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日蓮大聖人・池田大作

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小金井圏青年会議 「新しき時代」を「新しき人材」で

1990.1.28 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  個の確立も深き哲学ありて
 本日はすばらしい晴天となった。小金井の名にふさわしい″黄金の春″のような青空である。なんと輝かしく、なんと美しい陽光であろうか。光あふれる、忘れ得ぬ一日となったことを感謝申し上げたい。(拍手)
 もっとも信頼し、もっとも期待する諸君であるゆえに、きょうも何点か、お話ししておきたい。
 今朝、届いた「聖教新聞」を見ると、一面は「日曜てい談」であった。この企画は毎週、幸いに、多くの人から好評を得ているようである。
 私も、登場する社会の第一人者の言に注目して読んでいる。その人たちは、自分の分野で、それなりに勝利している。そのカギは何か。光る存在となった裏づけは何なのか。どういう生き方、考え方か。
 読むと、やはり、さすがだと思うことが多い。その道で一流となった人の言葉は、短くとも含蓄がある。読み方ひとつで、いくらでも教訓を引き出せる。
2  きょうの「てい談」は、テーマが「九〇年代を生きる――『地球的人間』の時代が始まった」。フランス文学者で学習院大学名誉教授の白井健三郎氏を中心にした語らいである。
 そのなかで白井氏は、こう述べておられる。
 「今、日本人に求められているのは何に依存するかではなく、確固とした自分を確立することです。権力や権威にすがらない生き方です」
 まさに、そのとおりである。その前提として、てい談では、日本人の「個の確立」が遅れている現状が話題になっている。
 白井氏は「社会主義であれ資本主義であれ、体制というものが制度化されると、権力化され、人間の自由への抑圧が始まる」「ヨーロッパでは個人の自由への意識は強いですから、体制や国家が個人を押しつぶそうとすれば強い反発が生まれる」と述べ、日本人については「個人の自覚に乏しい。ですから国家や集団にすぐ取り込まれてしまう。その典型が戦時中です。皆、国家の言いなりになり、自分を捨ててしまった」と指摘しておられる。
 ご自身の体験に基づいた貴重な意見と思う。
 それでは、「個人の確立」には何が必要なのか。
 ここでは「個人の確立というのは、人類、生命など普遍的な価値に立脚して生きるなかにある。国家も企業も決して普遍的なものではないんです」と、白井氏は論じられている。
3  信仰は「魂」解放の闘争
 人類、生命といった普遍的価値――高等宗教も、まさに、そこを志向している。
 ゆえに、そうした「宗教」は、「国家」の権力も、他のいかなる権威をも超越する。それらに屈しない人間をつくっていく。
 東欧の変革の底流も、ポ‐ランドをはじめ、「宗教」の力が大きくあずかっていたことは、多くの人が証言しているとおりである。「宗教」の土壌を背景にした″人間″の決起が、イデオロギーでよろった″権力″を打倒した――この革命劇は一面、このように見ることもできるかもしれない。
 歴史を見ても、「宗教」の力は、まことに巨大である。あらゆる権力、権威が、宗教の力を恐れ、封じ込めようとしたり、逆に利用しようとした事実も、十分に理由のあることなのである。
4  問題は、その「宗教」も、やがて権威をカサに、しばしば人間を抑圧する存在となることである。人間を解放するはずだった宗教が、制度化するにしたがって、反対に人間を抑えつけ、縛りつける悪の顔を示し始める。僧侶の立場を利用して、仏子を迫害した悪侶らも、その典型であった。
 ここに、制度化された「宗教」の悪に打ち勝つ、生きた「信心」「信仰」の力が絶対に必要になってくる。
 人間を外から縛ろうとする「宗教」の悪の面に対して、人間の内面から、限りなく挑戦し、打ち破っていく。この真実の「信心」を民衆に教え、根づかせているのが、創価学会なのである。(拍手)
 要するに、「宗教」は「権力」の悪にも打ち勝つ力を持つ。その「宗教」の悪に打ち勝つ力、人間解放の究極の力が「信心」なのである。
 私たちは、この「信心」の力を奮い起こして、いくたびとなく策謀や、悪知識の権威に勝ってきた。(拍手)
