Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第二十六回本部幹部会 勇気ある信仰に無量の福徳

1990.2.7 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

前後
1  仏法の勝利、内面の勝利こそ真実の凱歌
 寒いなか、毎日ご苦労さまと、心から申し上げたい。皆さまがたにとっては一日一日がまことに大切である。私もまた同じである。私は朝晩、時間があいた時に、よく本部を中心として都内を回ることがある。
 その途上、学会員の家とわかれば、必ず私は心に念ずる――一家の方々が健康であるよう、またどうか無事故であるよう、絶対に火災などが起こらぬように、と。
 広宣流布に進む同志ほど大事な存在はない。同志が懸命に祈り、戦うからこそ広布は進み、栄えていく。庶民の偉大なる勇気と行動により、今日の広布の発展は築かれた。ゆえに私は、会員をだれよりも尊敬し、大事にしてきたつもりである。
2  仏法では「一切の法は皆是れ仏法なり」と説く。そのくわしい法義は略させていただくが、この御文を踏まえて言えば、要するに、妙法を持ち、広宣流布をめざしゆく一切の行動、振る舞いは、ことごとく御本尊に通じ、即自身の無量無辺の福徳になっていく。
 「信心」にムダはない。御本尊は、すべてを御照覧であられる。ゆえに一切を因果の理法にのっとった自己の修行と自覚し、広布へ勇んで行動していくならば、その実践には、大聖人の広大無辺の御称讃があり、無限の福徳が薫っていく。
 三世の福徳――それこそ、永遠に崩れぬ生命の凱歌である。仏法の鏡に照らせば、世間的な外面の勝利など小さく、はかないものだ。
 仏法の勝利、内面の勝利こそ永遠であり、真実の凱歌である。この法の勝利、魂の勝利のために、「信心」の戦いには、絶対に勝たねばならない。(拍手)
3  今月の中旬から三週間ほど、アメリカを訪問する予定である。
 長期的な広布の展望に立つとき、アメリカの占める位置は、あまりにも大きい。アメリカが着実に前進し、信心のうえでも模範の存在となってもらいたい。それが日本、さらに世界の広布の進展に連動していく。そのためのアメリカの構築を、全力で進めていきたいと決意している。(拍手)
 また、ライナス・ポーリング博士やノーマン・カズンズ教授との対談もあり、さらには、有名なアーマンド・ハマー博士とも会談することになっている。今年九十二歳となるハマー博士は、レーニンの信任を得て以来、″米ソの懸け橋″として今なお、はつらつと民間外交に活躍しておられる。アメリカ有数の実業家であり、その影響力は計り知れないとも言われる。今朝も、博士より、心からお待ちしているとのご連絡をいただいた。
 ともあれ留守の間、秋谷会長を中心に、万事、よろしくお願い申し上げたい。(拍手)
4  ″行動の勇者に″″精神の勝者に″
 さて、四月から東京富士美術館で開催される「コロンビア大黄金展」の打ち合わせもあり、コロンビアのフィデル・ドゥケ駐日大使と何回かお会いした。昨年末(一九八九年十二月二十一日)には、コロンビア大使館にもうかがった。大使館に着いて、ふと見ると、門の横に、立派な胸像が立っている。それは、南米解放の父として知られるシモン・ボリバルの像であった。
 地球のほぼ反対側にあたるこの日本。そこにも尊敬と顕彰の思いを託して″解放の父″の像をきざむ。そして、その尊貴な魂をとどめおこうとする――。南米の人々とボリバルとの強い心の絆を目のあたりにし、感銘を深くした。
 シモン・ボリバル――これまでも何回かお話ししてきたように、南米の解放に生涯をささげた真実の革命家の一人である。彼のただ一つの願い――それは祖国の民衆の幸せであった。そのために、彼は、自身をなげうって戦った。栄達や名声を求めず、ひたすら崇高な目的のために生命を賭した。こうした強き信念、人格にこそ、人間としての″光″は輝く。
