの安心と納得をあたえ、立ち上がらせていくことである。その、「一人」の信心という小宇宙の爆発に応じて、その集まりである組織も回転を始める。ここに一念三千の法理の実践がある。
7  最後に、青年は何事にも豊かな、鋭い批判力をもって、現状に満足することなく、より高く、より大きな目標に進んでもらいたい。
 そのうえで、根本の仏法の指導、御書の仰せに関しては、まず「そのとおりである」と信じて、実践していただきたい。そのほうが近道だからである。
 「御義口伝」に「信は価の如く解は宝の如し」と。
 ――信解品の題号のうち「信」はお金に譬えられる。「解(知恵)」はそのお金で買う宝のようである――。
 身近な譬えでいえば、一ドルの「信」では一ドルの「知恵」しか得られない。一万ドル、百万ドル分の「信」を起こせば、それだけ大きな「知恵」を、力を得ることになる。無限の「確信」には、無限の「知恵」がわく。
 ゆえに皆さまは「確信」の人であっていただきたい。その人には行き詰まりがないからである。そして賢明なる「知恵」の人として、わが使命の人生を悔いなく、最高に晴れやかに、最高に楽しあ先駆者の功徳は大海の如くく飾っていただきたい。
8  短い時間でも、永遠の功徳と思い出をつくる修行がある。長い時間をかけても、空転している場合がある。本日は南北アメリカ大陸の家族と家族が集まって、広布の歴史に永遠に輝きゆく″価値ある一歩″をきざめたと確信する。
 皆さまのご多幸、ご健康、ご長寿、各国の平和を、私は毎日、真剣に祈っている。一心に念じている。だれよりもすばらしき「遊楽の人生を」「大満足の一生を」と願いつつ、私のあいさつを終わりたい。
 (創価大学ロサンゼルス分校)

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