 人間は、いかなる権力、権威の奴隷になってもならない。それでは民衆は利用され、永遠に流転の悲劇となる。この悲劇を転換するために、日蓮大聖人は戦われた。国家権力と既成宗教の権威との連合に対して、ただお一人、つねに命におよぶ迫害のなか、真実の自由への闘争を続けられたのである。
 どんな権力、権威にも侵されない一個の人間の力、その絶対の証明を、大聖人はしてくださった。「人間の旗」「勝利の旗」を打ち立ててくださった。
 この大聖人の御精神を破壊しようとしたのが、かの悪侶らであった。これからも、創価学会のなかに、同様の動きが現れてくることがあるかもしれない。それらに負けては、広宣流布はない。人類の真の「幸福」と「安穏」と「満足」への道も消え去ってしまう。
 ゆえに、妙法への正しき「信心」を教え、信仰という″魂″を脈々と伝え、永遠に広げていかねばならない。そこに創価学会を創立された牧口先生、そして戸田先生の誓いもあった。私は、まっすぐに、その軌道を進んでいる。(拍手)
5  「信心」による、一個の人間の確立。何ものにも屈せず、「魂の自由」を貫く人間群の育成。私の現在の行動の焦点も、ここにある。それは、状況の変化しだいで、右に左に揺れる日本人の″自我なき精神風土″を根底から変革する戦いでもある。
 今のままでは、日本人は不幸である。確たる基準がないゆえに、何を見ても正しく判断することもできない。感情や利害、先入観等の奴隷となって、自分を見失い、歴史の動向をも見失ってしまう。また、人間として信用されず、国際社会にあっても孤児のようになっていこう。
 てい談では、昨年六月のフランス学士院・芸術アカデミーでの私の講演も話題になったようである。白井氏の率直な評価に感謝申し上げたい。学会のメンバーよりも、深く理解してくださっているかもしれない。(笑い)
 ともあれ、若き諸君こそ、私の希望である。「知性」を磨き、「信心」を深め、鍛えて、人間としても、社会人としても、偉大なる自分自身を築きあげていただきたい。知性も信仰も、次元は異なれども、ともに「普遍的価値」をみずから体現する道である。
 諸君が″人間″と″生命″に目覚めた真実の国際人、世界市民として、「新しき人材」の力で、輝かしい「新しき時代」を見事に切り開きゆくことを期待する。(拍手)
6  ブラジル独立の勇者の戦い
 さて、すでに申し上げたように、当初二月中旬から予定されていた北・南米訪問は、総合的に検討して、北米の新たな発展に力点をおき、南米訪問は断念せざるをえないこととなった。
 とりわけ、世界青年平和文化祭等が行われるブラジルの皆さまには、残念なことかもしれない。
 きょうも多くの青年たちが、練習に汗を流しているだろう。けれども、今やブラジルの友は大きく成長された。さらなる飛躍へ、新たな段階を迎えている。だからこそ、みずからの大いなる使命を自覚し、雄々しく進んでいただきたい――これが私の願いである。
 その意味からも、ここでブラジル独立にまつわる話をさせていただきたい。
 ブラジルの独立は、一八二二年のことである。それからさかのぼること約三十年前。ブラジルの自由と独立のために一身をささげた、一人の先駆者がいた。
 それは、ブラジルで初めての本格的な独立運動である″ミナスの反乱″の指導者、「ティラデンテス」。本名はジョアキン・ジョゼ・ダ・シルバ・シャビエル(一七四六年〜九二年)であった。
 彼は歯科医の助手を務めたこともあり、歯を抜くのが上手であったところから、通称「ティラデンテス(歯抜き屋)」と呼ばれていた。ブラジルでは彼が処刑された四月二十一日を、″ティラデンテスの日″として今も記念している。
 彼が独立運動に立ち上がった十八世紀の後半は、新世界アメリカの独立戦争(一七七五年)、ヨーロッパでのフランス革命(一七八九年)などが相次ぎ起こった時代である。人々は、″古い体制を破れ″″新しき人間よ、登場せよ″″新しき時代の創造を″との意気にあふれていた。ティ一スアィアスもまた、そうした一人であった。
 当時、ブラジルは、ポルトガルの植民地。その収奪は過酷であった。ティラデンテスの故郷ミナスジェライスも、金やダイヤモンドを産する豊かな土地であったが、大半は税として収奪されていた。
 さらに権力者は、暴力による弾圧で、重税に反発する民衆を、むりやり抑えつけていた。弱い民衆への、弾圧に次ぐ弾圧。奪えるものは、すべて奪い取る。いかに理不尽であっても、弱い虫が強い鳥に食べられてしまうように、人々は支配者によって、いじめぬかれた。
 程度の差はあれ、これが、いつの世にもみられる、権力者による支配の構図である。民衆が、権力に打ち勝つ「理念」と「意志」と「連帯」の力を持たないかぎり、その桎梏しっこくを破ることはできない。