5  ボリバルは語る。
 「私の剣と私の心はつねにコロンビアのものであろう。そして私の最後の息は天にコロンビアの幸福を願うことになろう」(ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド『シンモン・ボリーバル』水野一監訳、春秋社)
 祖国を愛する彼の心が、いかに強く、深いものであったか。
 また彼は、「偉大さとは何か」との質問に答えて言う。
 「危険に直面する勇気、これを克服する智恵、祖国に対する愛と専制政治に対する憎しみである」(同前)と。
 答えは明快である。そして誠実であり、心から納得できる言葉である。私どももつねに、こうした回答ができるようでありたいものだ。このボリバルの言葉には、指導者としての要諦が端的に示されている。
 逆境を恐れていては、本当の前進はない。あえて苦難に挑み、乗り越えてこそ指導者といえる。むしろ逆境のなかで知恵を発揮し、敢然と戦い、勝利してこそ、戦いの醍醐味もある。少々のことで勇気が萎えてしまったり、多少の圧力に臆すような弱々しい生き方では、人間として三流、五流と言わざるをえない。
 いかなる権威にも、独裁にも屈しない透徹した精神、強靭な闘争カ――そこにこそ、偉大なる指導者の「魂」がある。その「魂」を培うところにも、信仰の大きな目的がある。
6  世界広布の先駆に不滅の誉れ
 皆さまもご存じのように、
 私が″世界広布への第一歩″をしるした初めての旅から、本年で三十年を迎える。
 一九六〇年(昭和三十五年)十月。アメリカ、カナダ、ブラジルの三カ国を訪れ、ホノルル、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、トロント、ニューヨーク、ワシントン、サンパウロ、ロサンゼルスの九都市を訪問した。その歴史的な第一歩の模様はどうであったか。
 ――最初の到着地であるハワイのホノルルに着いたのは深夜であった。到着時間の連絡の手違いで、出迎えに来るはずのメンバーの姿もない。″常夏の島″のアロハ姿の人々をよそに、秋の深まる日本から飛び立った私たちは、外套を着たまま(笑い)。空港に降り立ち、不案内の土地で、やっとの思いで宿舎にたどり着く。小さなホテルだった――。
 こうした懐かしい思い出から、はや三十年。苦労の連続のなかを、あえて踏みだした世界への旅も、今回の北米訪問で四十三回目となった(拍手)。またアメリカヘの訪問は、二十二回を数えることになる。(=一九九六年七月現在、海外歴訪六十二回、アメリカ訪問二十七回)
7  法華経勧持品第十三には、釈尊の弟子である菩薩たちの「誓言」(仏の説法に応えて弘教を誓う言葉)が説かれるが、その中に「十方世界周旋往返して」(開結四四〇㌻)との一節がある。
 これは、釈尊が未来の弘通を勧めたのに対し、弟子たちが「十方世界」、すなわち全宇宙への弘通を誓ったものである。全宇宙のあらゆる世界を、あまねく巡りゆかんとの、深く雄々しい決意があふれている。
 次元は異なるが、末法の今日、私どもの住むこの地球の広宣流布も、″全世界を何度も何度も駆け巡りゆく″決意と実践があってはじめて、現実に進むといえよう。その決心で私は、「一閻浮提広宣流布」の大聖人の御遺命のままに、先駆の道を走りぬいてきたつもりである。(拍手)
 この「広宣の道」をともどもに進みぬいてきた全世界の同志の誉れは、だれが何と言おうと、御本仏が御照覧くださり、永遠に輝いていくにちがいない。いかに深いこの世の使命であることか、また、どれほど大きい功徳をわが身に積みゆくことか。
8  ところで、こうした初期の海外訪問の旅は、迫害と辛労の連続であった――。