 広布の次元にあっても、大聖人は″仏法は勝負″と教えられている。いかに「正しい」といっても、それがつねに勝つとはかぎらない。正しさは「強く」あってこそ、証明される。ゆえに、皆さま方は「強い」人間であっていただきたい。強き心の人、強き信心の人によって、障魔や苦難の壁は打ち破られ、広布は進むのである。
7  一七八八年、ティラデンテスが四十二歳の時である。ヨーロッパで学んだ一人の青年との出会いによって、彼の目は大きく開かれていった。
 そのころ、ブラジルには、ヨーロッパに留学していた多くの青年たちが帰国。モンテスキュー、ボルテール、ルソーらによって説かれた、人間の″自由″と″平等″の新思想を人々に伝えていた。
8  ″英知即行動″それが青年
 ″真実″に目覚めるや、行動へと走り出す――それが青年である。青年の胸にきざまれた新思想の光は、やがて祖国の人々の心を照らしていった。ティラデンテスもまた、そのみずみずしい光のなかで立ち上がったのである。
 ――本日、参集された皆さま方も若い。が、歳月の流れは早い。少しでも若いうちに、為すべきことは為し、学ぶべきことは学んでおくことである。体力的にも衰えが出る年齢になると、どうしても存分な勉強や活動はできなくなる。だからこそ、若き今の時代に、できるかぎりの努力を積み重ねておかないと、のちのち、必ず悔いを残すことになる。
 ティラデンテスは英語を独学で学び、アメリカ合衆国憲法(一七八八年に制一こを座右に置いては、読み学んだという。″これが民衆を幸福に導く法典か″――新鮮な感動が、彼の胸に躍ったことだろう。
 当時は、ポルトガル国王を非難し、ブラジルの独立を説けば、極刑に処せられてしまうというような時代であった。しかしティラデンテスは、身を危険にさらしながらも立ち上がり、みずからの意見を語っていった。そして、独立の計画をめぐらし、同志を糾合していったのである。
9  だが、独立運動は、決起を目前にして挫折してしまう。それは、一人の裏切り者による密告のためであった。
 その男は、ポルトガル政府に莫大な借金があった。革命運動に参加したものの、同志を密告し、その代償として借金を帳消しにしてもらおうと、もくろんだのである。
 この裏切りのために、ティラデンテスは、一七八九年五月、逮捕されてしまう。
 同志のなかには、自分だけは逮捕をまぬかれたいという、卑しき保身から、仲間を密告する者もいた。また、逮捕された人々も、たび重なる脅迫と拷問で、独立への志を捨ててしまう者さえ出た。
 しかし、ティラデンテスは″自分は独立運動の唯一のリーダーである。すべての罪は自分にある。仲間は無罪である″と、堂々と主張しぬいた。
 ポルトガル当局の、仕打ちは過酷であった。反乱、反逆には死が待っていた。ティラデンテスにとって、それは覚悟のうえの戦いであった。生命を賭けた戦い――それが革命運動に進む人たちの深き決意でもあった。
 私も、戸田先生から、この革命精神を教えられた。骨の髄まできざみ込んでいる。しかも、私どもは日蓮大聖人の門下である。いかなる苦難、迫害にも、絶対に屈しない。この固き信念を、私は今日まで貫きとおしてきた。
 ティラデンテスの生命を賭けた戦いを思うにつけ、少々の世間の非難や、ためにする中傷の風などに負けて、臆病にも心を動かし、正法から退転した人は、去っていけばよいのである。そのほうが私どもはうれしい。臆病者は真の信仰者ではない。臆病な人と一緒にいることは、不幸になるだけである。
10  「勝者」と「敗者」を歴史は証明
 そして、判決の日。久しぶりに再会したかつての同志たちの姿は、変わり果てていた。たがいに責め合い、こともあろうに、仲間たちを助けようとしたテイラデンテスをさえ、憎悪し、なじるありさまであった。
 最終判決で、テイラデンテスただ一人が死刑。他の者はアフリカヘの終身流刑であった。死刑をまぬかれた仲間は、狂ったように喜んだ。だが、全責任を一人で負い、死んでいくティラデンテスに対して、感謝する者はいなかったという。
 死を目前にしたティラデンテスの言葉は、詩にうたわれている。
 「人は皆、我をいとえど
 我、皆の幸多きを望む」
 「我が愛は勇気なり
 皆を思うは我一人
 我を憎むは数多し」と。
 ティラデンテスにとって、かつての同志の変心など、小事であつたにちがいない。彼はみずからの死をも超えて、祖国ブラジルの独立と自由を夢見、確信していた。死んでいく彼の心は、どこまでも強く、勇気と慈愛の魂にあふれていたのである。
 ティラデンテスに報われたものは「死」であった。しかし彼は「心」の勝利、「魂」の勝利を勝ちとった。
 「心」の強さこそ勝利である。革命精神を捨て同志を裏切った者は、「死」はまぬかれたかもしれないが、すでに「敗者」であった。彼らは敗北の汚名を永遠に背負っていくことになった。
 勝利も敗北も、敵も味方も、幸福も不幸も、すべてわが身の胸中、「一念」にある。外面に現れた姿は、一つの仮の姿にすぎない。真の実像は「心」の中に深くきざまれているものである。その意味で、ティラデンテスこそ、真の勝利者であった。
11  一七九二年四月二十一日、ティラデンテスは四十六歳で処刑された。ポルトガル政府は、みせしめのために彼の故郷に遺体をさらしものにした。そして子孫三代にわたって制裁を加えることを決めたという。
 しかし、ブラジルの民衆は、一人の真の勇者を、決して忘れはしなかった。彼の志は、多くの人たちに受け継がれた。革命の火種は、やがて赤々と燃え広がり、テイ一スアイアスの死からちようど三十年後、ブラジルは独立を達成するのである。
 歴史は必ず証明する。だれが、本当の革命の勇者であり、真実の勝利者であるか――を。いわんや仏法は、三世にわたる「因果の理法」である。
 時の流れとともに、何が「正」であり「邪」であるか、だれが「勝利者」で「敗北者」であるかが、必ず明確になっていくのである。
 今、ブラジルでは、何万という妙法の青年たちが、自国の繁栄と発展のために、舞を舞うがごとく活躍していることだろう。そうした広布の友の群像に、かのティラデンテスの精神を、二重写しに思い描くのは、私一人ではあるまい。
12  ※ティラデンテスについては、次の書を参照。
 『″TIRADENTES″, Grandes Personagens da Nossa Historia, vol. 1』(〈我が歴史の人物 第1巻〉″ティラデンテス″)ノヴァクルツラル出版社
 オイリアム・ジョゼ『″TIRADENTES″』(ティラデンテス)イタチアイア出版社
13  金色王の故事に真の指導者像
 次に申し上げたいのは、現代は″実像の指導者″を求めているということである。
 それは、近年の世界の動向が示すとおり、「民主の時代」「民衆の時代」が歴史の潮流となりつつあるからだ。もはや″虚像″では通用しない。広布への情熱と同志愛にささえられた学会の世界においては、なおさらである。
 ″真実のリーダー″とは、いわゆる権力をもった人間をさすのではない。民衆のなかから生まれ、民衆とともに生き、民衆のために戦う指導者のことである。
 私が創価大学、創価学園を創立した目的は、そうした新しい時代を開く″民衆の指導者″を陸続と輩出することであつた。これまでにも医学界に、教育界に、また政界、経済界にと、さまざまな分野に創価の友が巣立ち、活躍している。時代は、まさに諸君の出番を告げているといってよい。
 世界にも雄飛して、たくましく活躍している皆さまの姿を見るにつけ、私の願いは確実に果たされており、喜びにたえない。(拍手)
14  さて、ここ「小金井」の地名は、「崖下から湧き出る湧泉」(『地名用語語源辞典』東京堂出版)に名づけた地名だとする説が主に考えられているようだが、以前は、黄金にも値する貴重な清水が得られたことから、″黄金井=小金井″と呼ばれたとする説も伝えられていたようだ。
 そこで、この″黄金の水″の湧く地との意義にちなみ、仏典に説かれる「金色王」について述べてみたい。
 金色王とは、釈尊の過去世における因位の修行(爾前の諸経において、菩薩が仏果を得るために行う修行)の姿として説かれる。そして″民衆のため″に、わが生命をも顧みない一念で天を揺り動かし、大早魃に苦しむ民を救った指導者として知られている。
 大聖人は、「金色王」について南条時光に与えられた「上野殿御返事」等の中にしたためられている。
 同抄のご執筆当時、時光は二十代の青年であった。仏法では「生老病死」について、「生」を金に、「老」を銅に、「病」を鉄に、そして「死」を銀にたとえる。
 「金色」とはまさに、生き生きと伸びゆく青年の姿そのものであり、時光の限りない前途を象徴しているかのようである。同抄を拝するたびに、大聖人がどれほどの期待と慈愛をもって、時光を育まれていたかが深くしのばれる。
15  大聖人は、次のように記されている。
 「金色王と申せし王は其の国に十二年の大旱魃かんばつあつて万民飢え死ぬる事かずをしらず、河には死人をはしとし・陸にはがいこつ骸骨つかとせり、其の時・金色大王・大菩提心ををこしておほきに施をほどこし給いき、すべき物みなつきて蔵の内に・ただ米五升ばかりのこれり