 日達上人は、九州に御親教の折、そうした苦労をねぎらわれ、このように述べられた。一九六六年(昭和四十一年)二月、私が北・南米を訪れた直後のことである。
 「だんだん学会がさかんになり、正宗の寺が多くなると、あらゆる表に見えなくても迫害があるものでございます。南米の街においても、ほとんど池田先生があるくことが出来ないほど軍隊と警察にとり囲まれて、まるで革命児(=反政府運動家をさす)のようにされて、非常に御苦労もされたようでございます」(『日達上人全集』第一輯第二巻)と。
 ――事実、このときの南米訪問では、さまざまな人々の妬みや恐れの心理を背景とした、言われなき嫌疑から、身の危険にも及ぶような不当な迫害を受けた。しかし、私は、広大な南米大陸で広布の開拓に励むけなげな同志を守るため、そうした卑劣な仕打ちに一歩も退かなかった。
 南米の同志も、嵐の日々を耐えて進んだ。そして現在、正しい信心を根本として、強くうるわしい″心の絆″で結ばれた南米の友は、世界に模範の発展の姿を示している。(拍手)
 日達上人は、こうした事実をよくご存じであり、私どもの日夜の労苦によって「世界広布」が進展していく姿を心から喜び、たたえてくださったのである。
 今日の地球的な広布の運動の広がりも、一朝一夕にできあがったものではない。道なき道を、一つまた一つと、体当たりで切り開いてきた歴史であったことを、とくに青年部の諸君には知っていただきたい。
9  「人間発見」の旅に出たスタインベック
 先日、聖教新聞のアメリカ特派員から、創立六十周年を迎える清新な決意をつづった手紙が届けられた。そこには、三十年前の私のアメリカ訪問をしのびつつ、その同じ時期に、文豪スタインベックがアメリカ一周の旅をしていたというエピソードが紹介されていた。
 スタインベック(一九〇二年〜六八年)と言えば、カリフオルニア出身の作家。『怒りの葡萄』『エデンの東』『赤い小馬』などの作品で、日本でも親しまれ、一九六二年(昭和三十七年)には、ノーベル文学賞を受賞している。
 そのスタインベックが、一九六〇年(昭和三十五年)秋、ちょうど私がアメリカを訪れているころ、愛犬チャーリーとともに、キャンピング・カー(寝泊まりできる車)を運転して、アメリカ一周の旅をしていたのである。
 当時、彼は五十八歳。決して若くはない。しかも大病を患った後であった。それなのに、なぜ、たった一人と一匹で(笑い)、一万六千キロもの距離を、車で走破するという旅を始めたのか。
10  スタインベックは言う。
 「私は、自分の国を知っていないことに気がついた。アメリカ作家として、アメリカについて書きながらも、記憶を頼りに仕事をしてきたわけで、その記憶の水源地ときたら、いびつで間違いだらけ。私はアメリカの言葉を耳にせず、草と本とドブの匂いをかがず、丘と水を見ず、大気の色と光を目にしていなかった。ただ本と新聞から変遷を知ったにすぎない。それどころか、二十五年間もアメリカに触れず、アメリカを感じていなかった。
 要するに、私は自分の知らないことを書いてきたのだ。ものを書く人間として、これは犯罪的行為にちがいない」(『チャーリーとの旅』大前正臣訳、サイマル出版会。以下、同書参昭)と。
 これがペンに生きる者の″責任感″であり、″誠実さ″であろう。作家にしても、ジャーナリストにしても、これぐらいの厳しさを自分に課してこそ、本物と言えるし、真のペンの勇者とも言えよう。
 こうして、スタインベックは、「アメリカ再発見の旅」に出たわけである。
 また、この旅には、スタインベックにとって、自分としての闘争心をなくしたくないとの熱い思いがあった。
 大病をした彼に、医者は、こまごまとアドバイスをする。「目方をへらせ、コレステロールがたまらないようにせよ」。そして「ゆっくりやるんですな。もうお若くないんですからね」といった具合である。(笑い)