 ――金色王という王は、その国に十二年間にわたる大旱魃があって、万民が飢え死にすることは数知れず、河には死人を橋とし、陸には骸骨を塚とするような状態であった。その時、金色大王は、大菩提心(悟りを求めて仏道を行ずる心)を起こして、大いに布施をされた。布施すべき物が皆尽きて、蔵の中にただ米五升ばかり残った――。
 すると「大王の一日の御くご供御なりと臣下申せしかば・大王五升の米をとり出だして・一切の飢えたるものに或は一りう・二りう・或は三りう・四りうなんど・あまねくあたへさせ給いてのち・天に向わせ給いてわれは一切衆生のけかち飢渇の苦に・はりて・うえじに飢死候ぞと・こえをあげて・ばはらせ給いしかば・天きこしめして甘の雨を須臾に下し給いき
 ――「大王の一日分のお食事です」と臣下が申し上げたところ、大王は五升の米を取り出して、一切の飢えた者に、或いは一糠二粒、或いは三粒四粒などというようにあまねくあたえられた。その後、天に向かわれて「我は一切衆生の飢えの苦しみに代わって飢え死にするであろうぞ」と声をあげて叫ばれたところ、天はこれを聞かれて甘露の雨を即座に降らされた――。
 そして「この雨を身にふれ・かをにかかりし人・皆食にきみちて一国の万民・せちな刹那のほどに・命よみかへりて候いけり」――この雨が身にふれ、顔にかかった人は、皆、食べ物に飽きるほど満ち足りて、一国の万民は瞬時のうちに命が蘇ったのである――と。
 大聖人は、さらに論を展開されたあと「これをもつて・よろづを心させ給へ」――これをもって万事をわきまえなさい――と述べられている。
 熱原の法難にさいして果敢に戦いぬいた時光に、幕府は不当に多くの使役を課して苦しめた。本抄では、そうした苦境をも顧みず、時光が大聖人のもとへ御供養を届けられたことに対して、尊い信心の真心をたたえられたのである。と同時に、この金色王の故事をとおし、徹底して民衆に尽くす指導者のあり方を示されているとも拝することができよう。
 ″あと一日、自分が食べるぶんしかない。どうするか″――そうした土壇場になった時に、真の指導者か否かが問われる。その人の人間としての偉さが、わかってしまうものである。
 利害と名聞と保身に汲々とし、いざという時にかんたんにはげてしまう″メッキの人生″なのか。どこまでも民衆のために、との″真金の一念″で生き、生々世々にわたって福徳を増しゆく人生なのか。
 私どもの人生の目的は、飾りにすぎない社会の栄誉や勲章を求めることではない。徹して人々のために生き、行動してこそ、わが胸中に「金色の生命」を、「魂の勲章」を輝がせていくことができるのである。
16  同志は尊い仏子、善知識
 昨年十二月、中日友好協会の青年代表団の方々とお会いした。そのさい、″なぜ学会は発展したのか″との質問に、私は「一人一人の学会員を大切にしてきたからです」と、お答えした。すると中国の若き友人も「やはり、そうでしょうね」と、深くうなずいておられた。
 学会員は、尊い仏子である。善知識である。皆さま方は民衆とともに、さらにわが同志とともに、生きぬいていただきたい。これが、皆さま方が生きゆく大道であるからだ。間違いなき正道だからである。私はこのことを確信をもって訴え、お願いをしておきたい。
 同志を見くだしたり、利用するなど、とんでもないことだ。同志を軽廃し、手段としてみずからの栄えを図ろうとした人間が、いかに哀れな末路の人生となっているかは、皆さま方がよくご存じのとおりである。
 仏子である学会員を尊び、大切にしてこそ、広宣流布の発展があり、私どもの栄光の人生もある。私は会員の皆さまを守りぬくために、だれよりも非難、迫害を受け、だれよりも戦ってきた。
 これが私の「魂の勲章」と思っている。私は何ものも恐れない。これからも、大聖人の御遺命のままに、正法正義の道を進むのみである。(拍手)
17  長い長い人生である。どうか、地道に着実に、また自分らしく誠実に、生きぬいていただきたい。「地道」と「着実」の歩みほど強いものはない。確かなものはない。そして、人の何倍も苦労し、努力して、そこに不滅の″黄金″の力を持っていただきたい。その黄金の力が、自分も先祖も、子々孫々までも幸福にせしめゆく源泉だからである。
 皆さまのご健康、そして、いっそうのご活躍を心からお祈りして、本日のスピーチとさせていただく。
 (小金井池田文化会館)

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