 もちろん、これらは大切なアドバイスであり、医者としては当然の処置であったろう。しかし、あまりこまかく言われ、行動を制限されると、心まで萎縮してしまう。そういう経験をもっている方もおられるだろう。(笑い)
 スタインベックとしても、情熱を押し殺し、行動的な生活を放棄するのはいやであった。精神的、肉体的半病人の生活へと引退したくなかった。″もっと強く生きるのだ。そのためには行動だ″との思いもあったにちがいない。そこで、当然、無謀はいけないが、自分との戦いのためにも、あえて厳しい旅に、踏みだしたのである。
 「生きる」ことは「戦い」である。人生は、自分自身との永遠の戦いである。負ければ″この人生を存分に生きた″との喜びもない。″悔い″と″苦悩″と″不幸″を残すだけである。
 信仰もまた同じである。「仏法は勝負」と言われるが、信心は負けてはならない。勝たねばならない。信心に負けて、退転していった人の哀れな姿、心のみすばらしさは、皆さまもよくご存じのことである。いかに自己弁護のために学会を非難し、虚勢を張ったとしても、心の敗北、内面の敗北をとりつくろうことはできない。
11  誠実と知恵で友の心に
 こうしてスタインベックは、一匹の年老いた愛犬チャーリーを道連れに、足かけ四カ月の旅に出た。キヤンピング・カーには、かのドン・キホーテの愛馬の名前をとって「ロシナンテ号」と名づけた。自分の旅を、かの″無謀なる理想主義者″ドン・キホーテの巡礼にたとえてみせたのである。
 この旅の間、彼はみずからの素性を一切明かさない。彼が高名な作家であることがわかると、自然な付き合いができなくなるからである。名もない、ありのままの一人の人間として、人々の中に入り、相手の胸襟を開いていきたいと彼は思った。
 地位や名声を誇示したくてたまらない種類の人々と正反対の態度である。私どもも、だれに会うにせよ、裸の一個の人間として、熱き大誠実で、相手の心の中に入っていきたい。
 まったく未知の人と、どうやって話の糸口をつかみ、友人になっていくか。彼はさまざまに工夫する。ある時は、愛犬チャーリーを橋渡しに使う。
 たとえば夕食時、チャーリーを放すと、犬は匂いにつられて、人家のほうへ走っていく。ころ合いを見はからって、「私の犬が、ご迷惑をかけませんでしたか?」とスタインベックが追いかけていく(笑い)。それが話のきっかけとなる。
 また、ある時は、わざと道に迷って、人々にたずね、そこから会話を広げる――というように。あらゆる知恵をしばりながら、彼は″友人″をつくっていく。
 知恵――これこそは真剣さの証である。豊かな人間性の表れでもある。
 たんなる「知識」の寄せ集めは、結局、苦しみつつ体験のなかから生まれた「知恵」の力にかなわない場合が多い。そのことは、たくましき婦人の方々の絶妙の知恵に、男性の″高度な理論″がもろくも敗れる(笑い)ケースで、皆さまもよくご存じのとおりである(笑い、拍手)。その意味でも、婦人部の方を、どこまでも大切にしていただきたい。
 こうしたなか、スタインベックが経験したのは、第一印象はあてにならないということだった。一見、まったく悪人面の男が、じつはたいへんに親切で、人情家であったりした。
 実際に話してみないとわからない。こちらで勝手に「あの人はこうだ」と決めつけてはいけないということである。
 こうしたさまざまな出会いのドラマを重ねながら、彼は旅を続けていく。
 彼は、旅立つ前、友人の政治記者から、こんな期待を寄せられていた。その記者は、大統領の候補を、民間人の中に探し求めていた。
 記者いわく「こんどの旅行で根性のある人間に会ったら、場所をおぼえてきてもらいたいね。行って会ってみたいんだ。いまは臆病者とご都合主義者にしかお目にかからないからね」。そして「人間が必要だからね。人間はどこにいるんだろう」「二、三人でもいいから探し出してきてもらいたいね」と。
 また「民衆がどこへいったか、探してきてもらいたい」とも記者は言った。アメリカ独立宣言で言っている「民衆」、リンカーン大統領が言った「民衆」――それらは、いったい、どこにいるのか、と。
 記者の言葉には、アメリカの理想と現状との間の大きなギャップを前にした苦しみが込められていた。
 彼が″根性のある″本物の「人間」と呼ぶのは、たとえ多くの反対にあおうとも、自分の意見を貫くことを恐れない人間のことであった。そして、本物の「民衆」とは、特権的な権威や専制を許さない、″歴史の主役″として戦う民衆のことであったにちがいない。
 ――記者の期待したスタインベックの「人間発見の旅」「民衆発見の旅」が、どういう成果を上げたか。それは見る人により、評価が分かれるところであろう。
 ただ私は、わが創価学会にこそ、こうした真の「人間」がいる、「民衆」がいる、と強く叫んでおきたい。(拍手)
 ともあれ、私がアメリカに世界への第一歩をしるした同じ時期に、「人間」と「民衆」を、そして「アメリカ」を見つけようと全米を回っていた一人の文豪――。私は、むしろ彼自身の中に、どこまでも真摯に人生を求道していく本物の「人間」の姿を見る思いがする。
12  明快な言葉、確信の対話
 文永十年(一二七二年)、佐渡におられた日蓮大聖人が波木井三郎にあてて記されたお手紙に、次のような一節がある。
 「鳥跡てがみ飛び来れり不審の晴ること疾風の重雲やえくもを巻いて明月に向うが如し
 ――あなたのお便りには「(大聖人からの)お手紙が来て、これまで疑問に思っていたことが晴れました。ちょうど、疾風が幾重にも重なった雲を吹きはらってくれて、明月を仰ぐような気持ちです」とある――。
 すなわち、何らかの問題について大聖人に御指導を受け、それによって雲をはらうように疑念が晴れた、という彼の喜びの声を要約された御文と拝することができる。
 なおこの御文については、波木井三郎からの手紙によって、大聖人がいだかれていた疑問が晴れた、との仰せであるとする説もある。
 彼がどのような問題で大聖人の御指南を仰いだのかは、文献が残っておらず、さだかではない。だが、遠く離れ、身動きのとれない流罪の立場にあられた大聖人が、どれほど力強く、また絶え間なく門下を励まされていたか――。その一端がうかがえよう。
 一通のお手紙に込められた大聖人の一言一言。それはあたかも疾風のように、相手の胸中にたれこめていた迷いの″暗雲″を吹きはらっていつた。そして名月が皓々と澄みわたるような、晴ればれとした境涯へと、門下の心を開いていかれたのである。
13  世間一般の次元にあっても、「明快な言論」「確信ある言葉」の力は、まことに大きい。たとえ短い一言でも、人々の心を開き、一変させていくことができるものだ。まして強い信心の確信に満ちた、真心と誠実の対話は、さーっと太陽の光が差し込むように、人々の心を晴ればれと輝かせていけるのである。
 逆に、暗く弱々しい語りかけであったり、急所をはずした話であっては、相手の疑心の雲を打ちはらうことはできない。太陽も、自身がつねに燦々と輝いていればこそ、世界を明るく照らしていけるのである。
 大聖人の門下であり、広宣流布のリーダーである私どもの言々句々は、人々の苦悩の闇を晴らし、歓喜と幸福の名月を輝かしていくものでありたい。どうか、真剣な祈りで満々たる生命力と知恵をわきたたせながら、世界に、地域・社会に、さわやかにして力強い″対話の風″を起こしてまいりたい。(拍手)
 最後に、皆さま方の、「栄光」輝く人生、「幸福」に輝く凱歌、三世永遠に輝く「福徳」をお祈りし、本日のスピーチとさせていただく。
 (創価文化会館)

1
1